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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

小川洋子著「原稿零枚日記」を読んで 

2010-10-16 10:48:25 | Weblog



照る日曇る日 第380回


10月のある日の昼下がりのこと(金)

ちょうど私が小川洋子さんの「原稿零枚日記」の132ページを開いて、天然記念物の桂チャボが20メートルくらいは泳ぐというくだりを読んでいるときだった。

ぎゃあ、ぐああ、がああという、いままでに聞いたこともないけたたましい物音がした。バサバサという翼が空を切る音に混じって、グアア、グアアという凄まじい叫び声もしている。本から眼を放して東の窓を見ると黒い影が2つ3つ移動していた。急いで南のガラス窓を見ると、まっ黒な鳥が何匹も何匹も押し寄せては急降下していく。まるで戦闘機のようだ。

急いで隣の居間から外の道路を見ると、大きなトビがひとまわり小さいカラスの下腹部を鋭い爪で両側から挟みこみ、全体重を傾けて抑え込んでいた。そして急を知ったカラスの友軍が大声で叫びながら、次から次に現場に殺到してくる。その数は見る見る増えて都合4,50羽はいただろうか。川っぷちの狭い舗装道路の真ん中で時ならぬ禽獣の戦いが繰り広げられていたのだ。

下敷きになった漆黒のカラスは死んだように身動き一つしない。私が窓を開けると、トビはカラスの胴体に加えようとしていた嘴の一撃を止め、すっと伸ばした首を左に振って、鋭い目で私を見た。大きな黒眼が濡れたように光った。

そこへ黒の集団が右翼から全速力で突っこんだ。トビは獲物をあきらめて飛び立とうとしたが、右の爪が肉から抜けないので必死でもがいていたが、ようやく離陸に成功したところへ、今度は左翼から10数羽のカラスが急襲する。私と息子が呆然と見上げる秋の空で1対50の壮絶な空中戦が始まり、米艦載爆撃機ヘルダイバーと戦艦大和の戦いを思わせるそれは、たちまちにして終わった。

多勢に無勢のトビは東のひよどり山の杉林に逃げ込み、勝ち誇った濡羽色のカラス集団は霊園の小高い丘に陣取ってぎゃあ、ぎゃあ、ぐああと下品な勝鬨をあげている。

道端に残された薄茶色の羽根をつまみながら、私は思った。
弱肉強食は世の習い。いずれ人類が滅びた暁には地球はカラスとゴキブリの天下だろう。しかし私は、徒党を組んで敵に向かうカラスよりも、孤立無援のトビを限りなく愛する。 

トンビはタカを生む。けれどもカラスはカラスしか生めないのである。(原稿零枚)



○○ちゃんほどいい子はいないと言ってみる 茫洋

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ミンコフスキー指揮で「ポントの王ミトリダーテ」を視聴する

2010-10-15 11:24:33 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第166夜


2006年8月、レジデンツホーフで行われたザルツブルグ音楽祭のモーツアルト生誕250周年記念のライヴ演奏です。

ローマと戦って戦死した、と聞いたポントの王ミトリダテスの2人の息子が戦場から飛んで帰って王妃に求愛し、王妃が長男とよろしくやっている最中に、ミトリダテスが「どっこい俺は死んじゃいないぜ」と帰国するところからこのオペラは始まります。

ラシーヌの原作からアイデアを得たトリノの田舎者サンティによる脚本はきわめてお粗末なものですが、天才の作曲の筆がそのイージーゴーイングさをどこか遠いところへうっちゃって、義務と愛との相克に引き裂かれた男女の苦悩を深々とえぐり出すにいたるさまはじつに聴きごたえがあります。

 しばらく前に視聴したのはジャン-ピエール・ポネル演出、アーノンクール指揮ウイーン・コンツエルトゥス・ムジクスによる演奏でしたが、ポネルはモーツアルトの超若書きのこのK84の「オペラの試み」といってよい作品においても正統的な環境整備と劇的な表現を巧みに組み合わせて現代人の鑑賞に堪えるリアリザシオンを繰り広げていました。

