あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2冊の本を読んだ

2006-12-16 17:45:51 | Weblog



♪ 半藤一利著「荷風さんの戦後」

浅草の荷風の行きつけの店。アリゾナキッチン(メトロ通り東)、尾張屋、浅草フジキッチン(雷門通り傍)、甘み所「梅園」(仲見世通り)、合羽橋どじょう「飯田屋」など。あとはつぶれた。

荷風は死の床でフランス語の本を読んでいた。仏書はアラゴン「現実世界」3部作、サルトル「嘔吐」など140冊。

荷風は邦画は自作の「つゆのあとさき」以外は洋画しか見なかった。「素直な悪女」「ヘッドライト」「リラの門」「川の女」「情欲の悪魔」「紅い風船」「トロイのヘレン」「わんわん物語」など。最後の作品は微笑ましい。

♪ 保坂和志著「小説の誕生」

何度でも繰り返し紐解きたい私の2006年随一の「小説ならざる小説」である。あるいは小説という名の悠久の生を生き直そうとする意欲的な試みである。

著者はいう。

小説とは破綻と自己解体の危険を恐れず、予定調和を拒否して、どこまでも伸びて行く1本の線である。私を虚しくし、小説をうつろな箱にすることによってその小説は優れた音楽の戦争のように、世界の何かを帯びてくるだろう。

書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうる。いい小説とは遠い遥かな地点、世界の果てまでも作者=読者を連れ出し、豊かにしてくれる行為である。

小説という名の「1点突破、全面展開」の実例がここにある。

「雨がつづいた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、このために本を読んだり、あれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか、と思った」
という402pからの井の頭公園での特権的体験の描写は素晴らしい。

なお本書の中で樫村晴香という人が、自閉症について「自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、“美しい”を理解することはできない。あるいはリンゴを使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と、著者との対談で発言したそうだが、これは事実に反する。

自閉症といってもいろいろあるのだから、そんな雑駁な言い方は非科学的である。
現にうちの耕君は立派な自閉症だが、そんなセンテンスなんかおやすい御用ですよ。

そのほかにもじっくり感想を書きたいが、残念ながら時間がない。



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あなたと私のアホリズム その2

2006-12-15 20:45:00 | Weblog



♪ Wang,Wang!

 後世の歴史家は、防衛庁が防衛省となり、教育基本法が衆院委員会を通過した日についてなんと記すだろうか? 

しかしそれよりも心配なのは、先日米国の科学者が出した「2040年に北極の氷の大半が溶けるだろう」という予測である。

間違いなくこの年までに、わが国は平和憲法をかなぐり捨てて「愛国的な核武装国」に美しく変身し、と同時に日本列島のかなりの部分が海没しているだろう。

しかしわが国のマスコミも、国民もこれらの危険性については異常なまでに平静であるか、あるいは平静を装って♪ラリラリラーン、と楽しい毎日を送っているようにみえる。

これではわが家の愛犬であったか「かわかわのムクちゃん」とおんなじ態度ではないだろうか?

Wang,Wang!



♪ ボーナス

松坂選手が6年間61億円の契約を結んだ日、月収1600円の耕くんは540円のボーナスをもらった。

松坂選手は、「うははは」と笑った。

耕くんも負けずに「あははは」と笑った。

誰にもどっちが幸せなのかは分からない。

そして、誰にも格差社会の行き着くところは見えていない。


♪ 当用漢字という名の言語ファシズム

教育基本法の前の年である昭和21年に、1850の当用漢字が制定された。

どうして妾や奸や妖や嫉や皿や鍋や釜が排除され、拷や隷が入ったのかは誰にも分からない。

どうしてその当用漢字がマスコミで「憲法」化され、難しい漢字がただそれだけでパージされるようになってしまったのか、誰にも分からない。

自分の思想をもっとも的確に表現するためには、漢字や用字用語の制限をとるはらうべきなのに、自由を恐れるマスコミは、自らの手足を縛り、執筆者にもそれを強要するにいたった。

「気狂い」ピエロがどうしてだめなの?

