あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

♪ コインの歌

2007-01-16 15:01:36 | Weblog


♪ 1円玉
吹けば飛ぶよな アルミの独楽よ
風に吹かれてくるくる回る ほんにお前は屁のような

♪ 5円玉
餓鬼道、修羅道、畜生道、因果は巡る風車 
ここで会ったが百年目 ご縁があれば涅槃で待つぜ

♪ 10円玉
誰でも気軽に賽銭投げるが 本気であたいを投げられるかい
これで分かった世間の常識 願いの沙汰も10円未満

♪ 50円玉
10円、100円は善良なる市民 おいらはどうせしがない風来坊
遠き島より流れついたるアシの実ひとつ

♪ 100円玉
英語でハンドレッド フランス語でサント
一緒に行こうよ100円ショップ
100円あればなんでも買えるが なぜだか買えない君の愛

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歌舞伎座の建て替えに反対する

2007-01-15 20:46:08 | Weblog

勝手に東京建築観光・第4回


わが国が世界に誇る最高、最大の芸術は、やはり歌舞伎であろう。

江戸のオペラともいうべきこの歌と踊りとお芝居の総合芸術ほど私の心をかきみだすものはない。
私がもしも大好きなモーツアルトのオペラと歌舞伎のどちらを選ぶか二者択一を迫られたら、やはり後者を選ぶであろう。

舞台に歌舞伎役者なんていなくても下座音楽と浄瑠璃があればいいのだ。いや杵の音がひとつ鳴ればいい。私はもうその瞬間にどこかこの世ならぬ世界、できればもう戻って来たくはない遠い遥かな時空に連れ去られるのである。

その点では98年に惜しくも100歳で亡くなった清元志寿太夫(きよもと・しずたゆう)、01年に桜花とともに散った6代目中村歌右衛門、そして昨年12月に冥界に消えた松竹の偉大なるプロデユーサー永山武臣のお三方は、わが歌舞伎界にとって埋めがたい大きな損失であった。

歌右衛門「桐一葉」の名演はいまでも瞼の裏にありありと残っているし、最晩年の志寿太夫の渋い声音も、まるで平成のファルスタッフのように融通無碍なたたずまいとともに生涯忘れることはあるまい。

ところが私にとってそんな貴重な夢を見せてくれた築地の、いや木挽町の歌舞伎座が、もうじき取り壊して立て直すという。

どうせ高層ビルにしてもっと巨大なエンタメセンターにでもしようというのだろうが、お願いだからやめてくれ。

この2600人を収容する和風建築は中宮寺本堂や大磯の吉田茂邸、大和文華館、わが鎌倉の吉屋信子邸を作った名匠吉田五十八の代表作であるぞ。

1950年に完成したばかりだぞ。しかもその音響の素晴らしさは恐らくこの大空間では日本一、いや世界一かもしれんぞ! 

二度と再現できない奇跡の殿堂なんだじょお! あの歌舞伎座と魚河岸があるから銀座なんだぞお!


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巡り合い

2007-01-14 18:11:49 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語34回


20002年2月に消えたうちのムク ここにいたのかかわかわのムク

駆け寄りてムクやムクやと呼びかければ 空に向かいてピンと尾をあぐ

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生きるよろこび

2007-01-13 19:09:46 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語33回&音楽千夜一夜 第7回


例のオオウナギ棲息地の近所に鎮座ましますのは、室町時代中期の仏様である。

この御仏は、それまでは人知れず小さなやぐらの奥で眠っていたのだが、ある日突然Oさんという老ピアニストが突然周囲を開拓し、参道を切り開いてお花を捧げるようになった。

なんでも亡くなった奥様を回向するために、個人的にこの古仏をよみがえらせたそうだが、最近は通りすがりの酔狂なハイカーが賽銭を供えたりしている。

Oさんの専門はジャズだが、クラシックも得意で、私が太刀洗に散歩に行くとリビングルームからショパンや私の好きなリストの超絶技巧練習曲が聴こえてくる。まるでその演奏はラザール・ベルマンかシフラみたいだ。

