ようやく上野駅に到着した、立ち飲みラリー。
いよいよ、上野以北を狙うべく、わたしは新たな一歩を踏み出した。
上野駅の西側、つまり上野恩賜公園側から鶯谷駅方面へと向かう。
東京文化会館を過ぎると、さっきまでの喧騒が嘘のように静まりかえる。辺りには本当に数えるくらいしか人はおらず、街灯の灯りだけで、急に真っ暗になった。
旧寛永寺の表門を目の前にすると、何か薄気味悪さすら感じてしまう。それほど、寂しい場所なのだ。
心細さに堪えきれず、信号を右折。両大師橋を渡ることに。
この橋はJR線の線路を跨ぐための橋で、東京の北への玄関、上野駅の幾重にも連なる復々線のために、極めて長い橋になっている。
ここを、歩いて通る者などやはりあまりなく、わたしは灯りの少ない暗がりの橋を黙々と歩いた。
数分おきに山手線や京浜東北線が行き来し、時折常磐線の普通や特急も通り過ぎていく。橋の真ん中まで来て、それら列車が通り過ぎる様を見て、昔の記憶が甦ってくる。
それは、小学生の時分に見た特急電車が一同に介す、壮観な写真だ。それは、L特急と呼ばれる国鉄の特急が4台も5台も連なって(わたしの記憶では)、緑の山手線や空色の京浜東北線もいっぺんに並走していた。
当時、わたしは「鉄道ファン」(交友社)という雑誌を買っていて、(何を隠そうわたしは「鉄ちゃん」だ!)その写真に度肝を抜かれたのである。咄嗟にここは一体どこなのだろう?という疑問が沸いてきた。写真のキャプションには「撮影地 鶯谷」と書かれていたが、当時のわたしには、その「鶯谷」というのがどこにあるのか、はてはその地名の読み方すら分からなかったのである。
そんな、記憶がフラッシュバックしながら、今眼下にある風景を眺めて、わたしは長年心の奥に棘のように引っかかっていたものが、す~っと抜けていくのが分かった。
あのときに見た写真は、紛れもなくこの場所だ、と。
そんな、感慨に浸りながら、その風景を眺めていると、「スーパーひたち」が上野駅に向けて減速しながらわたしの足元を滑りぬけていく。あれから、長い時間が流れたのだな、と思った。
橋はやがて、左方向にカーブしていき、緩やかな下り坂になる。上野の山から谷に下りて行く格好だ。
そのまま、道なりに歩いていったが、いっこうに開けたところに出ない。相変わらず人っ子ひとり歩いてはおらず、寂しいことおびただしい。立ち飲み屋どころか、コンビニすらないのだ。
狸が出てもおかしくないような、そんな思いにとらわれた。
少し歩くと道が急に細くなった。人がすれ違うのがやっとの小路だ。もちろん車は通れない。そこを電車が轟音をたてて通り過ぎていく。まるで、昔のドラマのシーンを見ているようだった。
まもなく行くと、少し向こうに、灯りが見える。どうやら鶯谷駅のようだ。そして、その向こうには更に煌びやかなネオンがこうこうと点っている。言うまでもなく、ラブホテル街のものだ。
狭い道を抜けると駅の東側に出た。「鶯谷駅下」という信号のところだ。
左手に曲がり、とりあえず駅に出てみようと思った。
左折して束の間、目の前にもくもくと白煙が上がっているのがみえる。と、同時に何か香ばしい匂いもしてきた。
近づいてみると、大勢の人がたむろして、その白煙の周りを取り囲んでいる。手には、ビールの入ったコップやら、酎ハイのようなグラスを手にして、寒風吹きすさぶなか、焼き鳥を頬張っている。
なんともまぁ、いとも簡単に立ち飲み屋は見つかったのである。
しかし、その光景にわたしはまたしても度肝を抜かれた。
10人くらいはいるだろうか。露天で食べて飲むおっさんたちはほとんどが職業不詳のおっさんばかりなのである。ネクタイを締める御仁は皆無。なにやらえも知れぬ風体の50代~60歳代の男らが、鼻の頭を赤くして飲んでいる。誤解を恐れずに言えば、簡易宿泊所からふらりと現れたような風体だ。
そう、その光景は昔よく読んだ、「あしたのジョー」(画=ちばてつや、講談社)に出てくるドヤ街の風景なのだ。
すると、鶯谷南口の凌雲橋は、さしずめ丹下段平が建てたバラックのジムの背後にある風来橋か。
そんな、浮世離れした風景に圧倒されながら、わたしも露天の酔いどれ集団に加わったのである。
店の名前は「ささの家」さん。ここは立ち飲み屋でもなんでもなく、普通に座って飲めるお店だ。店頭で焼き鳥を焼くうちに、店内に溢れた客が外で飲むようになったのだろうか。とにかく、外で飲んでいる人の方が圧倒的に多く、ひっきりなしにお客はやってくる。
店は恐ろしく古い。30~40年は経っている感じ。
なかなか、居場所を見つけられなかったが、ひとりの客が帰るのを見て、すぐさまそこに移動して、なんとか落ち着ける場所を確保した。そうして、大声で焼き鳥を焼くオヤジに「瓶ビールと煮込み」と告げたのだった。
すると、店内からふくよかなお姉さんが現れ、わたしのもとへ手ぶらで近づく。「ちょっとゴメンよ」と言いながら、わたしの目の前から瓶ビール(420円)を出してみせた。
なんてことはない。わたしが居場所を落ち着けたところは店の冷蔵庫だったのだ。
その冷蔵庫をテーブル代わりにして人々は酒を飲んでいるのだ。
やがて、煮込みが運ばれてきた。
大きなお椀に盛られたそれは僅か370円ながらボリュームが半端でない。中央に大きな豆腐が置かれて、一際異彩を放っている。
お椀を両手で掴み、スープから頂いてみた。
これは、ウマイ!コクがあって、それでいてしつこくない。味噌も何種類のものを使っているようだ。モツもいっぱい入ってる。最近の居酒屋の煮込みは申し訳程度のモツしか入ってないところが多い。だが、ここは違う。割り箸でかましながら確認したところ、大きいのがゴロゴロしている。
これは、当たりだ。
わたしの煮込みのフェイバリットは、①山利喜 ②山城屋本店 ③新橋の「加賀屋」④もつ焼き大統領、である。
今ここに、栄えある6番目の店が誕生した!