狂っているのは、あんたの方だろ?

それとも、おらっちなのかな? よく分からなくなっちゃった。

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冬の朝、瑞泉寺で歌う

2006-12-14 19:26:20 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語20回



夢想国師が手塩にかけし瑞泉寺その庭園に降る紅き花花


光あればもみじはさらに輝かんもろびとこぞりて光待ちおり


紅葉の美しさはない美しい紅葉があるだけさと啖呵きりし人を嘲る紅葉


これやこの水戸黄門の御手植の天然記念物の冬桜見る


もう二度とこのお寺には来れまいと思いつつ訪ねし松陰と子規


夜間はイヌを放つゆえ要注意と立て札せる清泉小学校はあさまし


ピノチェトの棺に吐きしプラッツ陸軍司令官の孫のつばきよ


教育基本法を圧殺し高笑いするお前らの腹黒き野心はお見通しだぜ


是かまたは非なるか意思表示せぬ人をかすかに憎みつつ紅葉を見る


人も世もわれをも呪いつつ見る花のその美しさは限りもなくて

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日々是好日

2006-12-13 20:36:29 | Weblog


ともあれ、朝になったら、まずは起き上がることだ。

起きたら、ちょっと動いてみることだ。 

そして思い切っていきをして、まだぼんやりとでも生きているか自分の胸に問うてみることだ。

君の目の前にピアノがあれば、黒鍵をひとつだけ叩いてみることだ。

なにもなければ、4年前に亡くなったムクしか聞いていなくても、口笛などを微かに吹いてみることだ。

そうすれば、また新しい1日が始まったと知れるだろう。

そうしてテレヴィをつけよう。

テレヴィをつけたとき、不運のことにいきなり安部ちゃんが現れても、前の首相のライオン丸や、障子破り都知事や硫黄島のかなたの猿面冠者が現れたときのようにかんたんにゲロを吐いたりしないで、固く目をつぶったままどんどんチャンネルを回そう。

するともし運が超よければ、BS-1のニュースで平尾由美アナウンサーの切れ長の眼に会えるかもしれない。

そしたら1日超ラッキーだろう?

そしてこれはとても大事なことだが、まもなく国会で教育基本法が可決されても、やけを起こして玄関の扉を殴りつけたりしないように我慢することだ。

それからまたしばらく時間が経って、国民投票の結果現行憲法が塵芥のように闇に葬り去られても、間違っても首相官邸に凶器を携えて潜行しないように努力することだ。

なんといっても、人間辛抱だ。

ともかくようやくここまでやって来たのだから、ぜったいに軽々しく暴力に走らないように自戒することだ。


暴力は自己表現ではなく、自己否定であり、自己滅却であることを、ここでもう一度認識することだ。

いつか首相官邸に向かう坂道で、私の左の額に警棒を振り下ろした第7機動隊の若者が、私の出血を見てすぐにその凶暴な行いを後悔したように、

そしてその若者の振る舞いについてずーと考えていた私が、何年後かに彼の暴力を許したように、

ともかくできるだけ他人を憎まないようにすることだ。

アラブよ、そしてイスラエルよ。

不幸にももし誰かを憎んでしまった場合は、なんとかしてお互いに許しあうことだ。

一時的な過激な行為に走らないように注意することだ。

また、この国の指導者のみならず、この国のすべての人々がこの私に劣らず全員タコだとしても、可哀相なこれらのタコたちのことを、

「このタコ、くたばれ」とか、

「てめえ、このタコ、くそったれ」などと、

けっして下品で、醜い言葉でみだりに罵倒しないよう、今から自戒し、そのときに備えておくことだ。

そうして私は、ゆっくりとねんねぐーして死んでいくことにしよう。

そーゆーことだ。
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雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

