あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

スピルバーグ監督の「ターミナル」を見る

2009-10-16 10:18:24 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.16

これは故国を旅だってニューヨークのJ.F.ケネディ空港に到着したトム・ハンクス扮する主人公が、父の願いをなかなか果たせずに同空港の内部で延々と滞在を余儀なくされるというお話です。

ロシアの隣国と思しき主人公の母国クラコージアで突如軍事クーデターが勃発したためにパスポートやヴィザが無効になり、扉の向こう側のニューヨークに出て父が夢見たジャズメンのサインをもらうこともできず、かといって戻ることもできず、英語もろくに話せないトム・ハンクスは文字通り立ち往生してしまいます。

しかしそこはよくしたもんで、寝る場所、仕事、友人はもちろん彼に好意を寄せる女性まで出てきます。この不倫の恋に悩むスッチー役のキャサリン.セタ・ジョーンズが色っぽく、とっぽい田舎者トム・ハンクスに意地悪な空港管理の官僚役のバリー・ジャパカ・ヘンリーが好演しています。

すったもんだの大騒動がいろいろあって、最後は意を決した主人公が仲間たちの応援と悪者役の慈悲のお陰で空港の外に出て父の悲願を果たし、折り良く母国のクーデターも解決したために無事に帰国の途に着くというスピルバーグらしいハッピーエンドで終わります。

サスペンスとロマンスとコメディーを足して3で割ったそれなりにウエルメイドなハリウッド映画といえるでしょう。


木犀を探し歩くや浄妙寺 茫洋


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ジョージ・ルーカス監督「アメリカン・グラフィテイ」を見て

2009-10-15 07:18:33 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.15

全編オールディーズ音楽満載の懐かし60年代回顧フィルムですが、いまみても「青春って変わらないなあ」と思わせてくれるつよい普遍性を発散しています。

主人公はハイスクールの男女というよりもキャデラックでしょう。ガソリンをいっぱい喰いそうな巨大な車が一晩中南カリフォルニアの街中を走っています。そしてこれと思う異性を見出すと身を乗り出してこっちに誘うのです。

ボーイ・ミーツ・バールあればガール・ミーツ・ボーイありで、色気づいたハイティーンが考えているのはあればかり。あれあれあれ、車の中であれをやらかしたい、やらかそう、やかかさなくては、という涙が出るほど単純明快な主題は、到底われら陰湿な4畳半襖の下張派の日本人選手の及ぶところではありません。

しかしすべての青少年が肉食系なのではなく、その反対にもっとも印象的なのはリチャード・ドレファス扮するいくぶん思索的な若者のプラトニック・ラブ。あすは大学入学だというのに、車からほんの一瞥しただけの白いドレスの女に懸想して一晩中車を転がしているのです。

偶然伝説のDJウルフマン・ジャックの助けで彼女と電話で話すことができたドレファス選手ですが、明日なら会えるという彼女を取るか、それとも進学を取るかで悩んだ若者は結局恋を捨てるのです。

もし飛行機に乗るのをやめて彼女に会っていたなら、というその切ないジョージ・ルーカスの思いが、このコスモスの花のようにはかないドライビング・ムービーを作りました。
そのルーカスが脚本と監督、製作をフランシス・コッポラが担当し、役者にはドレファスをはじめハリソン・フォード、ロン・ハワードなど当時の豪華無名キャストが熱演しています。

♪青春は醜く愚かで恥ずかしく悔しきままに遠ざかりゆく 茫洋

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吉村昭「歴史小説集成第4巻」を読んで

2009-10-14 08:46:13 | Weblog

照る日曇る日第300回

岩波書店から刊行されているシリーズの第4巻には「落日の宴」「黒船」「洋船建造」「敵討」の長短4つの作品が収められており、幕末のペリー来日の頃の幕吏の精力的な活動ぶりをつぶさに追体験することができます。


嘉永6年1853年6月、ペルリ提督率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航し、彼らが去って間もなくプチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に入港し開港や通商を要求しました。
著者は、前者を題材とした「黒船」では小通詞堀達之助、後者を扱った「落日の宴」では交渉役を務めた川路聖謨(かわじとしあきら)を主人公として、この史上未曽有の国難に当時の幕閣がいかに誠実に、持てる全知全能をあげて対応したかを精細に描破しています。