今回はギュンター・クレマーという人の演出でしたが、ポネルとはまったく違うアプローチ。冒頭のギリシア演劇とモダンアートを融合させたパフォーマンスに見られるようにコンテンポラリーな今風の切り口が特徴です。お洒落な美術や照明や衣装とあいまってそれなりにこのオペラの持つ普遍的な悲劇性を温故知新しようと努力していたようです。


ミトリダーテがリチャード・クロフト、アスパジアがネッタ・オル、シーファレがミア・パーション、ファルナーチェがベジュン・メータ、イズメーネがインゲラ・ボーリンという中堅歌手たちもそれなりに健闘していましたが、特筆すべきは、ミンコフスキーの生き生きした指揮振りとそれに積極的に応えるルーブル音楽隊のモーツアルト演奏。
それはヘンデルを思わせるシーファレの第22番のアリア「恩知らずの運命の厳しさが」の長丁場のしのぎかたに端的にあらわれていました。

総じて中の上、あるいは上の下の部類に入る出来栄えといえましょう。



♪モーツアルトは何故殺されたのかとひと晩じゅう考えていた 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第36回

2010-10-14 10:15:34 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1


洋子と文枝はひきつった顔をして2人でひしと抱き合っています。僕も耳を手でふさいで

「こわいおう、こわいおう」

と叫びながら、不思議のお家のまわりを全速力で走りまわりました。

「よおーし、分かった。もういい。2人ともそこから降りてこいよ」

と公平君は、落ち着いた声で、興奮のるつぼで燃えたぎっていたのぶいっちゃんとひとはるちゃんに呼びかけると、2人は、かえでの巨木を両足でしめつけながら、ずるずると地上に降りてきました。

 やがて公平君は、大人のように腕組みをして、奥歯をぎゅっと噛みしめながら言いました。

「よおーし。じゃあこうしよう。みんなよく聞いてくれ。僕たちは、おまわりを傷つけるか、殺してしまった。おそらくはもう死んでしまっているだろう。でも僕たちは悪くない。あっちが先に攻撃してきたからこういうことになってしまったんだ。敵は今日から大部隊でこの不思議なお家めがけて押し寄せてくるに違いない。

 しかし僕たちは、ここでむざむざやられるわけにはいかない。僕たちは仲間をぜんぶここに集めて奴らと戦うんだ。のびいちとひとはるはもう一回星の子へ行ってみんなをここへ連れて来てくれ。岳と洋子と文枝は僕と一緒に警官隊を迎え撃つ準備をしよう。

さあ、かかるんだ!」




一粒の栗の実の比類なき充実 茫洋

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サルトルの「嘔吐新訳」を読んで

2010-10-13 14:43:36 | Weblog


照る日曇る日 第379回



昔この本を白井健三郎という人の翻訳で読みかけて、途中で放り出したことがありました。なんでも実存主義という哲学が大流行の頃でした。
今度手にとったのは鈴木道彦という人の翻訳ですが、こちらは当世風にこなれた訳語のせいもあってともかく最後まで読みとおすことができました。やれやれ。

しかしなんと評していいのかしらん、まったく訳の分からん変態的な小説です。
サルトル本人が色濃く投影されているロカンタンというやたら神経質な青白いインテリゲンチャンが、図書館のコルシカ人やスープの中の蟹を見ては吐き気を感じ、池に投じようとした小石に触り、公園のマロニエの根っこを見ては、そのガッツリとした存在感に圧倒され、自分自身のみならず外界、世界全体に大いなる違和と不条理(この言葉も大流行したな)を感じ、「われ思う故にわれ絶対的に存す」のデカルト的理解を脱却して、「われ存す、故にたまたまわれ存す」の実存的悟りに超絶的にエラン・ヴィタール(生命的飛躍)を遂げたと、まあ恰好よくいえばそういう哲学的小説なのでしょう。

しかし道行く人や下宿のおばさんやレストランのお姉チャンが己と異質な外部のモノに見えたり、都市や群衆やはたまた図書館の本をアイウエオ順に読んでいる孤独な独学者に吐き気を覚えたりするっていうのは、糞真面目な哲学青年の誰もが一時的に患う麻疹のような病理現象にすぎず、主人公がいったいどうして吐き気を覚えるのか誰にも分かりません。妊娠でもしているのでしょうか。

昔小林秀雄がこんな小説を書いたことがありました。小林を思わせる自意識過剰のインテリ青年が、川を渡るポンポン蒸気船に乗り込んだら、誰か同乗者がいて、自分も彼らも揺れている。それを見ているうちに、自分(小林)は彼らと自分が、同じリズムでポンポン揺れるのに堪えられなくなってきて、ヘドが出そうになる。

確かそういうくだりがありました。これを読んだ中野重治が「なにがヘドだか、全然分からない」と書いていましたが、当時のサルトルも小林とまったく同じ病気に罹っていたのでしょう。

だから私もこう言いましょう。サルトルよ、お前さんのもったいぶって繰り返す嘔吐とは何なのか、私には全然分からないよ、と。
嘔吐とは、高等遊民の唐人の寝言であり、世間知らずのぼんぼんの白昼夢に過ぎなかったことが、有名になってからのサルトルにはすぐに分かったはずです。

それゆえに、親の遺産で食べている30歳の青白きインテリ小僧ロカンタンは、フランスの小都市で大革命時代の貴族ロルボンの伝記を書こうとして果たせず、おまけに恋人アニーに振られて、Some of these days You`ll miss me honeyのレコードを聴きながらブーヴィルに別れを告げる。

というのが、この余りにも有名な実存主義小説のエッセンスなのです。



あにはからんやマロニエのぶっとい根っこに存在の実存を見つけたり 茫洋

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月下美人のような妖しい芸術の花 「車谷長吉全集第1巻」を読んで

2010-10-12 14:13:51 | Weblog


照る日曇る日 第378回

この巻では処女作「なんまんだあ絵」から平成年の「大庄屋のお姫さま」に至るまでの短編と中編をことごとく読むことができ、車谷長吉という不世出の作家の労作を読む楽しさというものを満喫させてくれます。

長編の代表作は「赤目四十八瀧心中未遂」と相場が決まっていて、それ以降の作品が生彩を欠くのに対して、短編と中編は予想に反して、近作ほど文学的価値がいや増していることに驚かされました。

著者が料理屋の下働きをしているときに知り合った青山さんの、恐るべき殺人の秘密を書きつづった「漂流物」や、著者の母親の人生観を赤裸々に描破しつくした「抜髪」における、さながら宮本常一の「土佐源氏」を思わせる一人騙りの名人芸は、2005年の「深川大工町」や、2006年の「大庄屋のお姫さま」において、一層豊かな広がりを見せながら、あらたな果実を収穫しているといえましょう。

「萬蔵の場合」「児玉まで」「神の花嫁」「忌中」「密告」における卓抜なストーリーテリングは、2005年の「阿呆物語」において、まるでシェークスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」を思わせる極上の喜劇小説に結晶しています。

1992年の「鹽壺の匙」以来、長く苦しい創造の道を歩んできた車谷長吉は、ここに至って虚実皮膜の薄明の闇に誕生する月下美人のような妖しい芸術の花を、次々に咲かせようとしているようです。

虚心坦懐に本書を通読すれば、著者を指して平成のマンネリ私小説作家であるとする謬見なぞは、木端微塵に粉砕されることでしょう。

しかし作品を評するということのなんと軽薄にして残酷な営為であることか。作家が何十年も魂魄を禊ぎ、生身を削って彫琢した膨大な文字群をたった数日で速読して偉そうに断じるのですから。


       今宵咲く月下美人の彼方かな 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第35回

2010-10-11 16:47:07 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1



のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、

「ちくしょう、おいらをあんなひどいめにあわせやがって。くそっ、皆殺しだ! 

だいたいわいらあを星の子みたいな地獄に入れっぱなしにしておいて一度も見に来ない親も親だ。

わいらあをトレーラーの中に3日間も放り込んでメシもろくろく喰わせなかった校長も教頭も主任も、みんなあろくでなしの連中ばかりだ。

あんな奴らは生かしておいても誰のためにもなりゃせん。あいつらもおまわりも大嫌いだ! 

みんなみんなぶっ殺してやる! 出てくる敵はみなみな殺せえ!」

と絶叫しました。

そうして公平君のベルトからピストルを抜きとると、2匹の猿のように真っ赤に紅葉したカエデのてっぺんまでするするとよじ登って、ドオーンと1発大空めがけてぶっぱなしました。

深い憎しみのこもった銃弾の轟は阿弥陀山の渓谷を殷々とゆるがせ、木々の梢を越え、上空をゆるやかに旋回する鳶を驚かせながら、三浦半島の彼方に消えていきました。



人格が毀損されているからあらゆる制度が劣化する 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第34回

2010-10-10 14:03:49 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1


あっちか、こっちか、戦うか逃げるか、右か左か、そんなことどうでもいいじゃないか。無理矢理どっちかに決めるほうがおかしいんじゃないか。

それに右のほっぺたを叩かれたら、左のほっぺたをどうして叩かなければいけないのだろう。

誰かが殺されたら、その代わりに誰かを殺さなければいけないのだろうか。

もし僕が殺されても、死んだ僕が、僕を殺した奴を殺したいかどうかはわからないはずだ。まして僕以外の人間にそれがわかるはずはない。

もし殺したければ死んだ僕に殺していいかどうかをよく聞いてから殺せばいいのだ。

と僕はいつも思っていました。だから、その時も、

「そんなこと急に開かれても、どうしていいか、僕わかんないおお」

と公平君に答えました。そしたら公平君は、

「ふつうはどっちでもいいんだけどね。でも男ってもんは、一回は右か左かどっちかに決めなくちゃいけにときがあるんだよ」

と言いました。



とっくに括弧に入れられた純粋理性をゴキブリどもが喰い散らかしている 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第33回

2010-10-09 09:13:54 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1


「第7機動隊のおまわりさんは、きっと死んでしまっただろう。

だからきっと彼らは、もうすぐここまで攻めてくるだろう。

団体で徒党を組んでやって来るだろう。

だから僕たちも、ここで命懸けで戦うか、いったん退却するか態度を決めなければならない」

公平君は、厳しい顔つきで、そう言いました。それから突然、

「岳、これから君はどうするんだ?」
 
と公平君は、僕に向かって問いただしました。

しかし僕はどうしてよいのやら分かりません。
こっちへ行くのがいいか、あっちへ行くのがいいか、と聞かれても、僕はいつもどっちへ行ったらいいのかてんで分からず、いつも誰かのいいなりになってきたのです。つねに付和雷同してきたのです。

ふだんからそういう状態なのに、こんな非常事態になって、いきなり

「君はどうするんだ?」

などと聞かれても答えられるわけがありません。こんな僕はやっぱりうごうの衆なのです。



ふりさけみればいきなりいがぐりおちてめにささりしこせきくんどうしているか 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第32回

2010-10-08 13:38:59 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1



11月5日 晴れのち雨


ひと晩たつと公平君ものぶいっちゃんもだいぶ元気を取り戻しました。

大勢の警官隊にふくろだたきにあっているののぶいっちゃんを見た公平君がピストルを振りかざして突入していったら、いまわりは一斉にあとずさりしてから、またじりじりと2人を包囲してきたので、公平君がピストルの安全装置をカチャリとはずし、

「くそっ、ばかあ、のぶいっちゃんをはなせ、なさなないと一発お見舞するぞ!」

と叫んだら、おまわりたちはたんなるおどかしだと思ってあざ笑っていよいよ包囲の輪をちぢめてきたので、あせった公平君は一瞬逃げ出そうかと思ったのでしたが、

「いやここで逃げ出したら男がすたる、男の一分に申し訳がない」

と思い返して、

「にゃろめ、おまわりなんか消えろ!」

とジュゲムジュゲム心に念じつついいかげんに引き金を引いたら、

「ズドン!」

という鈍い衝撃音が走って、いちばん先頭の「第7機動隊」とワッペンにかいてあるおまわりのそのワッペンのところからいきなり鮮血がほとばしり、若いおまわりが朱に染まって地面に倒れ、その他のおまわりたちは蜘蛛の子を散らすように阿弥陀山の急斜面を賭け下って雲を霞と逃げて行ったそうです。

「血まみれのおまわりは可哀想だったけれども、もはやどうしようもなくって、仕方なくのぶいっちゃんを助け起こし、うんとこさと抱きかかえて小川のところまでやってきたけれど、とうとう力尽きて倒れてしまったんだ」