2006-12-12 20:29:41 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語19回


御成小学校の辺で雨になった。

この道は古くは大江広元が公文所に通勤するために歩いた道、

中世日本の行政センターに向かう道、

新しくは明治天皇が夏の海水浴のために馬車で運ばれた道、

緑豊かな邸宅が壊され、くだらないマンションが建ちあがりつつある道、

そしていま私がとぼとぼと図書館に向かって歩いている道…

図書館では光明寺の鎌倉アカデミアの回顧デイスプレイをやっていた。生徒は前田武彦、山口瞳、いずみたくなど、先生は林達夫など。

学長は三枝博音、1963年の国鉄鶴見事故で亡くなった。競合脱線という不可解な言葉が新聞を賑わせたことなど誰が覚えているだろう。

図書館には新刊書籍が7冊も届いていた。そのうちの1冊は1220ページの「ランボー全集」全一冊。こんなの2週間で読めるわけがない。

まてまて、花村萬月の「古都恋情百万遍」と杉本彩の「京おんな」もあったぞ。
雨足がだんだん強くなる。早くおうちに帰って彩ちゃんを読もう。

路地の奥に古いポンプがあった。

もう誰も住んでいない廃屋の一角で、褐色のポンプは誰かにくみ上げられるのを待っているようだった。

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏
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モーツアルトに想う

2006-12-11 22:01:38 | Weblog


音楽千夜一夜 第2回


すぐる12月5日がモーツアルトの命日であったが、やはりシューベルトと共に惜しんでも余りある短すぎた人生だったと思う。

モーツアルトは、次のような症状で死んだ。
連鎖状球菌性伝染病、シェーンライン・ヘノッホ症候群、腎不全、瀉血、大脳の出血、最後の気管支炎性肺炎。( H・C・ロビンズ・ランドン著「モーツアルト最後の年1971」12章)

 また、モーツアルトはとてもおしゃれだった。
「モーツアルトは南京フロックコート(最新のモード)やマンチェスター(綿)のそれを所有し、さらには白地、青地、そして赤地の別のフロックコートも所有していた。このように彼は自分の経済的状況はどうであれ同時代のファッションをはっきりと意識していて、それに乗り遅れることはなかったのだ。」(同書「付録A」より)

さらに、モーツアルトの左耳の外耳はなかった。あるいは渦巻きがなかった。
これは彼の早世したあまり才能のなかった息子も同様で、医学的には、天才を象徴する「モーツアルト耳」と呼ばれる。
 
それにしても、どうして彼はハイドンの誘いに従ってロンドンに行かなかったのか? 行っても41番のジュピターを超えるシンフォニーはもう書けなかったかもしれないが、せめてハイドンの半分くらいの分量は書いて欲しかった。

いや交響曲なんかゼロでもはいいが、オペラとピアノ協奏曲を少なくともあと3曲は残してもらいたかった。

いやいや、せめてレクイエムをジュスマイヤーに補作させずにちゃんと全曲書きあげてから瞑目してほしかった。

 等々、ないものねだりが続々でてきてしまうのである。

しかし、しつこいようだが、いくら急に雨風が吹き荒れたとはいえ、どうして誰もウイーンの共同墓地の埋葬に最後まで立ち会わなかったのか? 
悪妻コンスタンツエも含めてどいつもこいつも薄情な奴ばかりで、たった独りで暗い穴の中に真っ逆様に落下していったモーツアルトが可哀相になる。

わが国も大騒ぎで、飛行機嫌いのアーノンクールが来日して3大交響曲やらレクイエムやらを演奏していった。テレビで視聴する限りではじつにくだらない演奏。FMで聴いたオペラも最低。こんなものを有難がって大金を払って殺到するウイーンやザルツブルグや東京や大阪の客の左脳も耳も狂っているのではないだろうか?