「黒船」では、アメリカ艦隊の威嚇的な態度と、これに終始振り回される老中阿部伊勢守正弘をはじめ徳川幕府の指導者たちの態度が対照的です。
米国が強行し、日本が追認するというパターンはこの時に確立され、この恨み重なる屈辱をいっきに晴らさんとして企図されたのがかの太平洋戦争でしたが、一擲乾坤の大博打にまたしても屈辱的な敗北を喫した日本は、依然として大きなコンンプレックスをこの大国に対して懐き続けているようです。

ペルリ側の攻勢に対峙する老中阿部伊勢守正弘などの幕閣の裏舞台も興味津津ですが、それ以上に興味深いのは、小通詞堀達之助の波乱に満ち曲折に富んだ生涯です。
長崎でオランダ語をマスターした堀は、同僚の森山の誹謗中傷によって小伝馬町の牢屋敷に収監され、そこで高野長英と同様にはしなくも牢名主となって安政の大獄で斬に処せられた水戸家の家老や頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰などの悲劇を目の当たりにします。

彼の語学の才を知る古賀謹一郎によってようやく娑婆に出た堀は、英語の達人たちに追いあげながらもその習得に努め、日本人の手になる初めての英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を完成させるのです。
ようやく函館で維新を迎えたのもつかの間、われらが主人公は今度は榎本武揚率いる幕府軍から命からがら逃げ回りながらも47歳にして愛する女性と巡り会い再婚するのですが、美人薄命の言葉通り彼女に先立たれ、やがて次第に衰えながら齢72歳で没するのです。時に明治26年でした。

「落日の宴」でロシア艦隊を率いたプチャーチンと互角以上にやりあった川路聖謨は、つとに世界情勢を熟知し、開国の必然を見抜いていた当時最高級の政治家でした。
50歳を過ぎながら三島から天城を越えて下田まで160里を1昼夜で走破した強靭な肉体と精神力、高い教養と高貴な人格は世界中で第1級の人材であると敵であるはずのプチャーチンや秘書官のゴンチャロフ(あの名作「オブローモフ」の作家ですよ!)からも激賞されています。

それにしても伊豆で沈没したロシア艦「ディアナ号」をめぐる政治折衝は猛烈無比なもので、このような重大局面をよくも川路や阿部は切り抜けたものだと感嘆せざるを得ません。
現代の歴史家は彼ら幕末の政治家を薩長の田舎者と対比してとかく優柔不断で肝が据わっていないと低く評価しがちですが、西郷、大久保、桂、岩倉などとサシになれば果たしてどちらの人物が上であったでしょうか。

徳川の世に最後まで忠誠を誓った川路聖謨は、慶応4年3月15日、江戸城が討幕軍の手に落ちるのを潔しとせず齢67歳で自決して果てました。
山田風太郎が評したごとく「徳川武士の最後の花」ともいうべきまことに見事な死にざまでありました。


腹横一文字にかっさばき晒を巻きてのち喉に短銃打ち込みたり 茫洋
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橋本征子著 詩集「秘祭」を読んで

2009-10-13 09:00:28 | Weblog
照る日曇る日第299回

「夏の呪文」「闇の乳房」「破船」につづく著者の第4番目の詩集「秘祭」が刊行されました。

苺、アスオアラガス、桃、アドカボ、にんにく、イチジク、メロン、レモン、ホウレンソウ、ピーマン……、キッチンにそっと置かれた果物を凝視するうちに詩人の心の片隅に、突如として遠い少女時代の思い出や父母の記憶、異国の忘れがたい光景、そしてさまざま奇想が浮かんでくるのです。

それはたとえば、子宮の中で波打つアマゾネスの血脈、父祖伝来の不遜な欲望と草原の孤独、氷河の上の青空へのあこがれ、原野に棲息する先住民族の咆哮。野太い太鼓連打に高鳴る心臓、透明な思惟と最後から2番目の抒情……

では早速ページを開いてみましょう。

暗い電灯の下 影のない死者たちと円陣
を組んでかぼちゃを食べる 暗い洞穴の
口のなかにほっくりと煮た真黄色のかぼ
ちゃを放り込み 歯茎で咀嚼する わた
しも食べる 噛むたびに 痛くもないの
に歯がぽろぽろと抜けてゆく 吐き出し
てみると白いかぼちゃの種 死者たちは
わたしをみてやさしく微笑む 滅びたも
のたちの祝祭 供物 かぼちゃ     「パンプキン」より


