あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

秋山駿著「私小説という人生」を読む

2007-05-16 13:41:14 | Weblog


降っても照っても第14回

「自分のことをもう一度行き直してみよう」という年齢に達した著者が、眦をけっして向き合った日本文学の名作再読記であるが、その熱と意欲の高さに大きな刺激を受けた。

扱われているのは、田山花袋、岩野泡鳴、二葉亭四迷、樋口一葉、島崎藤村、正宗白鳥の6名で、彼らの代表作を肴にして作者は縦横無尽の独断と偏見を繰り広げている。

著者の力点は従来とかく軽視されてきた田山花袋の「蒲団」など自然主義作家たちの作品の再評価に置かれているようだ。

「人間の真実を剔出し、人生の真相を視る。それが日本の自然主義文学の独特さである」と著者は結論づけるのだが、しかしそういう定義なら、漱石も鴎外も荷風も谷崎も三島も両村上もなにもかもが同じ自然派の範疇に入ってしまうのではないだろうか? 

また著者が私小説を愛好する評論家であるにしても「私小説という人生」というタイトルは現代の日本語としては少しく奇異ではないだろうか? 

もちろん本書は文学論考ではない。

しかし著者は小林秀雄の文章に影響を受けた人らしく、例えば高橋源一郎や保坂和志などが文学を論じる際の繊細な手つきにくらべると論理の組み立てがいささか粗雑で時代がかっているように思われる。

そして独特の啖呵が、懐かしくも古めかしく感じられる。

もっともこれは私の頭が粗雑であるから、著者の立論についていけないのかもしれないが、何度読んでも「要するに何を言いたいのか」が理解できない個所があった。恐らく人間としての修行がまだまだ足らないのであろう。

通読してもっとも心に残ったのは、島崎藤村の項である。私は著者によって初めて藤村の随筆集の素晴らしさを知ることができた。藤村は本邦始まって以来のドビュッシーの愛好家であった。
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最愛のCD

2007-05-15 08:43:01 | Weblog


♪音楽千夜一夜第21回

先日私がこれまででもっとも感銘を受けたクラシックの生演奏について非常に興奮した記事を書いてしまったが、あほうついでにそれではCDのベストは何かといえば、そのひとつはバーンスタインの「ROMANTIC FAVORITES FOR STRINGS」といういわゆるアダージョ物の寄せ集めである。

このCDは確か国内版もCBSソニーから発売されていたように記憶するが、私が持っているのは輸入版で、若きバーンスタインがニューヨークフィルハーモニックを指揮した60年代の演奏である。

曲目はまず1910年生まれのアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの代表作「弦楽のためのアダージョ」。

この曲は1986年に公開されたオリバーストーンのベトナム戦争映画の主題歌に使われて有名になった。ともかく弦が歌いに歌って悲壮の極みに至る。バーンスタインも、初演したトスカニーニ張りの名演で泣かせる。

次が英国の国民的作曲家ヴォーン・ウイリアムズが1570年後半に英国で流行した民謡をテーマにした「グリンスリーブズの主題による幻想曲」と同じ作曲家による「トーマス・タリスのテーマによる幻想曲」。トマース・タリスも16世紀の英国の教会音楽の作曲家であるが、ヴォーン・ウイリアムズが発掘した哀愁に満ちた懐かしい古雅な旋律を、バーンスタインは思いをこめてしみじみと歌い上げている。

それからロシアの文豪トルストイが感動したというチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第二楽章の「アンダンテ・カンタービレ」、最後に19世紀末のウイーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラーの交響曲第5番第四楽章の有名な「アダージエット」が演奏されてこの愛すべきコンピレーションが終る。

最後の作品はイタリアの名匠ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」のテーマ音楽で使われ、文字通り一世を風靡したがこれほどロマンチックな叙情歌も少ないだろう。

