あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ポール・オースター著「ガラスの街」を読んで

2009-12-16 14:27:41 | Weblog


照る日曇る日第317回

アメリカの人気作家の処女小説を柴田元幸氏の翻訳で読みました。この推理小説仕立ての物語は、以下のような特徴を持っているようです。

1)本文の英語はいざしらず、文章が春の小川のようにすいすい流れ、物語の推進力と話柄の転換が自在であり、作者は卓抜な構成力を持っていること。

2)なんと作者と同名の探偵と小説家が登場して、作中で重要な役割を果たすこと。

3)推理小説としては破綻しているが、推理小説という形式をとった純文学小説としては成功を収めていること。あるいは推理小説という形式の必然性を持った純文学小説であること。

4)登場人物に仮託して、作者は新しい言語の創造と人類の再統合を夢見ていること。また「ドンキホーテ」という小説の成立と作者セルバンテスの関係についてユニークな考察を行っていること。

5)事件の真相はまったく解明されず、読者は唐突に放り出された地点が物語の結末になるのだが、その不条理な感覚こそが作者の狙いであること。

最後にこの小説のとても印象的な箇所を引用しておきましょう。

「それはit is raining 、it is nightと言うときitが指すものに似ている。そのitが何を指すのか、クインはこれまでずっとわかったためしがなかった。あるがままの物たちの全般的状況とでもいうか。世界がさまざまな出来事が生じる、その土台であるところの物事があるという状態。それ以上具体的には言えない。でもそもそも、自分は具体的なものなど探し求めていないのかもしれない。」

ふむ。なるほど。しかしもっと気になるのはマイケル・ジャクソンのthis is itです。「さあ、いよいよだぜー」などというアメリカ口語を用いながらいったい何がitで何がthisだと、はたしてこの希代の踊亡者にはわかっていたのでしょうか。


♪this is itこれがそれそのitってなんじゃらほいMr.マイケル 茫洋
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ポール・オースター著「ガラスの街」を読んで

2009-12-16 13:34:04 | Weblog
照る日曇る日第317回

アメリカの人気作家の処女小説を柴田元幸氏の翻訳で読みました。この推理小説仕立ての物語は、以下のような特徴を持っているようです。

1)本文の英語はいざしらず、文章が春の小川のようにすいすい流れ、物語の推進力と話柄の転換が自在であり、作者は卓抜な構成力を持っていること。

2)なんと作者と同名の探偵と小説家が登場して、作中で重要な役割を果たすこと。

3)推理小説としては破綻しているが、推理小説という形式をとった純文学小説としては成功を収めていること。あるいは推理小説という形式の必然性を持った純文学小説であること。

4)登場人物に仮託して、作者は新しい言語の創造と人類の再統合を夢見ていること。また「ドンキホーテ」という小説の成立と作者セルバンテスの関係についてユニークな考察を行っていること。

5)事件の真相はまったく解明されず、読者は唐突に放り出された地点が物語の結末になるのだが、その不条理な感覚こそが作者の狙いであること。

最後にこの小説のとても印象的な箇所を引用しておきましょう。

「それはit is raining 、it is nightと言うときitが指すものに似ている。そのitが何を指すのか、クインはこれまでずっとわかったためしがなかった。あるがままの物たちの全般的状況とでもいうか。世界がさまざまな出来事が生じる、その土台であるところの物事があるという状態。それ以上具体的には言えない。でもそもそも、自分は具体的なものなど探し求めていないのかもしれない。」

ふむ。なるほど。しかしもっと気になるのはマイケル・ジャクソンのthis is itです。「さあ、いよいよだぜー」などというアメリカ口語を用いながら、いったい何がitで何がthisだと、はたしてこの希代の踊亡者にはわかっていたのでしょうか。


♪this is itこれがそれそのitってなんじゃらほいMr.マイケル 茫洋
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金原ひとみ著「憂鬱たち」を読んで

