碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

滝川から札幌へ

2011年03月05日 | 日々雑感

講演会終了後、JRで札幌へと戻る。

アウンビジョンで打ち合わせ。

終わって、北大近くにある古書の南洋堂書店。

6冊、入手。

その後は例によって、お蕎麦の「まる山」に寄って、鴨せいろとおかかのおにぎりで夕食。

おつかれさまでした。
















五十嵐威暢先生の講演会

2011年03月05日 | 日々雑感

A.C.T.(アートチャレンジ滝川)が主催した講演会の会場は、滝川駅近くの「太郎吉蔵」。

太郎吉とは先生の祖父の名前だ。

実家で使われていた蔵が素敵な空間として甦り、いろんなイベントなどで活用されている。

先生のお話は、最近の取り組みと今後の展開についてだ。

アーティストとしての活動。

4月から母校・多摩美術大学の学長に就任すること。

そして今年の夏、新十津川町にオープン予定の、廃校を利用したアトリエやギャラリーなどについても説明があった。

及ばずながら、私もこの新十津川プロジェクトに参加させていただいております。























札幌から滝川へ

2011年03月05日 | 日々雑感

昨日、横殴りの雪の中をクルマで新十津川町と滝川市に行ってきた。

今日は電車で滝川へ。

連日の空知地方訪問であります。

車内では窓の外を眺めたり、書評用の本を読んだり・・・・




















「アメリカ映画ポスター展 オリジナルVS.日本バージョン」が始まった

2011年03月05日 | 映画・ビデオ・映像

札幌駅前の札幌エスタ11階「プラニスホール」で、「アメリカ映画ポスター展 オリジナルVS.日本バージョン」が開催されている。

1987〜1995年に上映されたアメリカ映画のオリジナルポスターと、日本版ポスターの両方を展示するという、映画ファンには堪らない企画だ。

3月4日(金)〜3月27日(日)10:00〜20:00(入場は19:30まで)
入場料金:大人300円(大学生以下無料)


この展覧会の「解説」を書かせていただきました。

以下は、その全文です。



もうひとつの劇場~映画ポスターの世界~


私たちはなぜ古い映画ポスターに魅かれるのだろう。

まず、ポスターを通じて映画そのものを思い出すこと。内容はもちろん、観る前のときめき、観終わった後の興奮や余韻さえ甦ってくる。

さらに、その映画を観た当時の自分との“再会”である。いつ、どこで、誰と観たのか。その頃の自分はどんなだったのか。

映画自体がそうであるように、映画ポスターもまた私たちの大切な記憶装置なのだ。

ポスターとは本来、人が情報を伝えようとするためのツール(道具)である。つまりテレビやラジオやネットと同じメディアだ。映画ポスターの場合は、「こんな作品を公開します」という告知の役割を果たす。

かつて他のメディアが未発達だった時代、ポスターは映画の送り手と受け手をつなぐ貴重な存在だった。予告編は映画館でしか観られないが、ポスターは街のいたるところで目にすることができたからだ。

そんなポスターだが、私たちが接する洋画のそれは基本的に日本版である。映画の「原産国」で制作されたオリジナル・ポスター(本国版)。そこに書かれた文字を日本語に置き換えたものが多い。

では、日本版のポスターに“オリジナリティ”は無いのか。いや、そんなことはない。

中には本国版にはない惹句(じゃっく=キャッチフレーズ)を入れたものや、日本向けにデザインをアレンジしたものもある。

しかもそこにはオリジナル・ポスターを制作したデザイナーと、そのデザインワークに対する敬意がある。

あくまでもオリジナルの味を生かしつつ、日本の観客にどうアピールしていくか。そのためにどんな要素を組み込むか。プロフェッショナルのセンスとスキル(技術)が凝縮されている。