思えば昔々ウイーンコンツエルトムジクスを立ち上げて、バッハのカンタータを録音したり、チューリッヒの歌劇場で「オルフェオ」を目玉の松ちゃんのように夢中で楽しんでいた頃が彼の全盛時代だった。

これは極端に過ぎる言い方だが、指揮者には朝比奈やベームやバーンスタインやギュンターヴァントやチェリビダッケのように晩年になって真価を発揮する指揮者と、カラヤンや小沢やマゼールやサバリシッシュのように老いてますます音楽がだめになるタイプ、そしてわけも分からずただ懸命に棒を振っている芸術の本質とは無縁な大多数の指揮者たち、の三種類があるような気がする。

そうして現代の古典音楽業界は、広範な消費者の増大するニーズに的確にこたえるために、この3種のカテゴリーの指揮者をそれぞれに必要としているのだ。

 最後に、モーツアルトの私の最近のおすすめデイスクは、ミシェル・コルボがジュネーブのオケとライブ録音でいれた「レクイエム」(ヴァージン・クラシックスのコルボ指揮レクイエム集廉価版5枚組3000円)、DOCUMENTSの10枚組廉価版、オペラ代表作4本入って2500円)カルロスのお父さんであるエーリッヒ・クライバーがウイーンのオケを振った素晴らしい「フィガロの結婚」が聴ける。

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あなたと私のアホリズム その1

2006-12-10 19:37:43 | Weblog


なんの己が桜かな。


60年代の終わりに構造改革派は「欲望拡大路線」という横断幕を掲げ、ブントや革協同中核派は「自己の実存のすべてをさらけだして全世界を獲得せよ」と叫んだ。

80年代の終わりに、ブルータスのある編集者は、「俺たちって、まだ一人も人を殺していないもんね」と目を輝かせて語った。
 
革命よりも、殺人よりも凶暴な代物、それは自己実現の欲望である。

百たび死んでも治らないのは、ジコチューという病気である。
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鎌倉のシェリーマン

2006-12-09 19:51:51 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語18回


私は鎌倉に住んで足掛け30年になるが、最初はこの十二所神社のすぐ脇のアパートに住んでいた。

アパートのうしろは横浜国立大付属小学校の畑で、畑のうしろも池のある広い畑になっていた。そして子供たちはその池のザリガニを捕まえて朝から晩まで遊んだ。

 池と畑の奥には、大きなイチョウ(写真)が聳え、その巨木の下に郷土史研究でその名を知られた小丸俊雄さんの粗末な木造平屋住宅があった。

小丸さんは鎌倉や吾妻鏡の研究で成果を挙げ、晩年はこの近所の朝比奈峠や大慈寺史跡について研究していたらしいが、そんなこととは露知らない愚かな私は、氏の生前にただ1度しか会話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでいる。

その小丸さんが著わした「鎌倉物語上下巻」(ぎょうせい刊、絶版)に印象的な記述がある。

 生前の氏がある日材木座の海岸を歩いていると砂の中に白く光るものがあり、拾い上げてみるとそれは鎌倉時代に北条氏に敗れこの砂浜で死んだ畠山軍の若い武将の大臼歯であった。
 
 60年代の鎌倉の海岸では、30センチも掘れば12世紀後半から13世紀の内戦の死亡者の遺品が大量に見つかった、というのである。

 それを知った私は、材木座や由比ガ浜の海岸を歩くたびに砂浜を忙しく両手で掘り起こしては、緋縅姿の若武者のピカピカ輝く白い歯を懸命に捜し求めたのだが、ついに発見できないでいた。

そして、かの高名なる民間考古学者の記述は、もしかすると文学的なフィクションではなかったか、と、いささか疑いの気持ちが芽生えていたのだが、先日はしなくも朝比奈峠で日大大学院松戸歯学研究科で口腔解剖学を専攻しているS氏とめぐり合い、その話をしたところ、S氏は「それはおおいにありうる話です」と断言された。

S氏は鎌倉時代の人骨、特に口腔や歯の研究をしている少壮の学徒らしく、小丸さんの証言がけっして非科学的なでっちあげではないことを保証してくれたので、私はとてもうれしかった。

