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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ダニス・タノヴィッチ監督の「ノーマンズ・ランド」を見て

2011-05-16 07:18:48 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.124

1992年~95年のボスニア紛争をテーマにした戦争映画。ボスニア、セルビア両軍が対峙する塹壕の中で起こった小さくて大きな事件を描く。

今となってはどちらがどう悪くて起こった戦争なのかもはや誰も論じようとはしないが、ともかく人間の憎悪が戦争を引き起こし、いったん起こってしまえば、それは戦争の論理に従って自動的な敵対と機械的な殺戮行為が連鎖する。

この映画では本来は友好的な隣人であったはずの兵士たちが、おのれの人倫の最低の鞍部で相手を間化し、殺戮し、抹殺しようとしておのれも1個の野獣と化すありさまをじっくりと見据えている。

負傷して横たわっている間に敵の地雷を仕掛けられた兵士は、立ちあがったり、身動きしただけで五体が吹き飛んでしまう。それを知った両軍と国連軍の兵士、さらにはテレビ局の取材チームなどが不運な兵士の命を救おうと奔走するのだが、結局は万策尽き果てて無人地帯の現場から退去してしまう。

背中に爆破装置をつけられたまま無為に死を待つしかない人間とは、ほかならぬ我々自身のことではないだろうか。

被災地より連れて来られし隣家の犬来る朝ごとにわんわんと鳴く 茫洋

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林望の「謹訳源氏物語五」を読んで

2011-05-15 09:22:09 | Weblog

照る日曇る日第429回

庇護者の源氏や朝廷の名だたるイケメンたちから愛を乞われた内大臣の隠し子玉鬘だったが、結局は髭もじゃのださいオッサンの手中に墜ち、こんなはずではなかったと後悔するのだがもはや後の祭り。あっという間に赤子を孕ませられてしまう。若い娘は昔からよくある蹉跌をまたしても繰り返してしまうのだった。

昔といえば紫式部の平安時代においても現代よりは昔の文物の方がはるかに優れていたと振りかえられるのであるが、では大陸と朝鮮半島から渡来した平城京の時代のヒトモノカルチュアがどれほど国風文化の藤原時代に勝っていたのかははなはだ疑問である。

しかし紫式部は、例えば源氏が六条院で主宰した香合わせにおいても、前代の到来物の香木の馨の深さには当代の新品なぞ物の数ではないと源氏と共に断言しているから、まあそれはそうかもしれない。法隆寺の蘭奢侍は後代の義政や信長が切り取って珍重したと伝えられる伝説の香木だが、その原産地はベトナム、タイ、インドなどの諸説が入り乱れているそうだ。

本巻の「梅枝」では、沈香でこさえた箱の硝子細工の容器の中に、「黒丸」と「梅花」という銘の二つの薫香が登場するが、おそらくこれは道長の時代につたえられた銘木であっただろう。わたしも源氏や紫の上や明石と夢の中で同席して、その芳香に酔いしれてみたいものだ。

子等揃い菖蒲湯に浸かるめでたさよ 茫洋
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カルロス・クライバーのドキュメンタリー「目的地なきシュプール」を見て

2011-05-14 08:46:29 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第198夜

今宵もクライバーのドキュメンタリーを視聴しました。昨年オーストリアで製作されたばかりの「Traces to Nowhere」という原題の映像で、エリック・シュルツという人が演出して不世出の天才指揮者の軌跡を辿ります。

出演はブリギッテ・ファスベンダー、ミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンク、マンフレート・ホーニク、プラシド・ドミンゴ、アレクサンダー・ヴェルナーなどの指揮者や歌手や演出家、評伝作家のほかに、南ドイツ放響のフルートやピッコロ奏者、メイクの女性、さらにこれまでいっさいマスコミに顔を出さなかった彼の実姉ヴェロニカ・クラーバーが特別出演して「死ぬまで彼は寂しい男の子でした」と語るとき、アルスの御業によりて天界と人界をサーカスの綱渡りのようにつないだ天使の本質に、一筋の微光が差すようです。