ここに流れているのは、多彩な諧調を見事に制御した由緒正しい音楽の調べ。静謐なハーモニーを縫って流れる美しい旋律。そして不意に波打つ痙攣的な転調。眩い色彩の氾濫、たちまち失われる調和の幻想、空虚な日常をいっきょに満たす圧倒的な詩的ヴィジョンの奔騰……。


種の少ないつややかな水気の多いコルニ
ッション 少年の美しいペニスの短剣 
醜い陰毛が生える前の清浄な野菜 肩甲
骨に嵌められた茎から水滴が溢れて 少
年の無垢な体をすみずみまで沐う 生殖
を今だ知らない体はしなやかに伸び 下
半身をくねらせ 再び海へとすべらかに
入って行く 少年の性器の聖性 小さな
きゅうり コルニッション       「コルニッション」より


テーブルの上でつややかな尻をだしたま
まの桃 真っ赤な夕焼けの映る水たまり
をもう飛び越えることなない果実 鉄棒
の逆さ上がりにもう挑むことのない果実 
記憶の冷たさに潜んでいて 今 漂着
物となって辿り着いたもうひとりのわた
し ずっと前 わたしのなかで流れ消え
去って 今 蘇ったわたし 桃     「桃」より

ここに繰り広げられたのは、遠い森の奥で開催されている性の祝祭、動物と植物の結婚、音もなく爆発する生理、真紅の夢の洪水、覚醒、沈下と上昇、そしてまた音楽、うちならされる打楽器、ダンス、ダンス、ダンス……。


北の街で来るべき冬を待つ詩人が暖炉の傍らで夢見るものは、いったい何でしょうか?
それは晴朗な成熟と穏やかな退去? いな全身を一撃のもとで溶解させるいまひとたびの燃ゆる恋、魂を震撼させる新たな叡智の降臨、よりよき豊かな生への誘惑、そしてゆるやかで甘い眠りのおとずれ……。


北国の冬の夜空に鳴り響く花火はきみの秘めたる祭りか 茫洋

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高橋源一郎著「13日間で「名文」を書けるようになる方法」を読んで 後編

2009-10-12 09:23:38 | Weblog


照る日曇る日第298回

この長谷川摂子の童話「めっきらもっきらどおんどん」が、いったんは失われた言葉の力を取り戻す光景は劇的で、その昔、やはり脳に障碍を持つ私の長男が一度は失われていた発語を取り戻した折の無上の感激をはしなくも思い出しました。

源チャンは「ふつうに」生きていくことができなくなるかもしれない息子の将来を思って戦慄するのですが、「彼がどんな風になっても支えていこう。これからはずっと彼をわたしたちの家の中心にして暮らしていこう。彼の生涯を支えられるだけのものを、わたしはなにがなんでも作り出していこう」とけなげにも決意します。

そしてこのとき、不思議なことに将来への恐怖とともに、「大きな喜びのようなものを」感じるのです。

源チャンは、その喜びとは、これまでこの世の中の主流を歩んできたいわば「右まきの人」が、世の中の主流をはずれた「弱い人」や「少数派の人」「左まきの人」の「横に立つ喜び」であると定義するのですが、この尋常ならざる喜びこそは、不幸のどん底で呻吟しているはずのわれら地底人が、はるか地上を仰ぎ見るような斬新な視角をあたえ、この世にあって一身にして二生を経るような複合的な生きがいを与えてくれる得難い特権に他ならないのです。

我田引水して急遽同病を憐れむわけでは毛頭ないのですが、このたびの高橋源チャンの原体験は、彼の今後の作家活動にとって大きな飛躍の源泉となるに違いありません。

ぐあんばれ源チャン!
ありがとう君こそはわが聖なる愚者わが生きるよろこび 茫洋

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高橋源一郎著「13日間で「名文」を書けるようになる方法」を読んで 中編

2009-10-11 08:40:40 | Weblog


照る日曇る日第297回

それからこの本(講義)のもうひとつの楽しさは、行き当たりばったりの即興的な自由さです。くだらないシラバスにとらわれない、ジャズの演奏に見られるような奔放な思索のインプロビゼーションです。

たとえば源チャンの第9回目の授業は、思いがけないトラブルに見舞われ、休講を余儀なくされます。彼の2歳9か月になる次男が急性脳炎の疑いで救急車で病院に担ぎ込まれたからです。