去年の鎌響の演奏会では宮沢明子がモーツアルトの24番のコンチエルトを弾いたのだが、どういうわけだか第2楽章の途中であの名手の腕が突然乱れて冥界に明快に迷走し、しばらくは元の楽譜に戻れなくなってしまった。(ような気がした。私はオタマジャクシが読めないので正確なことはわかりません)

ピアニストと指揮者は相当うろたえていたようで、私もさあどうなるのかと息を呑んだが、ここで鮮やかな火消し役を務めたのは、頭の禿げたコンサートマスター。いきなり立ち上がって弓を高く掲げて一閃したために混乱は収まり、めでたく事なきを得た。

会場に居合わせたOさんと私は、この珍しいハプニングをことのほかよろこんだ。

だってせっかくのライブで戦前の国定教科書のような演奏を聴かされたってつまらない。

これくらいの逸脱と椿事が起こるから聴衆はくそ面白くもない人生にいささかの興奮を覚えるのである。もとい、生きるよろこびを再確認するのである。

面白きこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり(高杉晋作+野村望(もとに)東尼)

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ある蛇の歌

2007-01-12 16:20:57 | Weblog


今年の冬は遅い。

ゆっくり朝寝をしたら、午後からは散歩に出よう。

大気は胸に冷たく透き通り、柔らかな光が君の漠然とした不安をなだめてくれるだろう。

君は緑に包まれた楽園をめざしてどんどん歩いていくだろう。

道はゆっくりと左に曲がり、やがて右に曲がるだろう。

そしてその道が峠の頂に着くまでに、君は1匹の蛇になっているだろう。

たいしたもんだ。君はもう長い長い立派な蛇だ。

だから、君はもうけっして昼寝をしてはならない。

うっかり誰かに輪切りにされないように……


やわらかな光あふれる山道をゆるりとくねるわれもまた蛇

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さようならお化け屋敷

2007-01-11 19:18:10 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語32回

市役所に行ってバリウムを飲んで胃検診を受ける。

以前はレントゲンを一枚撮ってからまずいバリウムをコップ一杯飲んだような記憶があるが、今日は最初から有無をいわさず呑まされた。

お棺のような半月形の筒に収納されて、ぐるぐる回転する。「右から回って」と命じられるのだが、頭の悪い私にはどっちが右回りかいつも分からないので、とりあえず回転すると、「そうじゃない。その反対です」などと技師から怒られる。

これでは知恵遅れの人は対応できないだろうに、といちおう健常者のつもりの私が大汗をかいていると、突然「息を止めて」と命じられる。どこで呼吸してどこで息を吐くのか、そのタイミングが難しい。

またしても猫じゃ猫じゃ、とぐるぐる回りさせられていると、途中で逆さまになって頭から落下しそうになるのを懸命にこらえる。

これは危険だ。まるでサーカスだ。ゆあーん、ゆあーん、ゆあ、ゆよーん、状態だ。

これまで70-80歳代のお年寄りが何人も死んでいるのだろう。くわばら、くわばら。

やっと墜落の危険から解放され、自転車で駅の手前の踏み切りにさしかかったら、お化け屋敷の上空にいつも乱れ飛ぶ鳩は今日は一羽もいなくて、代わりに解体業者のトラックがいままさに門の中に突入しているところだった。

ああ、鎌倉名物の幽霊屋敷もこれで一巻の終わりか。なんでも有名な医院だったらしいが、恐らく昭和初期に建てられたのであろう、塔の壁をはじめあちこちに施された粋な装飾が好ましい。ちょっと築地の聖路加病院のデザインに似た要素も感じられる。

私は安藤忠雄や磯崎新が設計した新しい建築にも大いに興味があるが、やはり心惹かれるのは自然に抱かれるようにしてつつましく建っている古くて懐かしい低層木造住宅である。

機能性、実用性、安全性は別にして、私は兼好法師や鴨長明が住んだ庵に住みたいが、積水ハウスやライオンズマンションや大和ハウスが土建したもの、カーサブルータスが特選したかっこいいデザイン住宅などにはできたら住みたくないのです。