2009-12-15 12:15:10 | Weblog


照る日曇る日第316回


なんらかの理由で強烈なストレスをこうむり、強迫神経症ではないかと自分を疑っている若い女性、神田憂が、この物語の主人公です。

我々ならば別段気にも留めない日常茶飯事に対して、彼女はきわめて敏感に、過剰に反応し、喜怒哀楽が激しいのです。とりわけ諸事万端に対して「憂鬱」を感じてしまいます。

この本を読みながら、私は昔勤めていた会社の田村君という人のことをはしなくも思い出しました。田村君は仕事が行き詰まるといつも天井を向いて、「憂鬱のうつ!」と怒鳴って己の心身の内部に生じたやり場のない感情を外部に発散させていました。
田村君の隣に座っている上司の長谷部さんも同様にストレスを抱えていたようで、行き詰まった時には、「ヌルヌルの蛇があー!ヌルヌルの蛇があー!」と何度も抑揚をつけて清元節のように怒鳴り、隣の人事課の人たちをびっくりさせていましたから、この「ヌルヌルの蛇」が田村君の「憂鬱のうつ!」に連動した可能性はおおいにあります。 

このような会社や会社員は、昔も今も日本全国いたるところに存在しているでしょうし、そう考えればこの小説の主人公がおかれている状況についてもたやすく感情移入することができます。そう、いまや神田憂的症状は、きわめてトレンディーなのです。

しかしこの小説の主人公が、いとも簡単に陰部が濡れてしまう、と告白しているのはかなり問題です。街のそこかしこで出会う男性を見れば、その男と変態セックスしている自分を想像してあそこがうずいて困ってしまう、というのはきっと性的に満たされないなにかがあるに違いありません。

それなのに彼女はなかなか精神科に行こうとはしない。今日こそは行こう、行こうと思って自宅を出るのですが、たとえば秋葉原のラオックスへ行って店員のウスイ君からデンマを買ってしまったり、ベンツの座席でいやらしい中年男にまたがって顔面騎乗したり、その気もないのにインダストリアル・ピアッシングをしてしまったり、あろうことか耳鼻科へ行ってしまったりしている。

これでは病状はますます悪化するほかありません。こんな性的妄想満載ポルノ小説を書いている暇があったら、一刻も早く精神科へ行くべきでしょうね。冗談はともかく、見事な技巧を駆使して構築された自我探求小説です。



 ♪これはフィクションか私小説かどっちでもいいけどそれが問題だ 茫洋
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滑川の生物調査

2009-12-14 07:03:10 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第209回
近所の滑川に散歩に行きましたら、神奈川県の委嘱を受けた河川調査会社の2名のスタッフが、川岸にどっかり座りこんで、すくい取った川の水をにらんでいました。聞けば神奈川県のすべての河川の生物調査をしているというのです。

お弁当箱2つ分くらいの大きさのアルミの箱を、川のあちこち、とりわけ岸辺の魚なんかがいそうなところにグイとつっこんで、そこに入った生き物を調べて、フィールドノートに書き込んでいくという、胸がわくわくするような素敵な仕事です。

2人のうち年配の方に、「なにがいましたか?」と興味津々で尋ねると、「ヤゴがいっぱいいますよ」とニコニコ顔で答えてくれました。きっと大学の理学部とか農学部、水産大学などを卒業した人なのでしょうが、ほんとうは私はこういう仕事を職業にしたかったのです。

「どうしてこんな寒い冬にわざわざ調べているんですか?」と尋ねると、
「もちろん夏も調査しましたが、冬場の方が魚も生き物も川床の地面にもぐりこんでいるから効率がいいんですよ」という返事。なるほどと得心しました。

次に「カワニナはどうですか?」と聞いてみましたが、「見当たらない」という返事。鎌倉はこの秋に大きな台風に襲われ滑川の上流から由比ヶ浜の河口まで2度ほど急流があるとあらゆるものを押し流しましたから、これから数年は天然鎌倉産のヘイケボタルは見られないかもしれません。

無口な若い方のスタッフがすくっている辺りを指差して、「ほら、そこのところに巨大なウナギがいて、うちの健ちゃんが両手でつかまえたんですよ」と私が自慢すると、

「ウナギはいますよ。この川は汽水性だから、ウナギもハヤもモズクガニも巻貝もみんな海から上がってくるんです。いくら台風がやってきても大丈夫。」と、その童顔のおじさんが教えてくれました。

