碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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「月光仮面」が誕生してから、ちょうど50年

2008年09月23日 | 本・新聞・雑誌・活字

映画批評家・樋口尚文さんの新著『「月光仮面」を創った男たち』 (平凡社新書)が、すこぶる面白い。

まだラジオ東京テレビという社名だったTBSが、『月光仮面』の放送を開始したのは昭和33年。ちょうど50年前。まさに映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の頃だ。

我が家にテレビが来たばかりの私も夢中になった。当時はまだ幼児だったが、全国の子どもたちと同様、すぐに風呂敷をマントにして「月光仮面ごっこ」をしたし、主題歌は今も歌える。それほどのヒット番組だったのだ。

また、放送史の中では<国産テレビ映画>の先駆けとして位置づけられてきた。空前のヒット作にして歴史的番組ということで、オーバーに言えば「メディアの新興勢力であるテレビ界が総力を挙げて制作した」というくらいのイメージを持っていた。

しかし、この本を読むと、まったく逆だったことが分かる。樋口さんの文章を引用すれば「これ以下はないほどの過酷な製作条件のもと、さまざまな蔑視や偏見にまみれながら、当時の無名の若者たちによって辛うじてつくり出されていた作品」なのだ。

もう一つ、注目すべきポイントは、昭和33年というタイミングだ。日本映画が史上最高の観客動員数を記録し、その一方で、東京タワーが完成し、送信を始めた年。

昭和33年は、いわば新旧2つのメディアの栄華と衰退の分岐点であり、「きわめて象徴的な映像作品」として登場したのが『月光仮面』だったのだ。

この時代、町の映画館には、まだ毎週毎週、新作映画がかかっていた。しかし、すでに企画はマンネリ化しており、テレビの急成長と反比例するように客足は遠のいていく。

樋口さんは、まず、こうした当時の時代背景、映画やテレビなどメディアの状況から語りだす。その後で、この番組を「創った男たち」にスポットを当てるのだ。すると、『月光仮面』の誕生が、偶然と必然の両方に支えられていたことが理解できる。

この「創った男たち」列伝が、”小説より奇なり”的なエピソードに満ちている。

製作者である宣弘社の小林利雄。原作者の川内康範。プロデューサーの西村俊一。監督の船床定男。そして主演俳優、大瀬康一。いずれも一筋縄ではいかない男たちである。

中でも、原作者である川内さんの生家が日蓮宗のお寺で、「月光仮面」の原点は月光菩薩だったという話はケッサクだ。薬師如来の脇に仕えて、「善人にも悪人にも平等にふりそそぐ月光のごとく」相手を改心させようとする月光菩薩・・・。

また、当時はまだ監督経験のなかった船床が、監督として抜擢され、徐々にその”職人的”手腕を発揮していく様子も興味深い。ただし、無理がたたって、40歳で亡くなってしまったのは残念だった。

予算に関する話も、きっちり出てくるところも、この本の良さだ。何しろ、1本15万円というのは、当時としても超低予算。本当に安い。これで作れたのは、映画界でなかなか日の目を見なかった若者たちが、ここを自分たちの「戦場」として奮闘したからなのだ。

「無名戦士たちの情熱と、メディアの変遷史における本作の意義はあまりにも大きい」という巻末の言葉もうなづける。

「月光仮面」を創った男たち (平凡社新書 435)
樋口 尚文
平凡社

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