あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

三木卓著「鎌倉日記Ⅲ2006―2019」を読んで

2024-12-31 10:15:27 | Weblog

照る日曇る日 第2149回

 

地元の月刊誌「かまくら春秋」に連載され、「平成その日その日」という題が付された鎌倉在住の詩人、作家の日記である。

 

この人の作品は妻の最期を書いた小説「K」を読んだだけだが、なかなかの力作だった。本業は詩作なので、これからぼちぼち読んでみたいは、まずは図書館にあった日記から。

私のまわりには何故か満州からの引揚者が多いのだが、著者もそう。内地で食い詰め一旗上げようと海を渡った日本人ならではのひとときの繁栄と命からがらの帰還によって心身に刻まれた傷跡がその後の生涯をある意味では決定づけたのだろう。そんな感慨を伴った思い出が日記のあちこちに顔を覗かせている。

 

日記で引用される記事の多くはヨミウリなのは残念。永年購読していた朝日をやめたのは政治的な断罪記事が多いからと記してあるが、政権党の怠慢と犯罪にノンとも言わない右翼紙のどこが面白かったのだろう。

 

古希をとっくの昔に過ぎて傘寿の坂を上りつつ、この老人、もはや漁色の楽しみが出来る年齢を過ぎても、若い女性を見る眼はさながら荷風散人の如しで、ああやはり男と言うものはなあ、という微苦笑を誘われる。

 

意外なことに著者も南方から北上してきたアカボシゴマダラやナガサキアゲハ、オオゴマダラ、それに海を渡るアサギマダラなどの記述が多く、さだめし少年時代には名うての昆虫少年だったろうなと思われて親しみがわく。

 

当時大阪府知事だった文楽の素養さえない橋下が大阪国際児童文学館を閉鎖したことに対する異議申し立てを2010年の2月に行っているが、権力者の仕打ちに対する批判や反抗的態度はほとんどないのが不思議である。

 

さすがに文学者だけあって、小津の「晩春」に出た原節子の目の美しい輝きが、黒澤の「白痴」で一天俄かに掻き曇る反逆の目の恐ろしさについて指摘しているのは鋭い。

 

鉄柵をジャンプできずに串刺しに哀れなるかなロミーの息子 蝶人

 

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2度死ぬこと

2024-12-30 10:31:55 | Weblog

 

鎌倉ちょっと不思議な物語第475回&バガテル-そんな私のここだけの話第433回

 

13年前に亡くなった義母だが、じつはその数年前に1度死んでいる。

 

彼女がだんだん弱ってきて親戚一同が十二所の実家に集まってきた時のこと。急遽駆け付けた確かドクターゴンという診療所の若手医師が、おばあちゃんを忙しなくあれこれ診察し、さいごに脈を診るなり「ご臨終です」といってから、時計を見て「何時何分です」と宣告した。まるでテレビドラマのワンシーンのようだった。

 

その場には私ら夫婦を含めて6、7人が固唾をのんで見守っていたのだが、いきなりの臨終宣告に悲しみよりも驚きに圧倒されて呆然としていた。その時だった。従兄弟のリョウちゃん(具体的には私の妻の姉の次男)が、「おばあちゃん!おばあちゃん!」と大声で叫びながら彼女の上半身を2、3度ふさぶるような仕草をした。

 

すると見よ、奇跡が起こった!