さて、焼き物だが、これがまたスゴイ。
なんと、全品一律70円なのだ。
カシラもハツもレバーもネギ間も全て70円。これを口頭で注文して頂く。焼けると、それぞれが手を出して受け取り、メインテーブルに据えられた七味唐辛子をめいめい付けて食べる。これが、ものすごくうまい!たいした食材でもないのに、河原でするバーベキューのように、何故かうまいのだ。
次に熱燗を頼んだ。
爛漫の小瓶(220円)。醸造酒のすごい匂いが口の中に広がる。だが、これがここの正しいルールだ。
同店の開店は戦前か、戦後か、それは分からないが、大変な時期に生きる人々の心を癒してきたはずだ。それはいつも醸造酒の味と同じようにあったと思う。
それはその当時、砂を噛むような思いで、生きた人々の「あしたのために」かもしれない。
追記:3月24日、NHK教育テレビで放映された「あしたのジョーのあの時代」にちばてつや先生が出演。当時物議を醸したラストシーンに対し、このように語った。「ジョーには明日がある。だから矢吹丈は生きてるでしょう」。
いよいよ、上野以北を狙うべく、わたしは新たな一歩を踏み出した。
上野駅の西側、つまり上野恩賜公園側から鶯谷駅方面へと向かう。
東京文化会館を過ぎると、さっきまでの喧騒が嘘のように静まりかえる。辺りには本当に数えるくらいしか人はおらず、街灯の灯りだけで、急に真っ暗になった。
旧寛永寺の表門を目の前にすると、何か薄気味悪さすら感じてしまう。それほど、寂しい場所なのだ。
心細さに堪えきれず、信号を右折。両大師橋を渡ることに。
この橋はJR線の線路を跨ぐための橋で、東京の北への玄関、上野駅の幾重にも連なる復々線のために、極めて長い橋になっている。
ここを、歩いて通る者などやはりあまりなく、わたしは灯りの少ない暗がりの橋を黙々と歩いた。
数分おきに山手線や京浜東北線が行き来し、時折常磐線の普通や特急も通り過ぎていく。橋の真ん中まで来て、それら列車が通り過ぎる様を見て、昔の記憶が甦ってくる。
それは、小学生の時分に見た特急電車が一同に介す、壮観な写真だ。それは、L特急と呼ばれる国鉄の特急が4台も5台も連なって(わたしの記憶では)、緑の山手線や空色の京浜東北線もいっぺんに並走していた。
当時、わたしは「鉄道ファン」(交友社)という雑誌を買っていて、(何を隠そうわたしは「鉄ちゃん」だ!)その写真に度肝を抜かれたのである。咄嗟にここは一体どこなのだろう?という疑問が沸いてきた。写真のキャプションには「撮影地 鶯谷」と書かれていたが、当時のわたしには、その「鶯谷」というのがどこにあるのか、はてはその地名の読み方すら分からなかったのである。
そんな、記憶がフラッシュバックしながら、今眼下にある風景を眺めて、わたしは長年心の奥に棘のように引っかかっていたものが、す~っと抜けていくのが分かった。
あのときに見た写真は、紛れもなくこの場所だ、と。
そんな、感慨に浸りながら、その風景を眺めていると、「スーパーひたち」が上野駅に向けて減速しながらわたしの足元を滑りぬけていく。あれから、長い時間が流れたのだな、と思った。
橋はやがて、左方向にカーブしていき、緩やかな下り坂になる。上野の山から谷に下りて行く格好だ。
そのまま、道なりに歩いていったが、いっこうに開けたところに出ない。相変わらず人っ子ひとり歩いてはおらず、寂しいことおびただしい。立ち飲み屋どころか、コンビニすらないのだ。
狸が出てもおかしくないような、そんな思いにとらわれた。
少し歩くと道が急に細くなった。人がすれ違うのがやっとの小路だ。もちろん車は通れない。そこを電車が轟音をたてて通り過ぎていく。まるで、昔のドラマのシーンを見ているようだった。
まもなく行くと、少し向こうに、灯りが見える。どうやら鶯谷駅のようだ。そして、その向こうには更に煌びやかなネオンがこうこうと点っている。言うまでもなく、ラブホテル街のものだ。
狭い道を抜けると駅の東側に出た。「鶯谷駅下」という信号のところだ。
左手に曲がり、とりあえず駅に出てみようと思った。