鎌倉の中心部のどんな地面でも1メートル掘ってみれば江戸時代の遺跡があらわれ、3メートル掘り下げてみれば鎌倉時代が出現する。

写真は数日前から行われている浄明寺の史跡発掘の現場であるが、開発ラッシュの鎌倉市内ではいたるところでこのような光景にぶつかる。

さてここで急に話が飛ぶが、私は以前それまで働いていた会社から突然リストラされ、さあこれからいったいどうやって食べていこうか、とおおいに悩んだ時期があった。

そんなある日、たまたま当時大学前のコンビニ(その2階は黎明期の鎌倉シャツが開店していた)の隣で行われていた発掘現場で、アルバイトのおばさんが土器のかけらを楽しそうに拾い上げている姿を見て、「そうだ、俺は少年時代にはシェリーマンになりたかったんだ」、と、突然心中にひらめくものがあった。

トロイの遺跡は難しいかもしれない。しかしお日様の下で知的かつ肉体的に楽しみながら、遊びながら毎日中世の暮らしの断片と出会うこのアルバイトは悪くない。しかもこの町は遺跡の宝庫だから、仕事がなくなることは永遠にないだろう…。
と、すばやく頭を回転させ、「これこそわが理想の第二の人生だ」と、久方ぶりに胸をときまかせたのであった。

しかも、これはけっして机上の空論ではなかった。
私と同時期にリストラされたU氏の奥さんが、わがあこがれの史跡発掘のアルバイトをしていたのである。

私はその夜早速U氏に電話をした。
幸いなことに彼の奥さんも在宅していた。現場からいま帰ってきたばかりだという。

そこで私が、「この際どうしても鎌倉のシェリーマンになりたいのですが」と、切り出すと、彼女は私にみなまで言わせず、「確かに日当はもらえますがね、結局はドカタですよ。きつい肉体労働ですよ。あなたは体力に自信がありますか?」
と、どすのきいた声で突き放すように言った。

昔から虚弱体質で、肉体とか根性という言葉にもっとも弱い私は、たったその一言でなぜかへなへなになってしまった。

かくして鎌倉のシェリーマンになる夢は、ここにあえなく挫折したのである。


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太刀洗の血闘

2006-12-08 21:05:05 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語17回


曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)
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アオサギとヘンゼルとグレーテル

2006-12-07 20:35:29 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語16回


今日の午後、浄明寺郵便局に向かって道路の左端を歩いていると、イチョウサブレー製造所の入り口に大きなアオサギがいた。

道路の傍を流れている滑川にはときどきシラサギやゴイサギが魚を狙っている姿を見かけるが、こんなに大きいアオサギは初めてだ。

しかも川の中ではなくて舗装道路の上を両翼をふわりふわりと上下させながら歩いている。

私はあわてて愛用のデジカメを取り出してシャッターを切りながら、この日本産の最大のサギを追いかけた。

アオサギは軽快な足取りで民家の入り口まで前進しアーケードで覆われた屋根を見上げている。

しかし私はそれ以上追うと逃げ場を失ったアオサギが狭い空間で自傷することを恐れてその場を立ち去った。

サブレー屋さんの話では、「橋の欄干くらいまではやってくるが、こんなに接近したのは初めてだ。あんな神経質な鳥がどうしてこんな所まで」

と、とても驚いていた。

アオサギと別れてどんどん進んでいくと、泉水橋の先に奇妙な建物が見えてきた。

去年、いやおととしから気になっていた誰が建てたのかわからない謎の建造物だ。
全体はどちらかというとスペイン風の別荘のような感じである。

最初は普通の洋館かと思っていたが、どうも様子が変だ。色といい形といい、まるでヘンゼルとグレーテルのお菓子の館のようである。

本体が出来上がるまでに優に1年はかかり、それが一段落するや今度は写真左下の階段や東屋やガーデンがゆっくりゆっくり形作られていく。まるで時間も経費も気にしない手作りである。

