「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。
連載「日韓の歴史をたどる」を終えて 明治以来の植民地支配を知る
2018年10月、韓国の最高裁にあたる大法院が日本企業に戦時中の徴用工への損害賠償を命じたのをきっかけに、日韓関係が急激に悪化しました。「決着済みのことを蒸し返す、国際法違反の韓国」という当時の安倍首相の言い分を日本のメディアはそのまま流しました。
日本政府だけでなく日本国民にも、戦前に日本が朝鮮半島で何をしたかの認識がすっぽり欠けている―。自分自身を省みてもそう感じ、始めたのが「日韓の歴史をたどる」シリーズでした。
2019年4月16日付から20年10月14日付まで30回にわたり各時代の専門研究者に書いてもらうことができました。
自分自身の歴史認識を振り返ると、高校までは日本の戦争と言えば1941年12月から4年間“アメリカとたたかった”太平洋戦争でした。高校3年の時、本多勝一氏の『中国の旅』を読み、日本がたたかったのはアメリカというより中国で、中国侵略の結果、米英とたたかうことになったのだとわかり、1931(昭和6)年の満州事変から、37年の日中全面戦争を経て45年の敗戦までつながる「15年戦争」という歴史認識を得ました。学校教育の中だけで15年戦争という認識を持つに至ったでしょうか。
それでも抜けていたのが朝鮮半島・台湾の植民地化の歴史です。それは「明治」という時代への認識の欠如でもあります。1991年に金学順(キムハクスン)さんが元慰安婦として名乗り出て日本軍「慰安婦」や徴用の問題を知ることになりました。しかしそれは日中戦争、アジア・太平洋戦争中、いわば“昭和”のことという認識にとどまり、明治維新以降、日本がどういう道を歩んでそこに至ったかが抜けていました。
2018年は当時の安倍政権のもとで「明治150年」とされ、「海外の知識を吸収し近代国家への道を踏み出した」と「明治」を美化する関連行事が行われました。それに対し、1875(明治8)年の「江華島事件」から始めた今回のシリーズで、日清、日露戦争が朝鮮半島支配のための戦争だったことが明らかにされ、1894(明治27)年の日清戦争から「50年戦争」という認識にも至りました。同時に、この半世紀、朝鮮の人々が一貫して独立のためにたたかってきたことを知りました。
ご執筆いただいた先生方に改めて感謝し、植民地支配への認識が浸透するようこれからも取り組みたいと思います。
(西沢亨子)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年11月16日付掲載
慰安婦問題、徴用工問題など、日韓の過去の歴史問題はありますが、もともとは日清、日露戦争で朝鮮半島の支配に時の明治政府が乗り出したことに端を発します。
1年半にわたる長期連載。僕のブログにすべて転載していますので、ぜひご覧ください。
日韓の歴史をたどる㉚ 植民地支配責任 戦後処理から抜け落ちたもの
板垣竜太
いたがき・りゅうた 1972年生まれ。同志社大学教授(朝鮮近現代社会史)。『朝鮮近代の歴史民族誌』、共編著に『日韓新たな始まりのための20章』『「慰安婦」問題と未来への責任』ほか
日本の歴史的責任といえば、まずアジア太平洋戦争の「戦争責任」が思い浮かぶ。日本と朝鮮半島のあいだの歴史問題でも、強制労働動員や日本軍「慰安婦」制度など戦時下の問題がまずあげられる。日本の侵略戦争が膨大な被害をもたらしたのだから、このことが筆頭に掲げられるのは当然である。
太平洋戦争前の反人道的な犯罪
ただ、この「日韓の歴史をたどる」シリーズでも論じられてきた植民地下での三・一独立運動(1919年)や関東大震災での民衆虐殺(1923年)、あるいは植民地化過程での義兵の殺獄など、アジア太平洋戦争前に起きたことは、従来の戦争責任という枠組みでは、とうてい捉えきれない。そうした観点から提起されてきた概念が「植民地支配責任」である。
植民地支配責任という考え方をとることで、アジア太平洋戦争以前、戦争中、戦後の日本の責任があらためて見えてくる。
まず戦争以前でいえば、前述の虐殺等は単なる個別ばらばらの偶然の諸事件ではなく、植民地支配下だからこそ起きたものである。すなわち、植民地という「一つのシステム」(サルトル)が引き起こした反人道的な犯罪であるという観点から、一連の問題として見る必要がある。