私が「サケを見かけませんでしたか?」と聞くと、「滑川では見ないですね。もともと産卵もしていない川に、そんな魚が上がってくると困ったことになりますな」と最近のサケ逆上遡上現象を憂いていました。

 「横浜や川崎は高度成長期に一度河川は死んだんです。死んだ河川を無理矢理復活させたので、最近はすこし良くなった。そこへ行くと鎌倉の川はとてもきれいで生物も豊かですね」という調査おじさんの言葉を聞いて、その貴重な自然環境を大切にしなければと思ったことでした。


♪健ちゃんが大格闘して捕まえし巨大ウナギいまいずこ 茫洋
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渡辺保著「江戸演劇史 上」を読んで

2009-12-13 08:19:21 | Weblog


照る日曇る日第315回

近世の演劇、能・狂言・歌舞伎を論ずるためには、その淵源をなした中世の演劇の歴史にさかのぼる必要があるということで、本書は慶長3年1598年8月18日の秀吉の死から書き始められています。

信長、秀吉、家康という3人の独裁者は、3人3様に能や風流踊を愛したわけですが、徳川政権が確立するに及んで、能楽は民衆の手から奪われ、官許式楽として奉られて武家の権威と格式の内部空間に囲い込まれて芸術生命を枯渇していきます。また狂言も古典劇化したのに、歌舞伎と浄瑠璃はなぜか世につれて生き延び、「時分の花」を咲かせ続けることに成功しました。ここに江戸演劇の勘所があると著者は強調しています。

出雲のお国が初めて京の都で「歌舞伎踊」を踊ったのは慶長5年7月1日、ここから現在の歌舞伎につながる芸能の歴史が始まりました。
京の女歌舞伎、遊女歌舞伎が各地へ下るなかで、寛永元年1624年には江戸に猿若座ができ、有名な江戸三座をはじめ京、大坂を合わせた「三都の櫓」は、不況や幕府による政治的弾圧(若衆歌舞伎の禁止や小屋取り壊し、所替の強要など)、人形浄瑠璃の隆盛といった外部的要因のみならず、江島生島事件、団十郎刺殺事件のような規律の乱れや芸術的未成熟などの内部要因によって何度も大きく揺らいできました。

しかしそれらの崩壊の危機をそのつど救ったのは、古浄瑠璃以来の伝統の力とライバルである人形浄瑠璃の創造性、そしてその時々の民衆の潜在ニーズを大胆不敵に取り込んだ座主や作者や役者の進取の精神でした。

元禄時代における竹本座の開場と竹田出雲、竹本義太夫、歌舞伎作者近松門左衛門の黄金コンビが歌舞伎に与えた影響はつとに有名ですが、以後宝永、正徳、享保、宝暦と時代が下がるにつれて団十郎、藤十郎、沢之丞、海老蔵、宗十郎、富十郎、菊之丞、幸四郎、歌右衛門などの名優がひきもきらず登場し、近松亡き後の合作者、竹田小出雲、並木宗輔、近松半二、並木正三、千柳などの優れた脚本家、薩摩浄雲、杉山丹後掾、宮古路豊後掾以降の名人音楽家たちの活躍によって、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などの名作が陸続と登場するのです。

本書の白眉は、疑いもなく江戸という都市と時代と芝居を、「桜花の幻想」というキーワードで鮮やかに関連づけた第六章の「満開の桜の下で」しょう。
それは「仮名手本忠臣蔵」が完成した寛延元年1748年の翌年に吉原に植えられた夜桜見物のにぎわいの描写にはじまるのですが、やがて江戸の市中を埋め尽くした桜花幻想は、舞台の劇場空間をも美しい魔物のように覆い尽くし、ついに「京鹿子娘道成寺」を踊る続ける女形のトップスター富十郎の上にも、はらはらと舞い落ちるのです。