もっとはっきりいうと、私は夏目漱石が設計した桃源郷の一軒屋に住みたい。彼は自分が理想とするついの住処を南画や山水画で描いているが、それは禅僧が好んで修業する断崖絶壁の破れ家である。

漱石は本当は英文学者ではなく、建築家になりたかった。(その代わりに私たちはあの素晴らしい「文学論」を得たのだが)

もしも彼が「偉大なる暗闇」の忠告などに惑わされず、その希望を断固として貫いていたら、恐らくコンドル→辰野金吾→丹下健三を主流とする日本近現代建築の歴史は大きく書き換えられることになっただろう。


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歌うよろこび

2007-01-11 19:14:00 | Weblog


音楽千夜一夜 第6回

音楽の本質とは、内部生命が歌うことではないでしょうか?

音楽とは、私の心がなぜか生きる喜びに満たされ、その喜びと幸せが原動力となって無意識に歌いたいという衝動が生まれ、自分でもそれと気づかないうちに「歌のようなもの」が胸から流れてのどまでのぼり、くちびるから外界に向かって自然に放たれるさま、を指すような気がします。

 つまり、「鼻歌をフンフンする」ことこそが「音楽すること」「音楽を生きること」の原点ではないでしょうか?
 
台所でお料理を作っている家内が歌っている下手な歌、あるいは歌のようなものを聴く時ほど私にとって幸福な瞬間はありませんが、恐らく当の本人もきっと小さな幸せの絶頂にいるのでしょう。
 
幸福な人がその幸福を歌うときに感じる幸福。これこそが現初期の音楽の誕生と交流の原点なのでしょう。

しかし翻って現在の演奏家と聴衆の関係を考えるとき、このうるわしい交流がどこまで実現されているのかはなはだ疑わしいものがあります。

例えばクラシックの世界ではN響がプロの頂点であるといわれているようですが、彼らの演奏を聴いても、今も昔も本当に彼らが音楽をする喜びを共有しているのかよく分かりません。なんだか誰かに命令されていやいや楽器を職業的に操作しているような気もします。
だからというわけでもありませんが、大学やアマチュアの人たちの演奏は技術的には下手かもしれませんが、音楽することの楽しさにみちあふれていて、そのエネルギーがまっすぐに聴衆に伝わる。それはとプロ野球がとっくの昔に喪失したスポーツのよろこびが高校野球や小中学生の草野球にはまだ辛うじて残っているのと似ています。

考えてみれば、心が音楽するよろこびにあふれる瞬間なんて数えるくらいしかないのに、それでも毎日毎晩楽しげに演奏するほうが無理がある。歌いたくないカナリアにコンサートを強制するようなものですからね。 

はじめは好きで好きで仕方なかった音楽だけど、それを職業として選び取った途端に、その快楽が苦痛や苦行に似たものに転化する。そういうことかもしれません。

それは音楽だけでなくファッションやデザインや広告やその他ありとあらゆる産業の領域に共通する皮肉かもしれませんが。

まあそんな話はともかく、私は毎日鼻歌を歌いながら生き、鼻歌を歌いながら死にたいなあと夢見ている次第です。
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よみがえるモーツアルトの精霊

2007-01-09 19:26:37 | Weblog


音楽千夜一夜 第5回


いまパソコンでモーツアルトの「ミサ曲ハ短調K427」の演奏を聴いています。指揮は長老チャールズ・マッケラス、演奏はジ・エージ・オブ・エンライトメント・オーケストラ。
この夏英京ロンドンのアルバートホールで開催された「プロムス2006」でのライブの再放送ですが、これがまた途轍もなく素晴らしい。
  
私が普段聴いているこの曲はフリッチャイ&ベルリンRIAS響のグラムフオン録音ですが、これほど劇性は高くないものの、マッケラスはモーツアルト演奏には絶対に欠かせない“適正なテンポ”をきちんと守り、生気あふれる“モーツアルト魂”の流麗にして暖かなメロディーラインを心ゆくまで歌わせています。
この“モーツアルト魂”をちょっと頭がいいばっかりに考えすぎて圧殺している神経衰弱病のアーノンクールやラトルやマゼールや単細胞突貫小僧の小澤、バレンボイムやムーティ、メータなどが、もう3回生まれなおして指揮者になったとしても到底達成できないだろう芸術の至高の境地、秘密の花園に遊ぶ仙人の演奏です。

