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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をたどる㉑ 植民地公娼制 日本軍「慰安婦」制度に結びつく

2020-04-19 13:16:52 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる㉑ 植民地公娼制 日本軍「慰安婦」制度に結びつく
宋連玉
ソン・ヨノク 1947年生まれ。青山学院大学名誉教授、文化センター・アリラン館長。『脱帝国のフェミニズムを求めて』、『軍隊と性暴力』(共編著)ほか

1876(明治9)年の日朝修好条規により釜山が開港するや翌年、日本の釜山管理庁が「酌取女(しゃくとりおんな)」の取り扱いを決め、ついで領事館が1881年、「貸座敷営業規則」「芸娼妓営業規則」を制定した。貸座敷とは娼妓解放令(1872年)以降の、遊女屋に代わる新造語である。




この時期の居留地地図には、吉原の「中米楼」を含む9軒の妓楼と6軒の料理店が記載されている。外務省の80年の旅券発給記録を見ると、吉原の業者は特権的に朝鮮行
きを保証されており、個人の起業意欲だけで説明できるものではない。名だたる明治新政府の政治家たちもひいきにしていた大店(おおだな)があえて釜山へ渡ったのは、それだけの保証があったからだろう。
1911年、鎮海に軍港を建設する際、社会基盤整備の費用を負担する条件で貸座敷敷地の貸し下げが許可された。ここにも吉原の大店格の遊廓が関わっている。この計画は結果的には実現しなかったが、遊廓業者と公権力の結びつきがうかがえるエピソードである。



「韓妓貸座敷 料理店」の広告。貸座敷とは性売を公認された女性(娼妓)の性売場所。料理店の内実は朝鮮人娼妓を雇う貸座敷であることを示す。

国家管理売春を植民地へと移植
近代公娼制とは「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」で、「公娼制度の温存は植民地において本国より重要」(藤目ゆき『性の歴史学』)であり、日本は植民地支配をした台湾と朝鮮に公娼制を移植した。それまで朝鮮、台湾に公娼制はなかった。
営業区域の指定や性病検診の義務化、娼妓(公娼)の外出禁止などは日本と同じだが、娼妓の許可年齢が日本では18歳に対し、台湾は16歳、朝鮮は17歳と差が設けられた。そのために、より貧しい娘たちが日本「内地」から朝鮮へ、朝鮮から台湾へなどと移動する回路が形成された。
朝鮮の釜山・元山には日本と清国が居留したが、1883年開港の仁川では欧米諸国の領事館も開設された。日本の外務省は国家的な体面から釜山・元山のようなあからさまな遊廓経営に難色を示し、公娼制存続を訴える仁川領事館との妥協案として、貸座敷を「料理店」、娼妓を「芸妓」「酌婦」と呼ぶようにした。
やがて日露戦争(1904~05年)の前から、貸座敷と変わらない料理店を「特別料理店」と呼びかえ、娼妓も「乙種芸妓」などと呼んで公娼制の地ならしをする。香月源太郎『韓国案内』(1902年)の巻末広告(写真)は、この偽装公娼制の実態を雄弁に物語る。この広告から日露戦争前夜、すでに日本人業者が朝鮮人娼妓を雇用していることもうかがえる。

