あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

都のオリンピック招致広告について

2009-07-11 08:55:51 | Weblog


茫洋広告戯評第9回


先日学友諸君と東京建築観光ツアーで新宿都庁へ行きましたら、原っぱで寝そべっている小学生たちの楽しそうな電光ポスターが掲示してありました。

このビジュアルをバックに、左には「日本だからできる。あたらしいオリンピック!」、右側には「元気な子どもたちを育てる校庭の芝生化! 緑あふれるオリンピックの開催を通じて環境の大切さを世界に伝えよう!」という2本のキャッチフレーズが並んでいます。

同様のものは西口広場にもありますが、この広告は、環境を大なり小なり傷つけるに決まっているにもかかわらず、環境問題とオリンピックを結びつけ、「校庭の芝生化=緑あふれるオリンピック」と短絡化し、東京の環境への取り組みを見てもらうためにオリンピックをやるのだと強弁しているようです。

しかし校庭の芝生は、以前から児童の健康のために植えているのであって、別に2016年に競技を見に来る観光客のために植えているわけではありません。文教とスポーツというもともと無関係な2つの主題をむりやり結びつけたところに、この広告の政治的な意図が感じられます。

確か別の場所に「23区の小学校の校庭を芝生にします」というキャッチだけで構成されている広告もありましたので、これは私の想像ですが、「オリンピックを東京でやりましょう」のほうはあとから付け加えられたものではないかという気がします。

もしそうだとすれば、校庭の芝生を喜んでいる小学生の笑顔を、東京オリンピック歓迎の笑顔に勝手にすり替えてしまう。そんな前代未聞の過ちを、知事と東京都は犯していることになるでしょう。

フランスや中国や我が国の女性や老人を蔑視し、お道楽で始めた新銀行東京が大赤字を出して都民にとんでもない迷惑をかけている石原知事が、おのれの死土産として始めたのが2016年の夏季オリンピック招致運動です。

彼はこのまったく個人的な妄執に狂奔することによって新銀行破たんの政治責任の追及から逃れようと画策しているようですね。

ロンドンの後のオリンピックを東京で開催することについては、新銀行東京の赤字に追い打ちをかける財政負担となり、さらに都民の懐を痛めるだけでなく、新しい環境破壊の要因になるとして、心ある都民のみならず多くの国民が反対しています。

すでに東京は一度オリンピックをやっていますし、前回は同じアジアの北京で開催したばかりです。
ここはそれこそグローバルな視点に立って、まだ一度も世紀の祭典を体験したことのない南アメリカ代表のリオデジャネイロ(ブラジル)に譲るのが成熟した国民と政治家がとるべき大人の態度なのに、俺が俺がとまるで餓鬼大将のようにでしゃばり、あまつさえほんらいならば己が推薦するべき福岡などの国内の開催希望までたたきつぶしてしまうとは、まことに夜郎自大な振る舞いではないでしょうか。


♪墓場の中まで五輪塔持ちゆく男あり 茫洋
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五味文彦編「吾妻鏡」第6巻を読んで

2009-07-10 08:10:14 | Weblog


照る日曇る日第271回&鎌倉ちょっと不思議な物語第199回

現代語訳吾妻鏡の第6巻は、建久4年1193年から正治2年1200年までを扱っています。

富士の巻狩における曽我兄弟の仇討、建久6年2月から6月末までに及ぶ頼朝の上京と盛大な奈良大仏供養を経て、頼朝の長男頼家の薄氷を踏むような危うい治世と梶原景時一族の殲滅までを悠揚迫らず叙述する本書は、しかしなぜか建久10年正月の頼朝の急死をふくめたおよそ3年間について完全な沈黙を守っています。

解説者は編集作業が間に合わず未完に終わったという説を採用していますが、私は北条時政一派による暗殺説を捨てきれません。思えば頼朝の近臣工藤祐経を殺害した曽我兄弟の名付け親は北条時政であり、兄弟の騒動を利用して頼朝の命を狙おうとしていたとすれば、建久9年12月の相模川の橋供養における頼朝の落馬事件による早すぎた横死も、じつはまったくの虚報で、実際は時政ファミリーによる将軍暗殺のカモフラージュであった可能性は高いと思われます。

