「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

斯波氏家臣達曽部氏

2007-01-14 20:27:37 | 歴史・民俗
 親としては長く感じた子供達の冬休み、間もなくその冬休みも終わり新学期が始まろうとしている。
 
 長男は中学最後、二女も小学校最後の3学期となりますが、冬休みが明ける前の土日、私も山の神さんも休みに当たる日に盛岡南のイオンに連れて行ってくれとせがまれており、たまにはいいか・・・ということで14日の日曜日を指定していたので、本日は盛岡まで出かけて来た。

 午前中は上司のご家族での不幸があって火葬に参列、本来は葬儀にも参列しなければ義理が立たないことでもありますが、斎場にてお悔やみをして、盛岡へ・・・・。


紫波高水寺城



 高水寺城は紫波にありますが別名郡山城ともいわれ、斯波氏歴代が居城としておりました。
 なかなか大規模な城で北上川中流域である紫波平野から稗貫領である石鳥谷方面の大穀倉地帯を見渡せる好位置に配されております。

 また斯波氏は足利一族であり、室町将軍の一族として当時は紫波御所と称され、稗貫氏、和賀氏、遠野阿曽沼氏を影響下に置くほど権威があったといわれております。

 斯波氏歴代やその興りを記することは省略いたしますが、糠部郡(岩手県北、青森県西南部)で威勢を持つ三戸南部氏が南下、斯波氏、南部氏は岩手郡内で激突、天文年間には岩手郡を攻略するほど隆盛を極めていたとされます。

 しかし、南下攻勢を強める南部氏の前に徐々に岩手郡内の領地を失い、さらに家臣の謀反を契機に、遂に・・天正16年に南部信直の進攻を受けて敗北、斯波氏は滅亡いたしました。

 
 さて斯波氏には稗貫氏配下である大迫氏や遠野阿曽沼氏の配下とされる達曽部氏、さらに阿曽沼氏の一族とされる太田民部やら他領から斯波氏の家臣として散見される名が記されている。

 一応に南部氏の攻勢が強まる中、和賀氏や稗貫氏、阿曽沼氏等の近隣領主の応援を得て、南部氏の脅威を連合により防ごうとする斯波氏の姿が見え隠れしますが、特に達曽部氏(宮守町達曽部)はいかなる位置付けだったのか?遠野阿曽沼氏の家臣だったのか、それとも斯波氏の家臣だったのか?こちらも興味が尽きない内容でもあります。

 達曽部氏は斯波氏没落後、南部信直の家臣となり南部藩士として命脈を残しております。


おまけ


 イオン盛岡南店の「結いの市」・・・日曜日ということもありますが、かなりの賑わいでした。


 結いの市で販売されている農産物の生産者・・・知っている顔が・・・・

 叔父と近所のご夫妻の笑顔が・・・・同級生の女性の顔も・・・・みんな凄いなあ~


 最近、味にはまりつつあるゲンコツラーメン・・・中年オヤジながらも、こってりラーメンが未だに好きでして困ったものです・・・汗
コメント (4)
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