憲兵隊司令官が制度確立を担う
1910年の「韓国併合」以降、武断政治の下で性管理が強化され、1916年5月に朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」が施行される。貸座敷、娼妓という名称が1881年以来復活したのである。この背景には1916年4月からの朝鮮軍19師団、20師団の逐次編成がある。立役者は、朝鮮総督・寺内正毅の下で憲兵隊司令官を務めた明石元二郎である。
朝鮮の公娼制が日本「内地」のものと異なる点は許可年齢だけではなく、廃業規定について朝鮮では業者の裁量とされたことだ。法令以外にも、娼妓に対する民族差別は待遇全体に及ぶ。
植民地支配が進むにつれ朝鮮人娼妓の数は増加し、1939年には日本人と朝鮮人の数が逆転する。台湾においても1920年代初めから朝鮮人娼妓の台湾渡航が増えはじめ、40年前後には台湾全体の娼妓数の約4分の1を占めるようになる。
日中戦争下、大量の朝鮮人娼妓が台湾から中国・華南地方の戦地「慰安所」に送り込まれた。これは日本軍が「慰安婦」制度において植民地の公娼制を最大限に活用した一例である。公娼制と「慰安婦」制度の違いを平時と戦時の違いに求める見解もあるが、日本の植民地支配が軍事主義と深く結びついていることを見逃しては問題の本質は見えてこない。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年4月15日付掲載


日本は、朝鮮や台湾に公的な売春施設をつくり、それがのちの「慰安婦」に変わっていった歴史があるんですね。
作るにしても、あからさまな名前をさけて「料理店」とか「芸妓」「酌婦」とか、ごまかす名前で。
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日韓の歴史をたどる⑳ 「皇民化政策」 権利なき「帝国臣民」

2020-04-18 08:49:36 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑳ 「皇民化政策」 権利なき「帝国臣民」
水野 直樹
みずの・なおき 1950年生まれ。京都大学名誉教授。『創氏改名』、『在日朝鮮人ー歴史と現在』(共著)ほか

一 私共は大日本帝国の臣民であります
一 私共は心を合せて天皇陛下に忠義を尽くします
一 私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります
これは、1937年10月、朝鮮総督府が制定して朝鮮人に唱えさせた「皇国臣民ノ誓詞」(児童用)である。戦時期朝鮮での「皇民化政策」を象徴するもので、45年の日本敗戦まで、各種の会合、学校の朝礼などで必ずこれを唱え、新聞や雑誌は、これを掲載しなければ発行を許さないという政策が続けられた。



「内鮮一体」の宣伝絵葉書


「皇国臣民ノ誓詞」カード(児童用)(写真はいずれも『図録 植民地朝鮮を生きる』から)

「内鮮一体」唱え 戦時動員を強化
36年に朝鮮総督に就任した陸軍大将南次郎(前関東軍司令官)は「国体明徴」を掲げていたが、37年7月に日中戦争が開始されると、朝鮮での戦時動員体制を強化するため、「内鮮一体」を唱えて朝鮮人の「皇国臣民」化を推し進めた。
その最初の手段として制定されたのが、「皇国臣民ノ誓詞」であった。児童用のほか中等学校生徒や一般人用の「誓詞」も定められたが、これは総督府学務局長の通達で唱えることを指示しただけで、法的根拠のないものであった。
総督府は神社参拝や日常生活での日本語使用などについても、それまで以上に強制的な手法をとりはじめた。「皇国臣民」としての自覚を朝鮮の子どもたちに持たせるために、11年に公布された朝鮮教育令を改定すること、志願兵制度を実施することなどを決め、37年12月に閣議決定した。それを受けて、南総督と拓務大臣は昭和天皇に対して、これらの政策が「朝鮮の日本化」を促進するものであると説明した。皇民化政策は日本全体の政策になったのである。
それまで朝鮮人が通う学校は普通学校、高等普通学校と呼ばれていたが、教育の「内鮮一体」を図るとする朝鮮教育令の改定によって、日本人学校と同じように小学校、中学校に名称が変更された。しかし、日本人と朝鮮人が別々の学校に通う実態はほとんど変わらなかった。
「内鮮一体」を口実として朝鮮語の授業が随意科目とされ、実質的に学校での朝鮮語教育は廃止されることになった。皇民化教育を強化・拡張するため、学校数は戦時期に増え続けたが、義務教育は結局実施されずに終わった。