日本版ポスターとは、いわばコラボレーションとしての新たな創造物なのだ。

普段の私たちは、同じ映画作品の本国版と日本版のポスターを同時に眺めることなどほとんどない。この展覧会は実に貴重な機会だ。

日本版のポスターの前で、映画の中の俳優たちの表情や台詞を想い浮かべると同時に、“あの頃の自分”と向き合ってみるのもいい。

またオリジナル・ポスターを見ながら、それが掲示されていたであろうニューヨークやロサンゼルスの街角を想像してみてもいい。

そして字幕も吹き替えもない、まさにオリジナルな状態で上映されたアメリカ映画の“空気”を感じ取ってほしい。

本国版・日本版の区別なく、映画ポスターは“もうひとつの劇場”でもあるのだから。



・・・・この解説文は、会場に入ってすぐ左側にパネルとなって置かれています。

今月27日まで開催されていますので、札幌駅に行く際は、ぜひお立ち寄りください。



雪の北海道へ

2011年03月04日 | 日々雑感

羽田は晴天。

しかし、新千歳空港は荒れ模様とかで、出発が30分遅れた。

千歳に来てみると、雪は降っていない。



快速エアポートで札幌ヘと向かう。

窓の外は、途中の北広島あたりから雪。




札幌はもちろん雪。






今回は番組出演ではなく、番組制作のための打ち合わせ。

それから、彫刻家の五十嵐威暢(いがらし・たけのぶ)先生をめぐる
プロジェクトの会議など。

札幌だけでなく、新十津川町や滝川にも行く予定だ。

いつもと違うパターンの北海道が、ちょっと新鮮です(笑)。


ドラマ『セカンドバージン』の映画化

2011年03月03日 | テレビ・ラジオ・メディア

3月3日、ひな祭りです。

それとは関係ないけど(笑)、NHKのドラマ『セカンドバージン』が映画化されることになったそうだ。

あの鈴木京香主演のスマッシュヒットである。

「セカンドバージン」という言葉・概念・イメージ。

年下の男性とのドロドロ不倫ドラマだったこと。

NHKにしては大胆なベッドシーン。

世の“大人の女性たち”の関心を呼ぶのに十分だった。

いや、もうひとつ。

鈴木京香の相手役、長谷川博己も新鮮でよかった。

大人の女性たちに大好評だった。

で、映画化ということなんだろうが、大丈夫なんだろうか(笑)。

テレビ(しかもNHK)だったからこそ、ドラマだったからこそ、視聴者から「あそこまでよくやったねえ」と言われた。

テレビだったからこそ、大人の女性たちも、録画して一人で見るという楽しみがあった。

しかし、映画館まで行って、1800円を払って、「鈴木京香主演の不倫物語・愛憎劇」を見たいだろうか。

ちょっと疑問。いや、かなり疑問(笑)。

さらに気になることがある。

長谷川博己がドラマの最終回で死亡しているため、映画は鈴木京香の“新たな恋”を描くというのだ。

うーん、いいのかねえ。

あのドラマの“成功”の、かなりの部分を、長谷川博己は背負っていたと思うのだが。

誰か、長谷川よりも有名かつ大物の俳優が起用されたとしても、ドラマほどのインパクトが生まれるだろうか。

最近は、ドラマのヒット作を映画化するのが普通になっているけれど、必ずしも全部が成功しているわけではない。

何でも映画化すればいいってもんじゃないのだ。

映画を、そして映画の観客をナメちゃいけない、と思うんだけどなあ。

さて、映画版『セカンドバージン』はいかがなりますでしょうか。

6月の撮影開始。公開は9月の予定だそうです。



<このブログに書いた関連記事>

『週刊新潮』で、NHK『セカンドバージン』についてコメント 2010.11.05
http://blog.goo.ne.jp/kapalua227/e/00a378f799f11fcaaad5f038bca79ae9

ドラマ『セカンドバージン』(NHK)をめぐって 2010.11.06
http://blog.goo.ne.jp/kapalua227/e/811d6093d68e4497d6bdd2b9bbd62f6f

NHK『セカンドバージン』の視聴率、ついに2ケタ 2010.12.09
http://blog.goo.ne.jp/kapalua227/e/8854a5aa76beb97b0e67e1a18dbcd0a9

『週刊現代』で、鈴木京香さんについてコメント 2010.12.23
http://blog.goo.ne.jp/kapalua227/e/a3bd56e4c751c114bc0f35d6f49c3346



