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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をたどる㉖ 朝鮮人学徒兵 玉砂利投げて抵抗、脱走も

2020-07-30 08:19:46 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉖ 朝鮮人学徒兵 玉砂利投げて抵抗、脱走も
秋岡 あや
あきおか・あや 1983年生まれ。一橋大学大学院博士課程単位取得退学(朝鮮近現代史)。韓国水原市の水原外国語高校教師。韓国で聞き書きを重ねる

1937年の日中戦争から45年の敗戦まで、朝鮮では皇民化政策のもと戦時動員が行われました。戦時動員は労働動員と軍事動員に分けられます。労働動員は39年の「募集」、42年の「官斡旋」、44年の「徴用」の3段階があり、次第に強制性が強まり動員数も増えました。

志願という名で徴兵された学徒
軍事動員も、38年には「志願兵」でしたが、44年からは「徴兵」になります。この間、女子勤労挺身隊、軍慰安婦、軍属、軍夫の動員も行われました。学徒兵は形式的には志
願兵でしたが、学徒以外の若者が志願兵制から徴兵制へ移行する時期に動員されたため、強制性が強く、抵抗も大きかったのが特徴です。
朝鮮人学徒兵の動員過程に関する研究としては、姜徳相(カンドクサン)『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店、1997年)があります。新聞資料と回顧録を丹念に分析することで、強制動員と抵抗の実態の詳細を明らかにしています。
朝鮮人学徒兵は、1943年10月、日本人学生の徴兵猶予の停止措置が植民地の学生にも適用される形で動員されました。形の上では志願兵だったため、受付開始直後は大部分の学生が忌避。しかし朝鮮総督府の志願勧誘政策により、多くの学生が志願を強いられることになりました。
勧誘政策の第一は、志願手続きの簡素化です。手続きを学校長のもとで一元化し、修学地以外での志願・電報志願・代理志願を許可。既卒者も適格化し、締め切り後の受け付けも許可するなど、さまざまな改変を行いました。第二は、地縁・血縁関係の利用です。翼賛委員会、国民総力朝鮮連盟、各大学・高専、マスメディア、朝鮮奨学会、協和会などを総動員しました。そして第三に、警察力の動員です。
その結果、43年11月、学徒兵は朝鮮内では96%、帰省者(日本で学徒動員を知り忌避のため朝鮮に戻ったものの志願させられた人)は93%の高い志願率を出しました。同年12月に徴兵検査が行われ、翌年1月20日に入営。志願しない者は徴用され労働現場に動員されました。
入隊後は、朝鮮、日本、中国などの各部隊に分散配置されますが、朝鮮内の部隊では軍隊内の反乱や脱走が相次ぎました。中国戦線では脱営して独立軍に参加する者も多くいました。
学徒兵といえば、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が有名ですが、ここに朝鮮人学徒兵の手記は含まれていません。当時、朝鮮人が本心を書き残すことは困難でした。彼らが語り出すのは解放(日本の敗戦)後で、韓国で出版された文学作品や回顧録にその一端が垣間見られます。



軍事動員された朝鮮人日本兵の入営記念写真。この中の一人・印金寿さんはその後ニューギニアで死亡(「対日抗戦期動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」作成の資料集から)


