日韓の歴史をたどる㉖ 朝鮮人学徒兵 玉砂利投げて抵抗、脱走も
秋岡 あや
あきおか・あや 1983年生まれ。一橋大学大学院博士課程単位取得退学(朝鮮近現代史)。韓国水原市の水原外国語高校教師。韓国で聞き書きを重ねる
1937年の日中戦争から45年の敗戦まで、朝鮮では皇民化政策のもと戦時動員が行われました。戦時動員は労働動員と軍事動員に分けられます。労働動員は39年の「募集」、42年の「官斡旋」、44年の「徴用」の3段階があり、次第に強制性が強まり動員数も増えました。
志願という名で徴兵された学徒
軍事動員も、38年には「志願兵」でしたが、44年からは「徴兵」になります。この間、女子勤労挺身隊、軍慰安婦、軍属、軍夫の動員も行われました。学徒兵は形式的には志
願兵でしたが、学徒以外の若者が志願兵制から徴兵制へ移行する時期に動員されたため、強制性が強く、抵抗も大きかったのが特徴です。
朝鮮人学徒兵の動員過程に関する研究としては、姜徳相(カンドクサン)『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店、1997年)があります。新聞資料と回顧録を丹念に分析することで、強制動員と抵抗の実態の詳細を明らかにしています。
朝鮮人学徒兵は、1943年10月、日本人学生の徴兵猶予の停止措置が植民地の学生にも適用される形で動員されました。形の上では志願兵だったため、受付開始直後は大部分の学生が忌避。しかし朝鮮総督府の志願勧誘政策により、多くの学生が志願を強いられることになりました。
勧誘政策の第一は、志願手続きの簡素化です。手続きを学校長のもとで一元化し、修学地以外での志願・電報志願・代理志願を許可。既卒者も適格化し、締め切り後の受け付けも許可するなど、さまざまな改変を行いました。第二は、地縁・血縁関係の利用です。翼賛委員会、国民総力朝鮮連盟、各大学・高専、マスメディア、朝鮮奨学会、協和会などを総動員しました。そして第三に、警察力の動員です。
その結果、43年11月、学徒兵は朝鮮内では96%、帰省者(日本で学徒動員を知り忌避のため朝鮮に戻ったものの志願させられた人)は93%の高い志願率を出しました。同年12月に徴兵検査が行われ、翌年1月20日に入営。志願しない者は徴用され労働現場に動員されました。
入隊後は、朝鮮、日本、中国などの各部隊に分散配置されますが、朝鮮内の部隊では軍隊内の反乱や脱走が相次ぎました。中国戦線では脱営して独立軍に参加する者も多くいました。
学徒兵といえば、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が有名ですが、ここに朝鮮人学徒兵の手記は含まれていません。当時、朝鮮人が本心を書き残すことは困難でした。彼らが語り出すのは解放(日本の敗戦)後で、韓国で出版された文学作品や回顧録にその一端が垣間見られます。
軍事動員された朝鮮人日本兵の入営記念写真。この中の一人・印金寿さんはその後ニューギニアで死亡(「対日抗戦期動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」作成の資料集から)
韓国在住の元学徒兵の団体「一・二〇同志会」がまとめた学徒兵の回顧録
狂ったふりをし 戦死をのがれる
以下は、回顧録をもとに、私が証言を聞き取ったものです。学徒兵の視点からもう一度この時代を見てみましょう。
許相燾(ホサンド)氏は、1923年、慶尚北道慶山郡に生まれ、独立運動家の祖父の下で育ちました。日本に留学した43年10月、中央大学法科1年次に学徒動員となります。朝鮮へ帰省して伯父の家に隠れますが、警察が祖父を拷問したため出頭し、願書から「志願」の2字を消すことを条件に母印を押しました。
選考の結果は甲種合格(第一級の順位)。壮行会では神社の玉砂利を投げて抵抗しました。44年1月20日、第20師団歩兵第80連隊(朝鮮第24部隊)に入営。歩兵で階級は2等兵。朝鮮人学徒兵は28人いました。初年兵訓練では何をしても殴られ、朝鮮人は露骨にいじめられました。
入営から3カ月後の一期検閲で1等兵となり、勧誘を受け幹部候補生試験を受けますが、わざと間違え落第。初年兵訓練後は、炊事場や物干し場に集まり脱出計画を企てました。44年7月に1人、8月に6人が脱出しますが、許氏自身は当日は寝ずの番となり皆が逃げるのを見送ります。捕まった者は小倉刑務所に収容されました。
44年11月、許氏ら2人に転属命令がありますが、気が狂ったふりをして医務室に運ばれ、数カ月間営倉(懲罰房)に入りました。もう一人は「南方」へ送られ輸送船の撃沈で戦死します。45年2月、本土決戦準備のため第96師団歩兵第293連隊に編成され、45年3月、済州島へ移動。そこで解放を迎えました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年7月27日付掲載
日本人も学徒徴兵されましたが、朝鮮の学徒も同様に徴兵されたのですね。
逃亡を試みるものや、狂った振りをして戦地に行くのを免れるとか。