いまでは部屋にカーテンもかけられ電気工事も終ったようだが、昼も夜も誰も住んでいない。

はじめはレストランは、ブティックか、それとも鎌倉によくある個人美術館かと想像したが、いまだもってよく分からない。

町内で話題の謎の不思議館である。


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筑波山のガマ

2006-12-06 21:50:53 | Weblog


耕君が福田の里に短期入所してくれたおかげで、私たちは新婚旅行以来はじめて夫婦水入らずの旅行を楽しむことができた。

最近開通したばかりの「つくばエクスプレス」に乗って、筑波山のホテルで一泊したのである。

女体山直下のホテルからは夕方も朝も関東平野を一望することができた。富士山や新宿副都心や霞ヶ浦も見えたし、雲間から浮上してくるご来光を仰ぐこともできた。

あの有名な筑波山名物のガマも見たし、日本百名山のひとつ筑波山の頂上にも立つことができた。

耕君、ありがとう。

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勝手に東京建築観光・第3回

2006-12-04 22:21:11 | Weblog

魔術師は虚空を見つめる~電通本社ビル

汐留にあるこの高層ビルは、わが国を代表する巨大な広告代理店、電通の本社である。

電通はテレビ、雑誌、新聞、ラジオなどのマスメディアに食い込み、彼らの商材である媒体の販売代行を通じてその命運をひそかに握る。オリンピックやW杯、万博などのビッグイベントを自社に獲得するためには政財界との強大なコネクションが不可欠である。

また電通は、基幹産業の広告宣伝活動を代理され、主要ブランドのマーケティイグとマーチャンダイジング戦略、販促計画に大きな役割を果たしている。宣伝広告のみならず経営戦略までも代理店にげたを預ける企業すらある。

かつて私はある企業の広告宣伝部門で働いていたことがあるが、あるときその会社の歴代宣伝部長の息子や娘が電通の社員に採用されていることに気づいて今更ながらに驚いたことがあったが、これは驚くほうがうぶなので、電通は有力企業の実力者から人身御供をとることによって自らのビジネス基盤を確固たるものにしているのである。

しかし電通はあくまでもビジネスの表面に出ることを嫌う。徹底的に縁の下の力持ち、影武者としてフィクサーの役割を果たそうと涙ぐましい自己規定をしている。

したがって02年10月、ジャン・ヌーヴェル、ジョン・ジャーディによって設計された電通ビルのコンセプトは「空に消えゆくビル」、つまり普通の高層ビルにありがちなランドマーク性、記念碑性を拒否し、つまり「できるだけ目立たないこと」であった。

ジャン・ヌーヴェル自身は、「敷地内の樹木や空の雲、風景がガラスの反射と重なり合い超現実性をかもし出すこと。非永続性の変幻をもたらすこと」が狙いである、ともっともらしいことを語っているようだが、なにいくらビルだけ謙遜して黒子に甘んじようとしても、そうは問屋が許さない。

世間の耳目をひきつける魔術的な虚業こそが電通の実際の仕事。この大いなる矛盾を内包しながら、天下の電通ビルは今日も虚空をにらんでいるのである。


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福田の里は夕焼けだった。

2006-12-03 19:56:31 | Weblog


今日から耕君が大和市の福田の里で1週間ショートステイするので、家人の運転する車で送っていった。

とても寂しい所であった。寂しい建物であった。

今日は日曜日なので、中は重度の人ばかりがうろうろしていた。

しかしこんな施設で働いている若者はえらい。尊敬します。

耕くんは背中を向けて真っ赤な西日を見ていたが、しばらくすると、「もう帰ってください」と言ったので、我々は後ろ髪を引かれるような思いで福田の里を立ち去った。

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音楽千夜一夜 第1回

2006-12-02 20:36:20 | Weblog


よみがえる伝説のフォーク

昨夜のBS2でフォークを歌う奇妙なおじさんに出くわした。

杉田二郎という人が、じつにへんてこりんな、しかしじつに無理のない発声で自在な歌を自由に歌うのである。

北山修や加藤和彦、はしだのりひこは知っていたが、この人が70年大阪万博の年に大ヒットした「戦争を知らない子どもたち」を作曲者とは知らなかった。はしだのりひことシューベルツの名曲「風」も彼の作品だった。

1963年11月22日の金曜日の午後一時、私は左京区田中西大久保町の路地で立ちつくしていた。近所の家から聞こえてきたFEN放送が、「プレジデント・ケネディー・ワズ・アササンド! ジス・イズ・ザ・ファーイースト・ネットワーク」と叫んでいた。

