9月だ。9月ってことは、もう秋なのか。「おいおい、早すぎるよ」と思うけれど、雨が降るごとに季節は進む。こころして、9月に入っていかねば。
川村二郎さんの新刊『いまなぜ白洲正子なのか』(東京書籍)が出た。昨日の日曜日、濃密な北海道2泊3日の休息も兼ねて、ゆっくりと読ませていただいた。
白洲正子と聞いて、すぐ分かる人、「え、誰?」という人、それぞれいるはずだ。それと、「よく知らないけど気になっていた」という人も多いだろう。この本は、そのいずれにもオススメできる<白洲正子入門編的傑作評伝>だ。
白洲正子については、最近だと「白洲次郎の奥さん」という説明もできる。戦後、吉田茂の懐刀としてGHQと対峙した男。数々の伝説に包まれた”風の男”。
その白洲次郎の妻だった正子は、明治時代に樺山伯爵家のお嬢さんとして生まれた。今でいう幼稚園の頃にから能に親しむ。大正時代にアメリカ留学。昭和4年に白洲次郎と結婚。戦中・戦後の昭和、さらに平成を生きた88年の生涯。
文筆家として、能はもちろん、西行、匠の技など、日本の古典、日本の美をめぐる多くの本を書いている。美の優れた鑑賞者、美の目利きでもあった。
白洲正子の著作の一つに、彼女が自らの”師匠”について書いた『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮社)がある。今回の川村さんの本のタイトルはそこからきた。そして、「いまなぜ白洲正子なのか」という問いに、見事に答えているのだ。
正子の生い立ち(これが凄いのだが)。時代背景を思うと信じられないような幼少期と娘時代。そして白洲正子となってからの日々。
特に、上記のジイちゃんこと青山二郎や小林秀雄などに接する(というより修行だ)様子は、読んでいて、美や文化について思うこと多く、また決して届かぬ世界への憧れに似た感情が沸き起こる。
著者の川村さんは、「週刊朝日」の編集長や、朝日新聞編集委員などを歴任し、現在は文筆家だ。もちろん白洲正子とも交流があった。随所に、川村さんが接した”実物の正子”が登場し、そのときの正子の”生の言葉”を紹介しているのも、この本の嬉しいところだ。
「文化とは日々の暮らしよ」
「明日はこないかもしれない。
そう思って生きてるの」
「井戸を一つ掘り当てたと思ったら、
別のところも掘るのよ」
現実には聞いたことのないはずの正子の声が聞こえてきそうだ。
ただ、実は、たった一度だけ、白洲正子を<目撃>したことがある。会ったのではなく目撃。見かけたのだ。
それは赤坂のそば屋さん「赤坂砂場」でのことだった。ここの「ざる」が大好きで、ときどき行っていたのだが、いつものように食べ終わり、お勘定のお釣りを待つ間、広くない店内をふと見回したら、テーブルの一つに白洲さんがいた。
両側には、一緒にいらしたらしい女性がいて、白洲さんは(じっと見たりはしなかったのでよく分からないが)「ざる」か「もり」かを食べているところだった。
かつて、戦後の占領期における吉田茂を追ったドキュメンタリーの制作に参加していた。その番組で白洲次郎を知り、白洲正子を知った。そして、こんな人たちがいたことに驚いた。
当時、20代後半だった自分にとって、白洲正子は、いわば”歴史上の人物”だったと言っていい。その女性が、目の前でおそばを食べている。ほんの一瞬だけ見た光景は、信じられないような、ちょっと幸運のような、不思議な感じだったことを覚えている。
白洲さんを目撃してからも、数え切れないほど「赤坂砂場」には通ったが、二度とその姿を見つけることはなかった。
この本で、白洲正子という人がなぜ気になるのか、知りたくなるのか、読みたくなるのか、が分かってきた。川村さんは、こんなふうに言っている。
それは、
多くの日本人にとって
「羅針盤」であり、
「モデル」であり、
「一陣の風」であり、
ときに「精神安定剤」であるからだ
そうそう、余談だが、この本の著者である川村二郎さんと、今年2月に亡くなったドイツ文学者で文芸評論家の川村二郎さんは、それぞれ別の人物である。
ある訃報サイトには、亡くなった川村さんの著書として、この本が紹介されていて、びっくりした。ご注意のほどを。