先日の横浜FC戦、写真の元浦和GK田北雄気さんが、横浜FCのGKコーチとして埼スタのピッチに立っていました。コロナ禍で声が出せないので黙っていましたが、もし声を出せるなら田北のチャントを歌いたかったほどです。彼が浦和に在籍していたのは1992年から2000年にかけてで、プロになりたいためNTT関東から移籍しての加入でした。
当時、浦和のGK争いは、土田尚史氏(現スポーツダイレクター)と田北の二人が競争していました。この両者は緊張関係で、口もきかないほどの火花散らす関係でした。試合の出場数という意味でもほぼ互角だった両者の勝負は、土田がGKコーチ兼任となり実質引退となる2000年まで続いたほどです。
土田と田北のどちらが好きかは、浦和サポーターの間で評価が分かれていました。土田はドラマ性のあるGKで、ファインセーブを見せるタイプで、逆に田北は安定感で勝負するタイプでした。田北の売りはPK戦に強いというものもあり、当時Jリーグで導入されていた、延長戦120分で決着がつかなければPK戦で勝敗を決めるルールの最後に導入する「守護神」でした。
また、田北といえば1996年の最終戦の横浜F戦で決めた、Jリーグ史上初のGKのゴールも印象的です。当時、PKキッカーの福田が負傷で離脱していた浦和はPKキッカーの人選に悩んでおり、外した場合に備えてDFを3人ゴール前に張り付かせるという異例の体勢でPKキッカーに指名された田北が、ゴールを決めて浦和に勝利をもたらした印象は強いです。
土田が実質引退となった2000年は、J2でのプレーでしたが、田北にとって正GKがほぼ約束されたチャンスでした。開幕から全試合でスタメンだった田北ですが、土田との緊張関係がなくなったのは影響があったらしく、リーグ終盤戦で横山監督代行が若手の西部を抜擢したことで出番を失い、その年限りで現役を退くことになりました。
田北は、土田は引退後浦和に残れるけれど自分は残れないと、コーチとしては他チームを最初から考えていました。横浜FCでGKコーチとなり、土田が現場を退いた今でもGKコーチを続けています。こんな形で、青春時代のレジェンドの姿を見られたのは嬉しかったので、浦和が負けた結果は残念でしたが、得たもの?はありました。
当時、浦和のGK争いは、土田尚史氏(現スポーツダイレクター)と田北の二人が競争していました。この両者は緊張関係で、口もきかないほどの火花散らす関係でした。試合の出場数という意味でもほぼ互角だった両者の勝負は、土田がGKコーチ兼任となり実質引退となる2000年まで続いたほどです。
土田と田北のどちらが好きかは、浦和サポーターの間で評価が分かれていました。土田はドラマ性のあるGKで、ファインセーブを見せるタイプで、逆に田北は安定感で勝負するタイプでした。田北の売りはPK戦に強いというものもあり、当時Jリーグで導入されていた、延長戦120分で決着がつかなければPK戦で勝敗を決めるルールの最後に導入する「守護神」でした。
また、田北といえば1996年の最終戦の横浜F戦で決めた、Jリーグ史上初のGKのゴールも印象的です。当時、PKキッカーの福田が負傷で離脱していた浦和はPKキッカーの人選に悩んでおり、外した場合に備えてDFを3人ゴール前に張り付かせるという異例の体勢でPKキッカーに指名された田北が、ゴールを決めて浦和に勝利をもたらした印象は強いです。
土田が実質引退となった2000年は、J2でのプレーでしたが、田北にとって正GKがほぼ約束されたチャンスでした。開幕から全試合でスタメンだった田北ですが、土田との緊張関係がなくなったのは影響があったらしく、リーグ終盤戦で横山監督代行が若手の西部を抜擢したことで出番を失い、その年限りで現役を退くことになりました。
田北は、土田は引退後浦和に残れるけれど自分は残れないと、コーチとしては他チームを最初から考えていました。横浜FCでGKコーチとなり、土田が現場を退いた今でもGKコーチを続けています。こんな形で、青春時代のレジェンドの姿を見られたのは嬉しかったので、浦和が負けた結果は残念でしたが、得たもの?はありました。
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