バーンスタインの演奏は後年のウイーンフィルとの演奏よりもこっちのほうが透明な悲しさが漂っている。ちなみにヴィスコンティは、わざとイタリアのローカルオケの演奏を使った。その鄙びた味わいがよい。

「アダージョ物」はカラヤンのが世界的なベストセラーになったが、バーンスタインはカラヤンや自らの後年の濃厚な味付けをいっさい廃して、恋に恋する純な若者の限りなきロマンと憧憬を、無窮の、そして無人の、海と空に向かってたった独りでひたすら奏でている。

♪ 友がみな吾より偉く見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ

という石川啄木の歌があるが、このCDはそんな日に繰り返し聴くのに適している。

我が生涯の最愛の音盤である。

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鶯の歌

2007-05-14 07:27:14 | Weblog


♪ある晴れた日に その5

長男と共に熊野神社に詣で、家に帰ってクレンペラー指揮フィルハーモニア管が伴奏するヴェートーヴェンの第三協奏曲をバレンボイムのピアノで聴いていた私は、突然そのCDのフォルテッシモをぶち破るような「ホー、ホケキョ!」という耳元の大きなさえずりにビックリ仰天してしまった。

見れば庭の柑橘樹の新緑の葉の間から渋い薄茶色の鶯が、パソコンのモニターに向かう余を見つめながら、またしても「ホー、ホケキョ!」と高らかに初夏の歌をうたうではないか。

このとき翻然として余は悟った。

これやこの優美なる鶯こそは、過ぐる2002年の3月に忽然と身罷りし母上の生まれ変わりであることを……。


鶯よも一度聴かせよ母上に似たその声をもう一度

死に近き麝香揚羽よ食草をもはや選ばず産卵しおり
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母の日の歌

2007-05-13 15:02:24 | Weblog


♪ある晴れた日に その4

一輪のカーネーションを携えて 遠き町より息子は帰宅す

息子よりカーネーションを手渡され 我を振り返る妻のその顔

いたつきに疲れ果てたる妻の眉 たちまち開く一輪の花

一輪のカーネーションを母に捧ぐ 良き息子なり天も嘉せよ

天使よりカーネーションを献じられし 妻は村の聖母となりたり

紅のカーネーションを献じたる 息子はただちに遠きに去れり

息子去り瓶に残りし紅き花 枯るることなくいつまでも咲け

一輪の花の命は果てるとも 我らの胸の花は散るまじ

窓際の瓶に挿したる紅き花 風のまにまに揺れて恥らう

我ら死に子等も死にたるある夕べ カーネーションは甦りの花





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孤高の天才、チェリビダッケに寄す

2007-05-12 13:52:26 | Weblog


♪音楽千夜一夜第20回

私が生涯で聴いた最高の名演奏は、1977年に初来日した彼が、ミュンヘンフィルではなく、わが三流オーケストラの読響を率いてのブラームスの4番だった。

全曲を通じてもっとも印象的であったのは、異様なほどの緊張を強いる最弱音の多用でとりわけ終楽章でフルートが息も絶え絶えに心臓破りの峠を上る個所では、聴衆もかたずを呑んでこの未聞の演奏の行く末を見守ったのであった。

そうして私は、かつていかなる指揮者も連れて行こうとはしなかった、とおいところに連れていかれ、そこで突然ほうりだされたことを知って驚き、呆然とした。

私は拍手をすることすら忘れて、この交響曲の知られざる真価を思い知らされたのだった。77年10月29日の夜の東京文化会館の読響は、哀れな凡才小澤の指揮するウイーンフィルよりも千層倍も素晴らしかった!