三・一独立運動の民衆のたたかいを刻んだレリーフ=ソウル・タプコル公園(栗原千鶴撮影)
内地ではなくて占領地でもない
戦争中の問題に関していえば、日本軍「慰安婦」制度や戦時強制労働動員は、内地でも占領地でもなく、他ならぬ植民地だからこそ構造的に可能だった側面がある(『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』御茶の水書房)。内地では法的に禁じられていた未成年者の「慰安婦」としての動員は、植民地では、国際法適用の留保という抜け穴が用意されていたからこそ可能となった。異なる法制度を適用していたからこそ、援護施策のともなわない朝鮮人の戦時労働動員が広範におこなわれることになった。これらの問題は戦争責任と植民地支配責任が重なる領域にある。
そして日本の「戦後処理」からは、いわば「植民地支配後処理」が抜け落ちてきた。極東国際軍事裁判(東京裁判)に際しては、在日朝鮮人や南北朝鮮から朝鮮総督府の罪を問う声があがっていたが、植民地の人々への加害に対する責任は間われないまま終わった。サンフランシスコ講和会議には、南北朝鮮も参加を希望していたが、かなえられなかった。その後、朝鮮半島の南の政権とは1965年に日韓条約が結ばれたが、北の政権とはいまだ何の「植民地支配後処理」もおこなわれていない。
問題を今に残す賠償なしの条約
そして現在、この日韓条約が両国間の関係における問題の源泉となっている。韓国政府は当初より植民地支配の賠償を求めていたが、日本政府は当時の法令で支払うべきだったもの以外は考慮に入れようとしなかった。結局、日本からの資金をテコに「上」からの近代化を進めようとした朴正煕(パクチョンヒ)軍事政権が妥結を急いだため、経済協力のみで賠償はなし、そして請求権は相互に放棄するという内容の条約が結ばれてしまった。
このとき放棄された請求権は外交保護権とよばれるものである。被害を受けた個人が相手国や企業等に請求する権利(個人請求権)までが消滅したわけでないことは、当初より日韓共通の理解だった。ところが今世紀に入るころから、日本政府側は個人請求権の行使可能性を否定するようになった。
一方、韓国では被害者や支援者の粘り強い取り組みの結果、個人請求権の継続を前提とした司法判断を勝ち取った。ここにあるのは両国間の日韓条約の解釈のズレであり、そこに解決すべき植民地問題があるのだが、日本政府はそれを「国際法違反」だと言いつのるのみである。
こうして20世紀日本の植民地支配責任は、未済のまま21世紀を生きる私たちに相続されている。その過去を克服するところにこそ、未来の東アジアの平和と人権が開けてくる。
*シリーズ「日韓の歴史をたどる」は今回で終わります。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年10月14日付掲載
日本がポツダム宣言を受諾して、満州、朝鮮、サハリンなどを開放した後の戦後処理。
終戦後、わずか5年後に朝鮮戦争が勃発。
朝鮮戦争の休戦後に、南の韓国と結んだ日韓条約。軍事独裁政権の朴正煕(パクチョンヒ)が日本からの資金援助を急いだ結果。
被害を受けた個人が相手国や企業等に請求する権利(個人請求権)までが消滅したわけでないことは、当初より日韓共通の理解。
日韓の歴史をたどる㉙ 在日朝鮮人の権利 治安乱す存在とみて登録・管理
鄭栄桓
チョン・ヨンファン 1980年生まれ。明治学院大学教授(在日朝鮮人史、朝鮮近現代史)。『朝鮮独立への隘路(あいろ)在日朝鮮人の解放5年史』『忘却のための「和解」』ほか
敗戦後日本の朝鮮人に対する政策は、植民地支配を反省しともに生きる権利を認める姿勢とはほど遠く、むしろ治安を乱す存在とみる植民地時代の発想を色濃く残すものでした。
参政権奪い取り容赦なしに送還
日本政府はまず、1945年12月に衆議院議員選挙法を改正して朝鮮人・台湾人の参政権を停止します。「天皇制廃絶」を訴える候補が朝鮮人からでるのではとおそれたからです。
さらに「解放民族」としての処遇を求める朝鮮人の訴えをしりぞけて引き続き「臣民」として扱う一方、1947年5月2日に施行された外国人登録令にかぎって、日本国籍を有したまま「外国人とみなす」として朝鮮人・台湾人に登録の義務を課しました。
