さて、奥様が奥の部屋から手に数珠を持って廊下へ戻ってみると、蛍さんの姿が見えません。
『あら、あの子座敷にでも行ったのかしら。』
そう思って廊下を進むと、丁度座敷から出てきた住職さんに行き合いました。
「あら、あんたさん、あの子座敷に行ったんどすか?」
そう聞く奥様に、住職さんはちらりと奥様の肩越しに廊下を見ると、事も無げに言われました。
「まだ廊下の端にいるよ。前と同じ場所に立っているじゃないか。」
えっと、奥様は振り返ってみますが、奥様の目にはやはり蛍さんの姿は影も形も見えないのでした。
ええ…と、奥様が狼狽えていると、それよりと住職さんが数珠の事を尋ねます。ああこれです、これと、でも、と奥様。
「この数珠、1つかと思てたら、2つあるんどす。」
ガラスケースから出して手に取ると、1つや思てた数珠が2つに分かれたんどす。と不思議そうに住職さんに手渡します。
住職さんは2つある数珠の1つを手に取ると、それでいいんだよと言います。
この数珠元々2つあるの、普段は1個で、必要時には2個になるのと、
「1つは私、もう1つはあんたさんの分だからだよ。」
そう説明すると、2人でめいめいに数珠を分けて持ちます。そうしておいて、次に奥様がする事を教えます。
そこにいて、私の言う通り、私のする通りに真似していればいいんです。
それから廊下の方を数珠で差して、あの子に私の言った通り、した通りの事をすればいいんだからね。
と、奥様に言われます。
奥様は困りました。蛍さんが見えない事を何時までも住職さんに言わない訳にもいきません。
「実は、私にはあの子が見えないんどすけど。」
住職さんは奥様の言葉におやと、特に驚く様子もなく、ま、あんたさんと雖もそうなのかもしれないなと、
ふんふんと頷くと、廊下を進んで1人蛍さんの所に来ます。そして、その頃には憔悴して涙ぐんでいた蛍さんに、
「いいかい、あなたはね、ここから動かずにじーっとしているんだよ。いい子だからね。」
そう優しく言うと、ちゃんと出来るかな、おじさんの言った事がちゃんと出来たら後からいいものを上げようね。
そう蛍さんのご機嫌を取るように言って、彼女の背中をポンポンと軽くたたき、抱っこしてよいよいとあやすと、
元のように廊下に下ろし、にこにこと愛想よく笑いかけられるのでした。
「約束、約束、指切りげんまん、…指切った。」
と、赤子をあやすように蛍さんと指切りをして、じゃあ、指切りしたから約束だよと、
動かないでねと念には念を押して、住職さんは奥様を傍に呼び寄せます。
蛍さんの頭を撫でて、ここに頭、このくらいの背丈で、と、廊下の柱の傍に蛍さんを立たせて、
柱を目安に彼女の背丈や肩、背などの細かい高さを奥様に教えます。
そして、と、顔の面はこちらを向いていて、反対が頭。頭の下のこの位置が背で、腰がこの位置、
だから背中の真ん中がここだよと、ここが一番のポイントで、肝心要の場所だから、ここという時には必ずここを…、
と、ここで奥様を少し離れた場所まで連れていくと、ぼそぼそと、するべき時にするべき事を小声で指示するのでした。