「入試問題ネット投稿」問題をめぐって

2011年03月02日 | 日々雑感

京大をはじめ複数の大学で、入試問題を試験時間中に「Yahoo!知恵袋」に投稿して回答を募るという事件が起きた。

先月の入試で試験監督を務めた者としても他人事ではない。


今のところ、メディアの関心はその「方法」に集中しているようだ。

いずれ「aicezuki」の正体が分かれば、「方法」だけでなく、「目的」も明らかになるだろう。

それにしても、大胆なことを、あっさりとやってのけたものだ(笑)。

「ネットと社会」という観点から見たら、今回のことは、かなり大きな出来事だと思う。

オーバーに言えば、ウイキリークスによる「米国務省公電の漏えい問題」や、海保庁の「尖閣諸島・中国漁船衝突ビデオ流出問題」などと並べるべきだ。

つまり、ネットというメディアが、世の中に破壊的なインパクトを与え得るという実例なのである。

米国務省や海保庁もそうだったが、今回の各大学当局も(文科省も)、「防止策の検討」という形での動きを見せている。

まあ、それはそれで当然かもしれない。

確かに原因(方法)を推測しながらでも防止策は立てられるし、実行もできる。

しかし、「入試会場への携帯電話持ち込み禁止」や、「携帯電話に対する妨害電波」といった方策のみ議論しても、根本的な解決にはならないような気がするのだ。

今回のことは、「aicezuki」の目的が何であったにせよ、多分、その目的以上の結果を生んでしまった。

これまで当たり前のように有効だと信じられてきた社会システムが、どうやらそうではなくなってきていることを知らしめてしまった、とでもいうべき事態。

「大学入試」という一つの社会的制度の問題にとどまらない課題を提示した、と言ってもいい。


先日のニュージーランドでの地震に遭遇した学生や教員は、ガレキの下で、携帯電話からメールを発信し続けた。

「じじんおきた」「うごけない」といった文字が、遠い日本にいる家族や関係者に彼らの生存を伝え、「がんばれ」の返信が彼らへの大きな励ましとなった。

ケータイだろうがスマートフォンだろうが、ツール(道具)はツールだ。

しかし、使い方によって、人間の命が救われることもあれば、社会という鍋の底を抜いてしまうこともできるツールなのだ。

単なる善悪の問題ではなく、すでに私たちはそういう社会に生きているという事実を、あらためて認識しているところです。


さて、本当に「aicezuki」はどうやったんだろう。

これはこれで、すごく知りたい(笑)。

絶妙なキャスティングのドラマ『TAROの塔』

2011年03月01日 | 「日刊ゲンダイ」連載中の番組時評

『日刊ゲンダイ』に連載している番組時評「テレビとはナンだ!」。

今週の掲載分では、NHKのドラマ『TAROの塔』について書きました。

TAROとは、もちろん岡本太郎のこと。


2回目以降もすこぶる楽しみな岡本太郎を
描いたドラマ


岡本太郎が生まれたのは1911(明治44)年2月26日のことだ。

生きていれば、まさに百歳の誕生日に当たる先週の土曜、NHKでドラマ「TAROの塔」(全4回)の放送が開始された。

岡本太郎は紛れもなく美術界における巨人のひとりであり、同時に異端児でもある。

その人と作品をどう評価するかによって、評価する側も問われるような強い存在だ。

何より15年前まで生きていた実在の人物である。

しかも「芸術は爆発だ!」に象徴されるように、多くの人が「時代のトリックスター」としての太郎を記憶している。

ドラマ化はそう簡単ではない。

今回制作陣が切ってきた大きなカードが岡本芸術の源泉ともいえる母・かの子(寺島しのぶ)だ。

寺島は狂気と童女が混在した女流作家を、まさに憑依したかのように演じている。

これだけでも見る価値は十分だ。

カードはもう一枚。

太郎の秘書であり後に養女となった梅子(常盤貴子)だ。

太郎の後半生で秘書や養女という言葉では説明しきれないほど重要な存在だった梅子を常盤がどう演じるか。

寺島とのガチンコ勝負である。

岡本太郎役に松尾スズキを選んだのもお見事。

松尾自身が長い間、演劇界の異端児だったからだ。

太郎が2人の女性から何を得、何を与えながら、あの岡本太郎になっていったのか。

2回目以降もすこぶる楽しみだ。

(日刊ゲンダイ 2011.02.28)


・・・・以前、青山にあったアトリエで、岡本太郎さんにお会いしたことがある。

インタビュー取材だったが、主旨を説明している間、じっと俯いて聞いていらっしゃる様子は、ちょっと怖かった(笑)。

しかし、カメラを回そうとすると、両腕をぱっと開き、目をかっと見開いて、一気に独演会へと突入。

そこには、<誰もが知る(イメージする)あの岡本太郎>がいた。

「ああ、サービス精神の人なんだなあ」と思ったのを覚えている。


来週からは、「岡本太郎展」も開催されます。