18歳のときに広島で被爆し、のちに被爆者健康手帳の交付を求めて行政訴訟を起こした孫振斗さんも、1951年に登録をしなかったことを理由に韓国へ強制送還されました。日本生まれで朝鮮語を話すことができなくても容赦なく送還したのです。
とりわけ朝鮮人の強い反発を買ったのは、朝鮮学校に対する閉鎖命令です。1948年1月、文部省は通達を発して、朝鮮人児童にも就学義務があるとする一方で、学齢児童を対象にする各種学校の設置は許さないとしました。これでは独自のカリキュラムを設けて朝鮮語による民族教育を行っていた朝鮮学校の存続は困難になります。
1950年12月20日、守山朝鮮学園(愛知県守山市)に押し寄せて子どもたちをつかみ出す日本の警官たち(「中部日本新聞」1950年12月21日付)=在日韓人歴史資料館提供
民族学校閉鎖で非常事態宣言が
在日本朝鮮人連盟(朝連)は撤回を求めて抗議しますが、大阪や兵庫などの知事はこの通達に従い学校閉鎖を命令します。命令撤回を求めて,さらに抗議を繰り返した人々に対し、ついに米軍が非常事態宣言を発令して、神戸では1900人近くを逮捕し、大阪では16歳の少年・金太一を警察が射殺するという大惨事が発生しました。朝連はこうして学校教育法に従って教育することを受け入れざるをえなくなりました。
四・二四教育闘争(阪神教育闘争)と呼ばれるこの事件には、米ソ冷戦と朝鮮の分断が暗い影を落としています。米軍は民族教育の擁護を求める運動を韓国の制憲議会選挙を妨害するものと考え強硬姿勢に出たのです。日本の同化主義と、米国の反共主義の利害が一致するなか、打ち砕かれたのは子どもたちに自分たちの文化や歴史を教えたいという素朴な願いでした。
1949年9月には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する朝連は団体等規正令(現在の破防法につながった)に違反するとして解散させられ、朝鮮学校も閉鎖されることになりました。
選択の余地なく一律に国籍喪失
1950年に朝鮮戦争が起こり母国が戦火につつまれるなか、朝鮮人はさらに「権利なき地位」へと押し込まれていきます。1952年4月に対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効すると、朝鮮人は選択の余地なく一律に日本国籍を喪失したとされ、外国人登録法と出入国管理令の対象になります。
当時人々の暮らしは貧しく、1952年現在の調査によると、朝鮮人の62%が「無職」でした。このため生活保護の受給者も少なくありませんでしたが、この法令により、貧困者やハンセン病者や精神病者で「生活上国又は地方公共団体の負担になっているもの」は強制送還の対象となりました。
1955年からは外登法による指紋押捺の義務も課されます。条約発効後に生まれた者の在留期間は「3年をこえない範囲内」で認められるにとどまり、外国人であるがゆえに義務教育の権利はなく、朝鮮学校の卒業生も日本の上級学校への進学資格を認められずに学校教育制度の増外に置かれることになります。
すべての政策が「ここにおまえたちの暮らす場所はない」とのメッセージを発しているかのようでした。1959年12月にはじまる帰国事業により、約10万人の人々が朝鮮民主主義人民共和国へと向かった理由は、新天地への希望だけではなく、新たな排除の時代となった日本の「戦後」に生きることへの失望でもあったのです。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年9月16日付掲載
日本の都合で、朝鮮から日本に連れて来た人たち。日本が敗戦後、日本で生まれ、仕事も暮しも日本で定着している人たちを朝鮮へ強制送還。
国籍も奪って。まるで身勝手な扱いでした。
日韓の歴史をたどる㉘ 在日朝鮮人 帰還後の生活難を恐れ、とどまる
鄭栄桓
チョン・ヨンファン 1980年生まれ。明治学院大学教授(在日朝鮮人史、朝鮮近現代史)。『朝鮮独立への隆路在日朝鮮人の解放5年史』『忘却のための「和解」』ほか
在日朝鮮人とは、植民地支配の結果として日本へと渡らざるをえなくなり、解放(日本の敗戦)後も日本に残ることになった人々を指します。
