海上の寺(ケショのお寺)としては、現在、浄土真宗大谷派寺院「西教寺」がありますが、現在の寺院隣接の場所に大慈寺があったといわれております。
大慈寺跡・・・松崎町駒木海上


大慈寺とは現在大工町にある福聚山大慈寺(曹洞宗・遠野八戸家菩提所)のことで、寛永4年(1627)八戸氏の遠野入部に伴い、大慈寺9世寿心和尚が八戸直義に従って遠野入り、駒木の海上にあったとされる無住寺に入ったとされております。
後に松崎町光興寺の興光寺跡(光興寺となったのは後年)に入り、万治年間(1657~1660)に現在の地、大工町に新寺を建立し現在に至る。
海上の大慈寺跡には、山伏の一明院という者が入っていたが後に空家となったとのこと。
角助の墓がある中野に住まいする人物が、住まいを野火の為、失ったのでこの寺跡であった空き家に入ったとのこと。
空家には一明院のものとされる墓石があったそうで、現在は福泉寺大観音堂のある高台に移され現存しております。
権大僧都前一明院宣常
権大僧都前一明院音寛 安永三甲午年 三月初八日
一明院の墓

休城山西教寺(真宗大谷派)
一説には元亀元年(1570)の開基ともいわれますが、寺伝によると天文2年(1533)の開山とも語られております。
阿曾沼氏家臣の駒木氏の居舘、駒木館と共に建立されたともいわれ、天台宗の寺院であったともいわれますが、創建に係る内容は不明でもあります。
西教寺

大慈寺と並んで寺があったわけではなく、西教寺は旧消防屯所の裏辺りにあったといわれ、元禄年間(1688~1703)4世諏訪教了和尚の時に火災に遭い、八戸氏家臣、澤里氏の寄進により宝永3年(1706)に現在の場所に堂宇が新築されたものといわれております。
また、一方では元亀年間の開基といわれますが、当時紫波郡彦部にあった本誓寺(盛岡本誓寺)の出寺として初代行正の開基ともあります。
いずれ元亀年間からの歴代住職等がはっきりしているということで、この頃に浄土真宗に改宗されたものとの見解でもあります。
2度の火災に見舞われ、開基に関る記録等は失われたとされますが、天文年間に駒木氏との関りの中で開基されたという伝承が気になるところで、事実、伝承の館跡として駒木館は現存しており、館下の中野にはもうひとつの海上というべき集落が形成されていたとも伝えられ、後に八幡沢館に居た本姓を菊池と称する駒木氏とは別系の駒木氏が居たこと、こちらの考察もまたひとつの課題といったところです。
それと大慈寺が入ったとされる廃寺跡とはなんであったのだろう・・・。
館跡と寺院、そして集落・・・地域の歴史の謎を解き明かすキーワードがチラホラと垣間見えますが、これがまた難解なんです・・・・。
大慈寺跡・・・松崎町駒木海上


大慈寺とは現在大工町にある福聚山大慈寺(曹洞宗・遠野八戸家菩提所)のことで、寛永4年(1627)八戸氏の遠野入部に伴い、大慈寺9世寿心和尚が八戸直義に従って遠野入り、駒木の海上にあったとされる無住寺に入ったとされております。
後に松崎町光興寺の興光寺跡(光興寺となったのは後年)に入り、万治年間(1657~1660)に現在の地、大工町に新寺を建立し現在に至る。
海上の大慈寺跡には、山伏の一明院という者が入っていたが後に空家となったとのこと。
角助の墓がある中野に住まいする人物が、住まいを野火の為、失ったのでこの寺跡であった空き家に入ったとのこと。
空家には一明院のものとされる墓石があったそうで、現在は福泉寺大観音堂のある高台に移され現存しております。
権大僧都前一明院宣常
権大僧都前一明院音寛 安永三甲午年 三月初八日
一明院の墓

休城山西教寺(真宗大谷派)
一説には元亀元年(1570)の開基ともいわれますが、寺伝によると天文2年(1533)の開山とも語られております。
阿曾沼氏家臣の駒木氏の居舘、駒木館と共に建立されたともいわれ、天台宗の寺院であったともいわれますが、創建に係る内容は不明でもあります。
西教寺

大慈寺と並んで寺があったわけではなく、西教寺は旧消防屯所の裏辺りにあったといわれ、元禄年間(1688~1703)4世諏訪教了和尚の時に火災に遭い、八戸氏家臣、澤里氏の寄進により宝永3年(1706)に現在の場所に堂宇が新築されたものといわれております。
また、一方では元亀年間の開基といわれますが、当時紫波郡彦部にあった本誓寺(盛岡本誓寺)の出寺として初代行正の開基ともあります。
いずれ元亀年間からの歴代住職等がはっきりしているということで、この頃に浄土真宗に改宗されたものとの見解でもあります。
2度の火災に見舞われ、開基に関る記録等は失われたとされますが、天文年間に駒木氏との関りの中で開基されたという伝承が気になるところで、事実、伝承の館跡として駒木館は現存しており、館下の中野にはもうひとつの海上というべき集落が形成されていたとも伝えられ、後に八幡沢館に居た本姓を菊池と称する駒木氏とは別系の駒木氏が居たこと、こちらの考察もまたひとつの課題といったところです。
それと大慈寺が入ったとされる廃寺跡とはなんであったのだろう・・・。
館跡と寺院、そして集落・・・地域の歴史の謎を解き明かすキーワードがチラホラと垣間見えますが、これがまた難解なんです・・・・。