地域に「愛国班」 創氏改名を強要
日本「内地」で総動員体制が固められていくのに合わせて、朝鮮でも38年7月に国民精神総動員朝鮮連盟が結成された(40年に国民総力朝鮮連盟に改組)。総督府政務総監を頂点に総督府や朝鮮軍(朝鮮駐屯の日本軍)の官僚・軍人が名を連ねた官製団体だったが、下部では地域・職域ごとに連盟が置かれ、最末端には愛国班が組織された。「内地」での隣組に類するもので、神社参拝や国防貯金、金属類の供出など、皇民化政策や戦争協力に動員された。
このような皇民化政策は40年以降、いっそう強化され、朝鮮人経営の朝鮮語新聞の強制廃刊や「創氏改名」が実施されるとともに、労働者や「軍隊慰安婦」の動員、徴兵制の実施などの形で日本の戦争遂行に直接動員されることになる。
「内鮮一体」を掲げた皇民化政策だが、朝鮮人に日本人同様の権利を認めるものではなかった。朝鮮人の側が政治的権利(日本の議会への議員選出権など)や社会的権利(「内地」渡航の制限廃止など)を要求しても、日本政府は決して受け入れようとしなかった。
冒頭に紹介した「皇国臣民の誓詞」は、皇民化政策の強圧性を示している。誓詞は一時朝鮮語に翻訳されラジオで放送されたこともあるが、日本語で唱えなければならないとして、朝鮮語訳は禁止された。
図版の「誓詞」の文章の横にハングルが書かれているが、これは朝鮮語の翻訳ではなく、日本語の読みをハングルで記しただけのものである。つまり、内容を理解しなくても、日本語で唱えることが強制されていたのである。この「誓詞」カードに皇民化政策の強圧性と矛盾を見ることができる。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年3月31日付掲載


朝鮮の植民地化。皇民化、臣民になるってといっても、日本人ですら制限された権利。
戦争協力だけさせられて、権利っていっても実態はないものでした。
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日韓の歴史をたどる⑲ 労働者移動紹介事業 戦時下の強制労働動員の原型

2020-03-14 09:40:48 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑲ 労働者移動紹介事業 戦時下の強制労働動員の原型
加藤圭木
かとう・けいき 1983年生まれ。一橋大学准教授。『植民地期朝鮮の地域変容』、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(共著)、『歴史を学ぶ人々のために』(共編著)

日本の植民地支配下におかれた朝鮮では、朝鮮総督府の経済政策によって、大多数の朝鮮農民が貧困状態に追い込まれていました。自作農・自小作農が没落し、小作料の高率化や小作権の移動が激しくなるなかで、土地を失ったり、生活が窮迫した農民が日本や満洲へ移住しました。さらに、山林に入って火田民(焼畑農民)となったり、都市で土幕民(バラック住民)となる動きが進みました。
1930年前後の朝鮮では、社会主義運動の影響力が拡大し、農民組合・労働組合運動が高揚しました。社会主義勢力は、貧困層向けの教育施設を各地で整備するなど、人びとの要求を踏まえた活動を展開しました。大衆的基盤をもって民族解放運動を展開していたのです。




社会主義運動の高揚への危機感
1931年に朝鮮総督に就任した宇垣一成(かずしげ)は、社会主義運動の高揚に危機感を抱き、1933年より官製運動の「農村振興運動」を展開し、農民の不満を抑えようとしました。「自力更生」をスローガンとして、営農技術向上や副業奨励、また貯蓄や家計簿作成などが推奨されました。
しかし、地主制や高額な小作料といった根本的な矛盾を放置し、天皇制イデオロギーを押しつける精神主義的運動としての側面が強かったため、農民の悲惨な状況は変わりませんでした。
朝鮮総督府は、もう一つの方策として人口移動政策を実施しました。それが、1934年に開始された朝鮮南部の農民を北部の労働現場に送り込む「労働者移動紹介事業」です。深刻な貧困状態におかれた農民達は、主として稲作地帯である朝鮮南部に集中していましたので、これを「工業化」や軍事拠点化が進みつつあった北部に送ることにしたのです。
当時、朝鮮では総力戦体制の構築という観点から、「朝鮮北部重工業地帯建設計画」が進められ、満洲への接続拠点として朝鮮北部の羅津(ラジン)港の建設が行われていたのです。
「労働者移動紹介事業」によって労働者のあっせんがはじまると、南部の農民の中には、このまま農村に残って死ぬよりはましだろうと考えて応じる人がでてきました。経済的条件による構造的な強制だったわけです。