「この格段の美しさは、さながら舞台に咲く桜の花を思わせる美しさである。ほかの多くの花と違って桜は一輪二輪の花ではない。一本の枝に無数に咲く。その枝が集まって一本の樹となり、その樹がさらに集まって桜の林となり、全山桜となり、ついには花の雲になる。この桜の不思議な美しさが「京鹿子」の構成によく似ている」

と著者は述べていますが、この魅力的な歌舞伎踊の本質をじつにうまくとらえていると思います。


♪ひたすらに踊りてやまぬ歌右衛門その手のうえにも桜降りしく 茫洋
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梟が鳴く森で 第10回

2009-12-12 16:33:05 | Weblog


9月23日

今日お父さんが外国人を家へ連れてきました。ジェーン・バーキンさんというきれいな女優さんとそのご主人で映画監督のジャック・ドワイヨンさんです。
ふたりはとっても仲が良くてうらやましいほどでした。僕もあんなきれいな女の人と結婚したいなあ、と思いました。

ジェーンさんは、まるで小鳥がさえずっているような不思議な言葉でずーっとしゃべりっぱなしでした。
お父さんからあとで聞いた話では、ジェーンさんのお友達の映画監督のウッデイさんという人は、ニューヨークというところに15人くらいの子どもと一緒に住んでいて、その子供というのは全部ウッデイさんの実際の子どもではないひとばかりで、その中にはベトナム戦争という大戦争でみなしごになった子どもや、僕と同じような子どももいるそうです。
お父さんは、それって、とってもすごいことなんだぞお、と教えてくれました。

ジェーンさんは、お母さんからスキヤキをどっさりごちそうになって帰るとき、僕のホッペにチュ!とキスしてくれましたが、そのときとってもいい匂いがしました。
お父さんの話では、あれはシャネルのエゴイストという名前の香水のせいなんだそうです。

エゴイストってどういう意味?と僕が尋ねると、自分勝手な奴だよ。そういう人間になったら人間終わりだよ、とお父さんがまた教えてくれました。
僕のお母さんはエゴイストではありません。生協のちふれです。

ジェーンとドワイヨンさんは、玄関口で、オ・ルボワールと言いました。
オ・ルボワールとは、フランス語でさよならという意味だそうです。そして、もう一度会おうね、という意味だそうです。

オ・ルボワール・ジェーン!
オ・ルボワール・ジャック!

と言いながら、僕はこの人たちにもう一度会えるだろうか、会えたらいいな、と思っていました。

♪鎌倉の谷戸に眠れるホロビッツそのCDは朽ち果てにけり


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吉田秀和著「之を楽しむ者に如かず」を読む

2009-12-11 08:37:34 | Weblog


照る日曇る日第314回&♪音楽千夜一夜第99回

覚えず「読む」と書きましたが、活字を読みながら、音楽が流れてくるような文章を、この達人は書くのであります。それはこの人が音楽評論家であって、だからこの人の文章が、音楽に触れているから、というそんな下らない理由だけではなくて、――非音楽的な文章を書く音楽評論家は多い――この人の文が音符のようにつづられ実際に音が鳴り響くような気がしてくることすらあるから、やはり文章を書くということはすごいことなんだと思い知らされるのですね。

例えばブダペスト弦楽四重奏団が1951年に入れたラズモフスキー第1番ト長調。ロベール・カサドシュのモーツアルトのK467の協奏曲、シャンドール・ヴェーグがカメラータ・アカデミカと死ぬ前に録音したモーツアルトのディヴェルティメントとセレナーデ。シモン・ゴールドベルクとラド・ルプーによるモーツアルトのヴァイオリンソナタ、グルダのピアノソナタと協奏曲、――もちろんモーツアルトの、ね――。クルト・ザンデルリングとドレスデン・シュターツカペレによるベートーヴェンの8番、その他その他の名曲の名指揮者による名演奏を、吉田翁は利休が茶器のひとつひとつをいとおしみつつなでるように愛でている。