韓国在住の元学徒兵の団体「一・二〇同志会」がまとめた学徒兵の回顧録

狂ったふりをし 戦死をのがれる
以下は、回顧録をもとに、私が証言を聞き取ったものです。学徒兵の視点からもう一度この時代を見てみましょう。
許相燾(ホサンド)氏は、1923年、慶尚北道慶山郡に生まれ、独立運動家の祖父の下で育ちました。日本に留学した43年10月、中央大学法科1年次に学徒動員となります。朝鮮へ帰省して伯父の家に隠れますが、警察が祖父を拷問したため出頭し、願書から「志願」の2字を消すことを条件に母印を押しました。
選考の結果は甲種合格(第一級の順位)。壮行会では神社の玉砂利を投げて抵抗しました。44年1月20日、第20師団歩兵第80連隊(朝鮮第24部隊)に入営。歩兵で階級は2等兵。朝鮮人学徒兵は28人いました。初年兵訓練では何をしても殴られ、朝鮮人は露骨にいじめられました。
入営から3カ月後の一期検閲で1等兵となり、勧誘を受け幹部候補生試験を受けますが、わざと間違え落第。初年兵訓練後は、炊事場や物干し場に集まり脱出計画を企てました。44年7月に1人、8月に6人が脱出しますが、許氏自身は当日は寝ずの番となり皆が逃げるのを見送ります。捕まった者は小倉刑務所に収容されました。
44年11月、許氏ら2人に転属命令がありますが、気が狂ったふりをして医務室に運ばれ、数カ月間営倉(懲罰房)に入りました。もう一人は「南方」へ送られ輸送船の撃沈で戦死します。45年2月、本土決戦準備のため第96師団歩兵第293連隊に編成され、45年3月、済州島へ移動。そこで解放を迎えました。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年7月27日付掲載


日本人も学徒徴兵されましたが、朝鮮の学徒も同様に徴兵されたのですね。
逃亡を試みるものや、狂った振りをして戦地に行くのを免れるとか。
なかなか、したたかだったのですね。
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日韓の歴史をたどる㉕ 民衆の抵抗 「白い旗」を掲げたままに

2020-07-14 20:17:58 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉕ 民衆の抵抗 「白い旗」を掲げたままに
樋口雄一

日本と朝鮮は歴史的に、違う言葉と慣習、食習慣を作りあげてきました。日本はこの違いを無視して植民地支配を強行、大きな抵抗を生みました。
短期間に朝鮮の民俗・習慣を無視して日本化を進め、朝鮮人と朝鮮文化を差別したこと、日本の利益を前面に朝鮮の土地と人を収奪し、豊富な人材と文化、豊かな土地、資源を持つ国を奪ったことが広範な抵抗を生んだ理由です。

侵略批判の言動 取り締まる法律
朝鮮人民衆の日本へのさまざまな形での抵抗を取り締まるため、日本は韓国政府に1907(明治40)年、保安法を制定させました。同法は「政治に関し不穏の言論動作または他人を煽動教唆(せんどうきょうさ)」などによって治安を妨害するものに2年以下の懲役などの重い刑を科し、日本の侵略を批判する言動を取り締まりました。
1919年に三・一運動が起きると、その弾圧のために同年4月、「政治に関する犯罪処罰の件」(制令7号)を公布・施行。最高刑を10年以下の懲役または禁鋼と大幅に引き上げました。1925年に日本国内で治安維持法が成立すると朝鮮でも同時に施行され、独立運動や社会運動を弾圧しました。
朝鮮民衆は三・一運動のような直接的な行動以外にも、さまざまな抵抗をしました。日本の戦争遂行政策とそれへの抵抗といえる事例を挙げます。
・戦時下の日本と同様に朝鮮でも、天皇誕生日などの祝日に日本国旗を揚げることが強制されていましたが、朝鮮で発行されていた日本語新聞の釜山日報には、朝鮮人が「玉のない国旗」を揚げていたり、はなはだしい時には5日間もぶっ通しで掲げているという嘆きが載っています。
「玉のない国旗」とは、赤い「日の丸」のない白い旗のことで、それを何日も揚げているのは不敬だと指摘しているのです。朝鮮人にとって、なんのために挙げるのか理解できなかったのです。
・1942年10月、慶尚北道の警察部長が大邱地方法院の検事正に出した文書には、米を供出した後に自家消費の食がなくなった農民が、配給日をねらい、警察や面事務所(日本の村役場に当たる)に押しかけて配給を要求したという報告があります。そのような行動が広がっているという内容です。
・朝鮮農政の研究者、総督府小作官の久間健一は、『朝鮮農政の課題』(1944年)で、農民は米の収穫直前、あるいは刈り取り、脱穀、小作料納付時などに98の不正な方法で米を盗み取ったと詳細に書いています。食糧難のなかで生命を維持するための農民の抵抗の一つでした。



