あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

マリオ・バルガス=リョサ著「世界終末戦争」を読んで

2011-03-16 08:20:44 | Weblog

照る日曇る日 第411回

19世紀末のブラジルの辺境の地で実際に起こった内乱を元にして、ペルーのノーベル賞作家が築き上げた魅惑的な形而上の世界です。そこでは希望と絶望、現実と幻想がないまぜになり、密林の内部で異常な増殖を遂げながら、仰ぎ見るような巨大で荘厳なゴシック様式の教会がそそり立つのです。

物語は、内陸部を遍歴する狂人のような聖人の草の根運動から始まります。教会と国家の権威を拒否し、私有財産や結婚制度、階級格差に反対する清貧の放浪者コンセリェイロ。そして彼を慕う無数の社会的弱者、奴隷、ごろつきや犯罪者たちは、辺境の奥地カヌードスに根を下ろし、地下人どもの「愛と平和の理想郷」を構築することに成功します。

富や権力闘争にまみれた共和国ときっぱり絶縁し、ひたすら心の平安を目指す「精神の共和国」に生きる人々を描く著者の筆致は温かく、地上に天国をもたらそうとする不可能に挑んだ、名も無き人々への共感にみちあふれたものです。

日本と同じような西欧化・近代化を目指すブラジル共和国の政治家と軍部は、そのような過激な共同体を国家とカトリックへの反逆とみなし、山にそびえる砦に向かって最強の暴力装置である第七連隊を差し向けるのですが、英雄セザル大佐は無惨な最期を遂げます。

権力対反権力の武力衝突というこの構図は、期せずして本邦の天草の乱や西南の役の英雄的な戦いを連想させてまことに興味深いものがありますが、再三にわたる攻撃を退けたコンセリェイロ軍も、ブラジル国軍八千名の総攻撃の前に全滅し、都市対山村、冨者対貧者、白人対混血、近代対前近代の一代決戦は、前者の最終勝利で決着したように見えます。

けれども、その後のブラジルでは第二、第三のコンセリェイロが間歇的に登場し、依然として世界最終戦の最終ラウンドが終わっていないことを雄弁に物語っているのです。


自らの傲慢強欲棚に上げ天罰を説く東京都知事 茫洋


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ジョン・シュレシンジャー監督の「真夜中のカウボーイ」をみて

2011-03-15 11:31:46 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.112

1969年のアメリカでは、テキサスの田舎者がニューヨークのような大都会に出てきて、己の性的魅力というか男根陰茎動力だけで生活できるというドンキホーテ的な妄想がリアルに息づいていた。ともいえる。そういう思わず笑ってしまうように楽しいような、しかしどうにも物悲しいような、もはや遠い目でしか眺めることのできない、懐かしい映画である。

NYの冬は猛烈に寒い。そのNYで売春婦に事後に20ドル要求して唖然とされたジョン・ボイトが、避暑地のマイアミに逃れてそれを許す婦人に出会えたことは、自由を愛する青年と合衆国にとっての大いなる喜びであったが、その時遅くかの時速く、心友ダスティン・ホフマンは乗りあいバスの中で帰らぬ人となってしまった。

当初水と油のような関係と思われた2人の青年を死線を越えて結んだ絆の中身はいったい何だったのだろう。その、地上ではなかなかに得難い稀少な友愛を、うざったいとも、まぶしいとも思えてくる名匠シュレシンジャー心尽くしのラストは、人類史上稀有な暑い夏への挽歌でもあったのでしょうか。


みちのくのうみべのむらをさまよいてちちよははよとよばわるひとあり 茫洋
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マーティン・スコセッシ監督の「ノーディレクション・ホーム」をみて

2011-03-14 10:45:16 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.111

1941年にミシガンの片田舎に生まれた音楽少年ロバート・アレン・ジマーマンが、いかにしてボブ・ディランという偉大なミュジシャンになりおおせたかを、マーティン・スコセッシがあくまでも音楽内容に則して悠揚せまらず跡付けしてくれた記念碑的な労作である。

冒頭からフィナーレまで何度も色々なアレンジで聴かせてくれる「ライク・ア・ローリングストーン」や「風に吹かれて」「はげしい雨が降る」などの名曲を、功成り名を遂げた現在の彼の解説で次々に聴かせてくれる趣向もうれしい。

 数多くのミュジシャンやディレクター、プロデューサーなどの証言もきわめて興味深いもので、とりわけ彼が敬愛したウディ・ガスリーやジョーン・バエズとの相互交渉と別れなど、この映画を観てはじめて得心がいった。

 とりわけ若き日のディランが街角の不動産屋のちらし広告のコピーを何通りにもアレンジしながら早口遊び言葉のように無限のバリエーションを繰り出す姿は、街頭の即興詩人そのものである。

 古今東西の文芸作品の影響を受け、意味深い歌詞をフォークギターやロックバンドの調べに乗せたボブ・ディランに私淑する山本耀司が、彼の歌唱スタイルを真似して東芝EMIから出した「さあ行こうか」というCDを聴いてみるとこれがほとんど聴くに堪えない代物で、彼我の芸術の落差に愕然とさせられる。友部正人や友川かずきなどは、かなりうまく行った例だろう。
 ともあれボブ・ディランのファンならずとも楽しめるマーティン・スコセッシの労作である。


ノーディレクション地方差別の無計画停電に私は到底同意できない 茫洋

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カール・ドライヤー監督の「奇跡」をみて

2011-03-13 11:31:12 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.110


母であり妻であり嫁であり一家の太陽のような役割を果たしていた女性が、3番目の子供(しかも待望されていた男児!)の出産に失敗して胎児もろとも死んでしまう。

いよいよ棺に釘を打とうとしていたまさにその時、行方不明になっていた弟が帰ってきて周りのものの信仰の薄さを糾弾しながらキリストに代わって「インガよ起きなさい」と命じると、奇跡が起こる。

そんな粗筋の1955年製作のデンマーク映画の中に、なんという神聖で敬虔で高貴なものがいっぱい詰まっていることだろう。篤信の素晴らしさをこれほど自然に、美しく、感動的に描いた映画はないだろう。小さな奇跡は毎日至るところで起こっている、と説くドライヤーの信念が巧まずしてつくった、抹香くささの微塵も無い真正の宗教映画である。


   本当に神を信じて信じきれば奇蹟は起こるとドライヤーは信じる 茫洋


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石牟礼道子著「苦海浄土」を読んで

2011-03-12 10:59:36 | Weblog


照る日曇る日 第410回

第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」を収録した池澤夏樹編の河出書房新社版で読みました。

水俣湾はたった一度だけ鉄道で通過したことがありますが、それはまことにのどかな美しい海で、ここにチッソが有機水銀を垂れ流し、老人から胎児まで数多くの人々を毒殺し半死半生の目に遭わせた悲劇の海域とは思えないほどでした。

高度成長に必要なアセトアルデヒドを大量生産するために豊饒の海を徹底的に汚染し、己の排せつ物が魚類の摂取を通じて猫や人を狂わせつつあることを知りながらも、環境汚染をやめず、利潤の追求のために狂奔したこの企業を国家と国民は長期にわたって手厚く保護したのでした。

いつでも病者は弱く、健常者は権力に満ちあふれて強力無比な存在です。ダカラキミラハムダジニシテハナラナイ。シヌマデタタカワネバナラナイ。ボクラハキミタチヲイッシンニタスケルダロウ。

なにも悪いことをした訳でもないのに、魚を食べただけで狂い死ぬ人々を、当時厚生省の役人だった橋本という首相になった男は口をきわめて罵倒し、チッソの社員は「補償金で倒産させられる」なぞとほざき、善良なる水俣市民の多くも「一握りの患者のために市のイメージが悪くなって観光客が来なくなる」と総スカンだった。一方補償金をもらって人生を狂わせていく患者も現れるという具合に、悲劇が悲劇と笑えぬ喜劇も生みだしていくのです。

しかし完全な人災のゆえに身を滅ぼしていく悲運に甘んじる人たちの、なんと心優しいことよ。彼らに寄りそう著者の心のなんと驚くべき優しさでありましょう。社長との直談判で血書を書かせようと代表団は指を切ってちまみれになりなから、ついに社長の指は無傷である。社長に水俣の毒水を呑ませるといいながら、ついに一滴も飲ませられない。

そのうえ彼らは人世を達観し切った治者のように、黙々と死んでいきます。自らはチッソに毒殺されたことを重々知りつつ、彼らは「もう金もいらん。家もいらん。命もいらん」と言って果てていくのです。無垢の者の自己犠牲が、いつか殺人鬼を慙愧させる日が来ると信じているかのように……。

懺起懺起する患者も著者ももっと怒れ! 怒りを持続させよ! もっともっと憎悪をたぎらせよ! テンノウヘイカバンザイだと? これではまるで水俣病が彼らの天命といわんばかりではないか! 御詠歌なんかへらへら歌って事の本質を誤魔化すな!

