あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

流鏑馬を見る

2007-04-15 17:49:07 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語52回

今日は鎌倉まつりの最終日で八幡様で流鏑馬神事がとり行われていたので、自転車に乗って見に行った。

流鏑馬は久しぶりだが、いつもながらの大迫力である。

武具に勇ましく身を固めた武者が、美しい優駿にまたがり、八幡様の数百メートルの間道を、東の端から西の端まで全力で疾走し、その間に三つの的を射る。

走りながら身をひねって矢をつがえ、的を狙い、ひょうと的を射るのである。

素人では到底できない神業であるが、今日は全的的中の名技が相次ぎ、つめかけた観衆からやんやの喝采を浴びていた。

流鏑馬は観光客めあての曲芸のように思われがちだが、実際は鎌倉時代の武士の遺風をいまに伝える豪壮な殺戮の荒業である。

往時百メートルの距離から弓を引いて百発百中、と伝えられる鎌倉武士の実力が、けっして嘘偽りのものではなかったことを、それこそ我々は目の当たりに実感するのである。

弓術の最後に到達すべき境地、それは弓も矢もなしに射当てることである。(オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」)

ひょうと射て はらりと散るか八重桜  芒羊


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降っても照っても 第6回 

2007-04-14 15:18:43 | Weblog


*G・ガルシア=マルケス著「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読む。

翻訳は原作とはまったく違うものである。両者は似て非なるもの、である。

それなのに私たちは翻訳を読めば原作を読んだと錯覚してしまう。これはじつに奇妙な話だ。そのことは原文を読み、いくつかの翻訳を読み比べてみると分かる。日本語でも源氏物語の原文と谷崎や与謝野の現代語訳の遠い遠い距離を思えばそれが理解できるだろう。

だからこのG・ガルシア=マルケスの本もこの木村榮一氏の翻訳で読む限りは「わが悲しき娼婦たちの思い出」をほんとうに読んだことにはならない。

それはともかく、川端康成の「眠れる美女」の主題によるマルケス版変奏曲が本書である。

川端が、「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」とラールゴで演奏を開始したのに対して、

マルケスは、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」とアンダンテ・ポコ・モッソで第1主題を歌い始める。

ここに両者の、あるいは日本文学とラテン文学の違いがあざやかに示されている。

おなじノーベル賞を頂戴しながら、逗子マリーナで芥川譲りの「漠然とした不安」におののいて自死を遂げる作家と、老いてなお馬並みの巨大な逸物で少女を貫こうとする不滅の老人の生の躍動! そのあざやかな対比を見よ!

*山田詠美著「無銭優雅」も読む

これは吉祥寺を舞台にした、熟女と中年男の恋愛譚でなかなか読ませます。

エルメスよりユザワヤがおしゃれ、という視点は大賛成です。

軽薄現代カジュアル文体が不愉快だったが我慢して読んでいると次第に引き込まれました。

章間の縦横無人の引用が隠された第二の小・小説であり、それらが次第にクレッシェンドして絶妙な効果を発揮し、最後の最後にとんでもないところまで連れて行かれてしまいました。

しかしこの結末はいったいなんなんだ? 


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降っても照っても 第5回

2007-04-13 14:22:46 | Weblog


「吉田秀和全集第24巻ディスク再説」を読む

キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。

前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。

「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。

しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。

それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。

自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。

セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。

「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」

セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。



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ある丹波の老人の話(18)

2007-04-12 09:13:03 | Weblog


第三話 貧乏物語その5

続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。

このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。

差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。

まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。

今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。

問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。



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第三話 貧乏物語その4

2007-04-11 15:19:12 | Weblog


ある丹波の老人の話(17)

私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。

この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。

それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。

案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。

それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。

毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。

そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。
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ある丹波の老人の話(16)

2007-04-10 09:06:12 | Weblog



第三話 貧乏物語その3

これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。

私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。

それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。

思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。

そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。

これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。

そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。

しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。

そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。

行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。

それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。

仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。

また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。


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畏るべし、友川カズキ

2007-04-09 14:48:38 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第18回

土曜日の夜に、NHK-BSの「フォークの達人」で友川カズキという物凄い歌手のうたを聴いた。

友川は1950年に秋田で生まれ、70年代から活躍していた詩人で、画家で、博打打で、歌手でもあるという。眉目秀麗な大酒呑み、だそうだが、一聴一見、とにもかくにも圧倒された。

ありふれた言い方だが、このように己の全存在を1曲に賭け、ギターを叩き付け、殴りつけ、己のはらわたをギターで掴んでは投げ捨て、捨て身の歌唱に生き様を晒すような歌い手が、この平成の御世にも残存していようとは、ああ不覚にも知らなんだ。