朝鮮総督府が設置し朝鮮人を投獄した刑務所の展示模型(『独立紀念館』から)


国民精神総動員朝鮮連盟が配った東方遥排を強要するチラシ(『独立紀念館』から)

西大門刑務所が当時の様子伝え
・強制動員で日本に連れてこられた労働者も、食糧不足などで集団での紛争はめずらしくありませんでした。職場から逃亡したそれらの人は、朝鮮人集住地区や追及されない軍の作業場に入り込みました。そのため工場の現場などでは労働者が不足し、逃亡が見つかるとひどいリンチで死亡することもありました。
抵抗したために、保安法、制令7号、治安維持法の3法が適用された朝鮮人の総計は1907~1941年末までで1万5032人で、件数は2549件となっています(朝鮮『司法協会雑誌』22巻11号、1943年の掲載論文から)。この数字は、裁判の第1審で有罪となった人のみです。
朝鮮人の多くの人々が朝鮮内の各刑務所に収監されました。現在、観光地のソウルでは、3法が適用された人々が収監されていた西大門刑務所が、当時の様子を伝えるために公開されています。
1945年8月15日を迎えた朝鮮人は、朝鮮全土、外国にいた大半の人々が解放を一斉に祝い行進しました。朝鮮人にとってこの日は「解放」の日で、現在でも祝日です。
(ひぐち・ゆういち 朝鮮史研究者)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年7月7日付掲載


植民地化された韓国。国旗掲揚といっても抵抗するため、日の丸の無い「白い旗」を掲げるって、なかなかやるじゃない。
西大門刑務所は志位さんも訪れたと言うけど、弾圧の実態を今に伝える貴重な建物です。
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日韓の歴史をたどる㉔ 強制労働動員 武力を背景に まともに賃金払わず

2020-06-18 07:58:36 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉔ 強制労働動員 武力を背景に まともに賃金払わず
樋口雄一
ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。
『朝鮮人戦時労働動員』(共著)、『協和会』ほか

朝鮮半島から米を収奪する日本の植民地政策により、朝鮮の9割を占める農民の暮らしは窮迫しました。そこに、さらなる困難をもたらしたのが、戦時下の経済・社会の統制でした。戦時動員が朝鮮人民衆全員に強制されたのです。



福岡県八幡市(当時)の朝鮮人労働者=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から

動員名簿を作り住民を統制管理
朝鮮総督府と国民総力朝鮮連盟(日本の隣組制度にあたる)が住民一人ひとりを統制・管理し、動員も系統的に行う体制で、逃れることはできませんでした。朝鮮人側を統制し、体制を支えたのが武力を持った駐屯日本軍と警察、日本の支配組織でした。
邑(ゆう)(日本の町にあたる)では、日本への労働動員名簿が作られました。対象は小作農の二・三男で、のちには長男も対象になりましたが、地主の子どもは対象になりませんでした。
強制労働動員は1939年から始まりました。37年に日中全面戦争が始まり、日本では38年に国家総動員法、39年に国民徴用令が施行されています。日本政府の資料から、日本国内(樺太、南洋を含む)に強制動員された朝鮮の労働者は、45年の日本の敗戦までに70万人余になります。このほかに朝鮮内に強制労働動員された人が158万人以上います。
日本への動員では、まったく日本語のできない人は炭坑鉱山・土木・運輸などに、普通学校を出た人など日本語のわかる人は工場にと、区分して動員されました。系統的・計画的な動員で、動員地は日本企業が申請し総督府が割り当てました。動員期間は当初は2年間の約束でしたが、戦争末期にはあと1年延ばされることもありました。
動員先の日本では食事の量の少なさが問題になりました。重労働で、大半の人が空腹を訴えましたが、炭坑などでは主食の米・麦(のちには雑穀)は朝鮮の農村で働いていたときより減らされ、副食にはキムチなどはなく、たくわんなどで口に合いませんでした。大半の現場が長時間労働でした。
炭坑では事故も多く、けがや死亡者も多かったのです。死亡した場合、遺族に遺骨を届けることになっていましたが、遺骨だけ届け弔慰金は支払わなかった、と当時を回想した江原道の日本人警察幹部が記録しています。警官は、このうわさが広がると今後の強制動員に影響があるからと心配しているのです。死亡・けがの場合も、当時はもとより今になっても、日本政府は個人に対し、おわびの手紙も補償もしていません。



