朝明け初むる『雷ヶ瀬戸』の北側・・・・・壱岐に続く海をみはるかして。
5月末母の13回忌を迎えてその前夜、兄弟姉妹4人夫婦ともども総勢8人で平戸のホテルに泊まり、父母を懐かしみ一緒に過ごしました。ホテルに泊まるなどということになったのも、私達が『故郷の家』というものを新しい道路を作るために失い、その結果故郷に寄る辺を失った(家守をしていた弟は他県に転居してしまいました。)からです。平戸島と対岸をはさむ『平戸瀬戸』は別名を『雷ヶ瀬戸』と言って、潮流の激しさ雄大さは有名です。『らいがせと』と読んだり『いかづちがせと』と読んだりします。現代の船をもってしても行き交う船の速度は、片やトビウオのごとく、片やカタツムリのごとくです。潮目を見て壱岐(壱岐は平戸松浦藩だったんです。)にわたった昔の人を思いました。海岸に面したホテルの部屋で横になって聞こえてくる轟々(ごうごう)と響き渡る潮流につい口に出たのは、
雷海の潮 昼夜憩わず 亀岡の松 緑千秋 海山の霊気に 心を洗い 快活剛健 ・・・・・・・・・・・ という、父たちの時代の『猶興館』の校歌・・・・・心にしみました。
その昔松浦党の党首が本拠地を最終的に平戸に移したのが、改めてよくわかりました。この平戸側から見た『雷ヶ瀬戸』は実に雄大で進出飛躍の気にあふれています。対岸にいてはわかりません。
翌日私達家なき子(?)等4人とその連れ合いと+アルファの計10人は13回忌の法要をお寺で、ささやかに母に捧げました。そのあと墓参を済ませ、生家跡に家が解かれて以来初めて行きました。一年になりますが、見たくなかったのです。国道を通る時も、昔はよく『我家の方(わぎえのかた)』を見たものですが、この一年間見ることも振り返ることもしませんでした。意外に狭い敷地跡に立って、間もなく切り掘られて、跡形もなくなるんだなと・・・・・実感しました。翌日上の弟夫婦と私達夫婦4人で、我家が移築されたという島原の現場に行きました。なんとなく懐かしい期待を寄せながら・・・・・だけども、そこは移築とは程遠い、単に古材を再活用したというだけの現場でした。そりゃ、そうですよね!!!!!我家に価値があるのは我等だけですもの!!!!!すっかりすべてを失ったという、家に関しては、まあ、案外さばさばとした気分になりました。その夜は雲仙に一泊、初めての雲仙宿泊を楽しみました。
この実家を失うという体験は、思いのほかとしか言いようがないものです。これまで、ダムで家を失った人々、空港のために家を失った人々、災害で家を失ってしまった人々・・・・・様々なニュースで見聞きしてきました。『仕方がないとしか・・・・・』とお気の毒に思ってきたものです。今回実際に味わったこの空虚な気持ち・根無し草になってしまった気持ち・夢でたずねる父祖の気持ち・・・・・その身の上になってみると、難しい・・・・・としか言いようのないものです。だけどこれも今回思ったことなのですが、この気持ちは『幼い日を過ごした』という実体験に支えられているような気がします。下の弟と妹は、上の弟と私ほどこだわっていない・・・・・ように思います。『幼い日』には父母がおり祖父母がおり、その兄弟姉妹がおり、ともがきがいる・・・・・その海山が故郷なんですね。こういう体験は時代の変遷とともに、先祖の代で何度も誰しもが繰り返してきたことだろうと思います。この空虚な気持ちに折り合いをつけ解決して、先祖をしのぶことも鎮魂の一つの要素だろうと思います。先祖の鎮魂という大切な儀式(?)が、先祖の片割れとしての今の自分の存在意義でもあると思います。供養というのは今の自分という先祖のコピーの仕事で、それでもって先祖代々精神の修養になり転換してこの世の真実を知ることになると思うからです。