不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

坂口弘著「常しへの道」を読む

2007-12-16 09:49:03 | Weblog


照る日曇る日 第77回

1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。

坂口は、たしかにリンチに加担した。

途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき

年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり

腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨

坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。

新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国

人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする

指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る

坂口は、日々死におびえる死刑囚である。

おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり

執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか

望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか

坂口には、愛する家族がある。

明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし

これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる

また坂口は、啄木を愛する詩人である。

気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり

屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ

知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く

しかし坂口には、まだいうべきことがある。

かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき

坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり

死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は

悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも

そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。

演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき



♪一日一恕の幸せを君に 亡羊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第34回 敗戦

2007-12-15 09:34:17 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第56回

 8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
 灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
 その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。

 東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。

 無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。

 そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。

 それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。

♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ


♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達

2007-12-14 08:39:36 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第55回

 昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。

 綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。

 20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。

 私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。

 貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。

夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。


♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨

♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソープオペラ

2007-12-13 10:24:49 | Weblog


♪バガテルop31&♪音楽千夜一夜第28回

さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。

♪たりり、たら、たらん。
  頭の中で鈴が鳴る。

毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……

いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。

ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。

さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。

♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!

so what?


♪当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第32回 継母

2007-12-12 08:58:56 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第54回

 私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。

綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。

なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。

其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。

 昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。

 夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。


♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    (注「ともし」は面白いの意。)

♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座

2007-12-11 10:15:22 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第53回

 日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。

 昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。

 銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。

 夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。

或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。


♪十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮本常一著「なつかしい話」を読む

2007-12-10 08:02:36 | Weblog


照る日曇る日 第76回

民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。

とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。

和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。

「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。

さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。

著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。

では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。

かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。

♪年毎に故人増えゆくアドレス帳

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第30回 等々力

2007-12-09 10:14:58 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第52回

 父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。

 私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。

 等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。

 綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。

東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。

銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。


♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえづり 聞きてうれしも

♪次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第29回 谷中

2007-12-08 11:11:43 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第51回


父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。

 上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。

まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。

広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。

 伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」

私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。


♪今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第28回 結婚

2007-12-07 10:07:00 | Weblog

遥かな昔、遠い所で第50回

 翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。

 10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。

根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。

本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。

精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。


♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第27回 母の死

2007-12-06 12:50:17 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第49回

 昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。

母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。

 「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。

 そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。

 昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。

 父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。

 「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。

 両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
 優しい母であった。


♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし 

♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第26回 結婚前後 

2007-12-05 12:56:46 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第48回


 幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。

 昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。

 店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。

 母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。

 国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。

 大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。

♪師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ    「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む

2007-12-04 11:31:35 | Weblog


照る日曇る日 第76回

いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。

 著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏のと自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。

またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。

「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。

彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。

わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。

このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。

ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。

そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。

そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。

14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。

私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。

しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。

♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第25回 京都へ

2007-12-03 08:26:45 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第47回


 翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
 
 一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。

 「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。

 学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。

講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。

 戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
 秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。

♪築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行

2007-12-02 11:23:54 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第46回


 そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。

 昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。

 山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
 東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。

上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。

♪老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする