「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

M39年八幡宮祭り

2007-01-22 18:58:20 | 遠野
 遠野物語研究第6号 2002年11月(遠野物語研究所)の記事から・・・

 明治時代末期、遠野新聞というものが月2度発刊されていたそうですが、その中での記事

「郷社八幡宮」
 八幡宮のお祭りは、例年9月14日と15日の両日行なわれていたが、この年は農作物が案外の豊作だったので、1ヶ月延ばして10月14日、15日の両日行なわれることになった。
 各村からは太神楽、獅子踊り、町内からは屋台、内囃などの出し物がでることになっており、近年稀な賑わいをみせるだろう。
 なお、引き続き鍋倉神社のお祭りが行なわれるので、町内の若者は張り切って走り回っている。
(明治39年10月5日付け)



遠野南部流鏑馬・・・2006年9月17日(遠野まつり)


 「解説」
 明治39年は久々の豊作であったため、八幡宮のお祭りは1ヶ月延ばされて10月14日、15日の開催、さらに引き続き鍋倉神社のお祭りが開催され、若者達は張り切っているという内容ですが、遠野八幡宮の祭典は9月14日、15日とばかり思ってましたが、昔は事情に併せて対応していたんですね、また春祭りとなっている鍋倉神社のお祭りも当時は秋祭りだったようです。


 「八幡の祭典」
 郷社八幡神社の祭典は、去る14日と15日の両日賑やかに行なわれた。
 14日は神輿が八幡神社からお神明神社まで町内を渡御したが、この行列には松崎村のお神楽、附馬牛・青笹・上郷・小友・土淵等の各村からの獅子踊り、町方からは鎧武者20騎(上組丁)・警護の騎兵25騎(六日町)・内囃手踊り(新町)・屋台宝の入船(一日市町)楠公の銅像(穀町)蛸の屋台に内囃手踊り(裏町)等の出し物が賑やかに加わった。
 日がようやく没せんとする頃、六日町の神明の社に入御され、同夜はここに安置し、翌15日神輿は、再び前日の出し物を従えて新張の八幡神社へ還御した。

 「八幡の境内」
 15日の馬場巡りも大変な賑わいだった。
 町方よりは勿論、近郷近在より大勢の人が集まり、流石に広い神社の境内も一杯になった。向うの桟敷で弁当を開く者があればこっちの筵では兎の耳で踊る者があるなど、まことめでたい限りであった。

 ※なお、鍋倉神社のお祭りも引き続き17日、18日開催されたが、あまり浮かれないようにその筋の注意があり、出し物は一日だけで2日目は前日に比べて盛り上がりに欠けていた・・・とある。
(明治39年10月20日付け)


南部囃子・・2006年9月17日 遠野まつりにて(馬場めぐり)



 「解説」
 松崎村の神楽とは太神楽、町方からは屋台(山車)が出たようですが、町方の出し物に内囃手踊りとあり、町方の代表的な芸能である「南部囃子」の名が見えない。
 さらに内囃手踊りが南部囃子なのか、しかし、新町や裏町からしか出ていないのは何故なのか・・・・とありますが・・・・。

 14日に八幡の御神輿に付いて行く芸能団体、松崎村の太神楽とは?八幡神楽とばかり思っていたが?、また寛文年間にはじまったとされる南部囃子の名が見えないこと、これはどういうことだろう、しかも一日市や穀町といった有名処が山車と手踊りとは・・・・手踊りが南部囃子だった可能性がございますが、私もいささか疑問でもあります。
 また流鏑馬のこともみえませんが明治年間は断続的に有志によって行なわれるも大正~昭和29年までは廃れていたとされます。

 それにしても昔は神明神社まで数多くの郷土芸能団体が付いていっていたんですね。
 そして遠野祭り、いやっ遠野郷八幡宮のお祭りは昔も今も賑やかで人々の楽しみのひとつだったことが垣間見れる内容でもあります。

 遠野郷しし踊り・・・2006年9月15日 八幡宮祭礼(駒木踊り)
コメント (8)
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