死んだはずのおばあちゃんは、驚いたようにパッチリ目を覚ますと、何の騒ぎかとでも言いたげに、我々のほうを見たのである。

 

早すぎた死を宣告したくだんの医師が、死から生への一瞬の帰還を目の当たりにして、一転歓喜の場と化したその場から、看護師共々いつの間に姿を消したのはいうまでもない。

 

しかしながらもしもあの時、あの場に我らがリョウちゃんが不在で、咄嗟に勇気ある振舞いをする人物が一人もいなかったら(その可能性は大いにある)、おばあちゃんはいったいどうなっていただろうと時々思わずにはいられない。

 

その後しばらくしてから、くだんの医師は独立して長谷に立派な診療所を開き、妙に義理堅いおばあちゃんはその後も実際に死ぬまでその病院に通っていたのだが、臨終宣告をした医師と患者の間でどんなやり取りが交わされていたかを想像するといささかの感慨無しとしない。

 

義母が2度目の死を死んだ後、私たち家族は、毎週土曜日に図書館へ行くたびにその診察所の前を車で通り過ぎるのだが、けっこう繁盛しているようだ。

 

このたびは地球を潰すつもりでやるだろうともかく1回死んでいるから 蝶人

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西暦2024年師走蝶人映画劇場その7

2024-12-29 09:12:54 | Weblog


闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3883~87

1)カーステン・シェリダン監督の「奇跡のシンフォニー」

生まれながらに施設にやられていた息子とその父母とがンNYフィルの野外演奏会で再会を果たすという2007年の奇跡の映画だが、ロビン・ウィリアムズの悪役を初めてみたずら。

 

2)アラン・レネ監督の「薔薇のスタビスキー」

カット毎に錦模様の美しさを堪能できるし、主役のジャン=ポール・ベルモントが大活躍するものの、要するに何がいいたいのかさっぱり分からない1974年のおふらんす映画。

 

3)ロバート・レッドフォード監督・主演の「モンタナの風に抱かれて」

愛馬の事故で親友と右脚を失った娘の回復を願った母親と牧場主レッドフォードの1998年の哀しい恋の物語。

 

4)マーティン・ブレスト監督の「ミッドナイト・ラン」

デ・ニーロ主演のヤクザ、FBIの1988年のお笑い追っかけっこ。

 

5)ポール・シュレィダー監督の「ラスト・リベンジ」

認知症の変質的な元CIA、ニコラス・ケイジが自分を拷問したテロリストを殺して自滅していく2014年のアクション映画。

 

紅白もラジオ体操ものど自慢も進駐軍の推しで始めた番組である 蝶人

 

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「詩と思想9月号」を読んで

2024-12-28 11:46:53 | Weblog

「詩と思想9月号」を読んで

 

照る日曇る日 第2148回

 

昔々私がうんと若かった頃、お隣の火星社書店に行くと丹波の田舎の本屋さんであるにもかかわらず、詩の雑誌が色々並んでいたような気がする。だからといって自分がそれらの読者であったり、ましてや詩を書こうという気持ちを持っていたわけではさらさらなかったが。

 

それから1世紀近くが経って、自分が時々詩を書いたりするようになったにはなったが、本屋さんの雑誌コーナーにいっても、詩の雑誌などにお目にかかることなど殆ど無い。

 

ところが地元の図書館を覗くとたまたま「現代詩手帖」というのがあったので、借りてきてパラパラ読んでみると、いつも巻頭を飾っている谷川俊太郎選手などを除いて、いったい何が言いたいのかも分からない言葉の羅列ばかりなので、『こんなん「現代詩」なのかもしれンが、「詩」ではないなあ。殆ど「死」だなあ」』と直観し、「パレスチナ詩特集」以来真面目に読んだことはない。

 

ところが今回、たまたま「現代詩手帖」以外に「詩と思想」という詩の雑誌があることを知って、神奈川県立図書館から9月号を取り寄せて読んでみたら、掲載されている作品はやはりあまり面白くなかったが、巻頭座談会と論文で「現代詩手帖」を徹底的に論難しているので面白かった。

 

彼ら曰く、「現代詩手帖」は「空疎な言葉をもてあそぶコトバ派」で、地方詩人を蔑ろにしながら1本釣りをして、「我こそは代表的詩人を選りすぐったセンターなりい!」と威張っている、こけおどしの雑誌らしいのである。

 

