碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

時代の並走者としての「雑誌」が消えていく

2008年09月17日 | 本・新聞・雑誌・活字

雑誌「ラピタ」の最新号、購入。

マナー特集は、まあ、大人なら大体知っていることなので、そんなに興味はなかったが、特別付録の「ミニ万年筆ホワイト」がちょっと嬉しい。筆記具含め、文具には弱いのだ。

それにしても、雑誌の休刊(廃刊?)が多いなあ。

この「ラピタ」も、「月刊プレイボーイ」も、「広告批評」も、映画誌「ROADSHOW」も、「主婦の友」も、「週刊ヤングサンデー」も、そして「論座」や「現代」さえ消えてしまうのだ。

単なる活字好き、雑誌好きのボヤキかもしれないが、師事した先生、先輩、古くからの仲間、旧友が、一人また一人と去っていくような寂しさだ。

私自身は、この中の「月刊プレイボーイ」「広告批評」「論座」「現代」は購読していた。でも、部数としては、どれも相当落ち込んでいたことになる。

雑誌の生命線は部数と広告費だが、ネット広告費がラジオを抜き、さらに2年前には雑誌をも抜いてしまった。一旦部数が落ちてくると、広告費が下がったり、広告主が離れたりしていく。それは制作費に影響して、内容が薄くなる。また部数が落ちる・・・といった「負のスパイラル」にハマっていくのだ。

テレビプロデューサーとして仕事をしていた頃、スタッフによく言っていた。「いつまでもあると思うな、親とレギュラー」。

これは自戒の言葉でもある。レギュラー番組が続いていると、ついそのことが当たり前になり、調子が良ければ油断もする。しかし、4月と10月の改編期に、自分たちの番組が必ず生き残るという保障はない。たとえ、内容の評判がよくても、目標視聴率をキープしていなければ、どんな老舗・有名番組も一瞬で消えてしまうのだ。

雑誌の場合も、最後は売り上げ部数という数字で判断される。商品なのだから当然といえば当然だが、読者としては何もできない分、割り切れないまま「最後の一冊」を手に取るばかりだ。

これまでも休刊・廃刊雑誌は、それこそ山のようにあった。死屍累々ってところだ。覚えている懐かしい誌名では73~74年の「終末から」(筑摩書房)がある。77~78年に出ていた「クエスト」(小学館)も好きな雑誌だった。

雑誌は、いわば「生モノ」だ。その時代を生きる人たちの「並走者」みたいなものだ。

また、雑誌は社会の「鏡」でもある。豊富な雑誌は、多角的に時代を映し出してくれるはずだ。

だとすれば、雑誌が一挙に消えていく時代は、「鏡がない時代」「自画像がない時代」ということなのか。

もちろん、どんな雑誌も消滅するのは寂しいが、「論座」「現代」のようなタイプの雑誌がなくなるのは、<言論>とか<ジャーナリズム>という意味で、より複雑な感慨がある。こうした雑誌は、時代の「並走者」であると同時に、権力に対する「監視者」「批判者」でもあるからだ。

失くしていいのか? いや、いいはずはない。しかし、ビジネスとしては成立していないと言われてしまう。権力の「監視者」「批判者」を求めない、必要としない社会になっている、と考えると怖いのだが・・・。

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