医師から「小脳性無言症」と診断されたキイちゃんは、小脳に大きな損傷をこうむり、それまで自由にしゃべっていた言葉が突然出なくなってしまいます。

そして、息子の「発語機能」が損なわれたのは、著者が文芸雑誌に連載したキイちゃんを主人公とする小説の物語の中で、キイちゃんの言葉を奪ったからだ、となじる妻の詰問が、なんと10回目の授業で源チャンの口から淡々と紹介されるのです。

「あなたがあんな小説を書くからよ! いますぐ小説をハッピーエンドにして! キイちゃんに言葉を取り戻させて!」

しかしまるで小説を地でいくこの実話は、あるささやかな奇跡が起こることによって、その絶望的な悲惨さがいくらか明るい方へと向かいます。それは源チャンが次男の大好きな童話を読み聞かせているときに起こりました。

「ちんぷく まんぷく あっペらの きんぴらこ じょんがら ぴこたこ めっきらもっきら どおんどん」

源チャンが魔法の言葉をささやくと次男は、「けたけた、げらげら」と笑いだしたのです!
 

♪めっきらもっきらどおんどん魔法の言葉がわが子を救う 茫洋
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高橋源一郎著「13日間で「名文」を書けるようになる方法」を読んで 前篇

2009-10-10 10:21:36 | Weblog


照る日曇る日第296回

これは著者が毎週木曜日の4時限に明治大学国際学部で行った「言語表現法」の13回の講義の実録ライブ収録です。軽薄な実用書のようなタイトルで損をしていますが、内容的にはその正反対の著作であると断言してもいいでしょう。

よしんば誰がどんな名講義を13日間どころか13年間行ったとしても、受講した学生に名文など書けるわけもないのですが、そんなことは百も承知の上で高橋の源チャンはユニークな授業を行っています。

ではそれはどんな講義だったのでしょう?

著者はまず学生に著者が好きな文章(ソンタグの遺書、斎藤茂吉の恋文、日本国憲法前文、カフカの「変身」、バラク・オバマやハーヴェイ・ミルクの演説など)を読んでもらい、それから何か課題(自己紹介、ラブレター、「憲法」や「演説」を書くなど)を出して学生に文章を書いてもらい、その文章について学生とともに話し合いながら、お互いにああでもない、こうでもないと考えはじめます。

それらの素材やこれらの講義自体をダシにして、「書くこと」や「話すこと」にとどまらず「生きること」をめぐってああでもない、こうでもないと、まるでソクラテスのように「考えること」自体が、この授業の狙いなのでしょう。

言葉という重宝な道具を上手に使いこなして「考えるすべを見出すこと」、そうして本人未踏の知られざるどこか遠い世界の果ての果てまで思惟の旅を続けることが、この「言語表現法」講義の遠大な目標となっているようです。

そうしてこのユニークな講義の実況中継を読む私たち読者は、著者が設定したその簡単な仕組みからもたらされる、もぎたての果実を味わうような思考のみずみずしさとおいしさを追体験することができるのです。


♪どこまでも遠くへ行くんだ言葉という翼に乗って 茫洋
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スピルバーグ監督「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を見る

2009-10-09 09:04:58 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.14

自分が大好きな人はいざ知らず、あまり好きでないからこそ人はもう一人の自分を夢見たり、年甲斐もなく自分探しなる虚妄の旅路に出るのでしょう。

そういう元スポーツマンにうってつけの映画がこれ。パイロットや医師や法律家に次々に成り済ましてしまう実在の男フランク・ウィリアム・アバグネイルをモデルにした映画です。

アバグネイル役を演じるデカプリオと、トム・ハンクス扮するどこか間抜けなFBI捜査官との虚々実々のかけひきがなかなかおもしろく、クリスマスイヴになると寂しくなるデカプリオがオフィスでたった一人のトム・ハンクスに電話してくるところなぞ泣かせます。

それにしても六〇年代のパンナムのパイロットはよくもてたのですねえ。美人スッチーを何人も従えて空港を闊歩するかっこよさ! いまや飛ぶ鳥さえ憐れむ体たらくに陥ったわがナショナルフラッグの高給取りも、さだめしこのあで姿にあこがれて入社したのでしょうね。やってることは鳩バスの運転手とバスガイドさんと同じだというのに。