マッケラスは日本人にはあまり人気がないようですが、彼がプラハのオーケストラと入れたモーツアルトの交響曲全集(米テラーク)や同じプラハの国立オペラとライブ収録した「ドンジョバンニ」のDVD(タワーで1890円!)などに接すると、その真価の一端が窺えると思います。


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苔のむすまで

2007-01-08 20:18:22 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語31回

以前にもご紹介したように、私の自宅は元は鎌倉石の石切り場であった。

鎌倉石というのは房州石と同様、割合に柔らかで加工しやすい凝灰岩からできていて、寺の五輪塔や石段はおおかたこれで造られている。

また鎌倉石は、昭和の初期に大谷石にとってかわられるまでは、東京の「かまど」の素材として大いに活用されたが、関東地方に「輸出」された鎌倉石の大半が、わが朝比奈峠を経由して金沢文庫の近所の六浦港から船で運ばれたに違いない。

このように地元では鎌倉石は有り余っていたのに、不思議なことに礫岩(玉石)をほとんど産しなかったので、鎌倉時代から近辺の相模川系の川原などから大量に「輸入」していたらしい。
今日の午前11時に私が踏みしめていた朝比奈峠のこの玉石たちも、もちろん外部からの輸入品である。

この峠の改修は、鎌倉時代から江戸時代まで都合3回行われたが、それ以後はまったく人工の手が加わっていないはずなので、この苔むした石は鎌倉時代あるいは下っても江戸時代の石である可能性がある。

実朝や日蓮が歩んだこの峠道を私は今日も歩いている、などというと文学的な比喩として聞こえるかもしれないが、そうではない。文字通りに彼らが歩んだ道そのものが物理的に現存している。

このように考え、感じる人にとって、朝比奈峠とは、その組成自体が800年前のまんま平成の御世に伝えられた奇跡の文化遺産なのである。

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不相応な天からの贈り物

2007-01-07 19:48:13 | Weblog


あなたと私のアホリズム その4

日本国憲法の序文と第9条は、たぶんいかれぽんちの米国の理想主義者の脳裏に浮かんだ一瞬の夢だった。

しかしそれはなんと美しい、まるで7色の虹のような夢であったことだろう。

私はこの条文を目にするたびに、かつてベートーヴェンが「歓喜の歌」で歌った人類の恒久平和を希求する高らかな調べを想起する。

アジアの片隅のこの不思議な国は、世界中の誰もが生涯に一度は高らかに歌うことを夢に見、しかしついに楽譜には書かれなかった20世紀の奇跡のアリアをなんと60年間にわたって、たった一人で、アカペラで、歌い続けてきたのだ。

また私は、私はこの条文を目にするたびに、かつて「他者の暴力に対する無抵抗」を説いた父聖徳太子の遺訓に従って、潔く蘇我入鹿に殺された山背大兄皇子とその一族の勇気を想起する。

 「眼には眼を、歯には歯を」が常識の世にあって、自らの非武装と自己犠牲を武器として他者の暴力に倫理的な優位に立とうと試みた真の理想主義者は、仏陀の教えをまともに信じたこの山背大兄皇子とマハトマガンジーだけであり、日本国憲法の第9条はその「捨身飼虎」の思想を受け継いでいる。

だから、日本国憲法は、急にせちがらい現実とやらに目覚めて“普通の国の普通の人”になりたくなった日本人にとっては、お荷物そのもの。所詮は猫に小判、豚に真珠、夢のまた夢、の天から降ってわいた傍迷惑な贈り物であったのである。 