第1次世界大戦での好況を機に渡日者は増えはじめ、朝鮮農村の経済的疲弊を背景に、その人口は1935年には60万人を超えます。さらに1937年に日中全面戦争が始まったあとは、戦時強制連行により多くの人々が連れてこられ、1944年現在で約193万7千人を数えました。
持ち出し財産に制限を付けられ
日本の敗戦後、強制連行された労働者を中心に多くの人々は母国へと帰りましたが、それでも1946年3月の時点で約64万8千人が日本に暮らしていました。この人々が解放後の在日朝鮮人の母体となります。
この人々はなぜ朝鮮が解放された後も、日本へ残ったのでしょうか。日本政府による調査によれば、残った約64万人のうち約51万4千人が帰還を希望したといいます。植民地時代を通して、母国と日本の朝鮮人たちのあいだには「国境をまたぐ生活圏」(朝鮮史研究者・梶村秀樹の表現)がつくられており、人々は故郷との強い結びつきをもっていたからでしょう。
しかし、帰還に際して持ち出せる財産には制限があり、なにより日本で生活の基盤を築かざるを得なかった人々にとって、生業を整理しただちに帰ることは容易ではありませんでした。同じ調査の「帰国忌避理由」の圧倒的多数は、朝鮮の劣悪な経済状況や頼るべき親類の不在など、帰還後の生存への憂慮でした。
当時の朝鮮は東アジア全域からの帰還者であふれかえっており、深刻な経済難・食糧難・住宅難にあえいでいました。1946年にはむしろ日本へ戻ってくる者も増えはじめます。
故郷に帰るため博多港に押し寄せた朝鮮の人たち=1945年10月、木村秀明編『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』より(在日韓人歴史資料館提供)
日本での生活と権利まもるために
朝鮮人たちはこうしたなか、日本での生活と権利を守ると同時に、また海外にありながらも朝鮮の独立に関わるための団体をつくることになります。さまざまな団体がありましたが、なかでも1945年10月に結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)は全国に組織を持つ最大規模の団体でした。
とりわけ急を要したのは朝鮮人たちの生命と財産を守ることでした。そもそも人々が急いで母国へと帰った理由のひとつに「終戦直後、関東大震災のような虐殺事件が起こるかもしれないという恐怖心」があったと朝連では理解していました。
虐殺事件後に政府が真相調査や責任者追及を行わなかったため、その後も「朝鮮人が爆弾を投げた」などのデマを事実だと考えていた日本人は少なくありませんでした。同種の流言は空襲や敗戦の混乱のなかでも広まり、朝鮮人たちに恐怖心を抱かせたのです。
朝連はこのため、保安隊や自治隊を組織して、日本人とのトラブルを未然に防ごうとしました。また、炭坑・事業所での帰国や退職慰労金・死傷者への特別慰謝料支払いなどを求める労働争議の支援にも携わりました。朝連は1946年10月で340件・関係人員4万3314名の争議を解決し、解決金額は約2687万円にのぼったといわれます。
しかし、人々が中長期的に日本で暮らさざるをえなくなることが明らかになるにつれ、朝連の活動は帰国や争議の支援から、生活や教育へと重点を移していきます。特にいずれ母国へ帰ろうとする人々にとっては、子どもの教育の問題も重要な課題でした。
朝鮮人たちが各地につくった国語講習所を基盤に、朝連は学校を設立し、教科書もいちはやく出版して体系的な民族教育を実施していきます。また児童のみならず青年のための学校や成人のための識字教育をおこなう学校も開かれました。
こうして、1948年の時点で全国に550を超える初等学校がつくられ、約5万人の児童が学ぶことになったほか、中学校、高校もつくられていきます。在日朝鮮人の解放後の歴史は、こうして新たな一歩を踏み出すことになったのです。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年9月2日付掲載
太平洋戦争が終了して、朝鮮が解放された後も、朝鮮の人々の暮しを守る闘いは続きます。
いわゆる在日朝鮮人の組織が作られていったのです。
日韓の歴史をたどる㉗ 光復運動 “時局”に背 怠業で抵抗した民衆
趙景達
チョ・キョンダル 1954年生まれ。歴史研究者(朝鮮近代史・近代日朝比較思想史)。『植民地朝鮮と日本』『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』ほか
