まだ現役だった2017年にトークショーで埼スタに来た、元日本代表キャプテンの長谷部誠さんの記憶です。長谷部はサッカーの名門校の藤枝東高校の出身ですが、高校時代はそれほど評価の高い選手ではなく、(無名だった自分のところに)なぜスカウトが来る?と本人が驚いたほどです。当時の浦和が、オランダに移籍した小野伸二の移籍金を使って、次世代のスターを発掘しようとした中の一人でした。
もっとも、当時の注目は大卒で入った坪井や平川に集まっており、長谷部は1年目のシーズンはU-19日本代表と浦和のサテライトを行き来する日々でした。川越陸上競技場で長谷部がトップ下に入っていたサテライトの試合を見たことがありますが、確かにCKやFKはすべて任されておりこのレベルでは認められることはわかりましたが、すぐにトップで通用するほどのインパクトはなかった印象です。
長谷部の才能に最初に注目したのは、2年目のシーズンからスタメンで起用したオフト監督です。もっとも、長谷部には若干の運もあり、当時トップ下で起用する予定だった元ブラジル代表のエジムンドが突然開幕直前で退団して、トップ下が空いている状態だったことです。カシマスタジアムで行われたアウェイの鹿島戦でトップ下でスタメン出場した長谷部は、永井雄一郎や田中達也に正確にパスを出して技術の高さを見せます。
ボランチで起用したのもオフト監督です。ボールが持てて確実にさばける長谷部のボランチ適性に気づいたオフト監督ですが、当時は戦術的な縛りがあってあまり攻撃には行かないボランチでした。長谷部が本格的に開花したのは後任のギド時代で、「後ろは啓太君が何とかしてくれるから思い切って上がっていい」と長谷部が持つ攻撃センスを前で生かす方針に変わってからでした。
確実に通るパスを100%の確率で出すタイプの長谷部のことを、当時のチームメイトの田中達也は「長谷部は中村俊輔のような派手なパスは出せない」と証言しています。それでも、トップ下からコンバートしたボランチではあったものの、次第に守備力も向上し、ドイツ1部ボルフスブルクからオファーを受けて海外挑戦を選びます。
このドイツ時代の成長が、彼の代表定着の礎になりました。次第にアンカータイプの仕事が多くなり、ドイツではCBもやりました。代表でも史上最も長くキャプテンを務めた記録を作り、奥寺が持っていたブンデスリーガの日本人最多出場記録も塗り替えます。川越のサテライトから、こんなにすごいところまで行けるんだと、サッカーの持つ可能性を感じさせてくれた存在でした。
もっとも、当時の注目は大卒で入った坪井や平川に集まっており、長谷部は1年目のシーズンはU-19日本代表と浦和のサテライトを行き来する日々でした。川越陸上競技場で長谷部がトップ下に入っていたサテライトの試合を見たことがありますが、確かにCKやFKはすべて任されておりこのレベルでは認められることはわかりましたが、すぐにトップで通用するほどのインパクトはなかった印象です。
長谷部の才能に最初に注目したのは、2年目のシーズンからスタメンで起用したオフト監督です。もっとも、長谷部には若干の運もあり、当時トップ下で起用する予定だった元ブラジル代表のエジムンドが突然開幕直前で退団して、トップ下が空いている状態だったことです。カシマスタジアムで行われたアウェイの鹿島戦でトップ下でスタメン出場した長谷部は、永井雄一郎や田中達也に正確にパスを出して技術の高さを見せます。
ボランチで起用したのもオフト監督です。ボールが持てて確実にさばける長谷部のボランチ適性に気づいたオフト監督ですが、当時は戦術的な縛りがあってあまり攻撃には行かないボランチでした。長谷部が本格的に開花したのは後任のギド時代で、「後ろは啓太君が何とかしてくれるから思い切って上がっていい」と長谷部が持つ攻撃センスを前で生かす方針に変わってからでした。
確実に通るパスを100%の確率で出すタイプの長谷部のことを、当時のチームメイトの田中達也は「長谷部は中村俊輔のような派手なパスは出せない」と証言しています。それでも、トップ下からコンバートしたボランチではあったものの、次第に守備力も向上し、ドイツ1部ボルフスブルクからオファーを受けて海外挑戦を選びます。
このドイツ時代の成長が、彼の代表定着の礎になりました。次第にアンカータイプの仕事が多くなり、ドイツではCBもやりました。代表でも史上最も長くキャプテンを務めた記録を作り、奥寺が持っていたブンデスリーガの日本人最多出場記録も塗り替えます。川越のサテライトから、こんなにすごいところまで行けるんだと、サッカーの持つ可能性を感じさせてくれた存在でした。
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