そう怒鳴って、私はこの緑色のヒューマニズム120%の部厚い本を、無明の闇に向かって擲ったことでした。


猛る蛇人も大地も喰い尽くす 茫洋

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フッリツ・ラング監督の「メトロポリス」をみて

2011-03-11 11:48:33 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.109

全体の1/4が失われたフィルムを最新技術で補って完成させた2時間ヴァージョンで鑑賞しましたが、アールデコの尖ったデザインを基調にした各ショットの造形美がことのほか見事で、これは動く美術品のような作品です。

地上には一握りの権力者、地下には大量の労働者という極端な階層社会の構図は、ちょうどいま亀裂が走って崩壊に近づいたカダフィ大佐独裁のリビアを思わせます。結局カダフィ大佐役の権力者フレーダーセンが、息子フレーダーの仲介で労働者代表と握手するところでこの映画は大団円を迎えるのですが、冒頭と結尾で特筆大書されている「頭脳と手を結ぶのは心である」というスローガンが、既成権力と大衆の中途半端な妥協の賛美で終わるようで、じつにけったくそ悪いフィナーレです。

この映画が公開されたのは1927年。「黄金の20年代」が終わり、ナチ党が着々と地歩を固めつつあった左右拮抗の時代です。翌々年には世界恐慌が起こって1933年にはヒトラーが政権を奪取するのですが、ラングが夢見たのは第2次ワイマール共和国時代のかりそめの「ヒンデンブルクの平和」だったのでしょう。

現実は映画を超えて、フレーダーセンの跡を継いだフレーダーがヒトラーになって、民衆の歓呼のうちにファシズムを鼓吹するのですが、そうと知ったラングは1934年に故国を逃亡したのでした。


天に向かって唾したが天はなんにも言わなんだ 茫洋


お知らせ→「佐々木 健 スティル ライブ展」 明日まで。
http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm
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セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」をみて

2011-03-10 11:46:10 | Weblog
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.108

黒沢の「用心棒」を無断で盗用したマカロニウエスタンの代表作です。ご存知クリント・イーストウッドが2つの悪人グループが対立するメキシコの寒村で桑畑三十郎ばりの大活躍をするというきめの粗い作りの映画でした。
 
この映画で気になることは2つ。ひとつは酒場の親父(ジャン・マリア・ボロンテ)が悪い奴らにひどく拷問されても、ガンとしてイーストウッドの居所を明かさない根性。私にはとても真似ができないことです。

もうひとつは悪人に誘拐されている美女を逃がしてやる理由が、「昔の女を助けてやれなかったからよ」。その昔の女に似ていたのが女優をやめて現在はドイツでお医者さんをしているというマリアンネ・コッホ。あのコッホ博士の子孫ですかねえ。

あとはエンニオ・モリコーネの音楽が巧みなものであった。


    この捨てられた枯れ枝に桃の花が咲くといいな 茫洋
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ウォルター・ラング監督の「ショウほど素敵な商売はない」をみて

2011-03-09 11:20:55 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107

1954年に映画王ザナックが総指揮をとって製作した聖林映画の記念碑的な名作。ドサ回りのボードビリアンのドナヒュー一家が、全篇唄って踊るミュージカル映画の傑作です。

テーマ音楽はあの「アレクサンダーズ・ラグタイム」。これを5つくらいのアレンジで踊りまくるシーンで、まずあっと言わせます。神父になった長男のゴスペル風宗教ミュージカルの熱唱、次男と娘のダンスの妙技、ドナヒュー夫妻、とりわけエセル・マーマンの素晴らしいボーカルは素晴らしい。超ベテランの年齢に達した彼女が、行方不明になった次男の水兵役の代役で歌って踊るシーンは、見事です。

最盛期には5人組で全米にその名をとどろかせたドナヒュー一家でしたが、恐慌の到来や子供たちの成長にともなって、次第にてんでバラバラ状態に陥ってくる。

次男の失恋の原因はモンローのせいだ、とゴッドマザーのマーマンおばさんは憎んでいたのですが、さあそこはよく出来たありがちなシナリオで、ラストでマーマンおばさんひとりが心の痛手を押し隠して「「ショウほど素敵な商売はない」を激唱している(泣かせます)と、いつの間にか行方不明の次男も、次男を捜索していた父親も思い出の劇場に勢ぞろいしている!