多重人格の持ち主ならずとも、千恵蔵の「7つの顔の男」でなくとも、人間はいくつものことなる性格や適性を内蔵していますから、アバグネイルのような別人格成り済ましも十分可能なはずですが、この映画のようにどこまでいっても「らっきょうの皮むき」状態となると自己同一性の喪失ということになって大変ですね。

そしてスピルバーグの映画作りもどことなくこの「らっきょうの皮むき」に似ていて、それぞれの皮(作品)はそれなりに面白いのだけれど、所詮はらっきょうの皮にすぎなくて、見終わってしまえば「それでどうしたの?」と観客がみな口をそろえて言うので、スピルバーグは仕方なくまた「新しいらっきょうの皮」を見せなければならなくなるというわけです。

♪一枚また1枚らっきょうの皮めくるめくわが人生 茫洋

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吉村昭著「彰義隊」を読んで

2009-10-08 09:53:49 | Weblog


照る日曇る日第295回

徳川幕府に最後まで忠誠を誓い、上野の森に立てこもって薩長の朝廷軍と戦った彰義隊は新撰組と並んで江戸が最期に咲かせたささやかな玉砕の2輪の華でしょう。

しかし著者がこの本で精細に描いているのは、その彰義隊本体ではなくて、彼らの精神的支柱と仰がれ、後に奥羽列藩同盟の盟主に担ぎあげられた寛永寺門主の輪王寺宮の波乱に満ちた生涯の軌跡です。

輪王寺宮は名は能久、法名を公現と称し、弘化4年1847年伏見宮邦家親王の第9子として生まれ、12歳で勅命により輪王寺宮を襲名し、元治元年1864年には親王の位の第1位をさずけられて天台宗の最高責任者として比叡山、東叡山、日光の3山を管領するようになりました。

輪王寺宮は慶応4年1867年1月の戊辰戦争で敗北した一橋慶喜の一命を救助しようとして箱根を下り、朝廷軍の東征大総督であった有栖川宮の慈悲を乞うたのですが、にべもなく拒否されてしまいます。有栖川宮は自分の婚約者であった和宮を奪った徳川家を憎み、その一族である慶喜に味方する輪王寺宮に冷酷に対応したのです。

同じ皇族のよしみを心頼みとし、交渉に楽観的であった輪王寺宮の自負と矜持はむざんに打ち砕かれ、あまつさえ有栖川宮率いる官軍は彰義隊を討伐すると称して輪王寺宮が居住する寛永寺をなんの断りもなく砲撃します。

この時の体験が彼の運命を一変させてしまいました。朝廷を代表する一員であり、明治天皇の伯父でありながら、輪王寺宮は有栖川宮への敵意と対抗意識から官軍に反旗を翻し、賊軍である幕府の側に立つのです。

しかし東北雄藩の奮戦むなしく奥羽列藩同盟はあっけなく崩壊し、輪王寺宮はまたしても一敗地にまみれてしまいます。朝廷軍に降伏して京に呼び戻された輪王寺宮は、東征のみならず佐賀の乱や西南戦争の鎮圧にも勲功をあげた有栖川宮に激しいライバル意識をいだき、兄の小松宮の力を借りてドイツに留学して軍事技術を修得し、勃発したばかりの日清戦争に従軍して国恩に報いようと望んだのですが、その切なる願いを握りつぶしたまま宿敵の有栖川宮は61歳で逝去してしまいます。

けれども明治23年5月、ついに宿願が果たされる日が到来しました。兄の小松宮によって近衛師団長に任じられた輪王寺宮は、清国と通じた台湾の不穏な動きを鎮圧することを命じられたのです。かつての朝敵としての汚名をそそごうと勇躍した輪王寺宮は、兵士の先頭に立って清国軍と激戦を繰り広げたのですが、不幸にもちょうどその頃台湾で大流行していたマラリアに感染し、同年10月28日48歳で病没しました。

もしかすると明治天皇に代わって天皇になっていたかもしれない一人の男が高僧となり、反乱軍の長となり、天下の朝敵となり、ついには大日本帝国の軍人として異国の地に斃れる。著者はその悲壮感にみちた波乱万丈の生涯と彼を最後まで突き動かした強烈な心的機制を慈愛の目で丁寧に描きつくしています。