日立鉱山で死亡した朝鮮人労働者の遺骨=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から

下ろせない貯金 送金は行方不明
賃金のうち本人に渡る金額は、逃亡を恐れ「小遣い程度」に限定され、残りは食事代、宿舎代、たえず課される国防献金などに徴収され、本人の手には渡りませんでした。
一部は一定金額の貯金、希望によっては家族送金にあてられましたが、預金を下ろす自由はなく、日本の敗戦時には、混乱を理由に支払われませんでした。動員された朝鮮人の大半は既婚者で、故郷には父母や妻・子どもがいました。送金しても邑・面(日本の町・村)長の印と確認が必要で、大半の人の送金がどうなったかは不明です。特に土木現場に配置された人の送金と残された家族の生活状態はわかっていません。日本政府は今に至るまで、朝鮮人の被害について一切調べていません。
強制動員で働き手を失った家族の暮らしは困難を極めたと思われます。日本の敗戦、朝鮮人にとっては解放が近くなるにつれ、朝鮮社会でも食料の闇での売買などが盛んになり、当局も取り締まりだけでは対応できなくなっていきました。朝鮮人の生きるための行動が活発になり、最後の総督阿部信行は、総督府が朝鮮農民に強いてきた天水田(水利がなくても降雨に頼って米を作らせる田)の一部を畑にすると天皇に上奏し、許可を受けざるを得ませんでした。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月16日付掲載


強制動員された朝鮮の労働者たち。まともに賃金も支払われず、預金したお金を下ろす自由もなく。
これって決して過去の事ではなく、現在の特定技能実習生でも実態はあまり変わらない状態だよね。
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日韓の歴史をたどる㉓ 米の供出 窮迫した農民が内外へ流浪

2020-06-06 08:09:39 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉓ 米の供出 窮迫した農民が内外へ流浪
樋口雄一 ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。『戦時下朝鮮の農民生活誌』『植民地支配下の朝鮮農民』ほか

朝鮮は農業国で、人口の9割以上が農民でした。1910年の「韓国併合」後、日本の朝鮮農民収奪は、米を生産させ、それを安く日本に移出し、日本の米価を低水準に置くことでした。日本の米騒動(18年)の時、安く買いたたき、廉売に利用したのも朝鮮米でした。

畑で稲を作らせ干害で餓死招く
朝鮮の農民は、米ができるときは米を、麦ができるときは麦をなど米・麦・そば・あわなどを中心に混食をして暮らしていました。春窮期(春に米を食べ終わり麦の収穫まで)には、小作農家の女性は野山に野草を摘みに行き、男は松の若木をかじると出る白い樹液をのみ、飢えをしのぐ状況でした。
朝鮮の米の生産は、水利のある水田と降雨のみに頼る天水田(畑)がそれぞれ耕地面積の50%を占めていました。
天水田は、陸稲・麦・そば・あわ、ひえ・芋・大豆など朝鮮人の食生活に欠くことのできない大切な土地でした。朝鮮総督府はそこで水稲を作ることを進めました。そのため、雨が降らないとたちまち干害が起き、日中戦争下の1939年には大干害で餓死者がでました。朝鮮ではこうした干害が42年から44年まで継続しました。