私たち読者は、ほれほれ、もうその旋律が、その和音が、耳の前や後ろでかすかに鳴り響いているというのに、之を聴かずにおらりょうか、となるのです。

これらのうちで吉田翁がもっとも称揚されていると私が勝手に推察するのは、シャンドール・ヴェーグが晩年にザルツブルグで録音したモーツアルトです。独カプリッチョ盤――現在タワレコやHMV通販で超格安にて販売中、これを聴かずに死ねるか的超名盤中の名盤――に収められたディヴェルティメントとセレナーデの全曲を、私も吉田翁に勧められるまでもなくつとに愛聴しています。
翁が仰るように、「楷書の端然とした筆遣いだが、ちっとも堅苦しくないきれいな音で弾いている。(中略)これらの曲特有のあの苦さ、陰影の深い暗さの表出の点でも間然するところがない」。

ところで本書p450によれば、吉田翁は最晩年のヴェーグを水戸室内管に招聘したところ快諾してくれたので、楽しみに待っていたところ突然の訃報を聞いてショックを受けられ、「痛恨の極みとは、こういうことを言うのだろう」と書かれていますが、その気持ちはよく分かります。

蛇足ながら、私がこれまでに聴いたベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の最高の録音は70年代半ばのヴェーグ四重奏団の演奏(仏Valois盤)で、同じヴェーグQtの旧録も素晴らしかったが、アルバンベルクQtの2度の録音(DVDを入れると3度ですが)など足元にも寄せ付けない名演奏です。
 

♪心より心にしみる弦の音シャンドール・ヴェーグの遺言と聴く 茫洋
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松本清張原作・堀川弘通監督「黒の画集」を見る

2009-12-10 10:12:48 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.21
生誕100年記念とかいうことで松本清張原作の映画「黒の画集」をテレビで放映していました。

東京の丸ビルの4階にある中堅テキスタイル企業の庶務課長が主人公です。浮気している部下のOLのアパートの近所で顔見知りの保険外交員に挨拶する。ところがその男に殺人の容疑がかけられ、課長の証言がなければ有罪になってしまう。

しかし証言すれば不倫が公にされて、順風満帆だった人生が破滅してしまうかも知れない。というプロットがまさに清張一流の形で、物語は途中のしばしのアダージオをはさみながら、ラストの一大カタストロフめがけて急流をいっさんに下るようにアレグロで展開します。

脚本は黒沢作品もよくてがけた橋本忍ですが、物語の話者を主人公にしたのは疑問。悲劇の構造をもっと客観的に浮き彫りする手法がほかにあったはずです。
監督はベテラン堀川弘通で万事そつがない。小林桂樹がどつぼにはまったサラリーマン課長を力演していますが、それもむべなるかな。この映画が製作された1960年の40年後には、このポストが社長への近道となる出世コースとなるのです。

それはともかく、小林桂樹の愛人に扮した原知佐子の小悪魔的な演技を筆頭に、その妻に扮した中北千枝子、保険外交員役の平田昭彦、刑事役の西村晃などの脇役陣が比類なく充実していて見事。半世紀前の日本映画には、つまらない映画でさえもどこか記憶に値する独特の存在感がありました。

別にこの映画や、平成の御代の最新の映画がすべてつまらない、というわけではありませんが。


♪あら懐かし三菱がぶっこわした丸ビルがこの映画でよみがえる 茫洋

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「三井家のきものと下絵」展を見る

2009-12-09 14:48:52 | Weblog


茫洋物見遊山記第7回&ふぁっちょん幻論第54回


新宿の文化学園服飾博物館では、「三井家のきものと下絵」展が12日まで開催されています。

三井家は、江戸時代の日本橋で越後屋呉服店を開店し、本邦最大規模の呉服小売店として大繁盛しました。維新後は三越などを中核とする財閥を形成しわが国の資本主義の発展と拡大を担ってきた名家ゆえに、歴代の和装品の数々を所蔵していましたが、その収蔵品の一部が現在この博物館の重要なコレクションとなっているわけです。

今回の展示会では、安土桃山時代以降、江戸、明治に至る様々な着物と下絵合わせて70余点が紹介されています。
それらを通覧して分かるのは、安土桃山時代の内掛けの衣装デザインの絢爛豪華さです。これは狩野派などの襖絵にも通じる要素ですが、豊臣が滅ぼされ、徳川の御代に転じるに従って、同じ山川松柏鶴亀のモチーフにしても構図とデザインの放胆さが次第に薄れ、小手先の技巧が勝っていく趨勢がみてとれます。

