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「ティファニーで朝食を」の村上春樹訳はまさに村上春樹ワールドが炸裂した一冊といえる。
龍口直太朗訳を読んでいないので、なんともいえないが、間違いなくテイストは村上だ。
狂言回し的存在のポールは「ノルウェイの森」におけるワタナベ君であり、「海辺のカフカ」におけるカフカである。
さて、何故この作品が今も読者を魅了してやまないのは、主人公ホリーの魅力ではないだろうか。
一見すると、奔放ともいえるホリーの言葉だが、実はひとつひとつの言葉が重く、多くの意味を示唆している。
このホリーの言葉が、作品の骨格をなしているともいえるのだ。
例えば、ある日、川べりで出会った子猫と自分を評し
「わたしたちはお互い誰のものでものない」。
そして、表札のかわりに「旅行中」と記す。
「結局のところ、わたしが明日どこに住んでいるかなんて分かりっこないでしょう」と。
そして、スキャンダルが発覚し、警察に追われる身となり
「あいつらになんかぜったい捕まりっこないわ」
と旅に出る決意をする。
それは誰にも所有されない」と科白する彼女の生き方そのものとティファニーという所有する願望の象徴を二項対立として作品全体のテーマを謳っているようでもあるのだ。
and someday, I'll try to get around to it; but if it happens, I'd like to have my ego tagging along. I want to still be me when I wake up one fine morning and have breakfast at Tiffany's.
なんと素敵なたとえなのだろうか。
ホリーの言葉は今の我々にも通じる。
僕らは本来自由な存在のはずである。
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