ところが、その翌年3月17日の横浜県民ホールのチェリビダッケと読響はもっともっと凄かったのである。

レスピーギの「ローマの松」の「アッピア街道の松」のクライマックスのところで、突然眼と頭の中が真っ赤に染まっってしまったわたしが、もうどうしようもなく興奮して、というよりも、県民ホールの舞台から2階席まで直射される凄まじい音楽の光と影のようなもの、音楽の精髄そのものに直撃され、いたたまれず、止むに止まれず、座席から立ち上がってしまった。と思いねえ。

すると驚いたことには、私の周囲の興奮しきった大勢の聴衆が次々に立ち上がって、声のない歓声をチェリと読響に向かって送り続けているのだった。

ああ、あの友川カズキや甲本ヒロトのような演奏を、もう一度でいいから死ぬまでに聴きたいものだ。

思えば、来る日も来る日も国内と外来のプロとアマのオケをさんざん聴きまくった5年間の大半が、それこそくずのくその演奏で、あれこそがたった一度のほんとうの音楽体験だったのだ。

いやよそう。魂の奥の奥までえぐる音楽の恐ろしさと美しさ、その戦慄のきわまりの果ての姿かたちを、たった一度でも経験できた、私はほんとうに幸せだった。

ありがとう、チェリビダッケ! そしてもうあれ以来訳の分からんところへ行ってしまった読響!
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中川右介著「カラヤンとフルトヴェングラー」を読む

2007-05-11 11:53:49 | Weblog


降っても照っても第13回&♪音楽千夜一夜第19回

カラヤン対フルトヴェングラー。私はやはり前者の音楽よりは後者のそれを好むが、これほど詳しく2人の巨人の対決の様相を教えてくれた本は初めてだ。

音楽の世界に荒々しく侵入する政治と嫉妬と闘争。人間である限りは死ぬまでのがれられないその葛藤が時系列を追ってこれでもか、これでもかと描かれる本書は、クラシック評伝の白眉といえよう。

とりわけ全盛期にあって病魔と聴覚の異常に襲われ、自殺同様に死んでいくフルトヴェングラーの晩年の描写は鬼気迫るものがある。

でももう一年だけ生き延びてステレオによるワグナーの「指輪」の全曲録音を入れて欲しかったなあ。

51年夏に再開されたバイロイト音楽祭の初日に振ったフルベンの第9は、レコード史上空前にして恐らくは絶後の名演と謳われているが、この演奏の直後にかの偉大なるレコードプロデユーサー、ウオルター・レッグが終演後の楽屋を訪れてその演奏を酷評したという。

そのためにフルベンは2日間立ち直れなかったそうだが、これはレッグのほうが正しいかもしれない。あのどの奏者もついていけない気狂いじみた最終楽章は、普通のスタジオレコーデイングなら正規録音として採用されない体のものであろう。

それにしてもカラヤンとフルトヴェングラー以上に私が高く評価する天才セルゲイ・チエェリビダッケの失墜は、ほんとうに残念である。

10年間に400回以上のコンサートを指揮してベルリンの聴衆から圧倒的に喝采されたが、ベルリンフィルの団員からは圧倒的に不人気であったチェリと、戦前から数えてもたった10回しか公演していないのにオケに人気があった如才の無いカラヤン。

チェリがもう少し人間的に成熟していれば、狡猾なカラヤンに代わって当然彼がこの世界最高のオーケストラの正式指揮者に任命されていたはずだ。

ああ、可哀相で限りなくあほだったチェリビダッケ。


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大石芳野「無告の民-カンボジアの証言」展を見る

2007-05-10 08:19:09 | Weblog


降っても照っても第12回


中野坂上の写大ギャラリーで大石芳野氏の「無告の民-カンボジアの証言」展を見る。

氏は80年から81年にかけて現地に入り、ポルポト派によって圧殺されたカンボジアの民衆の受難をモノクロームの静謐な画面に克明に定着した。

危険をものともせずに淡々と撮りあげた誠実なドキュメントである。

ポルポト派は73年から79年までおよそ300万人の無辜の民を拷問し、焼き尽くし、虐殺し尽くした。

そのためにカンボジアの医師、教師、インテリゲンチャはほとんど全滅したといわれている。

拷問で流された血潮、晒されたシャレコウベ、大量虐殺され穴に埋められたその現場…。

悲劇的な大惨事の後を尋ねて、カメラウーマンは万感を押し殺してワンカットずつシャッターを切る。

シャッターを押そうか、押すまいか、というためらいが見るものに伝わってくるようだ。
(6月3日まで、10時から8時まで。無料無休)