ところで観光客がほとんどいない鎌倉の裏駅にある御成の商店街をぶらぶら歩いていますと、頼朝全盛時代の御家人の名前を大書したのぼりがたくさん立っています。
そして私のいちばん好きな畠山重忠、2番目に好きな和田義盛をはじめ、のぼりに登場する三浦義村、三浦義澄、千葉胤正、比企能員、葛西清成、大江広元、佐々木盛綱、梶原景時、小山朝政などの有力者たちの大半は、北条一門の悪辣非道な陰謀によって次々と圧殺されていきました。

まあ源家も北条家もどっちもどっちの政略家ではありますが、どっちかといえば北条家の人々の血はどす黒い。中世の東都鎌倉を血の海に沈め、暗殺の森に変えてしまいました。
尼将軍の政子もあれほど夫を愛していながら、実の息子を2名も屠ることにけっして反対ではありませんでした。結局は嫁ぎ先よりは親兄弟一族を取ったわけです。

しかし夫の跡を継いだ羽林頼家が好色の思いもだしがたく、安達景盛の妾の色香に狂って常軌を失い、景盛誅殺を命じたことを知った政子の驚愕と失望は察するに余りあります。
おそらく彼女は、この瞬間に源家の将来を見切ったのでしょう。


♪天青咲いてわたしの夏が来る 茫洋

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神奈川県立近代美術館の「建築家坂倉準三展」を見ながら

2009-07-09 07:40:01 | Weblog


勝手に建築観光36回&鎌倉ちょっと不思議な物語第198回

坂倉準三は大学卒業後、1929年に渡仏し、ル・コルビジュのアトリエで働き、彼の仕事をつぶさに見聞きしてそのノウハウを身につけた建築家です。

1937年にはパリの万博日本館の設計でグランプリを獲得、1939年に帰国してからはここ鎌倉に1951年に神奈川県立近代美術館を建てたり、1966年には新宿西口広場や地下駐車場のデザインを担当してフォーク集会に格好の場を提供するなど、わが国の建築史上に多大の功績を残し、全共闘運動の波動も禍々しい1969年に68歳で亡くなりました。

この人の特徴はやはり師匠ル・コルビジュ直伝のモダニズムと、そこに薄味の醤油のように加味された和風趣味のハイブリッドということではないでしょうか。それは東京市ヶ谷の日仏会館や本展が開催されている鎌倉の県立近代美術館を見ればよくわかるようなきがいたします。

市ヶ谷の高台に聳えるおふらんす文化の白亜の殿堂、東京日仏学院はそのモダンな内外装も見事ですが、その昔は語学を教える超絶的美人が何人もおりまして、当時田舎から上京したばかりの私は、最初の授業でうっかり最前列に座ったばかりに œuの発音を何度も何度もやらされました。

その金髪のミレーヌ・ドモンジョそっくりのパリジェンヌは、微笑みながら私の唇すれすれにその美しい唇を突き出して œu、 œuと繰り返しますと、シャネルの5番の香水がほのかに混じった生あたたかい息が、まともに私の顔に当たるので、私は生まれて初めて卒倒しそうになりました。

恥ずかしさに真っ赤になった私が、彼女の「口移し」でœu、 œuとうなりますと、その度に「ノン、ノン」なぞとたしなめられ、何度も何度もやり直しを命じられる。
このようにして美しき女教師ドモンジョ嬢の血祭りに上げられた三四郎は、もうこりごりと次回からの夏期講座を放棄してしまったのですが、そのおかげで女性とフランス語に対する致命的なトラウマを刻印されることになってしまったのです。

しかし、もしもあのシャネル鼻息攻勢に懸命に耐えて通っておれば、おのずとまた違った展開があったかもしれない、などと思いかえせば、いまなお恨めしき坂倉準三設計のお化け屋敷であります。

思いっ切り横道にそれてしまいましたが、八幡宮の入口右にひっそりたたずむ県立近代美術館は私のお気に入りの場所で、2階のカフェから見下ろす平家池の蓮は絶品です。なによりも土と水と緑に完全に溶け込んだ建物の、目立たなくて、上品で、温和な風情が私たちの心にしとりとなじむのでしょう。