朝鮮総督府農相局が作成・配布した米の供出を求めるチラシ。「一粒のコメでももっと国にささげ、鬼畜米英を打倒しよう」と書かれている(『独立記念館』から)

全収穫取り上げ拒否すれば逮捕
総督農政の結果、極端に農民の食が窮迫しましたが、窮迫をもたらしたのは自然の影響だけではありません。大きな要因は米の供出です。日本全体の米不足は39年の朝鮮大干害以降に始まり、戦時下で軍の消費が拡大し逼迫した状態になりました。朝鮮農民に対する米の供出要求は厳しくなり、警察官と供出督励員、役場の職員が立ちあって供出させ、軍隊や日本に送られました。
はじめは自家消費を認めていましたが、やがて全収穫を供出し、農民が食糧の配給を受けるようになりました。戦争末期には米を供出し、代わりに満州大豆から油を絞った後の絞りカスが配給されました。赤カビが生えていたそうです。供出を拒否したり、穀物を隠したりした場合は逮捕、処罰されました。
食料不足は直接、朝鮮人の子どもに影響しました。42年、全羅南道宝城郡弥力国民学校には366人の生徒がいましたが、朝食を食べていない子、昼食のない子、1日1食の子、欠食で登校しない子が合計93人いたという報告があります。4分の1の子どもが満足に食べていませんでした。体操の時に昏倒(こんとう)する子も出ました。朝鮮の子どもの身長は次第に低くなりました。
朝鮮の乳幼児の死亡率は30%を超えており、当時のインドや中国と同じに高率でした。
食の欠乏に加えて植民地医療制度も小作人には無縁のものでした。韓国北東部の江原道内の調査では、31年中に「生前全く医師・医生の治療を受けず死亡した」朝鮮人は7839人で、全死亡者3万5071人の22%と報告されています。医療制度も不十分で小作農は一生医師にかかることも、漢方医から漢薬を買うこともできなかったという証言があります。
植民地下、地主制が維持され、日本人地主が多くなり、朝鮮人自作農が減少、小作農が増えました。米の小作料は6割を超え、暮らしが成りたたず多くの農民が流浪しました。流浪の過程で餓死・病死する農民は、35~42年には毎年、確認できるだけで4000~5000人にのぼり、39年の大干害の時には、流浪し、身元がわからない餓死・病死者のみで8325人に達しました。
国外に流れ出た者も多く、敗戦時の朝鮮人の総人口2500万人のうち、朝鮮人農民は、日本に200万人、中国東北部(満州)に200万人、中国・その他に100万人が、朝鮮外に暮らしていました。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月3日付掲載


日本の封建制の時代の年貢も、全収穫取り上げということはありませんでした。
江戸時代も重い年貢に耐えかねて逃散がありましたが、韓国併合後の朝鮮でも同様の事態が…。

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日韓の歴史をたどる㉒ 創氏改名 天皇への忠誠迫りながら差別維持

2020-05-21 08:32:26 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉒ 創氏改名 天皇への忠誠迫りながら差別維持
水野直樹
みずの・なおき 1950年生まれ。京都大学名誉教授。『創氏改名』、『在日朝鮮人歴史と現在』(共著)ほか

朝鮮の植民地支配期に行われた政策の中でもっともよく知られているのは、創氏改名であろう。一般には、朝鮮人の名前を日本名に改めさせたもの、同化政策の端的な表れと理解されているが、この政策の本質を明らかにするにはその理解では不十分である。社会の基本である家族制度の問題として考える必要がある。