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大船田園都市構想をもう一度

2007-05-09 20:46:00 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語58回&勝手に建築観光・第14回

鎌倉市では現在大船駅東口市街地再開発事業を推進している。

駅周辺を再開発して商業、居住、交流機能を促進しようというものだが、そのなかで24階建て高さ90mの高層ビルを建てようとして市議会の多数派の反対にあい、予算案が否決されたので大慌て。

私のところにも市の拠点整備部再開発課というところからアンケート用紙が送られてきた。改めて市民の皆様のご意見を伺って再出発したいということなのだろう。

この街の市長は石渡徳一という人であるが、彼は最近建築業者のおおっぴらな違法行為にたいして認可の取り消しをしなかったというので住民や市議たちの反発にあい、その開発業者寄りの姿勢が、今回の予算案否決の原因になったといわれている。

元サントリー社員の彼は、私のオタマジャクシ保全や朝比奈周辺の環境汚染や産廃問題などへの回答では表向きは環境問題に理解があるように見えたが、実際はそうでもなかったようなのだ。

それはともかく、鎌倉の玄関口にあたる大船駅前の高層ビルは大変好ましくない。

京都や奈良や銀座でも高等観光地の最大の敵は高層ビルである。これあるために眺望がさえぎられ、景観が破壊される。
そのことは六本木や汐留だけでなく、全国の市街地、商業地で国民の皆さんがよくご存知のはずだ。

大船地区が鎌倉の一員であるかぎりは、鎌倉本体と同様の環境規制に従うべきだ。90メートルなんて論外である。

それにこの大船地区は、大正時代にあの有名な都市計画、大船田園都市が構想され実践された由緒ある場所なのである。

大正10年、東京渡辺銀行の渡辺六郎は、当時イギリスで生れていた田園都市構想に倣って、一面の田んぼと湿地の大船の地に、大船田園都市株式会社を興し、新鎌倉として分譲を開始した。

大船駅東口からかつて松竹大船撮影所があった駅東口一帯の土地はあの田園調布と同様にレンガ敷きの碁盤目の道路、上下水道、病院、公園などが整備されるという当時としては先進的な構想の町づくりであったが、残念ながら関東大震災や昭和初期の不景気などでこの素晴らしい都市計画は頓挫してしまった。

石渡市長は、どうしてこの緑と平和な市民生活の共存という先進的な構想を、現代の、現地において生かそうとしないのか? 

鎌倉全市をユネスコの世界遺産に指定をめざし、歴史遺産を大切にし、その教訓に学ぼうと宣言している市長なら、まずは大正・昭和初期の先人の智恵に深く思いを致してほしいものである。

ちなみに同地区には大船田園都市株式会社が開発・分譲した小池邸と隣家の対馬邸の2軒だけが現存している。

山小屋(シャレ)風の玄関ポーチを中心とした北側正面と、複雑に重なり合うフランス瓦葺きの屋根は、大谷石の門柱や垣の石柱、前庭の樹木とともに大変魅力的な景観を形成している。(写真)



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ある丹波の老人の話(21)

2007-05-08 05:49:58 | Weblog



この天から降ったような金で、私はどん底まで下がりきって捨て値になっておった郡是の株を買いあさりました。

百姓たちは株が嫌になってしもうてタダにならんうちにと誰もかもが売り急いでおりました。私は綾部付近から和木、下原のほうへ行って買いまくりました。

買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた郡是株を買い続けたんでした。このときは高木銀行がよう便宜を図ってくれました。