そして翌年私は上京したが、さらにその翌年の1965年にザ・フォーク・クルセダーズが結成された。そして70年代初頭の京都はフォーク全盛の黄金時代を迎えた。

けれども私は、そんな京都とはまったく知らずに独りで東京に出てきてしまったので、善ちゃんの医大の同級生である偉大な北山修氏以外は知らないのである。フォークはおろかあらゆる音楽とは無縁の数年間がそのあとしばらく続いたのである。

さて、杉田二郎の歌唱はなかなかよかったが、ゲストの庄野 真代 とのデュエットもよかった。

この人は若くしてイスタンブールまで飛んでいった人だが、昔から旅行の好きな人で、私は彼女が前の旦那と世界一周旅行していたときにバハマで会ったことがある。

庄野 真代は当時に比べるともちろん年を取り、いろいろ苦労もしたのだろうが、それらがすべて歌のキャリアを形作っていた。飾りのない透き通った声で、二郎と調和の幻想を奏でた。

また若いトキハイのボーカルはとてもよい声で「戦争を知らない子どもたち」を歌い、続く二郎との協奏もよかった。

かつてはフォークなあんて、なんてばかにしていた私だが、数年前電撃的に友部正人の「1本道」が落雷し、それから耕君に吉田拓郎の魅力を教えられていらい、すっかりこのジャンルの素晴らしさに目覚めたのである。

そこには電気増幅で決定的に失われた人間の歌と楽器の原初の姿が、まだ霜日の朝顔のように人知れず輝いていた。
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鎌倉霊園、そして夢。

2006-12-01 20:39:48 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語15回

 

今朝はちちとおじさんが眠る霊園に、ははとつまの3人で出かけました。

ここはかの悪名高き西武資本が近所の鎌倉逗子ハイランドに続いていくつもの大きな山をぶっ壊してお墓にしたのです。
頂上には総帥堤康二郎氏の壮大な墓地があります。

むかし西武グループの管理職は毎日誰かがこの墓地の隣の宿舎に泊まりこんでいました。さらに毎年大晦日の夜には、すべての管理職が東京からバスに乗ってこの墓地に大集合し、元旦には遠く富士山を望みながら(写真)偉大な創始者に年頭の挨拶をしたそうです。まるで北のどこかの国の儀式のようですね。

私は鎌倉には30年くらい前に住み着いたのですが、当時お隣の家のご主人が国土の課長さんからそんな話をきいたものです。西武流通グループも崩壊し、義明氏も不祥事で退陣し、おごれるものは久しからず、ああ、昔の光いまいずこ、です。

たくさんのお墓の中にはたくさんの死者たちが眠っています。

中には帝国ホテルに住んで藤原歌劇団を設立したわれらのテナー、藤原義江などの有名人もなんねぐーしています。

その中にコークが3本も供えられている19歳で亡くなった人のお墓がありました。石碑には純と刻まれています。きっと彼はコークが大好きだったのでしょう。

また音楽院という戒名の25歳で亡くなった女性のお墓は、翔という文字が刻まれていました。いずれもご家族の気持ちが痛いほど伝わってくるようでした。

そのほか墓石には空、慈、憩などと書かれたいろいろな墓碑銘が並んでいます。
読めないアラビア語やRest here for next lifeという英語もあり、死者の不抜の信念に感銘を覚えました。

ははから、「倶会一処はなんと読むの?」と聞かれたので、「ともにいっしょにかいす、でしょう」と答えてから、帰宅して調べてみましたら、「くえいっしょ」と音読みするだそうです。「念仏者は等しく西方浄土に往生し、一つところに相会うこと。阿弥陀経に「諸上善人倶会一処」とあるところから出た仏語」と、大辞林に出ていました。でも「みんないっしょにねんねぐー」という解釈は間違ってはいませんね。

ちなみに平成9年に亡くなったうちのちちのは、「そして夢」です。家族みんなで相談してこれに決まったのでした。

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