1937年7月の日中戦争以降、朝鮮にも総力戦体制が敷かれた。総督府は人々に戦争協力を強い、知識人の中には心ならずも協力させられる者が現れるようになった。戦争が朝鮮人の立場を強くするとして積極的に日本に加担する者も少なからずいた。韓国にはこの時の後遺症が今でもある。いわゆる親日派問題の淵源(えんげん)である。
民衆も戦争協力を強いられたのはいうまでもないが、民衆の場合は「面従腹背」する者が圧倒的であった。日中戦争が開始されるや、総督府は時局認識を徹底させるために時局座談会なるものを各地で開催した。しかし、民衆の関心は「時局に関するもの極めて砂なく、其殆どが農事に関するもの、食糧に関するもの、あるいは物資需給竝(ならびに)物価生活当面の問題のみ」であった(「最近に於ける農村民衆の動向」『高等外事月報』12号、1940年)。朝鮮には日本の隣組に相当する愛国班が整然と組織されたが、その活動も不活発であり、当局をやはり嘆かせた。
経済事犯いわゆるヤミ行為も増大し、39年から43年にかけて10倍以上に増えた。食糧供出に対しても民衆は、体刑をもともなう懲罰を覚悟の上で、「業務執行妨害」や「反時局的言動」などのさまざま抵抗を試みた。村ぐるみで、警官などの供出部隊がやってくるのを警戒し、米穀の「不正」販売や「不正」隠匿を行った。
また工場労働者も、敢行困難となったストライキに替わって怠業戦術を駆使した。工場労働者の1人当たり生産額は、36年を100とすると、43年には74にまで激減している。集団逃走も後を絶たず、深山幽谷に逃れて解放(日本の敗戦)を待った徴用者も少なくない。
1941年12月10日に日本が太平洋戦争に突入したのを受け大韓民国臨時政府の名で発表された対日宣戦声明書(『独立紀念館』から)
日本敗北預言の新興宗教広まる
こうした中、民衆の間では流言が広まり、日本の敗北を期待する「不穏落書」「不穏ビラ」「不穏投書」などが出回り、当局を過敏にした。わけても、日本の敗北と教祖による新王国の誕生を預言する新興宗教の活動は、際立っていた。植民地朝鮮では終末宗教がはびこり、それに救いを求める者が少なくなかった。ほとんどは貧窮農民である。
40年11月~41年9月の間にも18教団が検挙されている。それらは、もっぱら民族運動弾圧の悪法である保安法違反での検挙である。37年7月から39年4月までの2年足らずの間に保安法違反で検挙されたもののうち、70%は新興宗教関係者であった。総督府は、知識人の民族運動より新興宗教の活動の方をはるかに警戒していたかのようである。
国民服脱ぎ捨て「独立万歳」叫ぶ
もっとも知識人も地下に潜って秘密結社活動を展開し、朝鮮内と日本内を含めて地下組織は200あまりに上っている。中でも有名なのが、44年8月に呂運亨(ロウンヒョン)を指導者に結成された朝鮮建国同盟である。呂は1919年の三・一独立運動後、上海で結成された元大韓民国臨時政府の要人であり、逮捕されて帰国を余儀なくされた後も、新聞社主などとして活躍し、抜群の人望を誇る人物であった。
この組織は全国に細胞組織をもち、農民同盟も作った。農民同盟は戸籍簿焼却や鉄道破壊、徴用徴兵忌避支援などの活動を展開した。また、建国同盟は独立宣言文を起草する作業まで行っていた。
そうした中、45年7月24日の府民館爆破事件が起きる。これは、秘密結社の愛国青年党が起こしたもので、時局大会であるアジア民族憤激大会を破壊するためになされた爆弾事件であった。大会は修羅場と化した。
こうして解放の日が訪れる。総督府政務総監の遠藤柳作は8月14日夜、ひそかに呂運亨を招き、ポツダム宣言受託にともなう治安維持協力を求めた。呂はそれを受諾した。翌15日、正午を迎え「玉音放送」が流れると、すぐに国民服やモンペを脱ぎ捨て白衣の民族服に着替えた人々が、京城(現ソウル)の街に繰り出して「独立万歳」の歓声を鳴り響かせた。それはまさに、日本「内地」とはまるで違う光景であった。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年8月12日付掲載
朝鮮にも、日本の侵略戦争に協力させる「隣組」の様な組織されるが不発に。
ひいては、日本の敗北を期待する新興宗教まで広まったとか。
だからこそ「玉音放送」が流れると「独立万歳」の歓声が。