あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

井上ひさし著「一分ノ一」下巻を読んで

2011-12-17 13:55:09 | Weblog


照る日曇る日第473回

我らが主人公は、分断された日本の再統一を夢見るソヴィエトによって占領された北ニッポン国の地理学者サブロー・ニザエモーノヴィッチ・エンドーこと遠藤三郎。

彼は、少数の味方を敵の警察やスパイの魔手によって次々に失いながらも、入手した7枚の偽の身分証明書を使いながら、幾たびもの死地と窮地をあやうく逃れに逃れ、ついに中央ニッポン国六本木交差点付近のモスクワ芸術座付属トウキョウ俳優座劇場にたどりつき、名女優コマキーナ・カズートヴナ・クルハレンコの献身と劇場スタッフの協力によってテレビ出演を果たし、全国の隠れ統一熱望者たちの決起をうながす。

救国の英雄となった遠藤三郎の輝かしい存在を知ったニッポン人たちはようやく蜂起し、東京の各地でデモや武装闘争が開始されようとしていたが、肝心要の主人公は対日理事会からの死刑宣告を受け、執拗な敵スパイからの攻撃と追及、卑劣な脅迫の前にひとたびは転向を決意するのであった。

が、しかし、しかし、火山噴火口上の西郷隆盛の如く、203高地直下の乃木希典の如く、怒れる若者たちによって祭り上げられた神輿状態に陥った遠藤三郎は、再び戦場に返り咲き、世界最終戦争の渦中に飛び込むことを決意する。

さあこうなったら乗りかかった船、平成4(1992)年から足掛け7年41回の断続的連載を経たこの冒険ファンタジー超大作は、平成22(2010)年の著者の死去にもめげず、泉下の「小説未来」にて永久連載の栄光の道を辿ることとなったのであるうう……。


玉虫を尋ねて行かむ幾千里 蝶人

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奥富敬之著「吾妻鏡の謎」を読んで

2011-12-16 14:53:43 | Weblog

照る日曇る日第472回$鎌倉ちょっと不思議な物語第254回


何の期待もなくたまたま手に取ってしまった一冊の本でしたが、長年に亘って吾妻鏡を読み込み独自の研究を続けてきた著者によるこの遺著は、予想外の収穫がありました。

鎌倉幕府の終わりが近づいたころに編まれたこの本は、もちろん「北条氏による北条氏のための北条氏の歴史書」なのですが著者は類書とはまったく別の視角からその問題点を次々に俎板に載せて筆鋒鋭く疑惑を解明してゆきます。

例えば富士川合戦など実在しなかったこと、平家よりももともと源氏のほうが水軍に強かったこと、鎌倉幕府の成立は頼朝ゆかりの御家人が自主的に一揆(決起して同盟の契りを結んだ)治承4年12月12日の亥の刻であること、その「一揆」組の統一と団結に逆らって自分勝手な「独歩」を敢行し、兄の乗馬を曳くのが武士として極めて名誉なことであることにすら無知で下賤の身であったからこそ、頼朝は義経を切り捨てたこと。

そしてこの「独歩」を粛清して「一揆」を守ることが鎌倉幕府の組織原理であったこと、「独歩」路線を強行する(北条氏を除く)あまりにも強大な御家人の長(下総介広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛等)は、その組織原理からもたらされる「権力の平均化」政策によって粛清されるが、その場合でも一族を皆殺しにすることは頼朝以降もなかったこと、実朝暗殺の真相をもっとも正確に伝えているのは「吾妻鏡」ではなく「愚管抄」であり、暗殺の黒幕は意外にも北条義時ではなく三浦義村であり、暗殺者公暁の協力者がいた鶴岡二十五坊には多くの平家の残党が僧侶に姿を変えて潜んでいたこと、

などなどが、豊富な文献証拠と著者ならではの鋭い推理と直観できわめて大きな説得力をもって論証してあります。本書は、これから鎌倉幕府と「吾妻鏡」を研究しようとする人にとって必読の書といえるでしょう。
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県立近代美術館で「シャルロット・ペリアンと日本」展を見て

2011-12-15 15:36:24 | Weblog


茫洋物見遊山記第75回

本邦では初、そしてニュヨーク近代美術館、巴里私立美術館に次いで世界で3番目に設立されたこの鎌倉の公立公共美術館であれやこれやの展示を見るのは、小生のこよなき喜びですが、小春日和の今日はシャルロット・ペリアン嬢のインテリア展を見物する機会に恵まれ、有り難く天に感謝を捧げたことでした。