♪天皇になるか天下のお尋ね者になるか紙一重 茫洋

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カルロ・リッツイ指揮ウイーンフィルで「椿姫」を視聴して

2009-10-07 14:02:42 | Weblog


♪音楽千夜一夜第85回

これは05年8月7日にザルツブルク祝祭大劇場で行われたヴェルディの「椿姫」の公演録画ですが、新星ビオレッタ役のアンナ・ネトレプコの容姿と演技と歌唱に終始魅了されました。

この人はモデル並みのスタイルと美脚の持ち主であり、加えて軽くて透明なソプラノの喉を持ち合わせています。カラスやデバルデイが好きな私は、この種の吹けば飛ぶよな軽い声質には大いに抵抗があり、だからアンナ・ネトレプコの日本版ともいうべき森麻季のような水溜りをアメンボウのように滑りつづけていく歌唱を冷たく見下しているのですが、アンナには森嬢にはない腰の強さと劇性も備わっています。

顔容はアップになると美形というよりは可愛らしさが勝ったいわゆる狆ころ姉ちゃん顔ですが、赤いドレスに赤い靴のアンナ嬢が赤いソファーの上で前後左右に寝転がって白い太腿を惜しげもなく剥き出しにすると、場内超満員の観衆は大口をぽっかり開いてよだれを流しているのです。高等娼婦にふさわしい演出であり演技であると感服しました。

相手役のアルフレート役のロランド・ビリャソンもかなりのイケメンで美男と美女がさかりのついた猫のようにいちゃつきながら抱擁と激しい接吻を繰り返すのですから、ヴェルディの音楽どころの騒ぎではありません。

けれどもそんな激しい演技のために歌唱がおろそかにされることはなく、どのアリアも平均以上に歌いこなしているのです。その若い二人を脇でしっかり固めているのがベテランバリトンのトマス・ハンプソンで、なぜか第1幕の冒頭から出演してヒロインの行く末を案じている医師役のルイジ・ローニともどもオペラの縁の下をがっちり支えています。

そして特筆すべきは演出のウイリー・デッカー。伝統的なスタイルをいっさい廃棄して、青と白の照明を基調とした簡素な舞台に、大きな時計や白いバラ、赤いドレス、ソファーなどの小道具を巧みに使って、ヒロインの悲劇を象徴的に劇化することに成功しています。とりわけ2幕のパーティから3幕の主人公の死の床への転換を幕を下ろさずに続けた箇所などはまことに秀逸でした。

そんなわけでこの公演は、かつて最晩年のゲオルグ・ショルテイが1994年にロンドンのコベントガーデンで当時話題の美人ソプラノアンジェラ・ゲオルギューと組んで行った素晴らしいライブに匹敵する内容になりました。

いずれも超美形イコンの登場で話題を呼んだことでは共通していますが、両者を比較すると、その公演の成功にもっとも貢献したのが前者では指揮者、後者では演出家の働きであったことが、この15年間の歳月の経過を雄弁に物語っているように思います。


♪はしなくも大指揮者の時代終り中小演出家の時代来たれり 茫洋

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ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ響「パルシファル」を視聴して

2009-10-06 10:03:13 | Weblog


♪音楽千夜一夜第84回

04年8月にバーデンバーデン祝祭劇場で行われたライブの映像です。ケント・ナガノという人の指揮を私はまったく評価していませんでしたが、このワーグナーではさしたる破綻も見せず、最後までなんとか無難に振っていたので驚きました。

昔からよく言われるように、指揮者の役割は3つしかありません。それは一斉に音楽を開始すること。そして開始した音楽をうまく演奏すること。最後は開始した音楽を一斉に停止させることですが、ケントはこの3つの重要な使命のうち2つの仕事は確実に果たしたといえましょう。彼の手兵ベルリン・ドイツ交響楽団も劇的な盛り上がりには欠けますが、まずまずの伴奏振りといえましょう。

タイトルロールのクリストファー・ウエントリス、アンフォルタス王役のトマス・ハンプソンもまずまずの歌唱ですが、グルネマンツのマッティ・サルミネン、クンドリのワルトラウテ・マイヤーの2人が正統的なワーグナーうたいらしい充実した歌唱を見せています。とりわけサルミネンは素晴らしい。彼のいないワーグナーなんて小澤のいない民主党のようなものでしょう。