と、公平君は弱しい声で物語りました。


小夜更けてここだも集く虫の音かな 茫洋

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ビリー・ワイルダー監督の「情婦」を見る

2010-10-07 14:43:57 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.36




「情婦」という映画を観ました。これはアガサ・クリスティ原作の探偵ものですが、原作のトリックも凄いが、どちらかというと脚本・監督のビリー・ワイルダーのほうがもっと凄い。

最初にてっきり悪人と思った奴が途中で善人に変わってしまい、そして最後に思いがけないどんでんがえしが待っているという立体的な仕掛けを、この才人はタイロン・パワー、マレーネ・デートリッヒ(驚異の2役!)という超大物俳優を「駆使して」、はじめは処女の如く終わりは脱兎の如く息もつかせずにエンジョイできる極上の娯楽映画に仕上げている。

特筆すべきは老弁護士ウィルフリッド卿を演じるチャールズ・ロートンで、この病み上がりの太っちょ弁護士のいかにもイングランドな人柄の描出や、老看護婦や執事とのユーモラスなやり取りが、殺人事件の奥深い暗闇を照らす鮮やかなコントラストをなしていて見事である。

こういうちょうど2時間の人情サスペンスドラマなら、映画でもテレビでも毎日でも見たいと思うのですが。




      邯鄲鳴く桜ケ丘の駅前で旅行帰りの息子待ちおる 茫洋

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新国立美術館で「没後120年ゴッホ展」を観る

2010-10-06 14:59:02 | Weblog


茫洋物見遊山記 第40回


またゴッホか、と思いつつも、ゴッホと聞けば万難を排して駆けつけざるをえません。今回のゴッホはオランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュール美術館からの貸し出しで油36点、版画・素描32点が同時代の有象無象と並んで展示されていました。

ゴッホといっても私は今回どっさり並べられていた初期の作品、たとえばミレーの農夫やジャガイモを食べる人なんかは見てもつまらないし、まったく評価もできません。
やっぱり凄いと思えるのはゴッホが狂ってからの最晩年の作品、具体的には1889年と翌1990年の画家の没年に、アルルとサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズで怒涛のように制作された鬼気と生命力がみなぎる異様な作品群です。

気違いに刃物とはよく言ったもので、これらの遺作はすべて狂人の作品です。アルスの精霊が占拠した気違いの右手がキャンバスに激しくぬりたくったお筆先が、気違いにさえなれない私たち凡人の精神をこうまで揺さぶるのはいったいどうしてだろう、といつも不思議に思うのです。

今回まず私の眼と心をわしづかみにしたのはアルルで描かれた「ある男の肖像」でした。青緑の光彩を背景に大胆な黒で隈どられた暗黒街の顔役のニヒルな表情は、凶悪でありながらも美しい。こんな矛盾に満ちた肖像画を描いたのはゴッホだけでしょう。

そうして誰もが言葉を失って画面に魂を吸い取られてしまうほかにどうしようもないのがサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズにおける恐るべき遺作です。

画家が退院を許されてはじめて筆をとった「サンレミの療養院の庭」に立つ樹木の奥には天使たちが乱舞しているように無数の色彩が氾濫していて、私たちの脳髄を直射します。ほら、あれらのお筆先の跡は、いままさにキャンバスに触れられた瞬間のようにキラキラと輝いているではありませんか!

そして「蔦の絡まる幹」「渓谷の小道」「夕暮れの松の木」「オリーブ畑と実を摘む人々」「草むらの中の幹」「アイリス」と続いて、どこか東洋的な諦観を感じさせる「麦の穂」で静かに告別の幕を閉じるこの偉大で異様なコレクションは、本展の圧巻でした。

美は恐るべきもののはじまり、とはまさにこういう一期一会の出会いについてのみ使うべき表現なのでしょう。没後120年だそうですが、ついさっき死んだばかりのゴッホは、いまも激しく生きているのです。


渓谷の小道をゆくは人か魔か げに美は恐るべきもののはじまり 茫洋


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演劇集団「円」公演「シーンズ・フロム・ザ・ビッグ・ピクチュアー」を観て