嘘かほんとかは知らないが、なんでも最近亡くなった小田という編集長が功罪相半ばする偉大なやり手で、もともとは軽薄ないち雑誌であった「現代詩手帖」を、こんにちのように押しも押されぬ一流紙!?に仕立て上げたそうである。

 

それで「詩と思想」は、詩と詩壇は「現代詩手帖」だけではない。世界は3つの視座から観察せよと主張した、こないだ亡くなった川田順造選手のように、詩世界も「現代詩手帖」と「詩と思想」と、あとなんとかいう雑誌の3つを基盤にして動かさねばならん!と言いつのっているようだ。

 

それは正論かも知れないが、では具体的にどうしようというのかがよく分からないので、論者じたいも困っているように思えたが、ともかく今回、遅まきながらこの雑誌を読んで、文壇ならぬ詩壇についての認識を新たに出来たことは、老い先短い著者にとって2024年度のささやかな収穫でござった。

 

恐らくは爬虫類の脳が殆どだろう次期大統領の脳味噌の中 蝶人

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林明子さく「きゅっきゅっきゅっ」を読んで

2024-12-27 11:29:32 | Weblog

林明子さく「きゅっきゅっきゅっ」を読んで

 

照る日曇る日 第2147回

 

福音館のあかちゃんの絵本のロングセラー。1986年6月20日の初版からことし6月5日までなんと107刷の再版を数えています。

 

内容はきわめて単純で、ねずみさんやうさぎさんやくまさんが飲んでいてこぼした美味しいスープを主人公の赤ちゅんがきゅっきゅっきゅっと拭いてあげるというただそれだけの文章と絵。

 

最後はその赤ちゃんが顔いっぱいにこぼしていたスープをお母さんがタオルで拭いてあげておしまいです。

 

阿呆犬を散歩させる男を最近見ない我の呪いをまともに受けたか 蝶人

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ディック・ブルーナ文&絵・まつおかきょうこ訳「こいぬのくんくん」を読んで

2024-12-26 11:49:36 | Weblog

ディック・ブルーナ文&絵・まつおかきょうこ訳「こいぬのくんくん」を読んで

 

照る日曇る日 第2146回

 

おなじみディック・ブルーナの絵本です。

 

今回は子犬のくんくん君が行方不明になった赤ちゃんを探しだすまでを単純なあらすじと明快な挿絵でぐんぐん描いていきます。

 

それにしてもますます複雑怪奇に迷走していく世の中というものが、これくらい単純明快に還元されていけば、なにかとらくちんになれると思うのですが、なかなかそうはいかないのは困ったものですね。

 

    葛根湯は万能薬でこれ飲めばその日の痛みはなんとかなるかも 蝶人

 

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森永卓郎著「がん闘病日記」を読んで

2024-12-25 10:32:03 | Weblog

森永卓郎著「がん闘病日記」を読んで

 

照る日曇る日 第2146回

 

珍しい「原発不明ガン」で余命があるのかないのかも分からなくなってしまった「不運な経済アナリストの遺作本!?」である。

 

ガンのこれまでの経緯や現在の症状やあれやこれやの治療法が生々しく書いてあるので、そういう意味では誰もが参考になるが、本書の核心は、そういう病気や闘病記よりも、著者のユニークな生き方と人生論にあるのだろう。

 

ここにありのままに開陳されている、著者の旺盛な好奇心と直情径行の燃えるような情熱、自主独歩の果敢な挑戦ぶりは、天晴れ見事という他ないていのものであり、著者自らがいうように「瞬間ごとにいつ死んでも構わないような生き方をしてきた」ことの積み重ねなのだろう。

 

勢い余って「歌人になりたかった」という告白や、おしまいに「童話集」が登場したりするご愛敬もあるが、それらのすべてを通じて「お金よりずっと大切なこと」を学べる、いまどき珍しく貴重な書物である。

 

出てくるわ出てくるわわいの便やがわいにはてんで臭いがせんのや 蝶人

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佐野洋子作・絵「わたしクリスマスツリー」を読んで

2024-12-24 09:38:05 | Weblog

佐野洋子作・絵「わたしクリスマスツリー」を読んで

 

照る日曇る日 第2145回

 

Xmasだから人間たちの手に渡ってクリスマスツリーとして部屋に飾られたいと熱望するモミの木の物語だが、そんな気持ちになるもんだろうか?