そしてこれらすべての配役にもましてこの舞台神聖祝祭劇の荒唐無稽な物語をわかりやすく交通整理して美しく明快な見世物に仕立てていたのは、意外なことに演出家のニコラウス・レーンホフその人でした。聖なる愚者パルシファルを色仕掛で誘惑するクンドリの妖艶さ、そしてその誘惑を断ち切って敢然とおのが意志を貫く主人公の晴れ姿も彼の演出の賜物でしょう。

ただ最高に盛り上がるはずの第3幕の「聖金曜日の音楽」が不発に終わってしまったのは指揮者の責任です。ダルなN響をしどろもどろに振りに来日する暇があったら、少しはクナパーツブッシュの録音を聞いて勉強してもらいたいものです。

♪金の時代には金の音楽銅の時代には銅の音楽 茫洋


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スピルバーグ監督「宇宙戦争」を見る

2009-10-05 15:28:21 | Weblog
闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.13


オーソン・ウエルズがラジオ番組にして全米をあっと驚かせた英国の作家H.G.ウエルズの原作をスピルバーグが映画化しました。

雷鳴が轟きわたる黒い空から突然襲来してくる凶悪な宇宙人たち。思いもかけず彼らは天体からではなく、地球の足元から次々に湧き出てきます。知能とハイテク技術に長けた彼らは、地球生誕の大昔からわたしたち人類の下部構造に潜んでいたのです。

ですから宇宙人というのは、わたしたち自身に内在している闇の部分、他者への無関心と敵意と殺意そのものといってもよいでしょう。

だから画面は終始暗く陰鬱そのものです。扮する家族もお互いにとげとげしく反発しあい、愛情のかけらもないバラバラの状態です。

スクリーンにうごめく暗い人物の不吉な影。そこへ襲いかかる武装した宇宙人軍団。最強を誇った地球防衛軍はあっというまにほぼ全滅状態となり、わずかにオオサカの善戦がボストンにまで伝わってくるのみ。地球最後の日は目前に迫りました。

この映画では、スピルバーグが、あるいはわたしたち自身が持っている果てしもなく絶望的で退嬰的な悪魔の世界が延々と描写され、万策尽きたと誰もが思わされたその瞬間にかすかな曙光が差しこみ、お約束といえばお約束の奇跡の逆転劇がラストで訪れる。そのドラマの道行がいかにもスピルバーグであります。


われらが地獄面よりぬっと立ち上がる悪鬼どもを倒すのは誰 茫洋


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ジョージ・キューカー監督「恋をしましょう」を見る

2009-10-04 13:57:36 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.12

まずタイトルが単純明快でよろしい。なんたってLe t's make loveですぞ。

次にマリロンモンローが単細胞で超可愛いところがよろしい。3番目は、モンローに恋したイブモンタンが彼女の歓心を買おうと歌をビング・クロスビーに習うところがおもしろい。クロスビーに褒められたモンタンが赤くなるところは最高です。(なお彼はおそらくはミスキャストじゃろう。)

モンタンは踊りをジーン・ケリーからも教わるのですが、この場面はもうちょっと長く丁寧に見せて欲しかったのです。

お話は大富豪でプレーボーイで実業家のモンタンがモンローに一目ぼれして、彼女が所属する小劇団の素人役者となって、恋敵と張り合って、すったもんだのどたばたの挙句、ついに初めての恋をハッピーエンドにまでもちこむという軽妙な三文ハリウッド喜劇です。

たしかに三文は三文なのですが、最近のハリウッドも日本映画もこういうこていな三文コメディを生産する余力がなくなってきたのはとても残念です。空疎な「超大作」はもうやめにしてちょうだい。

モンローは亡くなる二年前なのにとても元気。この能天気な映画を見ていると、もっとあの甘美なお色気とおばかなキャラと下手くそな歌を生かしたミュージカル映画にたくさん出てもらいたかったとつくづく思わされます。


♪セクシーシンボルというよりちょいといかれた芋ねえちゃんマリリンモンローノーリターン 茫洋


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吉村昭著「天狗争乱」を読んで

2009-10-03 09:46:29 | Weblog

照る日曇る日第294回

水戸天狗党が尊王攘夷の実行を求めて筑波山に集結したのは明治維新まであと5年足らずに迫った元治元年3月のことでした。過激な尊王攘夷論者である藤田小四郎が、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を大将に仰ぎ、63名の同志とともに決起したのは、京の天皇を尊崇することによって、幕府の権限を強化し、わが国の官民が一丸となって諸外国を打ち払い(攘夷決行)、井伊大老によって開港された横浜を閉鎖することでした。