次はデザインの三次元化です。桃山、江戸初期、中期までは着物全体を二次元とみなした平面的な図柄が中心でしたが、江戸後期に入るとそれが立体的な構想をそなえた三次元デザインに進化します。内掛けの背後から眺める人の鑑賞を意識して、背中と胴体と下半身の各パーツに描かれる風景や植物や動物の位置や大きさが意図的にデフォルメされていくのです。デフォルメといっても、着物の鑑賞者にとってはより自然に生きた姿形として受け取られたわけです。

そして、このデザインの三次元化&デフォルメを実現するために、三井家に対して大きな影響を与えたのがわが丹波亀岡出身の画家、円山応挙でした。動植物の写生と西洋画伝来の遠近法を得意としたこの円山四条派の始祖は、それまでの着物を大きく改新するニューデザインを開発することによって、パトロンの期待と新ビジネス需要に応えたのでした。
本展には、亀居山大乗寺(応挙寺)所蔵の下絵もいくつか展示されており、これらを実際の内掛けと見比べてみるのも一興です。


♪丹波なる亀岡の里より出でし人応挙光秀王仁三郎 茫洋

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私が好きなNHKの番組

2009-12-08 10:09:19 | Weblog


バガテルop116

最近はケイタイのネットに押されて、新聞雑誌のみならずテレビの視聴率もどんどん下がってきたようで、たいへん結構なことだと思っています。つまらないものを無理してみることはありません。いいもの、すきなものだけ目にしておれば、人間きっと極楽往生できるでせう。

さて私は民放が苦手なので、テレビはもっぱらNHKを視聴しています。
 NHKのお気に入りは海外ドラマ。最近はやぶにらみピーター・フォークの「刑事コロンボ」と「アグリー・ベティ2」をかかさず見ています。前者のパターンは毎回同じで、犯行と同時に犯人(有名ゲスト)が出てきます。コロンボとやりとりしながらその犯行のトリックがあばかれていく謎解きがお楽しみ。ここまでパターンを固定していながら、毎回最後まで引っ張って行く脚本の力が素晴らしい。初めのころはスピルバーグも書いていました。

「アグリー・ベティ2」は、アメリカ・フェレーラというブスカワいいメキシカンが、NYの一流ファッション誌の編集部に入って大活躍するお話ですが、恋と仕事と人情話のあれやこれやもさることながら、アラフォーだかアラフィフ編集長のバネッサ・ウイリアムズとそのおかまの助手マイケル・ユーリーのポップな衣装が素晴らしい。よほど腕こきのスタイリストがついているのでしょう。

このほか先日終わってしまった「ダメージ3」というグレン・クローズ主演の弁護士物もむちゃくちゃ面白かった。グレン・クローズは悪人と正義派の両面の顔を持つ超やり手弁護士ですが、そこにローズ・バーン扮する若手女性スタッフやウイリアム・ハート扮する昔の恋人なぞとのえらい確執が絡んで、もはや何が正義で誰が悪か、誰が正義の味方で誰が悪人なのかわからんカオス状況に突入していく。グレン・クローズの灰色の瞳が象徴する人間存在の暗闇に、ペンライトひとつで侵入していく不気味さがたまりません。

猛烈に練りこまれた脚本もすごいが、時系列をあえて取り払ったアナーキーな演出が見る者の心理を揺さぶり、それがいっそうスリルとサスペンスを引き起こす仕掛けになっていましたが、もう続編はないのでしょうか。

最後に、私のいちばんお気に入りだった「サラリーマン・ネオ」をお蔵にした奴は誰だ。民放の笑いにもならないアホバカお笑い番組が氾濫するなか、あれには上質のユーモア、ウイット、批評精神が満載されていました。


♪N響、有働、山田アナ、私の嫌いなNHKもいっぱいあるでよ 茫洋
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梟が鳴く森で 第9回