日本窒素肥料会社が設立した朝鮮窒素肥料会社の興南工場(『画報日本近代の歴史10』から)

就業詐欺まがい過酷な労働条件
しかも、あっせんに応じたところで、人びとの困難な状況は変わりませんでした。北部の労働現場では、事前に聞いていた額よりもはるかに低賃金であったり、過酷な労働条件だったりしました。さらに、到着したところで住居すら整備されていないこともあり、そもそも仕事自体がないということもありました。これらはいずれも就業詐欺です。また安全対策も不十分で、土木現場や炭鉱では事故が続発しました。あっせんされた人びとの不満が爆発し、抗議したり、逃亡する人も相次ぎました。
1930年代半ば、朝鮮北部「工業化」の進展度は低く、大量の労働者の生活を支えられる状況ではありませんでした。しかし、社会主義の抑制という目的のために南部の農村から農民を引き剥がし、北部に送ったのです。これは棄民政策に他なりません。
「労働者移動紹介事業」は日中戦争以降の強制労働動員の原型となった政策です。戦時期には労働力不足から、朝鮮北部や日本などへの大規模な動員が行われますが、それ以前にすでに人権無視の労働あっせんが存在したのです。
なお、いま、主に問題になっているのは日本での強制労働ですが、朝鮮内での労働動員の実態は部分的にしか明らかになっていません。
こうして日本側は、支配の矛盾を何ら解消させることなく、侵略戦争を拡大させ、ファシズムへと突き進んでいきました。そうした中で、朝鮮の人々との間の矛盾はますます拡大していったのです。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年3月10日付掲載


今の北朝鮮をみても日本の植民地化の朝鮮での北部の工業化は成功したとはいえないのでしょうね。
むしろ満州に移民させて、不足する労働力をおぎなった。
日本国民も移住したが、朝鮮の人たちはもっと劣悪だった。
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日韓の歴史をたどる⑱ 満州侵略と朝鮮 軍事拠点化で地域を破壊

2020-02-15 15:42:36 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑱ 満州侵略と朝鮮 軍事拠点化で地域を破壊
加藤圭木
かとう・けいき 1983年生まれ。一橋大学准教授。『植民地期朝鮮の地域変容』、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(共著)、『歴史を学ぶ人々のために』(共編著)

朝鮮半島の最北に位置する咸鏡(ハムギョン)北道。この咸鏡北道の中で、旧ソ連・中国との国境からほど近い所に、新安面(面は日本でいう村のこと)という漁村があった。この村は決して豊かとはいえなかったが、ワカメ採集やイワシ漁業などを中心に暮らしが営まれていた。
1931年、日本は満洲侵略戦争(「満洲事変」)を開始し、翌年には日本の傀儡(かいらい)国家である「満洲国」がつくりあげられた。日本側から見れば、植民地朝鮮、特にその北部は、日本から満洲への中継地点としての役割が期待される場所だった。そこで、日本側は「北鮮ルート」と呼ばれる新交通ルートの形成を推進
していった。(当時、日本側は朝鮮北部を差別的に「北鮮」と呼称していた)
「北鮮ルート」は、新潟・敦賀などの港から海を渡り、朝鮮北部の港に上陸し、「満洲国」の首都「新京」(長春)までを結ぶというものであった。これに伴って、朝鮮北部を満洲侵略拠点として再編する政策が進められた。