もっとも、彼を知らないのは私だけかもしれない。

が、遅すぎたにもせよ、このような魂を直撃する芸能者にようやく巡り合えた感動と喜びを伝えないわけにはいかない。

冒頭の「生きてるって言ってみろ」でショックを受けた私は、アンコールで歌われた中原中也の詩による「坊や」までの全17曲、1時間半の吉祥寺ライブを、ただただ口をあんぐり開き、よだれを垂らし、呆然自失して聴き惚れておりました。

こいつの前では吉田拓郎、三上寛、友部正人、高田渡も到底敵ではない。まさに縄文人の魂の絶唱、絶叫であります。

生の跳躍が、そのまま、息も絶え絶えのうたになる。

歌うも命懸け、聴くも命懸けとは、げにこの人の音楽道であろう。

とても生半可に聞き流せない音楽を、この人はする。大量の焼酎を呷りながらシャウトする。飲まずには生きられぬ、飲まずにはうたえないという一見破滅型ながら東北人特有の図太く粘り強い冷静さも合わせ持っていて、その二重性もまた魅力的である。

「サーカス」、「また来ん春」、「坊や」など中也原作の詩に作曲したものもいいが、自作自演はもっとすごくて、素晴らしい。

「似合った青春」、「夢のラップもういっちょう」「おじっちゃ」の激情、「訳のわからん気持」「乱れドンパン節」のアナーキズム、「ダンス」「ワルツ」の退廃の美……
これを至高の芸術と呼ばずしてなんというのだ! 

石塚俊明、永畑雅人、松井亜由美、金井太郎など、元頭脳警察のメンバーを交えたバックの演奏がまたすごくて、素晴らしい!

NHKさん、またしてもいい死土産を見せていただきました。この放送はおそらく再放送されるだろう。また今すぐならYOUTUBEでもこれらの名曲の一部を視聴することができます。

友川カズキ、断じて逸すべからず!


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ふあっちょん幻論第6回

2007-04-08 16:46:28 | Weblog

1750年まで、中国は生活水準と文明の発展において欧州と肩を並べていた。
いや、繁栄の度合い、政治、芸術のいずれにおいても勝っていたといえよう。

しかし産業革命がすべてを変えた。綿の織物産業における中国の家内制手工業の優位を打ち破ったのは、英国のジェニー紡績機と蒸気エンジン、そして専門家による分業生産システムであった。

中国を打倒し、世界の綿糸需要の半分近くを供給した英国の綿産業は、1930年代に大量生産方式の米国にその優位を奪われ、18世紀後半になると世界最大級の工場はすべてニューイングランドに集中していた。

また米国における綿生産の中心地は次第に南部に移り、その唯一最大の成長エンジンは中国への輸出だった。19世紀末、米国の織物輸出の半分以上を中国が消費し、米国から中国への輸出の半分以上が綿織物だった。その大半を製造したのが例の映画「風と共に去りぬ」に出てくる奴隷制で知られる南部だった。

そこに登場したのが旭日昇天の日本帝国で、1930年代半ばには日本が世界の綿製品輸出のほぼ4割を担うようになるのである。

英国に100年遅れた日本でも、この産業に従事する労働者は半分以上で繊維製品は輸出の3分の2を占めていた。第2次大戦前までの日本にとって世界で通用する唯一の産業が綿織物だったのである。(「ある丹波の老人の話」を参照)

日本の紡績能力は大戦中に9割以上が破壊されるが1950年代にはトップの座を取り戻すことになる。当時の日本は繊維のみならず衣料品貿易においても世界を主導していた。

ところが60年代になると二つの領域における日本の貿易シェアは次第に減り、さらに安くて従順な労働力を持ったアジアの国々が競争をリードするようになる。

そしてついに70年代には香港、韓国、台湾の新興工業国・地域が日本を抜き去り(アジアの奇跡)、70年代半ばに香港が世界最大の衣料輸出国に躍り出る。

しかし、本命はその背後から迫っていた。

1980年以来中国の衣料品輸出は毎年平均して3割以上の成長を続け、1993年には世界最大の衣料品輸出国になり、今日もなお米国が綿の世界市場に君臨するのと同様、その後もずっとその位置を維持している。

2005年に多国間繊維取り決めMFAが廃止され、中国の繊維製品は欧米の港に押し寄せたが、欧米諸国は改めて中国に厳しい輸入制限を課し、自国の繊維産業を懸命に保護したのであった。

先進国と発展途上国の貿易摩擦の対立は、これからますます熾烈なものになるだろう。

(参考 森安 孝夫著「シルクロードと唐帝国」、ピエトロ・リボリ著「あなたのTシャツはどこから来たのか?」)