やがて大正4年になると、郡是は窮余の策として60億円に増資し、優先株を発行しました。

その優先株が非常に有利な条件がついておったにもかかわらず、すっかり嫌われて払い込みの12円50銭ならなんぼでも買えました。

その頃私は蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク暖炉を発明して実用新案をとり、波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社で郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回りました。

そのついでに私は三丹地方ばかりでなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って優先株を買いあさったんでした。(第四話 株が当たった話その2)

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見城徹著「編集者という病い」を読む

2007-05-07 19:46:10 | Weblog


降っても照っても第10回

1972年、イスラエルのテルアビブ郊外の空港で自動小銃を乱射しながら手投げ爆弾を投げ、自らを肉片と化して死んでいった奥平剛士。
その存在が、著者の不眠不休、獅子奮迅の出版活動を支えている、らしい。

連合赤軍の決死的闘争、というよりはイデオロギーを超越した自己滅却の蛮勇に衝撃を受け、いわば死の影で、死をバネにして、死からの跳躍を試みようとしているかのようである。

そうでなければあれほどの仕事ができるわけが無いと、妙に納得できる。

日本文芸史上樗陰以来最高最大の編集者が初めて書いた自伝である。といっても序文以外はすべてどこかに書いたものの寄せ集めであるのが残念だ。

ある夜、著者は私に「それでは今度一度お茶でも飲みましょう」と語ったが、お茶はついに飲まれずにおよそ20年の歳月が流れたのであった。


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子供の日日記「神奈川県立近代美術館を歩く」

2007-05-06 21:14:30 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語57回&勝手に建築観光・第13回


子どもの日は八幡様は雑踏でごったがえしていたが、一歩木立の中に入ると閑静だった。

名匠坂倉準三が設計した東急文化会館はすでに消失したが、ここ鎌倉の神奈川県立近代美術館は降り積もる歳月の底でどっしりと、そして軽やかに持ちこたえている。

最近東京のど真ん中にできた3つの美術館なぞ、犬に食われてしまっても構わないけれど、この小さな美術館だけは、どうかいつまでもこの源平池のほとりの美しい景観の中で独り静に佇んでいてほしいものだ。

ここは美術館がすでにして生きた美術でも、ある数少ない文化遺産なのである。

家族揃って開催中の「近代絵画の名品展―高橋由一から昭和初期まで」を見る。

すでに何度も見たことのある懐かしい作品たちを、明るい緑の光が差し込む部屋から部屋へとぽつりぽつりと散歩しながら見てゆくこの喜びは無上のものである。

高橋由一の「江ノ島図」、黒田清輝の「逗子五景」、青木繁の「真善美」、高村光太郎の、萬鉄五郎の、岸田劉生のひとつひとつがしみじみと胸の奥に染み込んでいく。

そうしてやはり私が好きな松本竣介の油絵が4点出ていた。「建物」、「立ち話」、「R夫人像」、「自画像」であるが、そのうち死の7年前に描かれた自画像が特に素晴らしかった。

36歳で死んだ竣介は、その聞こえない耳を澄ませて、いつまでも何者かの声に耳を傾けているのだった。


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夢のような話

2007-05-05 10:21:17 | Weblog



ある丹波の老人の話(20)

大正三年に、あの欧州大戦が勃発しました。

糸価が大暴落したので、波多野鶴吉翁の郡是製糸会社は払込資本金十四億余円に対して、三十余億円の大損をしてしまいました。

当時「これで郡是はつぶれる」という噂が高まり、二十円株がわずか四、五円の安値に落ちてしまったのです。

波多野翁に満腔の崇敬と信頼を表し、大の郡是びいきだった私は、情けなくてたまりませんでした。

波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気遣いはない。いま悪くともきっと立ち直ると確信していた私は、金があればあの際限もなく下がっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったんやけど、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしまへんどした。

その頃、蚕業講習所拡張のため、傍にある私の所有地三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話がありました。