なかなか、したたかだったのですね。
秋岡 あや
あきおか・あや 1983年生まれ。一橋大学大学院博士課程単位取得退学(朝鮮近現代史)。韓国水原市の水原外国語高校教師。韓国で聞き書きを重ねる
1937年の日中戦争から45年の敗戦まで、朝鮮では皇民化政策のもと戦時動員が行われました。戦時動員は労働動員と軍事動員に分けられます。労働動員は39年の「募集」、42年の「官斡旋」、44年の「徴用」の3段階があり、次第に強制性が強まり動員数も増えました。
志願という名で徴兵された学徒
軍事動員も、38年には「志願兵」でしたが、44年からは「徴兵」になります。この間、女子勤労挺身隊、軍慰安婦、軍属、軍夫の動員も行われました。学徒兵は形式的には志
願兵でしたが、学徒以外の若者が志願兵制から徴兵制へ移行する時期に動員されたため、強制性が強く、抵抗も大きかったのが特徴です。
朝鮮人学徒兵の動員過程に関する研究としては、姜徳相(カンドクサン)『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店、1997年)があります。新聞資料と回顧録を丹念に分析することで、強制動員と抵抗の実態の詳細を明らかにしています。
朝鮮人学徒兵は、1943年10月、日本人学生の徴兵猶予の停止措置が植民地の学生にも適用される形で動員されました。形の上では志願兵だったため、受付開始直後は大部分の学生が忌避。しかし朝鮮総督府の志願勧誘政策により、多くの学生が志願を強いられることになりました。
勧誘政策の第一は、志願手続きの簡素化です。手続きを学校長のもとで一元化し、修学地以外での志願・電報志願・代理志願を許可。既卒者も適格化し、締め切り後の受け付けも許可するなど、さまざまな改変を行いました。第二は、地縁・血縁関係の利用です。翼賛委員会、国民総力朝鮮連盟、各大学・高専、マスメディア、朝鮮奨学会、協和会などを総動員しました。そして第三に、警察力の動員です。
その結果、43年11月、学徒兵は朝鮮内では96%、帰省者(日本で学徒動員を知り忌避のため朝鮮に戻ったものの志願させられた人)は93%の高い志願率を出しました。同年12月に徴兵検査が行われ、翌年1月20日に入営。志願しない者は徴用され労働現場に動員されました。
入隊後は、朝鮮、日本、中国などの各部隊に分散配置されますが、朝鮮内の部隊では軍隊内の反乱や脱走が相次ぎました。中国戦線では脱営して独立軍に参加する者も多くいました。
学徒兵といえば、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が有名ですが、ここに朝鮮人学徒兵の手記は含まれていません。当時、朝鮮人が本心を書き残すことは困難でした。彼らが語り出すのは解放(日本の敗戦)後で、韓国で出版された文学作品や回顧録にその一端が垣間見られます。
軍事動員された朝鮮人日本兵の入営記念写真。この中の一人・印金寿さんはその後ニューギニアで死亡(「対日抗戦期動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」作成の資料集から)
韓国在住の元学徒兵の団体「一・二〇同志会」がまとめた学徒兵の回顧録
狂ったふりをし 戦死をのがれる
以下は、回顧録をもとに、私が証言を聞き取ったものです。学徒兵の視点からもう一度この時代を見てみましょう。
許相燾(ホサンド)氏は、1923年、慶尚北道慶山郡に生まれ、独立運動家の祖父の下で育ちました。日本に留学した43年10月、中央大学法科1年次に学徒動員となります。朝鮮へ帰省して伯父の家に隠れますが、警察が祖父を拷問したため出頭し、願書から「志願」の2字を消すことを条件に母印を押しました。
選考の結果は甲種合格(第一級の順位)。壮行会では神社の玉砂利を投げて抵抗しました。44年1月20日、第20師団歩兵第80連隊(朝鮮第24部隊)に入営。歩兵で階級は2等兵。朝鮮人学徒兵は28人いました。初年兵訓練では何をしても殴られ、朝鮮人は露骨にいじめられました。
入営から3カ月後の一期検閲で1等兵となり、勧誘を受け幹部候補生試験を受けますが、わざと間違え落第。初年兵訓練後は、炊事場や物干し場に集まり脱出計画を企てました。44年7月に1人、8月に6人が脱出しますが、許氏自身は当日は寝ずの番となり皆が逃げるのを見送ります。捕まった者は小倉刑務所に収容されました。
44年11月、許氏ら2人に転属命令がありますが、気が狂ったふりをして医務室に運ばれ、数カ月間営倉(懲罰房)に入りました。もう一人は「南方」へ送られ輸送船の撃沈で戦死します。45年2月、本土決戦準備のため第96師団歩兵第293連隊に編成され、45年3月、済州島へ移動。そこで解放を迎えました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年7月27日付掲載
日本人も学徒徴兵されましたが、朝鮮の学徒も同様に徴兵されたのですね。
逃亡を試みるものや、狂った振りをして戦地に行くのを免れるとか。
なかなか、したたかだったのですね。