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2007年正月の歌

2007-01-06 16:38:45 | Weblog


猪は悲しきものよ幾たびも己が額を壁に打ちつく

ついに鎌倉では産院絶ゆうろたえて町をさまよう多くの妊婦たち

耕君をとりあげし針谷産婦人科なんとかマンションに身売りしにけり

江ノ電は嬰へ長調、横須賀線はイ短調で踏切が鳴ると教えてくれたうちの耕君

耕ちゃんをいじめるような人は好きになれないわと美枝子つぶやく

正月に思うあの日あの時あの人に告げておくべきあれらのことども

少しずつ死にゆく人の貌をしてわれひとこぞりて小町を歩めり

死者は眠れ生者はめざめよと正月の古都に降りしきる雨

心さえあらばたとえ生きたえしのちもわれらが思い空に響かん

いざや行かん八幡宮より果てしなく続く一本の道


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ここで中世のたたら製鉄が行われていた

2007-01-05 16:59:20 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語30回


「たたら」とは鉄を製錬するために鉄を吹く「ふいご」のことですが、そのふいごを使う古代の製鉄技術全体をたたらと呼んでいます。


たたら製鉄とは日本古来の独自の製鉄法で、千年以上の歴史を誇っています。

最初は古代の九州や出雲地方から始まったといわれますが、鎌倉時代には他ならぬ太刀洗の「鑪ヶ谷」(たたらがや)という名前の低い丘で、中世を代表する製鉄が行われていました。

当時の人々はこの丘の平地を切り開いて山から下る渓流を利用しながら最高1500度の高熱で砂鉄を木炭で焼き素鋼塊(そこうかい)や銑鉄を生産し、日本刀などの原材料として加工していたのです。

たたら製鉄の高度な技術の原型は鎌倉時代に確立され、江戸時代中期に完成しますが、この国産技術をベースにして佐久間象山や江川太郎左衛門などが南蛮渡来の反射炉をつくり黒船来襲に備える大砲を製造したのでしょう。

現場は「鎌倉ちょっと不思議な物語13回」で紹介した「人面石」を登ったところにあります。

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霊園のガーデニング

2007-01-04 16:58:46 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語29回


十二所神社の裏山に登ったついでに鎌倉霊園まで歩いた。

霊園には墓参の人々がちらほら歩いていたが、斎場の傍にガーデニングのサンプルが展示してあった。

お金さえ出せば春夏秋冬季節の様々な花々で墓地を美しく飾ってくれるという。

最近はいたるところでガーデニングがブームだが、まさかここまでやるとはびっくりである。

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オオウナギが棲む小川

2007-01-03 15:12:35 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語28回


滑川は鎌倉の動脈だ。

相模湾、東京湾から和賀江嶋を経て鎌倉に陸揚げされた物資は、由比ガ浜から滑川を遡って、この中世都市の中枢部に運ばれた。

そんな交通の要所であった滑川だが、流域にはいまも多くの魚や鳥やカニやホタルなどが生息している。

家の近所のこの地点は、かつて健ちゃんが両手にあまるオオウナギを格闘の末に素手でつかんだ現場だが、いまでもウナギ取り専門の漁師が小町に住んでいるという。

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大塔宮の正式参拝

2007-01-02 15:38:11 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語27回


元旦は家族、親戚一同の皆さんと大塔宮へ正式参拝に行きました。

ここは薪能で全国にその名を知られた神社で、足利尊氏の弟、直義によって非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇子、護良親王を慰霊するため、明治になってから建立されました。

家内安全を願う善男善女は、宮司の祝福を受けるとともに、ありがたい一場の説話を拝聴するのですが、ことしのスピーチはまことに酷かった。

教育基本法改定論議云々に始まって司馬遼太郎の本や「葉っぱのフレディ」がいかに素晴らしいかというお話、神社で始めた朝顔市の売り上げ大成功の顛末、さらには神社で販売したお札のお陰で交通事故から助かった奇跡の実例、さらにさらに今後神社で企画されているイベントのお知らせまで、とうとうと宣伝広告パブリシティの乱れ撃ちです。

いくら正式参拝が無料だからといってこんな手前勝手な神社のPRをどうして長々と耳にしなくてはいけないのでしょうか?

年頭の厳粛な気分もふきとんで、正月早々けったくその悪いじつに後味の悪い参拝のひとこまでした。

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