ここでも素晴らしいのは南ドイツ放響との「こうもり」のリハーサル風景で、楽員に対して音楽のために全身全霊を捧げることを求め、バトンを天に向け、「まだ見ぬ音を勝ち取るために戦ってください」「8分音符にニコチンを浸してください」などと訴える若き日のクライバーの姿が胸を打ちます。

やがて守旧派の奏者を心服させたマエストロは歌いに歌い、いまや音楽と音楽家は完全にひとつに溶けあって、この世ならぬ至上の時、法悦の時へと参入していく……。さてこれまでいったい他のどの指揮者が、このような音楽の奇跡を成し遂げたと云うのでしょうか。

無数のオペラと交響曲、管弦楽曲とオペレッタを自家薬籠中に収めていたにもかかわらず、父を尊敬するあまりエーリッヒが録音したか楽譜を残していた曲以外は演奏しようとしなかったクライバー。その父を超える技術と感性を持っていたにもかかわらず、常に父に引け目を感じていたクライバー。

父と並ぶ完璧さを求めようとするあまり、とうとう演奏が無限の苦行と化してしまったこの悲劇の天才は、短すぎた彼の生涯に終止符を打つために、愛する妻スタンカが眠るスロベニアへと死の逃避を敢行したのでした。

地上では行く場所失いしクライバー眠れわれらの記憶の底に 茫洋

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カルロス・クライバーのドキュメンタリー「ロスト・トゥー・ザ・ワールド」を見て

2011-05-13 09:35:59 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第197夜


惜しまれつつ瞑目した史上最高の指揮者の一人の生涯の軌跡を関係者の証言で辿った音楽ドキュメンタリー。証言者のなかには、それにバイエルンのオペラでの凡庸な同僚サバリッシュなども登場してちょっと辛口のコメントを吐くが、それでも彼は神経質なクライバーを終始擁護し激励した人だった。

リッカルド・ムーティやミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンクなどの証言者の大半が、彼を「神が地上に遣わした音楽の天使」などと大仰に褒め称えているが、それがあながち誇大な表現であるとも言い切れない奇跡的な演奏を、実際に彼は一九八六年の人見講堂におけるベートーヴェンの七番の第四楽章などで繰り広げた。

そしてその真価は、このドキュメンタリーの通奏低音のようにして流れている八〇年代のバイロイト音楽祭における「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル映像においてまざまざと映し出されている。とりわけ終曲の「愛の死」のクライマックスを見よ! 誰もが頭が空っぽになり、肌に粟が生じてくるようなエクスタシーの現前は、いかにもこの不世出の指揮者の独壇場で、このような芸術の高みに登った音楽家はそう多くはなかっただろう、と思わせる素晴らしさと物凄さである。

このような演奏を可能にしたのは、彼の頭の中で鳴る音楽の独創性と、それを現実の音に置き換えていく彼の練習の際の言葉の力であることは明白で、リハーサルで彼が繰りだす卓抜な比喩の誘導によってオーケストラの音楽がどんどん変わっていくありさまを、私たちはこのドキュメンタリーにおいても再確認することができる。

しかしそれはいつもうまくいくとは限らないのであって、ウィーン・フィルとベートーヴェンの四番のリハーサルを行っているとき、「この箇所はテレーズ、テレーズと歌ってください」という彼の指示を、第二バイオリンの心ない奏者たちは、「いやマリー、マリーでいいのでは」などととあざ笑い、あえて無視しようとする。

激高したクライバーは、懸命に引き留めるコンマスのヘッツエルの手を振り払って、そのまま空港に直行してミュンヘンに帰ってしまうのだが、彼は毎日帰りの飛行機の予約を入れていたそうだ。

といった塩梅で、クライバーのファンならずとも見どころ満載のドキュメンタリーである。原題は「I am lost to the world」で、これはマーラーのリュッケルト歌曲集の中の「私はこの世に忘れられ」からの引用であろう。音楽にあまりにも高い完成度を求めたためにもはや普通の演奏に甘んじることができず、急速に指揮台から遠ざかっていった晩年の天才指揮者の孤独を象徴するようなタイトルではある。


あなた何してんの早く30キロ圏まで退避しなくちゃ 茫洋


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フリードリッヒ・グルダの「DOCUMENTS盤10枚組」を聴いて

2011-05-12 07:24:19 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第197夜



グルダはかつて三馬鹿ならぬウイーンピアノ界の三羽烏の一羽と呼ばれていたが、どうして3羽はカラスなのだろう? 他の二羽はデムスとパドラスコダであるが、私は昔は最後の烏を一等愛していて彼がオイストラフと入れたベートーヴェンのソナタなぞを愛聴していた。

いっぽうグルダの音楽世界はいまの指揮者でいうとアーノンクールかブーレーズのような訳の分からぬ暗黒物質があって長らく放置していたが、ここに収められたモザールの二四番目の協奏曲をマルケビッチ指揮リアス放響の援護の元で匍匐前進した演奏やベーム&ウイーンフィルの伴奏で流麗に弾き鳴らしたベートーヴェンの一番を聴いてみると、彼がいかにこれらの音楽を愛していたかが如実にうかがえて心が弾む。

またグルダ選手は、私の嫌いなショパンや私の好きなドビュッシーやラベルも演奏しているが、これらは到底サンソン・フランソワの酔っ払い演奏の足元にも及ばない糞真面目な代物である。

彼は私がもっと嫌いなジャズ、それも下手馬のジャズもどきをいつもレパートリーに入れて古典ナンバーと一緒のプログラムを組んでいた。このアンソロジーの最後もAT BIRDLANDというタイトルのジャズ演奏になっているが、例によって退屈極まりない演奏で、黒田なんとかという音楽評論家がグルダのジャズを絶賛する提灯記事を見かけるたびに、ひそかにこの阿呆めと呟いていた昔日を、所謂一つの遠い目玉で思い出したことだった。

くたばれポリーニよみがえれコルトーフランソワ 茫洋
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METによるロッシーニのオペラ「アルミーダ」を視聴して

2011-05-11 08:41:56 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第196夜

もうロッシーニもルネ・フレミングもこりごりだ、と思っていたのに、2010年5月1日に上演されたこの演奏はだんだん良く鳴る法華の太鼓、最後はかなりの竜頭蛇尾ですが、もうもう見あきたセビリアの理髪師よりよっぽど新鮮で見ごたえがありました。

フレミングの歌唱は長大なアリアを息切れもせず、ロッシーニ独特の旋律に巧みなフィオリトゥーラをつけくわえて素晴らしい。彼女の本命のリヒアルト・シュトラウスなんかよりよっぽどこっちがいい。十字軍の騎士ローレンス・ブラウンリーを魔法と色香で牛耳り歌も演技も乗りに乗っていました。
リッカルド・フリッツアの指揮は良くないが女流演出家メアリー・ジマーマンは音楽を壊さない中庸の壺を外さずまずまずの出来。1817年の初演以来のこんな楽しい出しものを享楽できるNYの観客は幸せですね。


パンクがわからないやつはパンクしろ! 茫洋
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文化学園服飾博物館にて「ヨーロピアン・モード展」を見る

2011-05-10 08:44:18 | Weblog

茫洋物見遊山記第58 回&ふぁっちょん幻論第63回


これぞ欧州200年モードの決定版。18世紀のロココ時代から、モーツアルトの時代のローブ・ア・ラ・フランセーズ、19世紀の英国のデイドレス、20世紀前半のイブニングドレスを経て、1969年のマリークワントのエプロンドレスまで全時代の女性のファッションを一堂の元に俯瞰できます。

特に興味深いのは1910年代の曲線的有機的アールヌーボーが1920年代に突如アールデコの直線的鋭角的モダンへのリビコン渡河的に豹変するところ。服飾史におけるアールヌーボー時代は1900~1910年、アールデコ時代は1910~1920年というわずか2decadesで区分されるそうですが、胸は豊満に、ウエストはぎゅっと絞り、横から見ると大きなS字型フィットアンドフレアが、ウエストを絞らないシンプルなミニドレスへと180度、いやそれ以上の路線転換を遂げる。これほど短期間に女性の服飾のありようが激変したことは古今未曾有だったのではないでしょうか。そしてこの構造改革の延長線上に、シャネルのあの見事なビジネスウイメンズスーツが誕生したのです。

また先日の英国ロイヤルウエディングの記憶もわれらの耳目に新しいところですが、本展の歴代ウエディングドレスの特別展示も見ごたえあり。来たる6月11日まで開催中です。(日曜祭日は休み)


傷ついた脳を持って産まれし少年をペロペロ舐めてムクよ癒せ 茫洋


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ジュリアン・ジャロルド監督の「キンキーブーツ」を見て

2011-05-09 08:52:27 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.123


2005年製作の英国映画です。監督はジュリアン・ジャロルド、俳優もなんたらかんたらちという未知の人たちですが、ノーザンプトンに実在する老舗靴メーカーが生き残りを賭けてニッチの女男靴マーケットへの転身を図り、ミラノコレクションで大成功するという話自体が多少面白い。

しかしおかまがショー用に履く超セクシーなブーツなんていくらニッチにしても需要なんてあるのだろうかと心配になってしまう私はリーマン時代の悪夢をまだどこかで引きずっている弱虫商売人なのに違いない。

この映画の主人公ジョエル・エリーカーンは幸いにも成功するが、きっと今頃は破綻して泣きをみているのではないだろうか?


配線を間違えて産まれてきた君の脳誰かつなぎ直してくれないか 茫洋

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「田村隆一全集」第5巻を読んで

2011-05-08 09:34:18 | Weblog


照る日曇る日第428回&ある晴れた日に第91回


鎌倉村の小学校の前に小さな文房具屋さんがあって、その隣には樹齢百年は優に越えた巨大なユリノキ、別名ハンテンボクがそびえているが、小学校の校庭の中にも大きな樹木がそびえていて当時この学校に通っていたうちの次男坊が毎日授業そっちのけでましらのようにてっぺんまでするすると登り、仏様が眠っている姿に見える衣張山を頭を真下にして眺めれば、ヤビジラミ、ヘビイチゴ、ホタリカズラ、ジゴクノカマノフタ、キツネノボタンの花々の上をキタテハ、アカタテハ、ツマシロチョウ、ジャコウアゲハが乱れ飛ぶよ。

W・H・オーデンの顰に倣って隆一さんは善は悪を想像することができるが、悪は悪を想像することができないといわれるが、それなら私は、世界は日本を想像することができるが、日本は世界を想像することができない、仏教はキリスト教を想像することができるが、キリスト教は仏教を想像することができないといいたい。

鶯鳴き麝香揚羽舞う朝に没したり享年六十二 茫洋


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鎌倉国宝館にて「鎌倉の至宝展」を見る

2011-05-07 06:26:53 | Weblog

茫洋物見遊山記第57 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第240回

 なんでも平成21年から2年間にわたって修理されていた建長寺につたわる中国元朝の「白衣観音図」が今回の目玉のようですが、私がいちばん面白かったのは近所の光触寺の所蔵にかかる「頬焼阿弥陀縁起」の巻きものでした。

 無実の人の罪咎を肩代わりならぬ頬代わりして傷を被った阿弥陀如来の尊い所業に感じ入った女性が新たに比企が谷に岩蔵寺を建て、本尊に運慶作のこの頬焼阿弥陀を迎え入れるまでの物語が写実的なタッチと美しい色彩で彩られた名品で、これが重要文化財に指定されているのは当然のことでしょう。

 ちなみに現在十二所に所在する岩蔵山光触寺は、鎌倉時代に一遍上人によって開かれたと伝えられている名刹ですが、当初は比企が谷にあったのでしょうか。しかし「鎌倉廃寺事典」にこの寺は載せられていないので、「鎌倉こども風土記」の記述の誤りであるとも考えられます。

この問題については、朝な夕なにこのあたりを散歩しておられる光触寺の住職さんに、いつか直接うかがってみることにしたいと存じます。

*なお本展は来る5月29日まで開催中です。


正義とは無防備な人間を殺すことオバマ万歳アメリカ万歳 茫洋



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METによるトマ作曲のオペラ「ハムレット」を視聴して

2011-05-06 08:02:32 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第195夜


 2010年3月27日にNYのメトロポリタン歌劇場で開催されたこれまで聴いたこともないオペラでしたが、基本的にはシェークスピアの原作をベースにしたお話で、主役のハムレット役のサイモン・キーンリーサイドとオフェリア役のマルリース・ペテルセン、脇役のクローディアス王のジェームズ・モリスとガートルード王妃役のジェニファー・ラーモアが健闘して、思いがけぬ拾いものをしたような気がしました。

 指揮のルイ・ラングレという若い人も頼りなさそうな顔つきですが、それなりの劇伴を見せて、パトルシェ・コリエとモーシュ・ライザーの簡素な演出ともどもトマの音楽とドラマの劇性を力強く表現していました。アンブロワーズ・トマなどといっても誰も知らないフランス19世紀後半の音楽家ですが、これほど素晴らしいメロディを歌わせる人とは! もっと知られていい人物でしょう。

 とりわけ第4幕のオフィーリアの狂乱の場は観客の胸を締め付けるような音楽で、これを美貌のペテルセンが紅涙をしぼるようにけなげに演じて見事でした。第5幕の墓場から終幕にかけてはキーンリーサイドの独壇場で、恋人の死に涙を流したり、レアティーズと決闘して血まみれになったり、亡父の亡霊に激励されて悪い叔父さんのクローディアス王を刺し殺したり、と大活躍。最後にオフェリアの亡きがらの傍で息絶えるラストではメトの観衆の拍手喝采を呼んでいました。

 なんでもメトではおよそ1世紀ぶりの再演らしいのですが、原作とはまた違った魅力のあるオペラで、もっとあちこちで上演すれば人気がでるのではないでしょうか。


大口をあんぐり開けてテレビ見るこれぞ人生至上のよろこび 茫洋

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高橋源一郎著「さよなら、ニッポン」を読んで

2011-05-05 09:28:40 | Weblog


照る日曇る日 第427回

かつて夏目漱石はその文学論の中で「およそ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは認識的要素、fは情緒的要素なり」という有名な定義からあの快刀乱麻の独断と偏見を開始し、かの泰斗小西甚一は雅と俗のキーワードであの膨大な日本文藝史を道半ばまで大展開し、伊藤整と瀬沼茂樹の衣鉢を継いだ川西政明は文壇というフレームを通じて過去の文学の棚卸を試みようとしているが、我らがタカハシゲンチャンの文学史の特色は、そのいずれの道も選ぼうとはしない。

彼はそもそもの出発点において偉大なる御両所のような立派な前提と仮説を立ちあげず、文壇妄想などとはまったく無縁な場所から、とぼとぼと歩きはじめている。

なんのことはない徒手空拳でこの複雑怪奇な現代文学の最先端に立ち向かって気のきいたセリフのひとつやふたつを言うてやろうじゃないか、という無手勝流の姿勢がいっそ潔く、またそれゆえに新鮮無比な収穫をもたらしているといえよう。それは音楽でたとえるなら、はじめてチエット・ベーカーを聴いたときのような気持ちだ。

ここでは漱石や甚一や政明があざやかに駆使して既存の文学を整序した(はずの)要素還元主義処方は退けられ、そのかわりに中原昌也や綿矢りさ、岡田利規などの得体の知れない非文学的文学、新しい無の文学、悪魔が生成した胎児のような文学、生も死もないような透明な文学、父母未生以前の文学のようなものたちの、「蠢きなう」に対する直情的洞察とどうしようもない共感が即興的に奏でられている。

明治33年の英国で文学の本質を究めるために古今東西の小説を読むことは「血を血で洗うがごとし」と喝破し、哲学や心理学の研究にいそしんだムク犬の如き文豪の轍をあえて踏み、火中の栗を飛んで火にいる虫の如く拾おうとするゲンチャンの、そこが新しく、そこが赤子のように無防備だが、その成果は目覚ましいものがある。

さよなら、古い文学! 君の、まだ死なないまなこでぢかに確認せられよ。


長男はわが吐きし暴言を鸚鵡返しに叫んでいるとう 茫洋
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東博にて「写楽展」を見る

2011-05-04 13:32:30 | Weblog


茫洋物見遊山記第56回

総数160点を超える東洲斎写楽の作品を一堂に集めた、これぞ空前にして恐らくは絶後であろう展覧会を見物してきました。
作品の大きさに対して会場の空間が広すぎるという問題はありますが、黄金週間いな大震災に見舞われた本年度一番の眼福であることは間違いのない至福のひとときではありました。

そこで初めて気づいたのは、東洲斎写楽を生んだ江戸絵画界の豊饒さと連続性です。2代目坂東三津五郎の役者絵などが写楽の他に歌川豊国と勝川春英の作品と並べて展示されていましたが、それらの3点はほぼ同工異曲で技術的にも完成度からも優劣をつけがたい水準に達しており、ひとり写楽のみが群を抜いて孤立していたわけではないことを雄弁に物語っていました。おそらく他の2名の絵師が写楽を名乗ることは、いともたやすきわざであったことでしょう。

さはさりながら、寛永6年の初頭から開始された写楽10ヶ月の疾風怒濤の進撃に目をやると、これら同時代のライヴァルたちにはない存在感は圧倒的で、私は彼の大胆な構図や光彩陸離とした表情の奪取、被写体の人間性の内奥に肉薄する鋭い筆致、複雑で微妙な柄や色彩の選定に驚嘆せずにはいられませんでした。

その強烈な個性は、とりわけ彼が得意とした当代一流の歌舞伎役者の大首絵において面目躍如としており、その独創的な芸術の価値は、首絵創始者の喜多川歌麿をはるかに凌駕するものがありました。

サリエリのオペラはモーツアルトそれに非常に似ていますが、しかし全然モーツアルトではない。凡才は限りなく天才に追随できるけれどもついに天才ではない。これと似た事情が、音楽だけでなく絵画の世界でもあることが本展の鑑賞をつうじて理解することができたというのはざわざわここに吐露する迄もない凡庸な感想でしたな。

ちなみに写楽が獅子奮迅の大活躍で昼夜を問わず大首絵を書きまくった寛政6年は西暦1794年、ちょうどこの年に海の向こうのおフランスではテルミドールの反動が起こって、かの独裁者ロベスピエールのろくろ首がぶっ飛んだのでした。


無より生まれ無に還るまでのお戯れ 茫洋
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根岸吉太郎監督の「探偵物語」を見て

2011-05-03 15:28:02 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.122


1983年に角川春樹が「遠雷」の根岸監督、脚本の鎌田敏夫、主演に薬師丸ひろ子。松田優作を起用して制作した赤川次郎原作の探偵ごっこラブムービー。

音楽の松本隆や加藤和彦、大滝詠一を含めて当時のタレントを総動員した観のある作品だが、ラストの空港の別れに至るまでの展開がまどろしく普通の観客なら10分で席を立つに違いない出来栄えになっている。

では見どころはどこかというと松田優作が別れた妻秋川リサと、やくざの財津一郎が親分の情婦中村晃子と情を通じる時の嬌声の録音。考えてみれば根岸吉太郎は日活ロマンポルノの名匠で、それが傑作「ひとひらの雪」の艶麗な濡れ場演出を生みだしたのだった。

薬師丸ひろ子などの女優が着ている肩パッド入りのジャケットやバブル時代のヘアスタイルが一抹の哀愁を誘う。


震災に遭いし老犬わけもなく隣家の庭で朝晩に吠ゆ 茫洋
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ギイ・ハミルトン監督の「地中海殺人事件」を見て

2011-05-02 17:30:36 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.121

前作が興行的に成功したからでしょうか、1982年にまたしてもアガサ・クリスティ原作の同工異曲の観光探偵映画が制作されました。しかもピーター・ユスチノフ扮するポアロやジェーン・バーキンなどが本作にも登場してじつにわざとらしい演技を見せつけていて迷惑です。

今回もまた思いがけない犯人の出現に驚きあきれた私ですが、原作と違って映画では推理の元になる情報が後出しジャンンケンになったりするので、厳密な予想が難しい。それよりも風光明媚な地中海の光景を目で慈しむ種類の映画だと思います。

あとは登場人物がまとう多種多様なファッションですが、この点では今回のアンソニー・パウエルよりも「ナイル殺人事件」のコニー・ウイルスのほうが数等洗練されていました。

美女が棲む隣家に紅しチューリップ 茫洋





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