そして父親が音頭をとって久しぶりに懐かしい「アレクサンダーズ・ラグタイム」を歌って踊るのです(また泣かせます!)が、画面が一転するとそこは20世紀フォクスの巨大スタジオになっていて、何百人ものダンサーをてんこもりにしたピラミッドの頂上からモンローを加えたドナヒュー一家が、あのラグタイムを歌いながら、こちらに向かって降りてくる。涙なしには見られない感動のフィナーレです。

こまかく詮索すれば冗慢な箇所も散見されますが、それも含めて、これは「古き良きアメリカ」という幻想をあざやかに体現した、ハリウッド浅草三文芝居の奇跡的な作品です。

それにしてもモンローの歌と踊りのセクシーなこと。あんな声であんな容姿で迫るミュージカルスターは、絶対にいません。あほばかをよそおう彼女の真価がはじめてわかる作品ともいえるでしょう。



霊苑の線香消えて寒桜 茫洋


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シドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」をみて

2011-03-08 11:28:31 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107

江戸時代の赤穂浪士の敵討に似た復讐は姿形こそ変えながら、平成の太平の御代にも以前として生きながらえている好個の例を、たとえばアガサ・クリスティ原作のこの映画のスピリッツの中にも認めることができよう。

リンドバーグ愛児殺人事件に酷似したこの事件において、急行列車に乗り合わせた12人の関係者は、天人ともに許すべからざる凶悪犯にひとり一人が鋭いナイフを都合12回つきたてるが、それを知り、それを理解し、それを許した私立探偵ポワロ(すなわちアガサ・クリスティ)はその凶悪な犯罪をあえて闇に葬る。

驚いたことに、この映画の中では私憤と私的復讐が是認され、いわゆる法と秩序が徹底的にないがしろにされているのである。

しかし法による決着を私たちが大好きな警察や軍隊や国家権力にゆだねておけば、それで個人の恨みつらみが解消されるかといえば、てんでそんなことはない。

そもそも法の順守を強制する国家権力じたいが歯止めを知らない無敵の暴力装置であり、超法規的存在であり、ひとたび戦争状態に入れば他国の民衆を非合法に殺戮するのみならず自国民の法的保護すらガラガラッポンと放棄するのであるから、それを思い出し、これを思えば、平時における法と秩序の正当性の根拠などはなはだ脆弱かつ吹けば飛ぶようなものであろう。

国家や権力や秩序にとってはハタ迷惑でも、司法の埒外で罪と罰の私的な交換関係は持続している。私は、娘を暴行殺害された父親が憎き敵を殺害したり、交通事故で愛する人を奪われた家族が、犯人に対して眼には目、歯には刃で実力で酬いる習慣を、野蛮で動物的で前近代的ないし反近代的な所業として第3者的にあっさりかたづけることは到底できない。


たらちねの母はいつまで生きるやら 茫洋

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トマス・ピンチョン著「スロー・ラーナー」を読んで

2011-03-07 11:00:59 | Weblog



照る日曇る日 第409回

「緩い学び手」とはまるでわたしのことではないかと、本書を読む前に笑ってしまったが、読んでしまってから、これは作者の自嘲の言葉と分かった。彼はこの本の中で若き日の短編を6本並べて、自らが書き下した序文で、それらに不平たらたらいちゃもんをつけているのである。

そうと知ればなおのこと、これらの若書きは読むに堪えない未熟な作品と思えてくる。いったいに小説は、その内容か文章のいずれかが多少とも面白ければ、それなりに楽しく読みとおせるが、「スロー・ラーナー」の場合は、そのどれをとっても面白くもおかしくもないから、これは典型的な駄書であり、普通なら到底読むに堪えない小説としてマントルピースに投げ入れられて焼却処分されることになるはずだ。

それがそうならないのは、ひとえに彼の文学が後におお化けしたからであって、後世の偉大さの源泉をさかのぼって発掘するという鬱屈した趣味を持たない一般的な読者にとっては、この種の本に目を晒す楽しみなぞひとかけらもない。私はいわば眼の苦行を強いられたわけだが、それにしてもこれほどくだらないテキストをいくらアルバイトとはいえ、いかにも意味ありげかつ権威主義的に翻訳した奴の顔を見てみたいもんである。