2009-12-07 16:14:52 | Weblog


9月22日

星の子学園からの帰り、三平君がいっしょにトイレへ行こうと言いました。
僕はあんまり行きたくなかったけれど、三平君が無理矢理言うので仕方なくついて行きました。駅の上のトイレです。
僕たちの他には誰もいませんでした。

大の方のトイレにいっしょに入ると、三平君はオチンチンを出してナメロと言いました。
僕はいやだと言いました。嫌だお、嫌だお、と何度も言いました。
三平君は、おっかない顔をして、いいからナメろ、ナメないとぶんなぐるぞ、と言いました。僕はこわいし、逃げられないし、お父さあん、お母あさん、助けて、助けて、嫌だお、嫌だお、と何度も叫びましたが、誰も助けてくれませんでした。

とうとう僕は三平君のオチンチンをナメさせられました。とてもいやな臭いでした。吐き気がしました。
いやだ、いやだ、死にたいおう、と、僕は泣きましたが、三平君は許してくれませんでした。もっとナメロと言いました。またナメました。変な味、気持ち悪い味がしました。

やっと三平君はトイレのドアをあけて僕を出してくれました。絶対に誰にも言うなよ、言ったらひどい目にあわせるぞ、と三平君は言ったので、僕は、分かったおう、誰にも言わないおう、と、泣きながら約束しました。

家に帰ったら、お母さんが、岳君顔色悪いね。どうかしたの。と聞きました。
僕は、どうもしないおう、と答えました。何もなかったおう、と言いました。お母さんは黙って僕の顔をじっと見ました。

僕は、駅のトイレが嫌いです。三平君が嫌いです。あんな奴は死んでしまえ。



♪1か月分の日経朝日が1巻きのトイレットペイパーに換わる金曜日 茫洋

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梟が鳴く森で 第8回

2009-12-06 11:33:30 | Weblog


9月21日 雨

青山アン子は、加藤かおるに言いました。
バーカ、バーカ、あんたなんか、バーカ。
すると、加藤かおると木地かおると木地広康が怒りました。怒って、アッカンベーしました。よせ、よせ、もうよせよ、と、学のパパと御爺さんが言いました。
もお許せねーと、チビはとびけりをしました。それが人生というもんだ。セラビーだ。と、青山アン子のパパが静かに言いました。

ママは黙ってキッチンでひらめを焼いていました。
外は雨でした。ムクのごはんを近所のドラ猫がパクパク食べていました。
雀もいっぱい集まってムクのご飯を食べていました。


♪敗戦終戦闘争紛争アンガージュマンはありやなしや 茫洋
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パッパーノ指揮コヴェントガーデン歌劇場管で「ワルキューレ」を視聴する

2009-12-05 15:02:52 | Weblog


♪音楽千夜一夜第98回

2005年7月18日にロイヤル・アルバートホールで行われた「プロムス05」のワーグナー上演のライブビデオです。プタシド・ゴミンドがはじめてプロムスに登場したことで話題になりましたが、そんなことより(この時点で)彼の衰えを知らない豊かな声量と巧みな歌いまわしに魅了されます。

そのドミンゴ扮するジークムントの恋人であり妹役のジークリンデには練達のメッゾ・ソプラノ、ヴァルトラウト・マイヤー、ウオータン役にはバスバリトンのブリン・ターフェル、表題役にはソプラノのリサ・ガスティーンという豪華な配役です。

そしてこれらベテラン揃いの充実した歌唱を、イタリア出身の指揮者アントニオ・パッパーノがじつに手際よく、パッパと引っ張っていきます。
59年生まれのパッパーノは、各地の歌劇場でコレペティトールをつとめ、大野和士の前にモネ劇場のシェフであり、バイロイトにはローエングリーンでデビューを飾った、いわばたたき上げのオペラ指揮者。初めは処女のごとく悠揚迫らぬテンポでオーケストラを歌わせ、半ばではワルキューレの女騎士たちを見事にうねらせ、終わりはワルハラの神殿を紅蓮の炎で燃えあがらせます。コンサート指揮者上がりの小沢某なぞには及びもつかぬ見事なテクニックといえましょう。だいたい歌手やオーケストラをやすんじてドライブさせえない人間がオペラハウスなぞに足を踏み入れてはいけないのです。