2010-10-05 15:38:37 | Weblog

茫洋物見遊山記第39回


ある国のある地方のある町村を描こうとするとき、その共同体やに住んでいるあれやこれやの任意の人物にフォーカスして、その人生の苦しみや喜びを伝えることができたら、私たちはその共同体やについて少しは理解できたような気持ちになるのではないだろうか。

1961年に北アイルランドに生まれた劇作家オーウェン・マカファーティが「シーンズ・フロム・ザ・ビッグ・ピキュチャー」でやろうとしたのも、そういうことではなかったか。彼はおよそ10組20人余の老若男女を2時間の舞台に投じて、ベルファストといういささかややこしい町の24時間を群像劇で描こうとした。

たとえば小さな雑貨屋では老苦と病死が迫り、チンピラの万引きが老夫婦の頭を痛めているし、大きな食肉工場では労働者代表の青年と社長秘書が倒産におびえながら給料の工面で追い詰められている。

しかも青年はいわゆる良妻を持ちながらパブの女性オーナーと不倫し、社長秘書夫妻は(おそらくは宗教戦争の犠牲となった)息子の遺体を長年にわたって探し求めている。長引く不況で町に活気はなく、未来に絶望した若者たちの中にはコカインに手を出す者もいる。

そしてその薬で金儲けを企む怪しい組織の男たちや、愛と生きがいを求めながら虚しい心を抱いてひたすらパブでアイリッシュビールを飲み続ける男や女たちの切ない溜息は、ここベルファストのみならず、世界中の私たちのものであるだろう。

しかも向こう三軒両隣に棲息する人々の喜怒哀楽は、ワンシーン・ワンカットのドキュメンタリー映画のように非情かつ断続的に提示されるために、黄昏の町に生きる人々の陰影がよけいに深くなっている。そしてこの手法の開発にこそオーウェン・マカファーティの独創が発揮されているのだろう。

1組の男女が向き合えばそこには独自の言葉があり、次々に放たれるその言葉が切実な物語を紡ぎ、紡がれた小さな物語はまた別の物語を生み、ジャックの豆の木のようにつながり、やがて町を覆い、空の果てまでも連なり、いつのまにか誰も切断できない勁く温かい絆のような塊にふくれあがっていく。古くて新しい「演劇」がここにある。


朝日が昇って夜の闇が降り、やがてベルファストの1日が終わる。
明日は明日の風が吹くだろう。
これはもしかすると予定調和のハッピエンドを拒否する21世紀版「フィガロの結婚」なのかもしれない。



訳 芦沢みどり/ 演出 平光琢也 新宿紀伊国屋ホールにて10月10日まで上演中



人間が2人居ればそれが演劇のはじまり 茫洋

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塩野七生著「絵で見る十字軍物語」を読んで

2010-10-03 11:26:00 | Weblog


照る日曇る日 第377回

ローマ史を完成させた著者が次に取り組んだのが十字軍物語です。

その予告編とでもいうべき本書ではギュスターヴ・ドレの精巧なモノクロ版画を紹介しながら、11世紀末から13世紀後半に至るまで聖地エルサレムの回復をめざして全8回にわたって繰り広げられた十字軍の歴史をかいつまんで紹介しています。

十字軍とは西欧キリスト教世界が総力を挙げて取り組んだイスラム教との武力闘争でしたが、彼らは一時は聖地奪還に成功したものの結局は全面的な敗北を余儀なくされ、暴に報いるに暴、狂信に報いるに狂信という非寛容の一神教のおろかさ、あほらしさを天下のもとにさらけだす結末を迎えたわけです。

しかし当の当事者たちはあれから何世紀も経過したというのにちっとも懲りずに、そのおろかさ、あほらしさの遺伝子をいまなお中近東をはじめ世界各地で引き継ぎながら果てしない死闘を繰り広げているといえましょう。


全8回の十字軍の姿形はそれぞれが異なっているのですが、やはり印象に残るのは隠者ピエールの「神がそれを望んでおられる」のキャッチフレーズのもとで開始された第一回の十字軍。ピエールに従って行軍するだけで「すべてを免罪にする」と請け負ったローマ法王の悪乗りがこの暴挙を後押ししたことは間違いないでしょう。