 

あれはしばらくは華やかにデコレーションされた後、直ちに処分されて一生を終えてしまうのだが、モミの木よ、そんなことも分からないのか?

 

幸か不幸か今年のXmasには採用されなかったモミの木はなんとかかんとか元の野原まで引き返し、森の仲間たちからクリスマスツリーとして賞美されるのだが、よっぽどそっちのほうが良かったんじゃなかろうかね。

 

ブルガリアヨーグルトの容れ物はプラかカミかと判断できぬ 蝶人

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西暦2024年師走蝶人映画劇場その6

2024-12-23 08:30:41 | Weblog

西暦2024年師走蝶人映画劇場その6

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3877~82

 

1)F.ゲイリー・グレイ監督の「交渉人」

サミュエル・ジャクソン、ケヴィン・スペイシー両名の交渉人がタッグを組んで横領犯人を突き止める1999年の警察サスペンス物の傑作。

 

2)ジェームズ・フォーリー監督の「自信コンフィデンス」

ダスティン・ホフマンも出る2003年の下らないクライム・サスペンス映画。

 

3)トニー・スコット監督の「スパイ・ゲーム」

男気あるレッドフォードがCIAを退職する日に全財産を投げ出して阿呆莫迦部下のブラビを救出する2001年の涙ぐましい美談だが、この人明日からどうやって暮らしていくのか心配ずら。

 

4)ニコラス・レイ監督の「危険な場所で」

虚無的な刑事ロバート・ライアンが、盲目の女性アイダ・ルポノに出会って生きる喜びに目覚めるという1951年の素晴らしい人世映画。

 

5)ラオール・ウォルシュ監督の「たくましき男たち」

クラーク・ゲーブル、ジェーン・ラッセル、ロバート・ライアンが出る

1955年の牛運び西部劇で、題名通り規模雄大である。

 

6)ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」

渋谷区の「THE TOKYO TOILET」のPRのために企画され、役所広司が東京都の便所掃除人の日々を演じる2023年の作品だが、そんなはことはどうでもよくなるなかなかよくできた作品。

親子で「いつかはいつか、今は今」と言う科白を言うた後で踊りになるシーン、役所と三浦が突然影踏みをやりだすシーンなどはこの監督の詩心を感じさせるが、ラストの長回しは意味がありそうで無意味だと思う。

主な役どころより端役の存在感が際立つので、いっそ全役者をオーディションして取り直したらヴェンダースの傑作になるだろう。

 

ゆずどものつかずはなれずうかびけり 蝶人

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ディック・ブルーナ文&絵・石井桃子訳「ちいさなさかな」を読んで

2024-12-22 09:12:25 | Weblog

ディック・ブルーナ文&絵・石井桃子訳「ちいさなさかな」を読んで

 

照る日曇る日 第2144回

 

ちいさなさかなとちいさなおんなのこの物語。鳥たちみんなが、女の子から貰ったパンを食べているのを羨ましがっていた小さな魚。少女が池に落ちたのを助けた小さな魚は、そのお礼にたっぷりパンを貰って満腹、マンプク。

 

見つかった 何が 血まみれの腫れた歯茎が 毎度おなじみ 磨いて治そう 蝶人

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高見順著「昭和文学盛衰史」を読んで

2024-12-21 08:48:22 | Weblog

高見順著「昭和文学盛衰史」を読んで

 

照る日曇る日 第2143回

 

