ハノイのバスターミナルでばったり会った韓飛野さんと共にわたしは一路フエに向かった。
細長いヴェトナムの国土のちょうど真ん中。古都と言われる町である。
国道の道路事情もとてもよいとは言えず、凸凹道が延々と続き、その度にバスの板バネは悲鳴をあげるように軋んだ。バスは跳ね上がり、文字通り常客は一瞬空を飛ぶ。
ハノイを30分も走ると、すぐに辺りは田舎の風景に変わり、水田の風景が広がる。それから小一時間も走れば、とっぷりと日が暮れて、車窓に流れる風景は漆黒の闇に包まれた。
バスの車内はヴェトナム人で満員だった。出発した頃は話し声が漏れていた車内も次第に口数が減り、夜の9時を過ぎると、あちこちで寝息が聞こえるようになっていた。
それにつけても、バスは見事にオンボロだった。
なにしろ、我々が座った席の窓は割れており、修繕もされずそのままになっていた。最初、わたしと飛野さんはお互い、破れたガラス窓を笑ったりしていたが、夜中になるにつれて、その割れた窓からピューピュー寒風が吹きすさぶようになってきた。
南国のヴェトナムだが、さすがに冬は寒い。
飛野さんは溜まらずハンカチを押し当て、破れたガラスを塞いだ。
それでも、冷たい風はわたしと飛野さんを容赦なく吹き付けた。
真夜中の3時頃だったか、突然走り続けていたバスが止まって、なにやらしばらく動かない。
何だろう、と思って外を見るのだが、暗闇の中に煌々と光る強烈な光が眩しくて何も見えない。だが、辺りは人の声が聞こえ、大きな音が時折聞こえてくる。そうしていると、何やら轟音が響き渡り、再びバスは動き始めた。
バス自体が走っているわけではない。
バスが何かに乗って動いている。感じる浮遊感からすると、どうやらサルベージ船のようなものに乗ってバスは川を渡っているようだった。10分か、15分か、とにかく長い時間、バスは川を渡っているようだった。川の風景は全く見えなかったが、生きている心地がしなかった。
ピューリッツァー賞を受賞した沢田教一氏の「安全への逃避」のシーン、混濁して流れる泥流の風景が頭をよぎった。この川はヴェトナムの国境線が引かれた北緯17度線のベンハイ川か。
ともあれ、何事もなくバスは川の向こう岸に着岸し、再び真夜中の国道を南下し始めたのである。
目的地のフエに着いたのは、朝の8時頃だった。約13時間、バスに揺られていたことになる。
わたしも飛野さんも憔悴しきって、バスを降りた。
バックパッカーの情報によると、宿はフエのフォン川の東岸に集まっているという。
このアンクー・バスターミナルから2~3kmはあるということだった。そこで、我々はシクロで安宿街に行くことにして、それぞれ一台ずつシクロをチャーターした。
ヴェトナムの輪タク、シクロはご機嫌な乗り物だった。
客席が運転手の前に備えられているのだ。インドのリキシャーやタイのトゥトゥクは客席が運転手の後ろのため、前方の眺めは遮られるが、シクロは遮られるものが何もない。実に快適で愉快な乗り物だった。
宿を早々に決めて、わたしと飛野さんはツインの部屋をシェアして泊まることにした。
フエはハノイに負けず劣らず、しっとりとした街だった。
開高健著「ベトナム戦記」(朝日文庫)を引用すれば、「16世紀に阮王家のよって首都とされた古い北方の都である。(中略)フランス人はフエのことを『プチ・ペキャン』(小北京)と呼び、たいていの日本人は「ベトナムの京都」と呼んでいる。町には香河という美しい名の川が流れ、言葉はやわらかく、娘たちの眼はサイゴンより大きくて、『フエ生まれ』を自慢にする。」のだという。
娘たちの眼はともかくとして、確かに町の中心部には、雄大な美しい川が流れていた。
この川を渡って、わたしはフエの名産ブンボーフエの店に足繁く通ったのだった。
フエの滞在は僅か2泊だった。
前述したように、フエは1945年まで王朝が存在した。このため、町の至るところには王家の廟が点在していた。これらは世界遺産に登録されるなど、フエ観光のひとつのクライマックスになっていたが、わたしは阮朝王宮だけ訪れたきり、ほとんど観光の興味を失っていた。
わたしは、少し疲れていたのかもしれない。或いは、フエの寒さに辟易していたのかもしれない。インドシナ半島に居ながら、サパ、ハノイ、そしてフエと熱帯地方とは程遠い寒さにはうんざりだった。
飛野さんは、毎日毎日せっせとどこかへ出かけては、夜遅く原稿を書いている。その原稿を翌日、国際宅急便で韓国へ送っていた。どうやら、日刊紙の新聞に旅行記が連載されているようだった。その物語のタイトルは「風の娘たち」。飛野さんは、インドシナを歩いた後は中国のタクマラカン砂漠を駱駝と共に横断するのだという。
飛野さんが、せっせと原稿を書いている姿を見て、ふと疑問に思い、背中越しに質問してみた。
「『風の娘たち』にオレも登場するの?」
すると、飛野さんは、快活にこう答えた。
「ダオさん、もちろんよ」。
翌日、フエ滞在から僅か3日目、わたしはフエを出発することにした。
やはり寒さがどうにも耐えられなかった。
飛野さんとはお互い「グッドラック」と声をかけ、握手で別れた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
