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岡野雅行の記憶

2020-04-14 21:53:30 | 浦和レッズ
現役時代の写真(浦和の優勝パレード)が出てきたので、記憶ネタは元浦和FW岡野雅行さんです。岡野といえば「野人」のニックネームが有名ですが、由来は当時GKだった土田尚史氏が、ボロボロのジーンズをはいていた岡野を見て「お前野人みたいだな」と呼んだのが始まりです。最初は「野人」を嫌がっていた岡野でしたが、次第に「走り回るスタイルだからいいのかな」と受け入れるようになってきました。

岡野の思い出は数知れませんが、1994年に日大を中退して浦和に加入した初年度の印象が強いです。当時「日本サッカーの最大発見」とまで言われた、爆発的なスピードが武器でした。技術的には完成されておらず、駒場での初ゴールはトラップミスがそのままゴールに転がってゴールになったというほどでしたが、当時の弱かった浦和では賭けてみたい才能でした。

翌1995年は岡野が輝いた年でした。当時、トップ下に元ドイツ代表のバインがいて、スピードのある2トップの福田と岡野をカウンターから走らせるスタイルがうまくはまりました。岡野が走り込んで倒されてPKになり、そのPKを福田が決めるのが浦和の一つの勝ちパターンでした。1995年の前期は、最終節の一つ前の試合まで優勝の望みを残すほどでした。

その後は福田が長期離脱したため、同じように髪を伸ばした大柴と「野人2トップ」を組んでいた時期もあります。当時の岡野は、FWとしてのゴール数はさほどではないものの、スピードを生かしてアシストができるFWでした。1998年のフランスW杯予選では、第三代表決定戦のイラン戦で延長戦から途中出場して、たくさんあった決定機を外したことで日本中をやきもきさせました。

しかし、最後に中田英寿が放ったミドルシュートのこぼれ球が岡野の前に来て、岡野自身が言うには「ふかすのが怖かったのでスライディングした」と確実に流し込んでVゴールとなり、日本史上初のW杯出場を決めました。浦和のコルソのバルコニーから、岡野自身がサポーターに挨拶した凱旋イベントも開かれました。

その後は神戸で右のウイングに転向し、サイドプレーヤーとして長い現役生活を送りました。今はJ3鳥取の社長です。地元の子供たちに走り方を教える「野人塾」も開くなど様々な活動をしています。言葉で語るタイプではないですが、その明るいキャラクターで、きっと鳥取を盛り上げていることと思います。

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