それにしても、ル・コルビジュは、いったいどこから彼一流の高床式建築術を編み出したのでしょう。もしかするとアジアやインドシナ、南洋諸島の古い土俗的な様式から学んで、近代建築に生かそうとしたのかもしれませんね。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k

♪ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか 茫洋


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鎌倉国宝館の「お釈迦さまの美術」展を見る

2009-07-08 07:55:11 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第197回&バガテルop106

鎌倉国宝館では7月12日まで「お釈迦さまの美術」展をやっています。
今回は建長寺の「宝冠釈迦三尊像」や寿福寺の「釈迦三尊十六善神像」などが出品されていますが、私がもっとも惹かれたのは宝戒寺と瑞泉寺の「仏涅槃図」でした。

ご存じのように「仏涅槃図」はお釈迦さまが亡くなるときの様子を描いた絵画ですが、中央に横たわるお釈迦様よりも、その涅槃を嘆き悲しむお弟子たちや隣人たち、とりわけ画面のいちばん手前で身も世もあらぬ風情でのたうちまわっている動物たちの表情にいつものことながら限りなく魅せられます。

 牛や馬や鹿はもちろんさまざまな鳥や鶏、矮鶏、魚たち、大きな蛇や象まで地面に転がってウオンウオン泣き叫んでいる。生きとし生けるもののすべてに愛され、親しまれた宗教家の面目が躍如としています。しかも愁嘆場なのになぜかおかしい。時間の流れがとまりが一世一代の名演技をしているような錯覚にとらわれ、まるで一場の大芝居を見ているようです。

 ところが同じ偉人でもキリストなんかになるとやたら荘厳かつ近寄りがたい雰囲気になります。ベツレヘムの生誕の折には三人の東方の大博士の周囲に羊や牛などが前足を折ってひざまずいている絵などを見たことがありますが、十字架で磔にされた後、マリアや弟子たちなどの人間以外の存在から涙ながらに哀悼されるという情景はあまり絵画でもお目にかかりません。

ミケランジェロの「ピエタ」対「仏涅槃図」―。
ここに人間第一主義で動植物の生命を軽視する厳格なキリスト教と、天台本覚思想にもとづく「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」という多義的でゆるい汎神主義をモットーとする仏教との対比を見るのも面白いかもしれません。

「仏涅槃図」のパロディで、あの伊藤若冲が野菜だけを主人公に描いた「果蔬(かそう)涅槃図」などを見せたら、ミケランジェロはなんというでしょうか。


♪人生にはいくつもの締め切りがあると知れ 茫洋
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谷川俊太郎著「トロムソコラージュ」を読んで

2009-07-07 06:54:02 | Weblog


照る日曇る日第270回&♪ある晴れた日に第60回

わたしがこのないだこの人の詩が下手くそであるという歌を詠んだのは
月いちで掲載される朝日新聞の短いものを読んでおそろしく手抜きである
あんなものなら誰でも書けると思ったからだが、
この「トロムソコラージュ」を先に読んでいれば
あんな馬鹿な短歌は作らなかったし作れなかった。

それにしてもトロムソコラージュってなんだ。ソロムコなら代打満塁ホームランだが
ノルウエーの森の向こうを張って、訳の分らぬ題名をみだりにつけるな。
しかしわたしはいちど書いたものを取り消すのは嫌だし沽券に係わるとも
感じているのであえて白紙撤回するのはやめておこう。
拍手喝采 博士は風邪だ うちのムクちゃん墓の中

その詩人は若き日の面影を濃密に湛えながらも
新宿地下鉄丸の内線のプラットホームを歩いていた。
どす黒い疲労と深い悲しみが彼の全身を覆い尽くしたが、
窪んだ眼窩の奥底で爛々と光る両の目は依然として20億光年の孤独を見つめていた。
思いのほか背が低かったが、巷を低く見ようと背筋を伸ばして歩いていた。

こんな可哀そうな老人を死んでしまえと罵ったねじめ正一は呪われてあれ!
怒った詩人は棺桶に突っ込んでいた左足をやっとこさっとこ引っ張り上げて
与えられたお題「ラジオ」による見事な即興詩をけつの穴からひりだして
傲慢なる前チャンピオンをかりそめの王座から引きずり落としたのだった。
ねじめ けじめ お前のあそこは くそだらけ

そして今度は竜虎の勢いで、
ロシア、ドイツ、モロッコ、イングランド、ウエールズ、スコットランドを次々に制覇し、赫々たる感情旅行の成果を長編詩集におさめてしまう。
土地の精霊が宿る心霊写真と共に。
いいないいな いい歳こいて いい娘を抱いて

ハレルヤ! 
永久不滅の詩のチャンピオン。
不老不死の言葉の錬金術師。
もはや勃起しない陰茎で女人を犯す。
立ち止まらないよ、君は。

ハレルヤ! 
死してはまた不死鳥のように蘇る気高き詩魂。
超低空飛行の後期浪漫主義者。
人っ子ひとりいない場所を自分の心の中につくる
立ち止まらないよ、君は。

♪尻の穴に指突っ込めば気持ちいいぞといいし井口君アルジェで何しているか 茫洋


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井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

2009-07-06 06:44:22 | Weblog


照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

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藤原道長「御堂関白記」上巻(全現代語訳)を読んで

2009-07-05 09:17:14 | Weblog


照る日曇る日第268回

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
という歌を詠んだといわれる藤原道長の自伝の現代語訳です。

 こういう手放しの自画自賛を臆面もなくやってのける奴はいったいどういう人物なのかと思って手を出したのですが、なかなか面白い本でした。
 
まず「この世をば」と即興でなぜ詠めたのかといいますと、これは道長が朝はお天道さま、夕べはお月さまを必ず観賞する人間だったからだと断言できます。
彼の日記は必ずお天気メモから始まり、夜の名月や笠置寺参拝の折の流星の記事などまるで天体観測家を思わせるほど。功なり名を遂げ摂関政治の頂点に立った自負を月に例える必然性はその日常生活の習慣からきているといえそうです。

道長は、お天気や彼の日常や身辺で起こった怪異だけでなく、14歳違いの甥の一条天皇との政治的な協調ぶりやちょっとした反発、寺院における法華八講などの盛大な法事や除目の詳細、さまざまな儀式や賀茂祭などの祭典、頻繁に行われた作文会(漢詩を作る)のテーマなどについてもくわしく書き記していて、ちょっと永井荷風の日記に似た関心の広さを示しています。次々に病に侵されるところや、連日のように相撲取りに相撲を取らせて喜んでいるところなど、とても一〇〇〇年前の人物とは思えません。

けれども荷風と違って日記の文章にはいっさい屈折も韜晦もなく、なにをどう述べても単純明快そのものであり、彼の精神がまことに健全で、西欧のルネッサンス時代の知識人のような強靭な知性と晴朗さ持ち合わせていたことを雄弁に物語っています。

面白いのは、当時の皇族や貴族たちは「毎日が物忌デー」といえるほど数々の禁忌に取り囲まれて暮らしていたということです。
たとえば甥の一条天皇が住んでいる内裏では、しょっちゅう犬や鳥、時折は身元不明の人間の死体が発見され、その度に安倍晴明などの陰陽師が呼び出されて占い、その託宣次第でさまざまなリアクションが起こります。いまから1000年目に陰陽師たちがこれほど権力者たちに重用されていたとは驚きです。

それから忘れてはならないのが、藤原道長と紫式部、源氏物語との関係です。
寛弘2年10月1005年の浄妙寺三昧堂の供養における法王・天皇をはじめすべての皇族や貴族百官や高僧たちが居並ぶなかで粛々と繰り広げられた荘重な儀式や読経、楽器の演奏などの華麗なパフォーマンスの数々、あるいはその3年後に一条帝が左大臣道長が住む土御門邸を訪ねるシーンでは、はしなくも紫式部が源氏物語で描写した華やかな式典と権力者たちの栄枯盛衰の無常をまざまざと想起させ、光源氏のモデルに擬せられる道長の存在ともども、いずれが表でいずれが裏か、いずれが真でいずれが虚か、と日記の細部に至るまでつきせぬ興味が湧いてくるのです。