そのとき私はようやく差し押さえを解いてもらうだけの返金はしていたとはいえ、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っとりましたから、売るにしてもその分を払ってからでないと不可能やったんです。

それに「そんなことをしたところで、私の手に入る金よりは債権者に渡す金が多いに違いないから、余裕のない私にはとてもできない」と断ると、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから僕に任してくれ」というんでした。

ところが、それからしばらくすると西村君がやってきて、
「万事うまく行った。これだけ余った」と言って、五十四円という当時では少なからぬ金を私に呉れたんです。

これはそれこそまるで夢のような話で、私はなんだかタダからお釣りをもろうたような気がしたもんでした。        (第四話 株が当たった話その1)



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こんな夢を見た

2007-05-04 04:32:47 | Weblog


子供たちは運動会のような、いや北朝鮮のマスゲームのようなものを、何者かに強制されて行っていた。

彼らは、梯子を伝って窓から大きな家の2階の部分にはいりこみ、そこから屋根に上り、指導者の合図で一斉に1階に向かって飛び降りるのだった。

1階といっても仕切りは無く、下には別のグループの子供たちが築地の市場に並べられたマグロのように無数に横たわっている。だから下の子供たちは、上の子供たちが飛び降りてくるまでに退去しないといけない。もしも速やかに退去しなければ現場は大混乱に陥り、怪我をする子も現れるだろう。

 そう思いながら手に汗を握って見つめている私の目の前で、案の定事故が起こった。

たった一人落下する集団から逃げ遅れた子どもが、苦痛に顔をゆがめながら泣き出した。顔と、そして眼から血が流れている。それは知的障碍のある私の子どもだった。

私は全速力でその場に駆けつけたが、子どもは既にぐったりとしている。たぶんもう息はないだろう。

私は子どもの担任でこのマスゲームの責任者でもある体育の教師に詰め寄って、無我夢中で彼奴の首を絞めた。

教師は減点パパにそっくりの顔つきだった。自分の責任であることが分かっていたのだろう、青白い顔をしていたが、私が全力で首を絞め続けたのでどんどん血の気が引いてゆき、とうとう紙のようになった。私は「紙のようになる」という白さの比喩のほんとうの意味を始めて知った、と思った。

しかし私は、けっして減点パパを許しはしなかった。私は死んだ息子の仇を討たねばならなかった。

突然背後でフラッシュが光った。誰かがこの光景を撮影しているらしい。

振り返ると、どこかの広告で見覚えのある長身の外国人が、三脚の上でカメラを構えていた。

その男は最近東京湾岸の移動テントでいかがわしい写真展を開いていて、芸術の何たるかを理解しない無知な人々をまるでディズニーランドか木下サーカスのように引き寄せているあやしい男だった。

ひざまずいた巨大なインド象の前で、小さな少年が読書をしている。そんな見え透いた大衆受けを狙った写真ばかりを撮っているフォニーなクリエーターだ。

私は、減点パパの首からこわばった両手をやっと振り放すと、ゆっくりその長身のカメラマンに向かっていた。血まみれの両の手をタラバガニのように動かしながら……。


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降っても照っても 第9回

2007-05-03 15:35:06 | Weblog


緑陰消閑


@高橋源一郎「ニッポンの小説」
「文学とは遠くにある異なったものを結びつけるあるやり方です」と、語りながら始まる高橋教授の終わりなき大文学論。その真摯な思索に脱帽す。
とうとう中原昌也、猫田通子の「うわさのベーコン」を産出するにいたったニッポンの小説。文学は、インディヴユジアルを個人ではなく、一個人民、一身ノ身持、人民各個と訳していた時代にもう一度帰らなければなるまい。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し。著者が最後に荒川洋治の「文芸時評という感想」を読み解きながら現代日本の小説を分析するくだりは迫力がある。

