東京は門前仲町、深川不動堂ととなりに八幡さまがある!この八幡さまは、江戸三大祭りの一つ「深川八幡祭り」で有名な富岡八幡宮<1627年(寛永4)創建>です!二百余年前、この八幡さまに縁の深い方、近くに住居を構えた伊能忠敬<1795年(寛政7)から1814年(文化11)まで>住んだのです! この伊能忠敬さんは、日本国中を測量して廻り、初めて実測による日本地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を完成させた人<1745~1818>です。1800年(寛政12)蝦夷地測量(第1次)に出発し、歩測しながらの過酷な旅は、数カ月から時には約2年にも及び、忠敬自身の全旅行距離は計3万5千キロ、しかし全図の完成を見ぬまま、73歳の生涯を終えた。3年後の1821年(文政4)門人の手によって全図は完成、幕府に献上されたのです。<2月22日付朝日夕刊・まちの記憶より参照>
それと同時期、寛政・文化・文政の時代<1800年前後>私の祖先も新田開発の重責を担って活躍していたことが、実家の蔵の中から古文書が発見されました。老人大学時代古文書を習う機会が得られたので、これらの解読をして、「わが祖先への想い・・川嶌家の成り立ち・・」としてA4版26ページにまとめました。
川嶌定六開拓の時代、寛政・文化・文政<1792年~1819年>約30年間です!この時代は忍藩の領地下です、<忍藩主阿部家藩政と遺宝より>石高10万石、江戸幕府は徳川11代将軍家斉が文明7年から天保8年(1837年)50年間もの長い間将軍の座にありました(子沢山でも有名)。
〇定六最初に出て来る古文書、①<1792年>寛政4年亥12月、定六は畑9畝4歩を通用銀2両2分2朱で譲り受け、受取申金子として受取証を取ってある、
畑譲渡人 忠兵衛
証人 四郎兵衛 孫八 喜左衛門
組頭 七兵衛
春か(すか)村 定六 殿
<古文書説明> 請取申金子之事
合せ金 弐両弐分弐朱 也 但通用銀 也
右は我ら所持の畑9畝4歩譲渡の為祝金請取申候
右本書に記す候通り毛頭違乱無御座候
為後日可判乃而如件
寛政四年亥十二月」<1792>
〇②譲渡シ申畑証文之事 文化四年丁卯年十二月(1807)定六 殿
〇③同上請取証 他5例あり拡大して行く過程が分る。
*伊能忠敬と同時代に生きた私の祖先の墓碑、寛政1年巳酉(1789年)
刻運禅定尼他2墓碑に施主川嶌定六とある 当時百姓でも姓名があったのである。
古文書を数例披露したのですが、古文書に名が見える定六開拓史です!没したのは不詳ですが、その後留吉・末吉・和三郎・紋左衛門・八郎と続いて私で7代です。
<いわどの山荘主人>
〇きょう庭の水仙です!、<7:55>