映画館で。
最近は、エンドロールになった途端に席を立ち、ぞろぞろと出口へ向かって観客が歩き始めることが多い。
私のように、映画を観はじめた小学生時代から現在に至るまで、館内が明るくなるまで画面を見つめているタイプは、すでに少数派だ。
しかし、今日は違った。
クレジットが映し出されても、ほとんど立ち上がる人がいない。皆、席についたままで、何かを反芻、もしくは再確認するかのようにスクリーンに向き合っていた。
私もまた、「この作品、ちょっと、とんでもないところに行っているんじゃないか」と、そのインパクトに圧倒されていた。
5日の初日に観た映画『告白』である。
松たか子が演じるのは、4歳の娘を殺された、シングルマザーの中学教師だ。
自分が担任であるクラスの生徒の中に、その犯人がいるという。
幼い娘はなぜ死んだ、いや殺されたのか。
誰が、なぜ、どのように殺したというのか。
本当に中学生の犯罪なのか。
もしそうならば、この女性教師は、どうしようというのか。
複数の登場人物の、まさに“告白”のみで構成された、「小説ならばこそ」と思わせる、湊かなえの原作小説。
脚本・監督の中島哲也は、原作に従いつつも、原作を超えて、「映画ならばこそ」を実現してしまった。
女性教師、生徒たち、その親、周囲の教員たち。
彼らの人間像が、それも一筋縄ではいかない人間像が、一筋縄ではない映像と文法で描かれていく。
中島監督特有の“けれん味”たっぷりな、鮮やか過ぎるほどの映像表現が散りばめらていながら、全体は腹にずしんと響く重低音に満ちている。
また、家庭とか、学校とか、社会とかに関して、何か“分かった風”の問題提起や告発もないところが見事だ。
そして、松たか子。
この人の、主に舞台で鍛えてきた演技の凄みが、スクリーン全体を支配している。
ああ、長年、“松たか子礼賛”を続けてきて、よかった(笑)。
今回は、しみじみ、そう思った。
早くも、今年の“マイ・ベストテン”入り確実(なーんてね)。
ほんと、すごい作品が出てきたものだ。