@中原昌也著「KKKベストセラー」
小説家業は売春婦稼業だ。なにもアイデアなぞないのに、はした金のために身を粉にして売文を書くのが苦痛で仕方がない。卑劣な島田雅彦のような自分はハンサムなのに中原のような他人の醜い容貌を揶揄する卑劣な人権無視の小説家は大嫌いだ。ああ、嫌だ、嫌だ。早くこんな業界から足を洗いたい…。
と同封のCDでも世を呪い、己を呪う著者。
そんなに嫌なら書くのを止めろ。こんな無内容な駄文を江湖の読者に供する朝日新聞社も何を考えているのか。実に下らない。世も末だ。

@G・ガルシア・マルケス「落葉」他12編
高橋源一郎は、ニッポンの小説は100年間にわたって死について直接描こうとしなかったと説くが、これやこのマルケスこそは源ちゃんが力説する「死」を描いた小説ではないだろうか? 中篇の「落葉」は全編に死の予感、いや死そのものが主人公としてあらゆる時間と空間を占拠し、ラテンアメリカ風諸行無常の仏教観がむなしく吹き抜ける。


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右か、左か、真ん中か

2007-05-02 16:28:54 | Weblog


♪バガテル op18

昨日中野坂上の学校で、広告代理店を受けるという大学生から就職相談を受けたときのこと。

彼女が、「自己PRの、“どんな新聞を購読しているか”という欄に、朝日新聞と書いてもいいでしょうか?」と尋ねるので「君が実際に購読しているのなら正直にそう書けばいいじゃないか」と言うと、「読売ならともかく、朝日は左翼的な新聞だから、私落とされるのではないでしょうか?」と余計な心配をしているのでこれにはちょっと驚いた。

あのブル新(死語?)の代表選手である朝日のどこが左翼的なのか、私などは理解に苦しむが、ともかく朝日新聞が「左翼的」になってしまったこの20年について改めて感慨を新たにしたことだった。

しかしもしも朝日が左翼なら、他の新聞はどうなるのだろう?
毎日も左翼偏向で、まあまあニュウトラルの日経を挟んで読売は右翼。部数凋落につき関西では夕刊を廃止したサンケイはさしずめ超右翼であろう。

しかし私が便宜上勝手に右翼に編入した読売が、日本帝国主義の戦争責任についてしぶとく追及し、悪名高きナベツネ主筆が、意外にも?靖国神社参拝問題で朝日と同じ見解であることが判明するなど、私のこの安直な左右のレッテル張りには、多少の不安定要因もある。ただし前首相の靖国神社参拝に関して賛成しているのは、大手?新聞社中ではサンケイのみである。

新聞に続いて同じ伝で出版社にレッテルを貼ると、朝日は相変わらず左翼で、講談社は左翼偏向、ニュウトラルはよくわからないけど集英社と光文社。そして読売資本に入った中公新社はまあ右翼で、新潮、文春、小学館はみな右翼偏向ないし一部超右翼であろう。

同様にしてテレビ局においても同一資本関係での共通項は認められるが、意外と左翼的?なのはNHKであろう。しかし大半の局が娯楽番組に血道をあげ報道関係はお茶をにごす程度なので判定不能だ。

このように、もはや民放テレビ局はあらゆる意味で“社会の木鐸”(古すぎ?)やオピニオンリーダーではない。従ってテレビ画面での言説においては誰かが誰かに殺されることはないが、雑誌や新聞での意見の開陳においてはそれが頻繁に繰り返されている。(20年前の朝日新聞阪神支局の小尻知博記者)
 
言論の自由に命をかけるジャーナリストは新聞と雑誌メデイアだけにわずかに偏在し、弛緩しきった痴呆番組を垂れ流すあれらの局アナやキャスターたちの憂い無き笑顔の中には間違っても存在しないのである。

安倍政権による憲法改定の策動が露骨になるなかで、わが帝国におけるジャーナリズムの右翼的再編とファシズム勢力のあくことなき伸張、それにともなう白色テロルの横行はますます跳梁をきわめることだろう。


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