W杯の最終予選に、可能な限り足を運ぶようにした習慣は、1997年のフランスW杯最終予選以来です。このときが、最終予選がホームアンドアウエー方式になった最初の大会でしたが、当時は最終予選の開催地を巡ってマレーシア開催を主張した東アジアと、バーレーン開催を主張した西アジアの調整がつかなかったことで急遽決まったホームアンドアウエー方式での最終予選でした。
もっとも、急に決まった予選ということで、9月から11月にかけて、1週間に1試合という強行日程でアジア各地を回る予選になりました。そのフランスW杯予選の試合で、最も印象に残っているのは3戦目の韓国戦(国立競技場)です。初戦のウズベキスタン戦に勝利し、2戦目のUAE戦を引き分けての3戦目でした。この試合の直前に、J1のベルマーレ平塚に所属していたブラジル人FW呂比須の帰化が認められた追い風が日本にありました。
当時の日本代表監督、加茂監督は呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。これに対し、韓国代表の車範根監督はカズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでマークさせ、さらにサイドハーフの中田英寿、名波浩にもマンツーマンでマークをつける、当時の韓国代表で主流だったマンツーマンの「根性サッカー」で対抗してきました。
このゲームが動いたのは、韓国にマンツーマンで付かれていない、ボランチの山口素弘からでした。山口が放ったループシュートが韓国ゴールを捕らえ、日本はこの膠着状態の試合で貴重な先制点を奪いました。史上最大の采配ミスはその1点リードを守ろうとした交代策で、呂比須out秋田inというものでした。試合時間は残り17分ほどで、「本当に17分も守り切れるか?」と微妙な雰囲気だった国立競技場のバックスタンドの雰囲気は今でも忘れられません。
また、秋田は高正云をマークせよと指示を受けながら、その高正云が交代していたというあり得ないようなミスもありました。受け身に回った日本は韓国に押し込まれるようになり、徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後は呂比須の交代でマーカーがいなくなった李敏成のロングシュートで1-2と逆転されてこのゲームを敗れることになりました。
もっとも、当時はまだ、最終予選が4年に1回必ず来るもので、熱くなったり冷静になったりするコントロールが効いていなかった自分でした。この負けを受け入れ切れなかった当時の私は、あてどもなく街をさまよったような、まだ若かった頃の記憶です。
もっとも、急に決まった予選ということで、9月から11月にかけて、1週間に1試合という強行日程でアジア各地を回る予選になりました。そのフランスW杯予選の試合で、最も印象に残っているのは3戦目の韓国戦(国立競技場)です。初戦のウズベキスタン戦に勝利し、2戦目のUAE戦を引き分けての3戦目でした。この試合の直前に、J1のベルマーレ平塚に所属していたブラジル人FW呂比須の帰化が認められた追い風が日本にありました。
当時の日本代表監督、加茂監督は呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。これに対し、韓国代表の車範根監督はカズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでマークさせ、さらにサイドハーフの中田英寿、名波浩にもマンツーマンでマークをつける、当時の韓国代表で主流だったマンツーマンの「根性サッカー」で対抗してきました。
このゲームが動いたのは、韓国にマンツーマンで付かれていない、ボランチの山口素弘からでした。山口が放ったループシュートが韓国ゴールを捕らえ、日本はこの膠着状態の試合で貴重な先制点を奪いました。史上最大の采配ミスはその1点リードを守ろうとした交代策で、呂比須out秋田inというものでした。試合時間は残り17分ほどで、「本当に17分も守り切れるか?」と微妙な雰囲気だった国立競技場のバックスタンドの雰囲気は今でも忘れられません。
また、秋田は高正云をマークせよと指示を受けながら、その高正云が交代していたというあり得ないようなミスもありました。受け身に回った日本は韓国に押し込まれるようになり、徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後は呂比須の交代でマーカーがいなくなった李敏成のロングシュートで1-2と逆転されてこのゲームを敗れることになりました。
もっとも、当時はまだ、最終予選が4年に1回必ず来るもので、熱くなったり冷静になったりするコントロールが効いていなかった自分でした。この負けを受け入れ切れなかった当時の私は、あてどもなく街をさまよったような、まだ若かった頃の記憶です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます