オフネタ恒例のサッカーの昔話で、2005年のW杯最終予選の日本対バーレーン(埼スタ)の記憶です。当時の日本代表はジーコ監督が率いており、初戦の北朝鮮戦こそ勝利したものの、2戦目のイランとのアウェイ戦で黒星を喫し、このバーレーン戦は2位以内の通過のためには勝利のみが必要な試合でした。当時のバーレーンはアジアにおける旬な新興勢力で、3ケタ台だったFIFAランキングが64位まで上がってきていたチームでした。
当時の日本は4バックで中田英寿をボランチで起用し、サイドハーフの中村俊輔を軸にしていたチームでした。これに対し、アウェイのバーレーンはこの試合は引き分けで十分と、最初から0-0の引き分けを狙う戦い方でした。5-4-1で自陣に引いたバーレーンは日本のクロスを何度でもクリアするという気迫にあふれており、時間が経ってもその集中力は途切れませんでした。
時間は流れ、バーレーンの狙い通り0-0のスコアが続きました。この試合を引き分けてしまうと、残り3試合で3連勝に近い成績が求められる厳しい状況に追い込まれます。そんなとき、右サイドから宮本が入れたFKで試合が動きます。このクロスは味方の選手には合わず、ファーサイドにいた相手のゲームメーカーのサルミーンのところにこぼれます。
サルミーンにとって、これをクリアするのは簡単なタスクに思えましたが、まさかのミスキックでこれを自軍のゴールに入れてしまい、オウンゴールとなって日本に先制点が入りました。このゴールは、当時ホーム側ゴール裏スタンドにいた私にとって目の前の出来事で「誰だか知らないけどオウンゴール」と仲間と狂喜乱舞した記憶が鮮明です。
結果的に、このオウンゴールが決勝点になって、日本が1-0で勝利します。勝つには勝ったものの大苦戦だった試合ですが、ジーコ監督が持っていた運の強さだけは確かだった試合になりました。当時のジーコ監督時代の采配にはおかしなものもあり、40℃の熱を出していた柳沢をスタメンで起用したなど不可解なものもありましたが、この勝利でドイツW杯出場がぐっと近づいた結果になりました。
今度の3月、このときと同じバーレーン代表と、同じ埼スタでW杯出場を賭けて戦うことになります。当時とは違って今回の日本代表は5勝1分け無敗とかなり楽な状況での試合になりますが、もちろん勝って目の前でW杯出場を決めて欲しいという思いで、また埼スタに足を運べたらと思っています。
当時の日本は4バックで中田英寿をボランチで起用し、サイドハーフの中村俊輔を軸にしていたチームでした。これに対し、アウェイのバーレーンはこの試合は引き分けで十分と、最初から0-0の引き分けを狙う戦い方でした。5-4-1で自陣に引いたバーレーンは日本のクロスを何度でもクリアするという気迫にあふれており、時間が経ってもその集中力は途切れませんでした。
時間は流れ、バーレーンの狙い通り0-0のスコアが続きました。この試合を引き分けてしまうと、残り3試合で3連勝に近い成績が求められる厳しい状況に追い込まれます。そんなとき、右サイドから宮本が入れたFKで試合が動きます。このクロスは味方の選手には合わず、ファーサイドにいた相手のゲームメーカーのサルミーンのところにこぼれます。
サルミーンにとって、これをクリアするのは簡単なタスクに思えましたが、まさかのミスキックでこれを自軍のゴールに入れてしまい、オウンゴールとなって日本に先制点が入りました。このゴールは、当時ホーム側ゴール裏スタンドにいた私にとって目の前の出来事で「誰だか知らないけどオウンゴール」と仲間と狂喜乱舞した記憶が鮮明です。
結果的に、このオウンゴールが決勝点になって、日本が1-0で勝利します。勝つには勝ったものの大苦戦だった試合ですが、ジーコ監督が持っていた運の強さだけは確かだった試合になりました。当時のジーコ監督時代の采配にはおかしなものもあり、40℃の熱を出していた柳沢をスタメンで起用したなど不可解なものもありましたが、この勝利でドイツW杯出場がぐっと近づいた結果になりました。
今度の3月、このときと同じバーレーン代表と、同じ埼スタでW杯出場を賭けて戦うことになります。当時とは違って今回の日本代表は5勝1分け無敗とかなり楽な状況での試合になりますが、もちろん勝って目の前でW杯出場を決めて欲しいという思いで、また埼スタに足を運べたらと思っています。
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