昭和27年から32年まで途中2年間の休載をはさんで足掛け6年間に亙って「文学界」に連載された労作を読んでの感想を記しておきたいと存じます。昭和43年に再版された人名索引付き639Pの角川文庫です。

 

その一つは明治は知らず大正、昭和の文学界は思いのほか数多くの同人雑誌が地方を中心に跋扈しており、それらの書き手が当時の文学世界のみならず思想や社会に大きな役割を果たしていたことです。

 

著者自身からして「文芸交錯」「大学左派」(これいい名前だなあ、大好き!)、「十月」、「集団」、「日暦」、「人民文庫」などに関わりつつ、ようやく昭和10年代になってから「故旧忘れ得べき」で文壇にのし上がってきた文学者ですが、本書で何度もカウントされている同時代の同人雑誌の幅広さには驚くほかありません。

 

しかも同人誌の作品は現代と同様に名が知られている有名な商業誌よりも文芸愛に富む骨のある作品と作家によって支えられていることは、例えば佐藤幹夫氏の個人雑誌である「飢餓陣営」や添田馨氏の「ネメシス」、水島英己氏等の「アンエデティッド」、白鳥信也氏の「モーアシビ」等を一読すれば誰もが頷ける真実でありましょう。

 

本書の第2部の後半を読めば、昭和のはじめから軍靴を響かせて怒涛のように進行する愛国主義と軍国主義の嵐が、いかにマルクス主義も純芸術派文芸も、上っ面だけの転向者も日和見主義者も叩き潰していったかが、戦慄的な恐怖と肉体的な苦痛を伴って体得されますが、そういう意味では、これくらい現代的な「時局」の読み物はありません。

 

「右翼的日本主義者にならなければ転向とは認めない」、という極限まで突き進められたリベラル派狩りに協力したのは官憲だけでなく、そのスパイと化した一部の文学同業者で、彼らが所属する「日本文学者会」(「日本文学報国会」の前身)は、同人雑誌団体「日本青年文学会」に右翼的恫喝をかけて解散要求という仲間苛めをしますが、昭和16年、彼らは当時50数雑誌出ていた同人誌を自主的に8誌に統合し、昭和19年に「日本文学者」1誌になるまでそれなりに果敢に抵抗し続けたのでした。

 

著者の言葉を借りるなら、「当時の同人雑誌を全体としてみると、右翼的偏向からかたくみずからを守っていた。暴力的言辞が跳梁していた当時、それはずいぶんと苦しいことだったと思うが、その苦しさにたえながら、いまにも絶えようとする文学の火をみずからのうつに守りつづけていたという事実は特記しておかねばならない」

 

本書の「第11章右翼的文学論」には極右結社や雑誌の断伐的言動によっていかに自由な言志が恐怖と共に圧服されたかが詳述されていますが、昭和20年7月26日、「日本文学報国会」によって他の文学者や山田耕筰、伊藤喜朔等の文化人共々警視庁前の情報局5階に呼び出された著者は、軍の尻馬に乗って居丈高な右翼雑誌「公論」社長上村哲弥の態度に頭にきますが、それをたしなめる者は誰一人いませんでした。

 

すると吉植庄亮とおぼしき「もんぺ姿」の歌人が勇を鼓して「農民は荒れ地を耕したいのだが、収穫以上の供出を強要されるので困っている」と訴えたところ、情報局の栗原部長が「民間から何人、佐倉惣五郎が出ているか。何人死んでいるか。特攻隊は毎日死んでいる」と怒声を発して、万座を沈黙させたそうです。

 

