音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

田舎の騎士道

2024-12-26 21:06:00 | ロマン派
火曜日は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
少し早くつきすぎて、門の前で待っていたら

にゃ〜!

と足元に絡みついてくるフレンドリーな猫さんが…。

野田先生がやがて着かれて「えりちゃん、フレンドリーでしょう?」
昔飼っていた黒猫のクロベにそっくり。
連れて帰りたい✨

レッスンは基礎練とオールドチューンズの最後の曲「
なんとか終えて、オールドチューンズ卒業しました。
まだまだよちよちですが…。

後は来年1月19日の発表会で演奏する「カヴァレリアルスティカーナ」の間奏曲。
こちらはまだまだ…。
楽な指使いを教えてもらって目からウロコでした。
フルートだと替え指の他は指使いのことは考えなくても良いので、思いもしませんでした。
指使いのこと、もっと研究しようっと!

ピエトロ マスカーニ(1863-1945年)イタリア王国リヴォルノ生まれ、イタリア王国ローマ没

パン屋の両親の元に生まれます。
父はピエトロに法律を学ばせますが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学びます。

20歳で交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められます。
後援者の後押しでミラノ音楽院
ミラノ音楽院
に入り、アミルカレ・ポンキエッリ(1834-1886歌劇「ラ・ジョコンダ」時の踊りで有名)

に師事しましたが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始めます。

その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となります。 

1890年に、ローマの楽譜出版社ソンゾーニョの一幕歌劇コンクールに『カヴァレリア・ルスティカーナ』で応募します。
この歌劇は驚異的な成功を収めます。

しかし、これがその後の多くの作品を作ることを霞めてしまいました。
それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残しました。

1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。

ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。
このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じました。
遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノ再埋葬され、それと共に名誉回復されました。

歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』( Cavalleria Rusticana)


は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガ(1840-1922年)

による小説(1880年出版)戯曲(1884年初演)、にピエトロ・マスカーニが作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)です。
題名は「田舎の騎士道」という意味です。

台本

ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされています。

一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝。

マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となりました。

初版版
歌劇「カヴァレリア ルスティカーナ」

シチリア島のある村。
復活祭の朝。
トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人でした。
しかし、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまいました。

除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約します。

が、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまいました。

このことを知ったサンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまいます。
アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔します。

ここで間奏曲が演奏されます。

教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯します。
アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断ります。
緊張した空気の中、二人は決闘を申し合わせます。
アルフィオとトゥリッドゥが決闘前の儀式として抱擁する場面
トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌います。

トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥが殺された!」

という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕となります。





チャイコフスキーの「運命」

2024-12-25 21:03:00 | ロマン派
月曜の夜は6:30〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

階段を昇って、ドアを開けると
「あれっ?!なんでいるの?」と思わず声が出てしまいました。

ドルチェ楽器の安川さん。
どうも樹脂のバスフルートを榎田先生に言われて売りに来たらしいです。

しかも、エスカルメンバーがバスフルート在庫最後の2本をお買い上げ。
びっくりしました。

おかげでバスフルートを吹くメンバーがいっぱい。
というわけでバスフルートを私がエスカルメンバーとして吹くという需要がなくなってしまいました。

でも…でもSANKYOのバスフルート欲しいなぁ…。
どうしようかなぁ。
いずれにしても受注生産なので、あれが回ってくれば買っちゃうかもしれないけれど…。

もし来たら運命だな。これは。
来ない確率高そうだけど…。

年内最後の練習なので、忘年会でした。
1年間お世話になりました。良いお年をとご挨拶。
今年もフルートアンサンブル楽しかった!呑み会も!!
写真撮るの忘れました。

『運命』と言えば、ベートーヴェンの交響曲5番ですが、「運命」 作品77は、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が作曲した管弦楽のための交響詩、または幻想曲です。

1868年28歳の時に作曲されて1869年に初演が行われました。

ところが、後年チャイコフスキーが総譜を破棄してしまい、作曲者の死後3年経ってから遺作の作品番号を付されて出版されました。

チャイコフスキーが作曲に着手したのは1868年の9月末から10月初めにかけてでした。

いったん作曲を中断した彼は演奏旅行中のベルギーのソプラノ、デジレ・アルトーへと意識を集中させました。

デジレ・アルトー(1835-1907年)
彼はアルトーに恋愛感情を抱いていました。2人は結婚について話し合い、計画を先へ進めるべく1869年の夏にパリで再会することにします。