フランス国王ルイが捕虜になったり宮廷の美女がイスラム教徒に犯されたり、何百万の戦士が虐殺したりされたり、暴挙といえばこれほどの暴挙はありませんが、獅子王リチャードやサラディンの奮戦など数多くの英雄が大活躍したことも事実です。

回数のうちには数えられていませんが、第五次の前に実行された少年少女十字軍ほど悲劇的なものはないでしょう。フランスとドイツを中心に始まった自然発生的な子どもたちの大行進は南仏の港に向かうまでに生き倒れになったり、騙されて人買いに売られたりして悲惨な末路を迎えたのでした。

この人の日本語は相変わらずの悪文ですが、今回は短いので助かりました。


台所の流しの隅の物入れに髪の毛が入った風呂水を捨てるのは止めてください 茫洋


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ステファヌ・マラルメ全集第1巻を読んで

2010-10-02 17:14:03 | Weblog


照る日曇る日 第377回

マラルメの全詩集の邦訳といえば岩波文庫からでている鈴木信太郎訳が有名ですが、こちらは筑摩から出た松室、菅野、清水、阿部、渡辺氏の新訳です。なにせフランスの高踏派・象徴派の泰斗による超難解な詩ばかりなので、意味を取ることも解釈をすることも一筋縄ではいきません。例の「海の微風」の出だしの「肉体は悲し。万巻の書は読まれたり」のところを見ると「ああ肉体は悲しい、それに私はすべての書物を読んでしまった」となっているのでこの現代的な翻訳のやり方が分かるというものです。

一読して興味深かったのは「エロディアード」という舞台詩です。これはバイロンなどによって淫蕩な狂女として解釈されたサロメといううら若い乙女の精神を、手あかにまみれた通念を洗い流して、本来の処女エロディアードとして位置づけようとする試みで、エロディアードとその侍女による対話詩劇として構成されています。

マラルメがワーグナーとの交友を通じて音楽に親しみ、詩と音楽の親和性に強い関心を寄せたことはヴァレリーなどによっても証言されていますが、マラルメの「半獣神の午後」などを読むと、その調べのなかにすでにドビュッシーによって音化された「牧神の午後への前奏曲」が鳴っているようにも思えます。

さて本巻に収められたもっとも注目すべきは詩作品は言うまでもなく「賽の一振り」でしょう。人生と芸術の本質が「賽の一振り」のような偶然性によって支配されているがゆえにその偶然性から逸脱しようと絶望的な遁走を試みた詩人は、ここに詩の定型を大きく逸脱したフレームを構築し、旧来の詩集のレイアウト、デザイン、文字の大きさと余白の常識を打破した新しいメディアでもある詩的宇宙を創造することに成功したのでした。

見開き2ぺージを一単位として構成された詩編「賽の一振り」は、いわば「絵のない絵本」、「詩で綴られた創世記」であり、「賽の一振り」によって果てしない航海に乗り出した詩人の前に、前人未踏のめくるめく映像と高鳴る音楽が次々に繰り広げられるのです。


雲去領寂もう鳴かぬか蝉 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第31回

2010-10-01 09:39:37 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1


「そこに、のぶいちが、いる」

と、公平君は押し殺したような低い声で、言葉を胸からきれぎれに押し出すように言いました。きれぎれに押し出すように言いました。

見るとススキの根元から3メートルくらい離れたところに、息も絶え絶えののぶいっちゃんが両手をぐったりと広げ、下半身が川の中にすっぽりと浸かったまま地面に横たわっていました。おそらく川を渡り切れずに途中で意識を失ってしまったのでしょう。

僕は大急ぎで不思議なお家にとって返して、みんなを連れてきました。みんなで公平君とのぶいっちゃんを、ふうふういいながら不思議なお家までひっぱりこみました。

洋子は小川から水を汲んで来て二人を裸にして全身をきれいに拭き清め、身体のあちこちで傷ついて、血が出たり、あざになっているところにきれをまいて、家の奥の方に並べて寝かせました。

夜中を過ぎたうしみつどき、公平君は突然

「くそ、ばかあ、のぶいちをはなせ、はなせ! はなさないと一発お見舞いするぞ!」

と寝言を言いました。



おシャモジは奇麗に洗ってくださいね何回言ってもあなたは聞かないけれど 茫洋

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