♪ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記 茫洋

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杉本秀太郎著「伊東静雄」を読んで

2009-07-04 11:34:49 | Weblog


照る日曇る日第267回

私にとって伊東静雄は、中原中也と並んでまさに「詩人の中の詩人」というべき存在です。

太陽は美しく輝き
あるひは太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った

1935年(昭和10年)、彼が若冠29歳で書いた詩集「わがひとに与ふる哀歌」を読んだ人なら、この詩人の研ぎ澄まされた知性とあまりにも繊細な感受性、その孤高に拠るエキセントリックな世界に驚嘆し、憧憬と近寄りがたさの両方の気持ちを懐くに違いありません。

彼の詩はヘルダーリンやゲーテ、古今集などから学んだ象徴的な修辞技法、とりわけ隠喩を駆使した難解ではあるけれど美しすぎる語法に最大の特徴があると思われますが、その代表作「わがひとに与ふる哀歌」を文字通り徹底的に読み解いたのがこの本です。

まず著者は、この詩集はプロットにもとづいてすべての作品を作り配列されたと断言します。次に、題名の「わがひと」とは詩人の恋愛の対象である女性ではなく、「私」という男の「半身」であるところの男性であるとし、冒頭の「晴れた日に」以下の連作は、その「私」と「私の半身」との間の応答あるいは対立と相互抵抗から生まれ、和解のないままに「放浪する半身」の入水自殺によってこの相互関係は断絶したと断定するのです。

それは確かにひとつの仮定にすぎませんが、強引とも思えるこの想定に従って読みはじめた私は、それまでは美しいけれども難解そのもので結局は意味不明であった諸作品が著者の解説と解釈によって次第に統一的な視点で像を結び、形式と意味内容ともどもが初めて腑に落ちるという類稀な詩的体験を味わうことができたのでした。

余談ながら著者は、「わがひとに与ふる哀歌」の第14番目の「詠唱」という作品を読むと、ショパンの「24の前奏曲」の第7番の曲を思い出すと書いています。

この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだろう
そして蒼空は
明日も明けるだらう

というたった6行の短い詩は、あの短いイ短調のピアノ曲にまことにふさわしい境地であり、私は著者の鋭い感性にいたく共感を覚えたのですが、それがアルゲリッチやポリーニの演奏ではなく、太田胃散の悪名高きBGMとして耳朶を打ったことに激しく臍を噛んだことでした。

♪太田胃散いい薬かもしれないが悪い音楽です 茫洋
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「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

2009-07-03 09:05:48 | Weblog


バガテルop105

東京のJR大塚駅北口徒歩10分にある画廊MISAKO&ROSENで7月19日まで開催されている展覧会「ゲバゲバサマーショー」は、新進気鋭の現代作家たちのカジュアルな新作が狭い会場せましとラインアップされ、それこそゲバゲバで楽しいカオス状況をかもしだしています。

油彩、アクリル、水彩、スケッチ、肖像、いたずら書きなども交えた小品が中心ですが、アイデア満載のビデオ作品、インスタレーションなども出品されており、おもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャさと新鮮さが魅力です。

参加アーティストは森田浩彰、後藤輝、服部あさ美、ディーン・サメシマ・トレバー・シミズ、今井俊介、岸本雅樹、相田可奈子、ダン・ハーズ、ウイル・ローガンなどの面々ですが、私は佐々木健が描いた2つの小さな油絵の新境地に打たれました。

この作家はここしばらくはアンプや楽器などおよそ見栄えのしない身近な物をモノトーンで描き続けてきました。そういう石ころのように地味な物を凝視し、その物の内部に肉薄し、その物の核心をつかみ取ろうと地を這うような精進を続けてきたようです。

そして作家の努力と研鑚は、描かれたただのラジオやペットボトルが、平成のアール・ヌーヴォーとでも呼ぶべきある種の生命性を獲得し、「物の精霊」それ自体が発するような不思議な燐光を発しながら静かに輝いている、そんな光景をついに出現させたのではないでしょうか。

梅雨空の下、ギャラリーの外では無情の雨が降り続いていましたが、私は名状しがたい感動につつまれてそのちっぽけなキャンバスに見入っていました。


◎ゲバゲバな4週間→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/


水無月尽今年最初の蝉がなく 茫洋
水無月尽今年最初の仕事来る

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小栗康平監督の最新作「埋もれ木」を見る

2009-07-02 07:45:44 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 6 

「埋もれ木」とは彦根の大老井伊直弼の話かと思っていたら、あにはからんや三重の鈴鹿の話でした。この町から大昔の炭化した巨木が掘り出されて話題になったので、それをタイトルにしたようですが、何千年前の壮大な森林、埋没林の威容をまざまざとしのばせてくれる黒い断木でした。