「そのとき、私の隣のひとが静かに発言をもとめる手をあげた。見るからに温厚そうなひとを私は誰だか知らなかったが、そのひとは会がはじまるとともに眼をつぶって、ずっとつぶりつづけていて、居眠りをしているかのようだった。それがいきなり手をあげたので私ははっとしたが、そのひとが言葉こそおだやかだけれど、強い怒りをひめた声で、『安心して死ねるようにしていただきたい』と言うのに、私はまた、はっとした。民を信ぜよという声を頭から押しつぶしたことに対して、そのひとは黙っていられないというふうだった。すると上村哲弥が、『安心とは何事か。かかる精神で……』とやり出した。軍にたてつくとは何事かと言わんばかりで、まるでそのひとが売国奴であるかのような罵倒をはじめた。そのひとは黙って聞いていたが、罵倒が終わると、もの静かに、『おのれを正しゅうせんがために、ひとを陥れるようなことを言ってはなりません』と低いが強い声で上村哲弥をたしなめた。これはそのひとの言葉そのまま、そのものである。胸に刻まれたその言葉を私は家へ帰ると、日記に書きしるしたのである。――そのひとが折口信夫だったのである」

 

と高見順は、限りなき驚嘆と尊崇の面持ちで、その日の出来事を書きとどめていますが、翻ってもしもその日その場に自分がいたとして、かの折口信夫大人のように、毅然として、言うべきことを言えるだろうか、と何度も何度も考えさせられたことでした。

 

フランソワーズ・サガンが見たような素晴らしい雲がしののめの空に 蝶人

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家族の肖像~親子の会話 その112

2024-12-20 09:51:35 | Weblog

 

2024年7月

 

お父さん、田中みな実が出る「ギークス」録画してくれた?

しましたよ。

した?

したよ。

 

さまざまな、ってなに?

いろいろな、よ。

 

吉高さんに子どもが出来たんでしょ?

そうね、でもドラマの中でよ。

 

お父さん、田中みな実が出る「ネプリーグ」みますお。

いつ?

今ですお。

そう、みてね。

 

モクセイとは違う香りのヒイラギを世にヒイラギモクセイというなり 蝶人

 

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西暦2024年師走蝶人映画劇場その5

2024-12-19 10:00:21 | Weblog

西暦2024年師走蝶人映画劇場その5

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3867~71

 

1)エドワード・ドミトリク監督の「ブロンドの殺人者」

ディック・パウエルが主演するレイモンド・チャンドラー原作の「さらば愛しき女よ」の1943年の映画化だがつまらない。

 

2)ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「記憶の代償」

記憶を喪失した元兵士が、自分の正体を探して記憶の迷宮を彷徨う1946年のフィルムノワール。

 

3)ダヴィッド・オールホッフェン監督の「涙するまで、生きる」

人里離れた学校でアルジェリア人の子どもたちにフランス語で教えるヴィゴ・モーテッセンとアルジェリア青年レダ・カテブの2015年の友愛の物語。

 

4)レナート・カステラーニ監督の「愛と憎しみの銃弾」

1人の美しい女性フォスコ・ジャケッティを巡る2人の男の愛を見事に描いた1942年のプーシキン原作の世話物。

 

5)ハワード・ホークス監督の「ヒズ・ガール・フライデー」

ケーリー・グラント、ロザリンド・ラッセル主演の1940年のスクリューボールコメデイだが悪ふざけが過ぎてちっとも面白くないずら。

 

半分は読まないままの朝刊が捨てられ燃やされ灰となるまで 蝶人

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今井聡著「ただごと歌百十首 奥村晃作のうた」を読んで

2024-12-18 12:54:48 | Weblog

今井聡著「ただごと歌百十首 奥村晃作のうた」を読んで

 

照る日曇る日 第2142回

 

 

奥村短歌とは「ただごと歌」であり、これについて奥村自身は「短歌は感動の器なり。最も些細な感動は〈気付き・発見・認識〉なり。〈ナルホドなあ〉と納得の世界なり。」とツイッターでつぶやいている。

 

そして本書は、そんな奥村晃作の弟子を自他ともに許す歌人の手になる出色の評論集であり、奥村20代の「三齡幼虫」の「くろがねの光れる胸の厚くして鏡の中のわれを憎めり」から始まって、80代の「蜘蛛の糸」の「今迄と何かが違う何だろう最終歌集を編まんと思う」まで、恩師の全作品の中から選び抜いた百十首に食らいつき、舐めるように、愛玩するように評している。