アルトーはオペラ会社との演奏旅行を続けるために彼と別れてワルシャワへと旅立っていきました。

チャイコフスキーは1868年11月2日までに曲の骨組みを固め、同年12月には記譜を終えました。

初演が行われたのは1869年2月27日にモスクワで開催されたロシア音楽協会の第8回演奏会で、指揮はニコライ・ルビンシテイン。

作曲時には既存の筋書きが基になったわけではありませんでしたが、初演に際してコンスタンティン・バチュシコフによる人間の生命の無常さを綴った韻文の言葉が総譜の標語として追加されました。

しかし、これがチャイコフスキー自身の発案であったのか、そもそも彼がこの韻文に精通していたのかどうかも定かではありません。
バチュシコフの韻文が陰鬱な主題である一方、音楽は壮大な、抒情的で、喜ばしいフィナーレと明るめの全体像の音楽となっていて、聴衆は両者の不一致に困惑しつつも音楽には温かい称賛を贈りました。

初日の夜、チャイコフスキーは弟のアナトーリに手紙をしたためています。

「あれは私がこれまでに書いた中でも最高のもののようです。少なくとも、人々はそう言っています(かなりの成功でした)」

続いてチャイコフスキーはミリイ・バラキレフの元へ総譜を届け、作品の献呈を受諾してくれるように頼みました。バラキレフはこれを受け入れ、自身がこの音楽をどう思うかに関わらず別途演奏の機会を設けると伝えました。

こうして本作は3月29日にサンクトペテルブルクにて行われたロシア音楽協会の第9回演奏会でバラキレフの指揮により再演さる運びとなりました。

しかし、再演での聴衆の反応は初演の時のように芳しくはありませんでした。

バラキレフがチャイコフスキーに宛てた手紙に

ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役

「貴方の『運命』はサンクトペテルブルクで]ほどよく上手い具合に演奏されました。(中略)拍手はあまり大きくありませんでしたが、これはおそらく曲の最後に置かれた訴えかけるような不協和音のためでしょう。

私も全く好まない部分です。
適切に練られておらず、非常にぞんざいにあつらえられたかのようです。
継ぎ目が顕わになっていますが、貴方の不器用な継ぎはぎは全てそうです。 

なにより、形式自体がさっぱり機能していません。全体が全く以て統一されていないのです。(中略)私はすっかり正直な気持ちで貴方へ書き送っています。貴方が私へ『運命』を献呈する意志を取り下げたりしないであろうと確信してのことです。貴方の献呈は私に対する思いやりのしるしとして私にとってはかけがえのないものです - そして私は貴方に深く心酔しているのです

M.バラキレフ - 心からの愛をこめて」

この頃、チャイコフスキーとデジレ・アルトーの両者の心中では共に結婚の意思に変化が生じていました。

双方ともそのことを相手に伝えたわけでありませんでしたが、それでもチャイコフスキーはニコライ・ルビンシテインを通じて彼女が別の男性と結婚したことを知らされてショックを受けました。

相手はスペインのバリトン、マリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスで、1869年9月のことでした。

チャイコフスキーがこの曲に向けていた好ましい見方も変化していきました - 彼はこれを失敗作とみなすようになりました。

1870年代に原稿を破棄してしまい、作曲者の生前には2度と演奏されることも出版されることもありませんでした。

しかし、彼はこの曲の抒情的主題をオペラ『オプリーチニク』
『オプリーチニク』の舞台美術となった町の通りの風景。アポリナリー・ヴァスネツォフ画、1911年。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。

チャイコフスキー没後の1896年、オリジナルの管弦楽パート譜を元に総譜が再構成され、作品番号77として出版されました。



アラゴネーズ

2024-12-24 21:33:00 | ロマン派
月曜朝は、自宅でチェロの斉藤千秋さんとピアノの坂田恭子さんとビゼー「カルメン」編曲版の合わせをしました。

早目に来た坂田さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を練習していると斉藤さんも早目に出たようで、早目に着きました。
お茶を入れようとすると「お茶はいいから、先に早く合わせましょう。」と斉藤さん。

まじめな方です。

カルメンの「アラゴネーズ」「アルカラの竜騎兵」「間奏曲」「ジプシーの踊り」をフルート、バスーン、ピアノのために編曲したものをフルート、チェロ、ピアノで演奏しようと言うのです。ビゼー