「木は切られても呼吸をしています」、とある登場人物が語りますが、すでに無くなったはずのものが、じつはまだどこかで生き残っていて、ある日突然その懐かしい面影を私たちに伝える。この映画を見ているとしばしばそんな場面に立ち会うことができます。

砂漠から町にやってきたラクダや浅瀬に迷い込んだ巨大なクジラ、森で踊っている妖精たちやトンパ文字……その思いがけないうれしさ、かけがえのなさを、この映画は手を替え品を替えまるで魔法の手品のように、サンタの贈り物のように手渡ししてくれるのです。

それにしてもこの映画の美しさは、とうていこの世のものとは思えません。1カット1カットが詩であり光と影に彩られた美しいタブローです。現実の鈴鹿の町のコンビニをキャメラがとらえたさりげない光景にしても、外国人労働者の国外退去を通告する役人の声も、どこかお伽噺のように非現実的です。

大人も子供も、男も女も、すべての人々はこの世にありながら、遠く忘れられた時代に生きている。いやもしかするとあの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている虚構の町の亡霊たちなのかもしれません。ラストの埋もれ木に取り囲まれた洞窟から放たれた赤いラクダが夜の空にゆらゆらと立ち上っていく幻想的な情景を、人は子供のころにいつかどこかで目にしたに違いありません。

鈴鹿町の住民をはじめ岸部一徳、田中裕子などの個性的な役者が出演していますが、とれわけサックス奏者にしてミジンコ研究者の坂田明のキャラクターが印象に残ります。そいいえば坂田さんは、小学館の万能キャメラマンの斉藤君をつかまえて、「ミジンコがちゃんと撮れなきゃあ一人前とはいえないぞ」と1ぱつかましたことがありました。


あの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている 茫洋

訂正 昨日の記事で「アマゾンの半漁人」は「半魚人」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

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「アマゾンの半魚人」が消した私の書評たち

2009-07-01 08:15:56 | Weblog

バガテルop104

これまでAmazonの書評コーナー「カスタマーレビュー」に書籍だけで60点以上、映画やDVDを加えると100点は下らない感想文を投稿してきましたが、最近確認したところ2009年4月10日に投稿したはずのT.E.ロレンス著「知恵の七柱 1 完全版 東洋文庫」などのデータがいつのまにやら消えうせています。

夫馬基彦の「按摩西遊記」も田村志津江の「李香蘭の恋人キネマと戦争」も、最近書いた「高橋源一郎の「大人にはわからない日本文学史」も、2008年11月に投稿した雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス」の書評も同様に消去されていました。

これまで私は、書籍については同じ内容の書評をAmazonとbk1社に同じように投稿してきましたが、bk1社の延べ掲載点数が67、Amazonのそれが映画やDVDを含めてちょうど30点ということは、小生が投稿した総点数のおよそ半分をAmazonは没にしたということになります。

もとより浅学菲才の身ゆえ、悲しいかな削除された約30本は、おそらくはAmazon社の厳しい投稿基準を満たさない幼稚かつ過激な表現に満ち溢れていたのではないかと危惧した私が後学のためにAmazon 社の英明なる担当者に削除理由を尋ねたところ、それらは800字という文字制限を超えていたから削除されたという返事。あれらの作文とパソコン操作に費やされた膨大な手間暇をどうしてくれるんだと文句の一つも言いたくなりました。                      

そこで本日はアマゾンの半魚人によって無残にも消去されてしまった雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス 存在と食について」の書評を再掲載させていただくことといたしました。


◎雑賀恵子著「エコ・ロゴス 存在と食について」 存在を賭した精神の大旅行記

「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。

「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。

そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。

「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」

「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」

この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


◎雑賀恵子著「空腹について」 知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセー

新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。

「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」

という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。

まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。

 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。

 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。

 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。

「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」

 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。


       ♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋
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