一方的に進めた新しい港の建設
「北鮮ルート」の一拠点として選定されたのが、冒頭で見た新安面だった。新安面に新たに港を建設し、すでに開港していた朝鮮北部の港である清津(チョンジン)・雄基(ウンギ)両港とともに「満洲国」への玄関口とすることが目指された。新安面に新港を建設することは日本陸海軍の強い要求を背景としており、軍事拠点としての役割も強く期待されていた。
こうしたなかで、多数の日本人が新安面に移り住んでいった。新安面は日本人の街という役割を付与され、羅津(ラジン)府に再編された(府は日本の市。以下、羅津と呼ぶ)。こうした一連の動きは、現地の朝鮮人に断りなく日本側が一方的に進めたことである。



羅津港全景


日満連絡図(ともに南満洲鉄道株式会社鉄道建設局『羅津港建設工事写真帖』1935年から)

強権で住宅撤去 警察が強制執行
羅津では「満洲事変」の少し前から、新たな港湾が建設されるのではないかとうわさされていたこともあったので、その主要な土地は日本人を中心としたブローカーによって、不当な低価格で買い占められた。
また、日本の軍事拠点を建設するために、強権的な土地収用令などを背景としつつ、行政側が執拗に住民を圧迫して、低価格で土地を買い上げるなどの政策をとった。こうしたなかで、漁業を中心としていた朝鮮人の生活基盤が脅かされた。
さらに、「満洲国」への玄関口として羅津に「都市」を新たに建設することになった。朝鮮総督府は「朝鮮市街地計画令」(日本本国の都市計画法にあたる)を1934年に制定して、羅津建設を断行した。「市街地計画」といえば聞こえはいいが、実態は地域破壊にほかならなかった。本国の都市計画法よりも強権的な住宅撤去規定を持つ朝鮮市街地計画令にもとづき、住宅撤去は警察などの手で強制執行された。
36年夏、事業関係者である朝鮮総督府の技師・山岡敬介が羅津に来た際、強制撤去された数百名が殺到し抗議した。人びとは生活の保障を要求したのであるが、山岡は面会を拒絶した。
こうした一連の経緯から浮かび上がるのは、朝鮮への差別である。朝鮮人住民を無視し、日本本国よりも強権的な「法」を適用して、一方的に地域を破壊したのである。
羅津は満洲侵略の影響を最も直接的に受けた地域だが、同じような経験をした村は少なくない。当時、新潟などでは「北鮮ルート」によって、開発が遅れていた自らの地域を発展させる契機になるとの「夢」が語られていた。そして日本人の多くが満洲に「夢」を抱いた。だが、その「夢」の下で中国の人びとが虐げられ、朝鮮の村々が踏みにじられたことを知る必要がある。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月12日付掲載


中国東北部の満州侵略の足がかりとして、朝鮮北部の町に日本の敦賀や新潟と結ぶ港と都市を建設。そのために住民の追い出しまでやったのですね。
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日韓の歴史をたどる⑰ 「併合」下の教育 被支配は必然と教科書で説く

2020-01-25 10:18:42 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑰ 「併合」下の教育 被支配は必然と教科書で説く
佐藤 広実
さとう・ひろみ 1954年生まれ。東京家政学院大学教授(教育学・教育学史)。日本植民地教育史研究会代表。『「誇示」する教科書』『植民地支配と教育学』ほか

朝鮮総督府は、朝鮮の子どもたちに「韓国併合」の歴史的必然性を教える重要性を自覚し、教科書の記述に最大限の注意を払っていた。
1910(明治43)年、日本は韓国を併合し朝鮮民族から主権を完全に剥奪した。朝鮮総督府は朝鮮人教育の権限を握り、翌1911年に朝鮮教育令を公布、朝鮮人の教育は「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコト」とした。日本帝国臣民化のためには、天皇制思想の注入と日本語の教授とが基本であることを強調した。
朝鮮人の子どもが通う普通学校は、就学年限は4年、日本語が国語とされ、教科目は修身、国語、朝鮮語及漢文、算術、理科、唱歌・体操が開設された。教科書は「朝鮮語及漢文」を除き日本語で書かれ、日本人化のための教科が並び重要視され、朝鮮の歴史や文化は軽視され追放された。

