照る日曇る日第93回
何の期待も予備知識もなしに読みましたが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。
著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の中年の恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。
けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。
登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。
けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。
最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。
そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