堕ちよ堕ちよダンダラ星堕ちよ 茫洋

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ルキノ・ヴィスコンティ監督の「若者のすべて」をみて

2011-03-06 11:51:50 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.106


イタリアの南部の田舎から北部の都市ミラノへ上京してきた家族の若い男たちに降りかかる運命のいたずらを名匠がぐいぐいと描きに描きつくす人生映画の傑作です。

 美しい売春婦役アニー・ジラルド。そして彼女に魅了された次兄役レナート・サルバドーリと3男役のアラン・ドロンの因縁の恋と宿命の対決が見る者をくぎ付けにします。

己を振った女と弟が熱愛していると知ったサルバドーリが、ドロンの目の前でジラルドを強姦するシーン(脱がせたパンテイーを振りかざす!)や、大嫌いなはずのサルバドーリの強引な求愛に思いとはうらはらに身体が応じてしまう場面。

それとは対照的に、うぶなドロンの純情にほだされて堅気に戻ったジラルドが、生まれて初めての恋に身を焼かれ、2人でミラノの市電に乗る「映画史上もっとも美しい」数秒間。

ドロンから兄のために身を引くと告げられたジラルドが、絶望に駆られて走り去るドウモの屋根の大俯瞰。そして「死にたくない」と叫びながら川のほとりで死んでいくジラルドの哀れな姿……。

こうやって書き出していくだけで、それらの名場面が瞼の奥で次々に甦ってくるようです。後年の重厚長大なヴィスコンティやドロンから喪われた、映画の青春時代の匂い立つような若々しさがこの1960年製造のモノクロフィルムには流れているようです。


早くリビアに行くんだあほばか戦争カメラマン 茫洋

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ヒッチコック監督の「引き裂かれたカーテン」をみて

2011-03-05 07:28:55 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.105

いつのまにやらあっという間に消失してしまった鉄のカーテンやら東ドイツという社会主義国を巨大な敵として対象化している1966年製の総天然色映画を、その45年後にどんな顔をして眺めれば宜しいのか、といえば、黙って座って眺めていれば、見えざる敵はいずこにも存在し、いずれもひしひしと恐怖に満ち満ちておるのだった。

 いくらソ連や東ドイツやエジプトが滅びても、北朝鮮もイランもイスラエルもロシアも中国も、なんならアメリカも日本だって独裁者が棲むか、鬼が棲むか、天ちゃんが棲むのかは別にして、いっかなおっそろしい国であることは間違いないのだった。

で、映画はいわゆる西側に属する国際的科学者のポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースが、いわゆる東側に亡命したふりをして機密を盗み出そうとする素人はらはらどきどきスパイ&恋愛物語であることだけは間違いないだろう。

「サウンド・オブ・ミュージック」の歌うおばさんと「ハスラー」のいなせなお兄さんが物理学の大学教授役なんてミスマッチもいいとこだが、案の定、逃亡の最中に突然出てきたポーランドの男爵夫人役のリラ・ケドローヴァの超絶演技技巧に完全に喰われてしまう。

ったく、ポールとジュリーってド素人だぜ。これじゃあ看板を「引き裂かれたカーテン」から「引き裂かれた三流役者」に描き換えてもらいたいもんだな。


   われが掘り水を与えし池二つおたまじゃくしの卵浮きけり 茫洋

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ヒッチコック監督の「泥棒成金」をみて

2011-03-04 08:48:22 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.104

1955年のヒッチ作品で、ケーリー・グラントとグレース・ケリーが主演するサスペンス恋愛映画。作品の出来栄えは良くないけれど、ともかくエディス・ヘッドがスタイリストを務めた華やかなイヴィニングドレスなどを見ているだけで溜息が出るような美しさである。

「銀幕のスタア」とは、こういう人がこういう衣装、アクセサリーを身に付けた艶姿のためにとっておく言葉なのだろう。かくしてカンヌの夜空に打ち上げられる花火の下の暗闇で光る白銀のネックレスの輝きは、映画史上不滅のものとなった。

しかしロングでは眩しいまでのエレガンスをほしいままにするグレース・ケリーだが、顔のクロースアップになるといかにもヤンキー&ガーリーな、つまりフィラデルフィアの田舎もんの表情になってしまうあたりが面白い。

クール&キュートという相反する両面を併せ持つ彼女の魅力にモナコのアホバカ殿下は一発でやられたんだろうぜえ。

風光明媚な映画な地中海の海や別荘を背景に美男と美女が繰り広げる恋の駆け引きの中で、一度は男が女の肘を、もうひとたびは女が男の肘を強く引き、ぎゅっと握りしめるシーンが本作のキーポイント。異性が、あそこを、ああいうふうに触れると、どのような恋の異化作用が惹起するのか、この喰わせ者の監督はよーく知っていたんだ。


     肘は秘事カンヌの夜空に花火舞い散る 茫洋
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ヒッチコック監督の「マーニー」をみて

2011-03-03 07:51:48 | Weblog
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.103


母と子の幼児体験が成人してからも大きな傷跡を残すことをヒッチが声を大にして映像で解き明かす力作。と言うてもけっしてフロイトなどの学説の紙芝居になっていないところに、この監督のずば抜けた力量を感じる。彼はあくまでも頭ではなく、眼で見て感じ、かんがえる人なのだ。

フィラデルフィアから雨のボルチモアに急行した主人公の2人が、ヒロインの母親を追及するラストシーンは、画面がジンジンするほど緊迫しており、ここではサスペンス映画がドラマの領域を突破して、人間性の真実に肉薄する怒涛の推進力が見る者を圧倒する。

生涯で初めての恋を、生涯で最悪の恋人を死守しながら貫き通そうとする男を、若きショーン・コネリーがなんと英雄的に演じていることか。

そして前作の「鳥」で世界と人世の不穏さを象徴することに成功したティッピ・ヘドレンが、持って生まれた性癖に苦しむヒロインをなんとけなげに演じ切っていることか。バーナード・ハーマンの劇伴も素晴らしく、涙なしに見終えることのできない真の傑作である。

それにしても、エディス・ヘッドの見事な衣装にこれほど見事に映えるティッピちゃんなのに、どうして懇望されたヒッチ映画へのさらなる出演を弊履の如く投げ捨てて、あれらの下らないテレビ番組に憂身を窶したのであるか。惜しみても余りある女優人生の蕩尽だった。

 上品を意味するdecentという英語が、ここでは反語的に使われていることも興味深かった。


母さんがdecentな女になれというから悪女になりました 茫洋


本日の別冊付録

http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm
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ヒッチコック監督の「鳥」をみて

2011-03-02 07:03:20 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.102

1963年製作のユニヴァーサル映画はいまなお奇妙に色鮮やかで、サンフランシスコ近郊のボデガ・ベイ一帯の海や空や土地を鮮烈に染め上げている。風光明媚なこのリゾート地に別荘を持つイケメンロッド・テイラーを追い掛けてきたブロンド娘ティッピ・ヘドレン。お馴染みイディス・ヘッドの衣装に身を包んだ気まぐれな彼女が運んできた1つがいの「ラブバード」が、静かな町に思いがけない不幸と災難をもたらすのである。

登場人物たちの多くを殺したり、傷つけたりした様々な鳥たちが、主人公の家の周囲に磐居するこの映画の不気味なラストは、まるで地獄の黙示録のような凄味を湛えている。

世間では鳥は平和的な生き物と考えられていて、ピカソなぞは鳩をそのシンボルと心得ていたようだが、それはまったく事実に反する。その証拠に、私なぞは東京の渋谷区にある原宿外苑中学校の校門の前で、凶悪なカラスどもにあることか「2度までも」襲われているからだ。

彼奴等はいつも学校の前に植えられているイチョウの木の上に屯していて、(何が「これは」だかさっぱり分からないのだが、)「これは!」と思う人間を見つけると、ひとことの断りもなしにいきなり突撃してくるのである。

私は彼奴のぶっとい嘴で後頭部をしたたかに衝突せられたために、まさしくこの映画のティッピ・ヘドレンちゃんが体験したのと同程度の恐怖と被害を「2度までも」体感させられたので、それ以来ここを通行するときは、鎌倉小町のおもちゃ屋さんで購入した特製パチンコと鉛の銃弾30個を携行するようにしていたが、それ以来彼奴等は私を狙うのを躊躇するようになったから不思議だ。

このようにカラスひとつをとっても、鳥という生物はじつに凶悪で、人類に対して敵意と殺意を併せ持った存在であることが、少なくとも私なんかには得心できる。そういう意味ではヒッチはじつに先見の明のある映画作家であった。


大きな胸をゆさゆさ揺らして消えていった 茫洋

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