シャルロット・ペリアン選手は1903年に巴里に生まれたのデザイナーで、ル・コルビジュのアトリエで、インテリアの苦手なこの大建築家のアシスタントを務めていたキュートな女性です。

同じアトリエでわが国の前川國男、坂倉準三とも同僚であった彼女は、1940年のヒトラーに因るパリ陥落のまさにその日に祖国を去って、客船白山丸で来日、わが国商工省の輸出工芸指導顧問として破格の高給で迎えられ、東洋と西洋を衝突・融合・再編集する、当時としては異色のデザイン世界を創造しました。

特に河井寛次朗郎、柳宗悦などわが国の「民藝」運動の推進者との出会いによって竹や木などの自然素材の特性を生かした机や長椅子や家具や調度品が次々に誕生し、それらは1941年に高島屋で開催された「日本創作品展覧会」を通じて全世界に発信され、住宅内部装備のデザイン革新に後々まで大きな影響を与えることになったようです。

46年の帰国後も彼女と日本デザイン界の密接な関係は坂倉準三との交友と共に長く続き、99年に死去するまで53年の「コルビジュ、レジェ、ペリアン3人展」や日仏のエールフランスのオフィスデザイン、在仏日本大使館のインテリアデザインなど数多くの優れた成果を残し続けましたが、そんなことはどうでもよろしい。

会場を入ってすぐ左手に陳列されている秋田の竹を使って精巧繊細に仕上げられたいくつかの小さな簾(すだれ)を見るだけで、当時弱冠38歳だったこのデザイナーの類まれなる才能が誰の眼にも明らかでありましょう。



おいらはイサムノグチの提灯なんて要らないけれど、あの簾だけは欲しい。欲しい。欲しい。蝶人
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プラド美術館所蔵「ゴヤ展」を見て

2011-12-14 13:15:32 | Weblog


茫洋物見遊山記第74回

昔むかしスペインを訪ねてこの美術館の壮大さとその所蔵コレクションの膨大さに圧倒されたことを思い出しました。

もうすぐ会期が終わりそうなので駆けつけて一覧しましたが、ざっと半分がゴヤの闘牛や戦争の惨禍を主題とした画面の小さな素描だったので、見るのにひどく疲れてしまいました。これらは画家の私小説あるいは内面の極私的な独白のような趣があって丁寧に見て行くととても興味深いものがありますが、素描の過半数が西洋美術館の在庫品なのでちょっとガックリ。プラド美術館所蔵のなどと謳っていますが、総数123点のうち37点、その他の国内美術館のかき集め6点を加えると、およそ3割近くがプラド以外の収蔵品なんて、すこしく羊頭狗肉の展覧会ではないでしょうか?

プラド本体のゴヤはこんなものではなく、それこそ見飽きて腐るほどあるのです。しかもその作品をずるがしこいキューレーターたちが、やれ「創意と実践」だとか「嘘と無節操」、「不運なる祭典」「信心と断罪」などと小賢しい惹句をつけて、それでなくとも疲弊した我々観客の目をあらぬ方へ誘導しようとする。我等はあなた方の固定観念の押しつけなぞ必要としていない。それぞれの自分の目で勝手に見るだけのことです。どうかほおっておいてください。

と、罵詈雑言の限りを尽くしながらも、たった1500円でバルセロナに行かないで素晴らしいゴヤの「自画像」や「日傘」をこの眼で心ゆくまで眺めることができたのは望外のよろこび。有名な「着衣のマハ」はさして傑作とも思えませんが、「日傘」の色彩の美しさと取り合わせの妙は、見れば見るほど生理的な快感を覚え、人もまばらな雨の午後に時の経つのも忘れてしまいました。

ゴヤの油彩にはちょっとルノワールに似た浮遊感がかんじられ、(よく見ると人物像は下地からわずかに浮き上がるように描かれている)それが私たちを一瞬、このせちがらい現世を超脱した夢見心地に誘ってくれるのです。もしかするとこの画家は、戦争や殺戮や巨悪などの過酷な現実と地獄を見据える生活者の視線を素描の連作に、地上の楽園を夢想する幻視者の視線を初期・中期の油彩に定着しようとしていたのかもしれませんね。



