天正10(1582)年6月2日,明智光秀(1528~82)は,本能寺で織田信長を討ち取った(本能寺の変)。その後,中国地方から引き返してきた羽柴秀吉らと13日に山崎で戦ったが敗れた(山崎の戦い)。光秀は近江坂本に戻ろうとしたが,小栗栖で土民から襲撃され,明智藪で自刃したという。
京都のあちこちに、光秀の首塚や胴体塚があり、どれが本物か判然としないが、三日天下として馬鹿にされそうな光秀が、意外にも人々に慕われ憐れまれていたらしい。
この句の明智塚がどこなのか分からないが、信長・秀吉・家康という三角関係の脇で、光秀が重要な役割を果たし、歴史を動かしたことだけは確かである。
余談であるが、岐阜県恵那郡の明智町と可児市が「こちらこそ光秀の町」と、未だに本家争いをしているそうである。結論は永遠に出ないでしょうから、永遠に争うことになるかもね。