細長いヴェトナムの国土のちょうど真ん中。古都と言われる町である。
国道の道路事情もとてもよいとは言えず、凸凹道が延々と続き、その度にバスの板バネは悲鳴をあげるように軋んだ。バスは跳ね上がり、文字通り常客は一瞬空を飛ぶ。
ハノイを30分も走ると、すぐに辺りは田舎の風景に変わり、水田の風景が広がる。それから小一時間も走れば、とっぷりと日が暮れて、車窓に流れる風景は漆黒の闇に包まれた。
バスの車内はヴェトナム人で満員だった。出発した頃は話し声が漏れていた車内も次第に口数が減り、夜の9時を過ぎると、あちこちで寝息が聞こえるようになっていた。
それにつけても、バスは見事にオンボロだった。
なにしろ、我々が座った席の窓は割れており、修繕もされずそのままになっていた。最初、わたしと飛野さんはお互い、破れたガラス窓を笑ったりしていたが、夜中になるにつれて、その割れた窓からピューピュー寒風が吹きすさぶようになってきた。
南国のヴェトナムだが、さすがに冬は寒い。
飛野さんは溜まらずハンカチを押し当て、破れたガラスを塞いだ。
それでも、冷たい風はわたしと飛野さんを容赦なく吹き付けた。
真夜中の3時頃だったか、突然走り続けていたバスが止まって、なにやらしばらく動かない。
何だろう、と思って外を見るのだが、暗闇の中に煌々と光る強烈な光が眩しくて何も見えない。だが、辺りは人の声が聞こえ、大きな音が時折聞こえてくる。そうしていると、何やら轟音が響き渡り、再びバスは動き始めた。
バス自体が走っているわけではない。
バスが何かに乗って動いている。感じる浮遊感からすると、どうやらサルベージ船のようなものに乗ってバスは川を渡っているようだった。10分か、15分か、とにかく長い時間、バスは川を渡っているようだった。川の風景は全く見えなかったが、生きている心地がしなかった。
ピューリッツァー賞を受賞した沢田教一氏の「安全への逃避」のシーン、混濁して流れる泥流の風景が頭をよぎった。この川はヴェトナムの国境線が引かれた北緯17度線のベンハイ川か。
ともあれ、何事もなくバスは川の向こう岸に着岸し、再び真夜中の国道を南下し始めたのである。
目的地のフエに着いたのは、朝の8時頃だった。約13時間、バスに揺られていたことになる。
わたしも飛野さんも憔悴しきって、バスを降りた。
バックパッカーの情報によると、宿はフエのフォン川の東岸に集まっているという。
このアンクー・バスターミナルから2~3kmはあるということだった。そこで、我々はシクロで安宿街に行くことにして、それぞれ一台ずつシクロをチャーターした。
ヴェトナムの輪タク、シクロはご機嫌な乗り物だった。
客席が運転手の前に備えられているのだ。インドのリキシャーやタイのトゥトゥクは客席が運転手の後ろのため、前方の眺めは遮られるが、シクロは遮られるものが何もない。実に快適で愉快な乗り物だった。
宿を早々に決めて、わたしと飛野さんはツインの部屋をシェアして泊まることにした。
フエはハノイに負けず劣らず、しっとりとした街だった。
開高健著「ベトナム戦記」(朝日文庫)を引用すれば、「16世紀に阮王家のよって首都とされた古い北方の都である。(中略)フランス人はフエのことを『プチ・ペキャン』(小北京)と呼び、たいていの日本人は「ベトナムの京都」と呼んでいる。町には香河という美しい名の川が流れ、言葉はやわらかく、娘たちの眼はサイゴンより大きくて、『フエ生まれ』を自慢にする。」のだという。
娘たちの眼はともかくとして、確かに町の中心部には、雄大な美しい川が流れていた。
この川を渡って、わたしはフエの名産ブンボーフエの店に足繁く通ったのだった。
フエの滞在は僅か2泊だった。
前述したように、フエは1945年まで王朝が存在した。このため、町の至るところには王家の廟が点在していた。これらは世界遺産に登録されるなど、フエ観光のひとつのクライマックスになっていたが、わたしは阮朝王宮だけ訪れたきり、ほとんど観光の興味を失っていた。
わたしは、少し疲れていたのかもしれない。或いは、フエの寒さに辟易していたのかもしれない。インドシナ半島に居ながら、サパ、ハノイ、そしてフエと熱帯地方とは程遠い寒さにはうんざりだった。
飛野さんは、毎日毎日せっせとどこかへ出かけては、夜遅く原稿を書いている。その原稿を翌日、国際宅急便で韓国へ送っていた。どうやら、日刊紙の新聞に旅行記が連載されているようだった。その物語のタイトルは「風の娘たち」。飛野さんは、インドシナを歩いた後は中国のタクマラカン砂漠を駱駝と共に横断するのだという。
飛野さんが、せっせと原稿を書いている姿を見て、ふと疑問に思い、背中越しに質問してみた。
「『風の娘たち』にオレも登場するの?」
すると、飛野さんは、快活にこう答えた。
「ダオさん、もちろんよ」。
翌日、フエ滞在から僅か3日目、わたしはフエを出発することにした。
やはり寒さがどうにも耐えられなかった。
飛野さんとはお互い「グッドラック」と声をかけ、握手で別れた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
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