今回の武漢発コロナウィルス騒動の中、心の底から悲しいと思うことがあります。今回私達が初めて直面する事態で、かけがえのない家族が万が一発病して亡くなったとしても、亡骸に取りすがることが出来ない、泣くこともお別れを告げることも出来ない・・・・・通常私達は亡骸を見て自分の悲しみを認識し、悲しみながら諦めていく・・・・・このプロセスが絶対に必要だと思います。大体すでに瀕死状態になっていても、なかなか大事な人の死というものを認めたくないものです。死なれてみて、初めて愕然とするものです。多分多くの皆様も同じだと思うのですが、私も弟の死や両親の死をそうやって乗り越えてきました。
これはいったいどういう事態なのか、戦死の通知を受け取った家族の悲しみと同じかすかな希望を引きずって嘘のような諦めのつかない悲しみを引きずるのだろうかと思います。この胸を締め付けられる辛さは、どんなに想像してもわかるものではないと思います。伯母は満州から子供を連れて引き上げ、シベリアに抑留された伯父を思い続けました。伯父の死は40年以上わかりませんでした。
また子供の頃聞いた母の話が蘇ります・・・・・東条夫人とそのご家族は、戦犯の家族という理由で降りかかる言われない誹謗中傷をじっと耐えられた・・・・・昨日までお隣さんだった同胞がそんなことをどうしてしたのだろう・・・・・と子供心に思いました。今感染者や医療従事者の家族がそういう言われない事態に陥っているんですよね。私達日本人もそんなにつまらない民族だったのだろうかと、日本のアイデンティティを取り戻そうと考えている私としては、悲しみでいっぱいです。