朝鮮の家族制度 戦争協力の障害
日本の家族制度と朝鮮の家族制度には大きな違いがある。日本では明治期に、家(イエ)制度が成立し、家長(戸主)を中心とする「イエ」が天皇制国家の社会的基盤となった。現在でも結婚する際は夫婦どちらかの姓を選び、家族はすべて同じ氏(名字)を名乗らなければならないのは、家制度の名残である。
それに対して、朝鮮の伝統的家族制度は、父系(男系)の血族集団を中心としていた。子どもは父の姓を継ぎ、それは一生、変わることがないという慣習があり、女性は結婚しても姓は変わらない。結婚相手には異なる姓を持つ者を選ぶ慣習もあったため、必然的に夫婦別姓となった。
日本が朝鮮を支配し、朝鮮人に天皇や日本国家への忠誠心を抱かせ戦争に協力させるうえで朝鮮の家族制度は障害と考えられた。



創氏改名によって「李茂畑」を「武田茂」に書き換えた通信簿(在日韓人歴史資料館所蔵)

国家中心の観念「培養」するため
父系集団への帰属意識が強いままでは、天皇への忠誠心を抱かせることができない、日本の家制度を朝鮮に持ち込む必要がある、そのためにはまず名前のあり方を変えねばならない、と植民地支配者は考えた。
朝鮮総督南次郎は創氏の目的を、「半島人〔朝鮮人〕をして血族主義から脱却して国家中心の観念を培養し、天皇を中心とする国体の本義に徹せしめる」ことにあると説明していた。
朝鮮人に家族の名称である「氏」を名乗らせる(=創氏)ために、日本の民法にあたる朝鮮民事令を改めて、1940年2月11日(当時の「紀元節」)から6カ月間に「氏」を届け出ることが義務化された。公務員や教員などが手本を示し、村や町では役所、愛国班などが家々を回って届け出を「督励」した。氏は2字からなる日本的な名字がよいとされた。
それでも届け出ない場合は、戸主の姓がそのまま「氏」となった。例えば、戸主である金○○が氏を届け出ない場合は、戸主はそのまま金○○だが、妻である李△△の法律上の名前は金△△になった。これは本人の意思と関係なく、法的強制であった。

日本人との区別つけられる名前
一方で、植民地支配秩序の維持のために、名前で日本人と朝鮮人を区別する必要があると考える当局者もいた。特に警察当局は、取り締まりのためには区別がなければならないと考えていた。適用する法令が日本人と朝鮮人とで違っていたり、同じ仕事でも給料や待遇に差別が設けられたりしていたので、名前で区別できるほうが便利だという考えである。
そのため、氏の設定では、なるべく日本人と区別できるものにするよう誘導された。もとの姓に1字を加える(金→金山など)、本貫(父系集団の祖先の発祥地)にもとついて氏を定めるなどで、「朝鮮的な氏」を定める例が多かった。さらに、「改名」、つまり下の名前を改めることは実際にはあまり奨励されず、8割の家が創氏を届け出たのに対し、改名をしたのは人口の1割にとどまった。
「創氏改名」は、朝鮮に日本的な家制度を持ち込むことによって、天皇と日本国家への忠誠心を植え付け、戦争に協力させる一方で、植民地支配の維持のために日本人と朝鮮人を区別・差別するという相反する目的をもつ政策であった。
1940年から45年まで実施されたこの政策で朝鮮社会に家制度が根付いたわけではない。その一方で大きな混乱を引き起こした。例えば、日本軍兵士とされた朝鮮人戦死者は創氏名で記録され、遺族を探す障害となっている。何よりも社会の基礎である家族のあり方を強権的に変えようとした政策であるだけに、強制された人びとに癒やしがたい傷を残したことを忘れるべきではない。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年5月20日付掲載


戦前、日本と朝鮮とでは、家族の制度が違っていたのですね。
男系が優位という点では共通した点がありますが、朝鮮では妻は結婚しても性を変える必要はなかった。
そのままでは、天皇への忠誠心に障害が出る。
日本の家(イエ)制度を持ち込ませることと抱き合わせの創氏改名だった。

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