 

どの歌集のどの作品を取り上げてもいいのだが、例えば、奥村の第4歌集「父さんのうた」には、2つの別れがあると著者はいう。恩師宮柊二、そして愛犬プッキーとの永訣である。

 

脳血栓の御血の跡が黒く染む宮先生の頭骨内壁 

 

という冷厳な観察の歌に対比させられるのは、宮柊二の

 

左前頸部左䪼顬部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す

 

という超リアルな、しかし情の籠った挽歌であり、この2首からは恩師相伝のただごと歌の淵源の残響が伝わってくる。

 

  水さへも飲まずにわれを見つめゐしブッキーは別れを告げてゐたのだ

 

  よろよろと立ち上がり妻の腕に倒れ一声長鳴きて果てゆきしなり

 

こういう万感胸に迫る哀歌も、また「ただごと歌」の本領なのだ。

 

著者は、このように生きものや小さな植物を詠む奥村の歌は、独自の光彩を放っていると指摘し、ここでも師と弟子の2つの短歌を挙げている。

 

  春晩く五月のきたる我が郷や木々緑金に芽ぶきわたれる 宮柊二

 

  緑金の背美しきコガネムシ葉に載って食うヒメリンゴの葉を 奥村晃作「ビビッと動く」

 

そして著者は、「ただごと歌」のありようは第17歌集の「八十一の春」あたりから微妙に変化していったと述べ、例えば

 

大きな雲大きな雲と言うけれど曇天を大きな雲とは言わぬ

 

も、気づきと認識の歌であるには違いないけれど、往年の鋭さが影をひそめ、「老年の作者の目が見、感じたままに提示する歌に変わった」と鋭く指摘している。

 

しかしこの歌を、著者が奥村の「滾血の時間」と位置付ける若き日の第9歌集「キケンの水位」の

どこまでも空かと思い、結局は 地上すれすれまで空である

 

を2首で一対の作品ととらえ、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」や、柿本人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」とは東西南北とベクトルを違えても、全地球的規模の壮大な「ただごと歌」を最晩年に創造したと考えることも許されるのではないだろうか。

いずれにしても私たちは、奥村短歌を読めば読むほど、その年齢を感じさせない旺盛な好奇心と行動力を心臓部で支えている“不滅の生命力の発露”に心打たれるのである。

 

ダンボール2個分の柿を食べ尽くしかの正岡子規になりたる気分 蝶人

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西暦2024年師走蝶人映画劇場その3

2024-12-17 09:38:47 | Weblog

西暦2024年師走蝶人映画劇場その3

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3862~67~71

 

1)アレッサンドロ・ブラゼッティ監督の「初聖体拝領」

名匠による1950年の抱腹絶倒のドタバタコメデイ。主役のアルド・ファブルッツィこそ元祖「目玉の松ちゃん」ずら。

 

2)スピルバーグ監督の「戦火の馬」

波乱万丈の嵐の旅路を終えて夕陽の牧場に帰り着いた2011年のサラブレッドだが、少しお涙頂戴の噺を作り過ぎではないか。

 

3)マシュー・ロビンス監督の「ニューヨーク東8番街の奇跡」

1987年の阿呆莫迦映画。

 

4)ニコラス・レイ監督の「無法の王者ジェシイ・ジェイムス」

悪漢ロバート・ワグナーが主演する1957年のジェシイ・ジェイムズ伝。さすが名匠らしい演出だ。

 

5)スティーヴ・コンウェイ監督の「電気工事士」

2019年の英国の優れたインディペンデント映画だが、ラストは理解できない。

 

車椅子でタクシーに乗りても逗子のフルートコンサートに行くというゴンちゃんのおじさんを見倣え 蝶人

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