徳川斉昭が率い、会沢正志斎や小太郎の父藤田東湖を擁する幕末の水戸藩は、この尊王攘夷という思想の淵源の地でしたが、攘夷激派である水戸天狗党は、藩内の門閥派や同じ攘夷の穏健派である鎮派と対抗しながら、この思想を現実の政策として実行するために長州藩や朝廷との共同戦線を夢見ながら武装蜂起したのでした。

激派の武士のみならず神官、農民らも加わっておよそ千名の大勢力に膨れ上がった天狗勢でしたが、公武合体派が牛耳を握っていた当時の幕府執行部の執拗な追跡と徹底的な弾圧をこうむります。そして水戸の門閥派や追討軍と戦いながら故郷水戸からはるばる厳冬の越前までの逃避行を余儀なくされた彼らは、主君である徳川慶喜から無情にも見捨てられ、幕府の敵として人夫をのぞいたほぼ全員が翌慶応元年2月に雪の敦賀で斬首されます。当たり前のことながら、思想は人を殺すのです。

この天下に名高い天狗党の乱の顛末を、著者は例によって感情を押し殺した冷静無比な筆致で淡々と記述します。

しかし、天狗党の暴れん坊田中源蔵の火つけ強盗の落下狼藉、それとはあまりにも対照的な天狗党本体の見事なまでに清廉潔白な行軍ぶり、西南戦争の西郷軍の可愛岳踏破に酷似した蠅帽子峠の強行突破、千尋の谷底へ落下していく馬の悲鳴、降伏した天狗党総大将武田耕雲斎と加賀藩代表永原甚七郎のまるで歌舞伎の千両役者の舞台を思わせる永訣の場面、水戸藩門閥派の巨魁市川の冷酷非情な仕打ち、そして英傑と謳われた徳川慶喜の武士として、人間としてあるまじき卑怯未練な態度、などを黙々と認める作家の心のなかでは、清濁併せ呑む歴史の奔流に無言でのみこまれていった非命の人々、敗残の民への無限の共感と大いなる悲しみが激しく渦巻いていることが感じられるのです。


当たり前のことながら思想は人を殺すのだ 茫洋

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アーサー・ペン監督「俺たちに明日はない」を見て

2009-10-02 09:58:11 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.11

どうして原題の「ボニーとクライド」が「俺たちに明日はない」に変身したのかわかりませんが、アメリカ30年代の大不況期に銀行強盗を繰り返した若い2人が主人公の悪漢映画という名の恋愛映画であります。

冒頭、田舎町のしがないウエイトレスが満たされない生と性の欲求にもだえている。そこに刑務所から出てきたばかりのかっこいいあんちゃんが現れて、目と目がふとしたはずみで出会う。ここから運命の恋がはじまります。

クライド(ウオーレン・ビーティ)はテキサス一かっこいい美女ボニー(フェイ・ダナウエイ)を見染め、彼女のためなら盗みでも殺人でもなんでもやろうと心に決め、そのみえのために実際即座にそれを実行します。

そしてそれ以降の強盗行為と逃避行はその最初のもののはずみのあとの一瀉千里の玉突き行為の結果にすぎません。

2人が若い手下をリクルートしたり、クライドの兄夫婦が犯罪グループの仲間入りをしたり、強盗団がテキサス・レンジャーを捕まえてなぶりものにするエピソードもあくまでもこの映画の付けたたしであって、この映画の本当のクライマックスは、逃走劇の最後に、性的に不能であったはずの男がどういう風の吹きまわしか初めて女と性交することに成功し、「どうだった?」と恐る恐る尋ねたクライドに、ボニーがはずかしそうに「良かった」と答えるシーンにあるのです。

女の言葉は多少ともリップサービスであったとしても、男の方はこれは絶対うれしかったに違いありません。クライドはこの瞬間銀行を襲ってドルの札束を手に入れたときよりもはるかに大きな満足と生きる喜びを味わいます。

実際画面に目を凝らすと、このシーンからの2人の表情は、それまでのプラトニクな恋愛の陰影ではなくて激しい性愛の燃えるようなよろこびに彩られており、突如百千の銃弾によってそれが断ち切られるその瞬間まで、ボニーとクライドは人生でもっとも充たされた時間を生きたといえましょう。


♪性愛の讃歌非情の銃弾テキサスの荒野にこだませり 茫洋




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