お母さんと西友行きます!お母さんと西友行きます!と叫ぶ君 そうかいもうお父さんとは行かないのかね 行ってくれないのかね 僕の息子のくせに
蝶人

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ブリジストン美術館で「野見山暁治展」を見て

2011-12-13 16:17:40 | Weblog


茫洋物見遊山記第73回

90歳になんなんとする、いや確かもっと年長組のはずの洋画家の一大回顧展覧会である。

画家は福岡の飯塚炭鉱の近辺で生まれた人らしく、幼時の記憶がボタ山とリンクしていて、その黒グロとした影像が、渡欧したベルギーの橙色の鉱山とオーバーラップしていく。

長い海外生活は彼に表層の自由と色彩の氾濫を与えたが、それはうわべだけの虚飾に過ぎず、帰国した画家は本邦の本来本然の実在と激しく格闘するようになる。

しかしそうやって悪戦苦闘しているうちに90年代にはそういう堅苦しい問題意識そのものがどうでもよくなって、というか無化されていき、ついに2000年代に突入すると武者小路実篤的ないわば無為にして化すとでもいう風な融通無下の心境に至りそうになるのだが、このいっけんよさげな行き方を、わたくし的には断固寸止めしてくれないと困る。

あなたのそのトレンドを、かの一休禅師や老子に比べると、たといおヌシが百歳になろうがまだまだ洟垂れ小僧の遊びの世界にとどまるに違いない。失礼ながら、貴君が戯れに描いた最新版の自画像に、その最高の到達点と遥かな未達点がともに明示されているではないか。

ああ、まことに芸術は長く、人世は短い。




病院では年齢と生年月日を言わせる。もひとつ「老若男女」と言わせてみなさい。蝶人
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国立新美術館の「モダン・アート、アメリカン展」を見て

2011-12-12 08:40:04 | Weblog


茫洋物見遊山記第72回

珠玉のフィリップ・モリス・コレクションと副題されたこの展覧会では、第1章「ロマン主義とリアリズム」とか第10章「抽象表現主義」というタイトルが付された全部で110点がずらずら並べられていたが、ちょっとカッコつけ過ぎ。こっちは要するに現代アメリカ美術を見に来ているのだから様々な意匠とこざかしい分類なんて無用の長物なのである。

それなりによく描かれ、それなりの絵画的意義を持ちながら、私の目と心から冷たく無視されて通り過ぎていった数多くの作品は今ではどこに消えていったのか今では誰にも分からないが、とどのつまりはジュージア・オキーフが小屋や葉を描いた作品と、エドワード・ホッパーによる「日曜日」と「都会に近づく」が、ただそれだけが私の存在に激しく呼応して白い壁から立ち上がった。

ホッパーの作品は、どれも現代人の孤独な精神の不安な様相を不気味に象徴しているが、とりわけ「都会に近づく」はその最たるもので、都会に近づきながらトンネルに吸い込まれている車道のその左端にあるトンネルの暗闇は、あの英国皇太子妃ダイアナをのみ込んだ穴よりも不気味で昏いのであった。


ダイアナ妃を恋人もろとものみ込みし巴里の暗虚はここにもありしか 蝶人
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エーファ・ヴァイスヴァイラー著「オットー・クレンペラー」を読んで

2011-12-11 16:39:00 | Weblog


照る日曇る日第471回&♪音楽千夜一夜 第233回

その指揮者がやる音楽と政治的志操は無関係だと言い切ったあとでも、潔癖無比だった剛直なトスカニーニのように、出来ればカラヤンがナチ党員ではなく、フルトヴェングラーがヒトラーの誕生日に演奏なんかせずにいてほしかった、と思わずにはいられない。

では私がその音楽と人柄を偏愛するオットー・クレンペラーがどうだったかというと、なんと彼は1922年の12月にトスカニーニが蹴っぽったムッソリーニの臨席するスカラ座演奏会で「ファススト党讃歌」を嬉々として振ったというから、嫌になる。

どうもこの極度の躁うつ病を周期的に繰り返したこの指揮者は、つねに音楽と自分の病気と狂気と突発的な恋愛に激烈に囚われるあまり、時の政治的空気を読む能力が異常に弱かったように思われる。

けれどもクロール・オペラで彼の初期の音楽的黄金時代を築くことに成功していたクレンペラーは、1934年にはユダヤ人狩りが猖獗をきわめたオーストリアから家族ともどもちゃっかりロサンジェルスに亡命して当地の交響楽団を手兵にし、シェーンベルクやパウル・ベッカーなどの亡命者と激しい内紛を繰り返しながら、「第2の人生」のキャリアを築き直したわけだから、たいしたものだ。

しかし本書によればそこから彼の最悪の危機がはじまる。彼の生涯でたびたび繰り返された重度の障碍にまたしても陥ったクレンペラーは、脳腫瘍の手術のあとで髄膜炎に襲われてロスフィルを解雇され、糟糠の妻を裏切って若い美女に入れ上げて心中をはかり、その後も火傷や骨折や災難や事故を引き起こしながら世界中を放浪した挙句、ようやく1959年になって名プロデューサー、ウオルター・レッグに見出されて英国のフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になる。

それからの活躍は私たちが知る通りだが、本書はそこにいたるまでのドイツ国内における彼の壮烈な音楽修業時代の足取りを初めて克明にレポートして、クレンペラー・マニアの蒙をあざやかに啓いてくれている。巻末に付された同時代人の証言や膨大なディスコグラフィーもとても参考になる。

長身で痩身で躁鬱でユダヤ人でカトリックでまたユダヤ教に戻ったクレンペラーのマーラーを聴け 蝶人
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ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン響の「マーラー交響曲第6番」を聞いて

2011-12-10 17:16:21 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第232回


これもさきの「交響曲第5番」と同じようなことがいえる純音楽的な平成の名演奏だ。

しかし何回聞いてもこの音楽のどこがマーラーなのだろう? この手法なら別にマーラーならずとも、ベトちゃんだってシュバちゃんだってバハちゃんだって、誰だっていける。はずだ。

その一端が先般のウイーンフィルのニューイヤーコンサートではしなくも示され、従来とかくマリアカラスの劇伴プロパー担当者などといちじるしく軽んじられていたこのフランス人指揮者の驚くべき才能を、世界中が再認識したわけだ。これは現在トップを快走するヤンソンスでさえできないであろうような最高水準のマーラー演奏でげす。

しかし、しかしだ。残念ながら、そこには彼の専売特許である「世界苦」のかけらも見当たらない。「世界苦」のないマーラーなんて、まるで魔羅のない男のようなものだ。

私は演奏や録音は悪くとも、人世いかに生きるべきか、いかに世界と相亘るべきか、と激烈かつ神経衰弱的に憂悶する息も絶え絶えのマーラーを、(どちらかひとつを選べといわれたらば、だ)聞きたいな。

「カチューシャ」の転調していくところが好きなんだかワクワクしてくるから 蝶人
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ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン響の「マーラー交響曲第5番」を聞いて

2011-12-09 09:18:09 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第231回

これは驚いた。どこまでも透明で明確で真率な音楽が、最高の音質と最高の棒で滔々と流れていく。ワルターからバンスタイン、テンシュタットを経てアバド、シノーポリ、ラトルまで幾星霜にわたって紆余曲折のかぎりをつくしてきたマーラー演奏の、いわゆるひとつの決定的名盤がついにリリースされた感が深い。

1991年5月19日にウインコンツエルトハウスで行われたライヴ演奏だというのに、プレートルの棒は冴えに冴えわたり、書かれた音符の底の底まで眼光紙背に徹してウィーン響を完璧に牽引する。間違えてはいけない、こういう指揮者だけをマエストロと呼ぶのだ。

かようにどんなに言葉を尽くして褒めすぎにはならない「音楽的超名演」なのだが、惜しむらくはこの演奏からはマーラーそのひとの孤独や悲惨や苦悩のひとかけらも聞こえてはこない。おそらくプレートルが音化しようとしたものは、マーラーの音符に過ぎず、彼の人物や音楽観ではなかった。マーラーに傾倒し、愛するがゆえに演奏しようとしたワルターやクレンペラー、バンスタインやテンシュタットと鋭く一線を画するものはその一点である。


マーラーを好きでも嫌いでもない人がマーラーを名演してもこりゃ詮無いわなあ 蝶人
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フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」を見て

2011-12-08 13:25:20 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.177

これはやはりゲーリー・クーパーが熱演する1952年製作の「ハイヌーン」です。

1939年製作の「ボー・ジェスト」では哀れ砂漠の堡塁で集中砲火の餌食になってしまったクーパーでしたが、本作ではやはり孤立無援の保安官ながら、ならず者の無法と暴力の脅威に沈黙する善良な市民の協力なしに4人の敵を倒し、(うち1名は新妻グレイス・ケリーがやっつけます)この絶体絶命の窮地を辛うじて切り抜けるのです。

冒頭いきなりあの有名なディミトリ・ティオムキン作曲の主題家が鳴りわたり、その後も折に触れて劇伴されるのはいま見ると煩い限りですが、初めて劇場で見物したときには地平線の彼方からやってくる正午到着の列車ともども興奮したものです。

何年も市民のために貢献し、多くの悪漢どもを牢屋に送り込んできた功労者だというのに、いざ本当の危機がやって来ると無二の親友さえも助けようとはしない。正義やら法律なんかよりおいらの命と町の平和がよっぽど大事だ、というわけです。

結婚したての妻にもそっぽを向かれ、こんなはずではなかったと冷や汗たらたらのクーパーの焦りと苦しみは、満更私たちの身に覚えのないものではありませんし、こういう乗るかそるか、生きるか死ぬか、男や女の一分が立つか立たぬかという非常事態はこれからも頻々と起こるに違いありません。

そうして結局、人世なんて、どうせ死ぬならてんで恰好よく死なう! 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ!という教訓がさすらいの荒野にも残されたわけでした。


男一匹金玉二つてんでカッコよく死んでやろうじゃん 蝶人
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ウイリアム・ウエルマン監督の「ボー・ジェスト」を見て

2011-12-07 16:49:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.176


1939年製作のクーパーが主演するフランス外人部隊3人兄弟物語です。監督はウイリアム・ウエルマンという妙な名前のアメリカ人ですが、第一次大戦中にみずからフランスの外人部隊に志願して花形パイロットとして活躍したという。そんな実体験が本作にも反映されているようです。

題名の「ボー・ジェスト」とは仏語で優雅なしぐさという意味らしいのですが、この仲良し兄弟は次々に従軍して優雅どころか1人を除いて名誉の戦死を遂げてしまうのですが、お家で待っていた恋人と再会できたのはなによりでした。

戦争といっても砂漠のアラブ軍と死闘を繰り広げるのですが、砂丘の彼方にぽかりと浮かんだ城砦に籠り、怒涛のように攻めてくるイスラム軍と孤立無援の戦いを繰り広げるゲーリー・クーパー選手の姿は、これこそが1930年製作のスタンバーグ監督の「モロッコ」の続編そのものではありませんか! 

きっとクーパーのあとを裸足で追い掛けていったマレーネ・デートリッヒちゃんは、あわれイスラム軍の美しき女奴隷になってしまったに違いありません。


ハーレムの奴隷となりしデートリッヒ今宵コーランをひとり読むらん 蝶人
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文化学園服飾博物館で「世界の絣」展を見て

2011-12-06 16:23:56 | Weblog


茫洋物見遊山記第71回&ふぁっちょん幻論第66回

絣って日本だけのものかと思っていたらとんでもない、どうもインドが原産らしいんだけどアジアを中心にカンボジア、タイ、ラオス、ベトナム、ビルマ(ここで「ミャンマー」などと読み書きする人は軍事政権の支持者だぞ)、中国、インドネシア、ナイジェリア、ウズベキスタン、シリア、ヨルダン、モロッコ、フランス、アメリカ、グアテマラなど世界各国、各地で行われてきた染織方法だったんですね。

なんでも博物館資料によれば、文様にしたがってあらかじめ糸を染めわけたあとに織り上げるもので、経糸に染めを施す経絣(たてがすり)、緯糸に施す緯絣(よこかすり)、経緯両方向に施す経緯絣(たてよこかすり)の3種があるそうです。

会場には23カ国から集められた120点の絣がずらりと並んでいましたが、同じアジア諸国の製品に比べても、国産品はどこか淡白で繊細で弱弱しく感じられましたが、やはりテキスタイルにもそういう国民性が象徴され刻印されてきたのでしょうか。

なーんて下らないことをぼんやり思惟しながら、これは経絣、これは緯絣と目で確かめ、タテタテ、ヨコヨコ、タテヨコ、タテヨコと呟きながら歩いていたら、自分が横歩きするカニさんのように思えてきました。

タテタテ、ヨコヨコ、タテヨコ、タテヨコ 世界の絣の素晴らしさ 蝶人


*「世界の絣」展は12月17日まで堂々開催中です。
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黒沢明監督の「羅生門」を見て

2011-12-05 20:07:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.175

有名な芥川の短編「藪の中」と「羅生門」を脚色した内外で有名な映画です。森の中で居眠りしていたならず者の三船敏郎が、通りがかりの美女京マチ子の脚(ちょっと太い)を見て欲情を催し、夫の侍、森雅之を襲って縛りあげてその目の前で強姦し、その後侍が死体で発見された事件の真相を、羅生門で雨宿りしていた僧や下人らが推理するのです。

検非違使に捕縛された野盗多襄丸、探し出された美女、死んだ夫(イタコが冥界から呼び出す!)、そして現場に居合わせた下人の目から見た4つの真実が順番に紹介されますが、結局は最後の証言がいちばんほんとうに近いものだというのが、この映画の解釈なのでしょう。
男のいいなりだった従順な女性が、とつじょ現代女性のような感覚で2人の男性を罵倒し、これをきっかけに2人の決闘がはじまるが、刃傷を恐れるそのカッコ悪いチャンバラが最大の見どころ。こんな男なら女も愛想を尽かすでしょう。

そもそも芥川の原作は頭のいい閑人のひねくれた知的遊戯のようなもの。最後の羅生門でのとってつけたようなエピソードは蛇足ですし、ボレロを下手にコピーしたような早坂文雄の音楽はいうもとちがう最悪のやっつけ仕事。ゆいいつの見どころは森の光と影の高速移動撮影でしょうか。


貧すれど貪するなかれ羊雲 蝶人

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磯見辰典著「鎌倉小町百六番地」を読んで

2011-12-04 15:04:34 | Weblog


照る日曇る日第470回&鎌倉ちょっと不思議な物語第252回

「かまくら春秋」に連載された生粋の鎌倉生まれの鎌倉育ちの著者が訥々と綴った昭和初期の地元の子供たちの思い出話です。

亡くなる前に井上ひさしが絶賛したという本書のタイトルは別に奇を衒ったものではなく、著者たちが少年時代を過ごした住所の表記名で、そこはちょうど小町通りの入り口の不二屋辺にあたります。

聞けば当時、現在の鎌倉駅東口一帯は、磯見タクシー、磯見旅館など一族の会社や地所が駅をぐるりと取り囲むように立地していたそうです。駅前は子供たちの遊び場で空一面に赤とんぼやシオカラ、オニヤンマが舞い、著者たち兄弟は正月の凧揚げや独楽回し、石蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼう、野球まで楽しんでいたそうですからまるで夢のような話ですね。

舗装されない道には馬糞が落ち、朝は納豆売りや豆腐屋、夜にはラオ屋の笛の音が流れる昭和一〇年代の物寂びた雰囲気は、私が当地に越してきた三〇年前にはまだ夜のしじまに幽かに漂っていたと記憶していますが、そんな長閑な小路に次第に観光客があふれ、その観光客を狙う商魂逞しい東京資本がぎんぎらぎんにさりげなく流入してきたのは、比較的最近のことといえましょう。

旧い昔を遠い眼で慈しみながら記したこの朴訥な回顧録を読みながら、私は半丁も歩けば商店も絶えた寂しい小町の通りを懐かしく思い出していました。


鎌倉の駅前広場の赤とんぼわれひとともにたそがれてゆく 蝶人

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ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の「モロッコ」を見て

2011-12-03 14:50:31 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.174

はじめぐずぐず中ぱっぱ、終わりは脱兎のごとし、という美男美女の年代物時の恋愛劇。

出だしの演出は最悪でゲーリー・クーパーもマレーネ・デートリッヒも下等な演技を繰り広げる。デートリッヒはコケチッシュだがフランス語の唄ときたら下手くそで、これ見よがしな脚線も、現代の東京を闊歩する女性に比べたら醜いくらいの代物である。

が、最後の最後で外人部隊のさすらいのクーパーが砂漠の彼方に消えてゆこうとする瞬間に、遅まきながらこのラブストーリがゆらりと立ち上がる。

やがて意識の底に押さえていた女の恋情が鎌首をもたげ、彼女がヒールを砂の上に脱ぎ捨てるところで、劇的なカタストロフィが形づくられる。それまでくだらない映像の連続をじっと我慢していた観客のフラストレーションがいっきに解消され、ある種のカタルシスが得られるのである。

しかし砂丘の向こうに消えていった2人には、その後いったいそのような運命が待ちうけていたのだろう。誰か続編を作って見せてくれないだろうか?



かにかくに平成の世も暮れかかる 蝶人
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