兄と妹の許されざる恋、そして父と娘の異常なまでの愛、そして神々の世界の崩壊という3つの主題をもつこの神聖な楽劇を、パッパーノとコヴェントガーデンのオーケストラは過不足なく表出していました。

この公演はコンサート形式で行われたのですが、当節の下らない演出を排し、ヴィーランド・ワーグナーの時代に先祖返りしたような単純で簡素な歌手たちの振舞いが、かえってこのオペラとワーグナーの音楽の本質を力強く闡明していたようでした。



  ♪あほばか指揮者と演出家よ去れ神聖なるオペラの殿堂から 茫洋
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佐藤賢一著 小説フランス革命「議会の迷走」を読んで

2009-12-04 07:22:33 | Weblog


照る日曇る日第313回


1789年、フランス革命は成就したけれど、革命によって誕生した国民議会は、左・右・中間派に分かれて大混迷を続けています。

ジャコバンクラブを中心とした左派は、僧侶をバチカンではなく革命フランスの前に膝まずかせようとして強引にルイ16世を説き、「聖職者民事基本法」を通過させました。神父の献身の対象を神やローマ法王ではなく、フランス憲法と人民に置き換えようとしたのです。しかし全国で宣誓拒否僧が相次いで登場し、いまやフランス宗教界を二分する「シスマ」(教会分裂)が再現されようとしていました。

ここでなおも革命を推進しようとしたタレイランやロベスピエールの動きを抑えようとしたのが、他ならぬ「革命のライオン」、ミラボーでした。彼は国民の「亡命禁止法」にも反対し、左派のジャコバンクラブを骨抜きにして、ルイ16世をパリから退去させ、現議会の解散と新議会の召集をさえ図るのですが、1791年4月2日、持病が悪化して急死します。享年42歳でした。

 ミラボーが、絶対の正義と、とことん純粋な民主主義を熱烈に志向する若きロベスピエールを死の床に呼び寄せ、暗に戒める名場面が本書の読みどころ。つねに清濁を併せ呑むこの巨漢が、苦しい息の下から、

「己が欲を持ち、持つことを自覚して恥じるからこそ、他人にも寛容になれるのだ。さもないと独裁者になるぞ。独裁というような冷酷な真似ができるのは、反対に自分に欲がないからだ。世のため、人のためだからこそ、躊躇なく人を殺せる。ひたすら正しくいるぶんには、なんら気も咎めないわけだからね」(ほぼ原文)

 と、懸命に説くのですが、その忠告は聞き届けられず、このあまりにも誠実で謹厳実直なモラリストは、ついにフランスの「第2のカルヴァン」になってしまうのです。

朝の8時に「友よ、私は今日死ぬ」と医師に告げて紙を所望し、8時半に右手にペンを握って「眠る」と書いて事切れたこの豪傑は、ロベスピエールなど数多くの革命家に比べてじつに幸福な死に方をしたものだ、と言わざるを得ません。


♪今宵また「ねんねぐう」と呟きて即眠りゆくしあわせなるかな 茫洋



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梟が鳴く森で 第7回

2009-12-03 19:33:49 | Weblog



9月20日

緑豊かに風に乗って、光あふれる窓の外、
夢とちからをひとつに結び、
共に生き、共になやみ、
力あわせて進もうよ、我ら星の子、星の子学園。

心のどかに風に乗って、命かがやく惑星の彼方、
心とからだをひとつに結ぶ
共に泣き、共に笑い、
手をつないで進もうよ、我ら星の子、星の子学園

駄目、中田先生。ね、分かった? 横須賀、笑わないで。
バイバイ。使う。ちゃんと遣って。
泣いたら、休んでて、ちゃんと、して。

長島先生、悪かった。悪かった。悪かった。
ちゃんと遣るなら、ちゃんと、して、あげるから。
はさみで、遣っちゃ、危ないよ。
何でしょう? 
緑豊かに風に乗って、光あふれる窓の外、
夢とちからを……

♪同じ演奏なのに何枚も買ってしまうマリアカラスのCD 茫洋




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