片手にサーベル 片手に教育勅語
併合初期、総督政治は武断政治と称された。軍の機関である憲兵が文官警察を指揮下に置く憲兵警察制度がそれを特徴づけた。日本人教師はつねに警官と連絡をとり、官服に身をかため、帯剣して教場におもむいた(1920年まで続く)。片手にサーベル、片手に教育勅語という教師の姿・あり方は、朝鮮の同化主義教育を象徴した。(小沢有作『民族教育論』)
1919年3月、朝鮮民衆が独立と自由を求める三・一独立運動が起こる。5月末までの鎮圧では、死者約7500人、被検挙者4万6000人以上に及んだとされる。総督政治は武断政治から文化政治への転換を余儀なくされる。第2次朝鮮教育令が公布(1922年)され「内鮮共学」を定める。朝鮮人と日本人の学制の差をなくすとして就学年限は6年に延長され、国史(日本史)、地理、家事・裁縫などの教科が増設された。同時に、総督府はこれを機に「朝鮮人タルノ観念」の否定に本格的に乗り出す。



朝鮮教育令草案。1911年7月12日、朝鮮総督府から日本の内閣総理大臣にあてた勅令案(『独立記念館』から)

独立抑えるため植民地近代化論
その端的な事例が、なぜ朝鮮は日本に「併合」されなければならなかったのかという「韓国併合」の歴史的必然性を説く教科書の出現であった。修身の教科書でそれを紹介してみたい。
「韓国併合」後の朝鮮総督府編纂第1期修身教科書(1912年~)には、日本帝国の臣民化を促す教材が収まっている。「テンノウヘイカ」「祝日大祭日」「明治天皇」「我が国体」「日本国民」「大日本帝国」などである。しかし、「韓国併合」を直接に扱う教材はなかった。
それが、1919年の三・一独立運動後の第2期修身教科書(1923年~)には、「朝鮮は党派の争いがあって一致せず…民力は大いに疲弊しました…外交にもたびたび失敗して困難しました」「多年の弊政は全く除くことがむずかしく…朝鮮人中にも国利民福のために、日本との合併を望む者が盛んに出て来ました」(「我が国」其の二、5年生)という記述がでてくる。
さらに教材の趣旨が記されている『教師用書』を見ると、「農事の改良を図つた」「商工業の進歩を図つた」「昔にくらべれば、人民はどれほど幸福であるか分かりません」と植民地化によって近代化が促進されたと口頭で朝鮮の子どもたちに説明を補いなさいと述べている。「国運の発展」(6年生)も、合併は「教育・産業等あらゆる方面が発展して、国民の富もいちじるしく増加」したと説明する。
朝鮮民衆は日本の政治的支配下に置かれて当然であるという心性(被支配民族として生きるモラル)を教える教材である。朝鮮人としての独立の観念を抑え込み否定するためには、朝鮮民族は自らの国を治める能力をもたず停滞し(他律性史観)、植民地化によって朝鮮は近代化が促進された(植民地近代化論)と教え込むことが必要だとの総督府の自覚がここに示されている。
朝鮮人の子どもたちに、「あなた方は被支配民族として生きることが幸福である」と説く教科書が存在したこと。これは深い悲しみであり、いまに生きる私たちの痛点である。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年1月21日付掲載


韓国併合後、子どもたちの教育に注意をかける。なぜ朝鮮は日本に「併合」されなければならなかったのかという「韓国併合」の歴史的必然性を説く教科書。
力だけで支配できないと、子どもたちに「併合」によって韓国が豊かになった、日本に支配されて当然と洗脳教育。
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