左折して束の間、目の前にもくもくと白煙が上がっているのがみえる。と、同時に何か香ばしい匂いもしてきた。
近づいてみると、大勢の人がたむろして、その白煙の周りを取り囲んでいる。手には、ビールの入ったコップやら、酎ハイのようなグラスを手にして、寒風吹きすさぶなか、焼き鳥を頬張っている。
なんともまぁ、いとも簡単に立ち飲み屋は見つかったのである。
しかし、その光景にわたしはまたしても度肝を抜かれた。
10人くらいはいるだろうか。露天で食べて飲むおっさんたちはほとんどが職業不詳のおっさんばかりなのである。ネクタイを締める御仁は皆無。なにやらえも知れぬ風体の50代~60歳代の男らが、鼻の頭を赤くして飲んでいる。誤解を恐れずに言えば、簡易宿泊所からふらりと現れたような風体だ。
そう、その光景は昔よく読んだ、「あしたのジョー」(画=ちばてつや、講談社)に出てくるドヤ街の風景なのだ。
すると、鶯谷南口の凌雲橋は、さしずめ丹下段平が建てたバラックのジムの背後にある風来橋か。
そんな、浮世離れした風景に圧倒されながら、わたしも露天の酔いどれ集団に加わったのである。
店の名前は「ささの家」さん。ここは立ち飲み屋でもなんでもなく、普通に座って飲めるお店だ。店頭で焼き鳥を焼くうちに、店内に溢れた客が外で飲むようになったのだろうか。とにかく、外で飲んでいる人の方が圧倒的に多く、ひっきりなしにお客はやってくる。
店は恐ろしく古い。30~40年は経っている感じ。
なかなか、居場所を見つけられなかったが、ひとりの客が帰るのを見て、すぐさまそこに移動して、なんとか落ち着ける場所を確保した。そうして、大声で焼き鳥を焼くオヤジに「瓶ビールと煮込み」と告げたのだった。
すると、店内からふくよかなお姉さんが現れ、わたしのもとへ手ぶらで近づく。「ちょっとゴメンよ」と言いながら、わたしの目の前から瓶ビール(420円)を出してみせた。
なんてことはない。わたしが居場所を落ち着けたところは店の冷蔵庫だったのだ。
その冷蔵庫をテーブル代わりにして人々は酒を飲んでいるのだ。
やがて、煮込みが運ばれてきた。
大きなお椀に盛られたそれは僅か370円ながらボリュームが半端でない。中央に大きな豆腐が置かれて、一際異彩を放っている。
お椀を両手で掴み、スープから頂いてみた。
これは、ウマイ!コクがあって、それでいてしつこくない。味噌も何種類のものを使っているようだ。モツもいっぱい入ってる。最近の居酒屋の煮込みは申し訳程度のモツしか入ってないところが多い。だが、ここは違う。割り箸でかましながら確認したところ、大きいのがゴロゴロしている。
これは、当たりだ。
わたしの煮込みのフェイバリットは、①山利喜 ②山城屋本店 ③新橋の「加賀屋」④もつ焼き大統領、である。
今ここに、栄えある6番目の店が誕生した!
さて、焼き物だが、これがまたスゴイ。
なんと、全品一律70円なのだ。
カシラもハツもレバーもネギ間も全て70円。これを口頭で注文して頂く。焼けると、それぞれが手を出して受け取り、メインテーブルに据えられた七味唐辛子をめいめい付けて食べる。これが、ものすごくうまい!たいした食材でもないのに、河原でするバーベキューのように、何故かうまいのだ。
次に熱燗を頼んだ。
爛漫の小瓶(220円)。醸造酒のすごい匂いが口の中に広がる。だが、これがここの正しいルールだ。
同店の開店は戦前か、戦後か、それは分からないが、大変な時期に生きる人々の心を癒してきたはずだ。それはいつも醸造酒の味と同じようにあったと思う。
それはその当時、砂を噛むような思いで、生きた人々の「あしたのために」かもしれない。
追記:3月24日、NHK教育テレビで放映された「あしたのジョーのあの時代」にちばてつや先生が出演。当時物議を醸したラストシーンに対し、このように語った。「ジョーには明日がある。だから矢吹丈は生きてるでしょう」。
ただ、いつかお店じゃなく、安売り酒店で買ったビールを公園で立ち飲みしたりするようになるんじゃないかとちょっと心配だよ・・・。
冗談だけどね。(笑)
しかし、多分この先、ありえるかもね。