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さようなら中也

2007-04-07 15:11:35 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語52回

去る平成10年10月9日から11月23日まで、鎌倉文学館で特別展中原中也-鎌倉の軌跡―が開催された。

この展覧会を見た私の記憶に今なお残っているのは、中也遺愛のコートである。

中也にはアストラカンコートを歌った詩もあるが、中原夫人美枝子氏蔵にかかる一着の黒のウールのコートにはおもわず息を呑んだ。

素材も仕立てもカッテイングも素晴らしいそれは、まるで中也の青春の象徴のようであり、詩人は死んでもその存在をまさに眼前にあるがごとく生き生きと伝えていたのであった。

肉体はたやすく死すとも、物質は遥かに長く地上に残り、孤高の詩人の魂は、父母未生以前の永遠に残るのであろう。

なおこの中也と鎌倉のシリーズでは、このときの特別展のパンフレットの記事を参考にさせてもらった。

では最後に私がいちばん好きな中也の詩を読んでください。BGMはチャイコフスキーの「四季」の舟歌か、ハイドンの中期の交響曲のメヌエットで…。

なお、この詩は中也が代々木上原の友人の下宿に泊まった翌朝に生まれたものです。

天井に 朱きいろいで
 戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶ひ
手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし

樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
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謎が解けた!

2007-04-06 09:03:10 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第17回
 
あの有名なバッハ・コレギウム・ジャパンの音楽監督で、チェンバロ・オルガン奏者でもある鈴木雅明氏は、高校三年の半ばまでは脳外科医を目指して猛勉強をしていたそうだ。

ところがそんな夏のある日、氏はたまたま作曲家の萩原秀彦氏のレクチャーを聞いたそうな。

萩原氏はバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番を解説して、「この曲に出てくる5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇は、父とキリストと精霊の三位一体を表わす」と言ったそうだ。

その瞬間、鈴木氏は猛烈な感銘を受け、「やはり音楽はすごい。バッハはすごい!」と痛感し、脳外科医の夢はどこかへすっ飛んで晴れて音楽家になった、という。

この話を聞いてなにやら不可解な疑惑を抱いた私は、グールド、リヒテル、ロザリン・チュレック、シュナーベル、ニコラーエワ、グルダ、アファナシエフ、マーチン、シフ、アスペレンの計10名の演奏で、同曲のプレリュードとフーガを繰り返し、繰り返し聴いた。

そしてそのたびに「5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇」は何度も何度も登場したのだが、不幸なことにいくら耳を澄ませても、不信心な私にはそれが「父とキリストと精霊の三位一体を表わす」ものとは聴こえなかった。

そして昨日、ついに私はその理由がわかった。

私は高校時代の世界史でニケーアの公会議(325年)について学んだとき、三位一体説を唱えた勝ち組のアタナシウス派よりも、三位一体を否定する負け組のアリウス派に共感を抱き、それがかの名曲迷鑑賞の大いなるさまたげになっていたのだった?!


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中原中也の最期

2007-04-05 17:02:05 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語52回

昭和12年夏、中原中也は詩的再出発を目指し、詩生活に沈潜するために故郷山口の湯田への帰郷を決意する。

中也は疲労困憊した精神と肉体をふるさとで回復して、ふたたび文壇に復帰するつもりだった。

しかし中也の衰弱は激しく旧友安原喜弘を訪ねた翌10月5日に結核性脳膜炎を発病、翌日鎌倉養生院に入院した。それが現在の清川病院である。(写真)

これまた余談ながら、私の行きつけの病院もこの清川病院である。

そして昭和12年10月22日、詩人の中の詩人、中原中也は家族と友人たちに看取られながら永眠した。

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。(「四行詩」)

これは詩人、中原中也(明治40年~昭和12年)が入院前に書きのこした最後の詩である。


小林秀雄に託された詩集「在りし日の歌」は翌13年に出版された。遺骨は郷里での告別式のあと、吉敷の中原家先祖代々の墓に葬られた。


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。  「骨」

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ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読む

2007-04-04 08:43:51 | Weblog



降っても照っても 第4回

わが偏愛の思想家による偏愛の書に清水徹氏の新訳が出た。

これは正確という病にとりつかれた孤独な思想家ポール・ヴァレリーが書いた、言葉の厳密な意味でもっともで楽しく、もっとも正統的で保守的で、才気煥発たる美術論考であり、小林秀雄の初期の美学論の源泉がここにある。

 その中からいくつかの言葉を紹介しよう。

 ・デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である。ドガ。
 ・橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす。ドガ。
・航海術の言語あるいは狩猟の言語ほど美しく実証的なものがあろうか? ヴァレリー。
・詩句は言葉でつくられる。マラルメ。
・「人間は自然の敵である」フランシス・べーコン→エミール・ゾラ→ドガの言葉
・私が「大芸術」と呼ぶものは、単純にひとりの人間の全能力がそこで用いられることを要請し、その結果である作品を理解するために、もうひとりの人間の全能力が援用され、関心を向けねばならぬような芸術のことである。(中略)恣意的なものから必然的なものへの移行、これほど驚嘆すべきことがあろうか? これこそは芸術家の至高の行為であり、それ以上に美しいものがあろうか?ヴァレリー。

 私はこのうち最後のヴァレリーの言葉に導かれて、自分がもっとも軽蔑し、もっとも不案内であった領域の職業にあえて従事する決意を固め、その醜い軌跡が私の人生そのものとなった。

私はなんとヴァレリーの言う「完全なる人間」をめざしていたのである。(笑)


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中原中也と小林秀雄

2007-04-03 19:55:26 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語51回

晩春の夕方、中原中也と小林秀雄は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。

花びらは死んだような空気の中をまっすぐに間断なく落ちていた。

花びらの運動は果てしなく、小林は急に嫌な気持ちになってきた。我慢ができなくなってきた。

その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいいよ、帰ろうよ」と言った。

小林ははっとして立ち上がり、「お前は相変わらずの千里眼だよ」と吐き出すように応じた。

中原はいつもする道化たような笑いをしてみせた。

それから二人は八幡宮の茶店でビールを飲んだ。

夕闇の中で柳が煙っていた。

『中原はビールを一口飲んでは「あヽボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何だ」「前途芒洋さ、あヽボーヨー、ボーヨー」と中原は眼を据え、悲しげな節をつけた。詩人を理解するということは、詩ではなく生まれながらの詩人の肉体を理解するということはなんと辛い想いだろう…。』
(小林秀雄「中原中也の思い出」より)


余談ながら、私の俳号である芒羊はこの下りと漱石の三四郎の「ストレイシープ」からとりました。

愛するものが死んだ時には
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも業が深くて
なほもながらふことともなったら

奉仕の気持ちに、なることなんです。
奉仕の気持ちに、なることなんです。       「春日狂想」

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中原中也とキリスト教会

2007-04-02 14:24:48 | Weblog


「鎌倉ちょっと不思議な物語」第50回特別記念号

 
中原中也は母の従妹の西川まりゑと一緒によく天主公教会大町教会を訪れ、ジョリー神父の話を聞いた。

この教会は現在も同じ場所にあり、建物は改築されたがカトリック由比ガ浜教会として現存している。

礼拝堂の前にはマリア像、右側には司祭館、奥にも離れがありかなり広大な敷地にさまざまな花が植えられている。長谷の大通りを少し入った驚くほど静謐な環境である。

中也と教会、それはランボオとの交友から足を洗ったヴェルレーヌの改心を思わせる。


老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり
                  「老いたる者をして」(空しき秋第12)


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中原中也と空気銃

2007-04-01 14:18:17 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語49回

昭和12年当時の鎌倉には小林秀雄、今日出海、大岡昇平、中村光夫、島木健作、岡田春吉、高原正之助などが住んでいたが、中也は足しげくこれらの友人たちを訪ねた。また街中の散歩にもよく出かけ、映画館や書店や商店や寺社仏閣を訪ね歩いた。

中也は林屋という百貨店で空気銃を買い、以後しばしば鎌倉八幡宮や大塔宮へ雀を撃ちに出かけている。かつての林屋百貨店は現在では林屋材木店になっている。(写真左)

また中也は長谷の「からこや」というおもちゃ屋ではドミノを買った。

今年3月中旬にその「からこや」を久しぶりに訪ねたら、なんとシャッターが下りていた。(写真中)

愛嬌のある三人姉妹がいらっしゃーいと迎えてくれるいい店だった。2月の中旬にさよならバーゲンをして閉店したばかりだという。

同期の桜が散ったようでとても寂しいが、「からこや」のご主人は長谷商店街の会長さんなので閉店後も一人残って町の存続のために頑張ってくれるという。(お向かいの金物屋さん談話)

ドミノも空気銃も買えなかった私は、小町の商店街のたった1軒のおもちゃやで、パチンコと玉をセットで352円で買った。(写真右)

これで鎌倉の山々と動植物を荒らすタイワンリスをビシバシ撃ち殺すつもりだ。

ひねもす空で鳴りますは
あヽ電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あヽ、雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜り込み
ピーチクチクと啼きますは
あヽ雲の子だ、雲雀奴だ                  「雲雀」


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