バスーンをチェロで。というと全く違うように思いましたが、音域が、同じという事もあってあまり違和感が無いです。

アルカラの竜騎兵などは、ピチカートを使うのがなかなかいいです。

一通り演奏したら落ち着いたのか「お茶を飲んでからやってもいいですか?」と聞くと「はい。」ということでようやくティータイムになりました。

お茶の後は「こんな楽譜を持ってきたけれど…。」と斉藤さんご持参のヴァイオリン、チェロ、ピアノのための小曲集を出されて、シューマン「トロイメライ」シューベルトの「子守唄」、マスカーニの「カヴァレリア ルスティカーナの間奏曲」などを初見で合わせました。



楽しかった!

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国プージヴァル没

作曲のオペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』を元に、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレット(台本)を作り、ビゼーが作曲した4幕もののオペラです。
音楽(歌)の間をレチタティーヴォではなくメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれていました。

1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座で初演されました。

「アラゴネーズ」は第4幕への間奏曲の後に演奏される曲で、
スペインの地方である「アラゴンのダンス」です。

アラゴン王国
アラゴンとは1035年に起源を持つアラゴン王国から始まる地域でイスラム教の影響が残る地域です。

オペラ「カルメン」ではこのあと第4幕の幕が上がり、お祭りが始まり物売りの声が響き、観客たちが待ち受ける中、闘牛士たちが入場してきます。
祭りの喧騒や闘牛士エスカミーリョに惹きつけられるカルメンに、捨てられたホセが悲劇を起こします。



クリスマス・ツリー

2024-12-23 21:03:00 | ロマン派
土曜日に行った梅田エスト1とナビオの間の道は小さなお店のショーウィンドウが並んでいます。
今の時期はクリスマスツリーの饗宴。
楽しくて、写真撮りまくってしまいました。

ピンクと白は、かわいい婦人服のお店。
こちらはモード系の婦人服。

カジュアルな洋服屋さん。

こっちはバッグの専門店

これは何だったのかな?わからなくなってしまいました。

フリフリレースのかわいい服のお店。
ナビオの入口はハローキティのクリスマスヴァージョン。

ナビオの入口前のクリスマスツリー

これは三階建ての建物くらいの高さがありましたが、こうやって撮ってみると周りの建物が大きくてさほど大きく見えませんね。

北ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の冬至のお祭り「ユール」から系譜を継ぐものではないかと言われています。

ゲルマン民族は「ユール」の際、樫の木を「永遠の象徴」として祭祀に用い、崇める対象としていました。

ユールログ1832年
クリスマス前夜に炉で焚く大きな薪のことで、発祥は中世ドイツといわれ。森で巨木を伐採して、多くの場合リボンで飾られ、家へと運ばれるます。
家に運ぶ際、同行しているうちで最年少の者は、薪の上に乗り、ブルターニュでは、家族の最年長者と最年少者がこの薪に乗って、祈りをささげました。
樫の木に代表される常緑樹を信仰する風習は、ゲルマン民族だけでなく、古代エジプト、中国、中近東など世界各地で確認されています。
 
古代ヨーロッパでは、強大なローマ帝国が徐々にその版図を広げていきます。キリスト教を国教とするローマ帝国は、キリスト教以外の宗教を認めなかったため、異なる宗教を持つ他民族としばしばぶつかることとなりました。

そんな中、8世紀のドイツ(当時のフランク王国)において、キリスト教布教活動のためにゲルマニアの地に踏み入れた宣教師が、ゲルマン民族のお祭り「ユール」に遭遇します。 

そんな異教の信仰を止め、正しいキリスト教の道へと導かなければと考えた宣教師は、樫の木を切り倒します。 

するとそのすぐそばからモミの木が生え、それを見た宣教師は「奇跡の木だ」と感動します。

と言うのは、モミは横から見ると三角錐型をしており、頂点に神、両端に神の子イエスと精霊が繋がっている「三位一体」を体現していると捉えられたためです。
これが、のちのクリスマスツリーとなりました。

ただ、これは「オーディンの樫の木」として伝わっている神話です。実際には、他民族を懐柔・征服する過程で、土着信仰の行事とキリスト教が融合していったのではないかと言われています。

常緑樹が使われるツリーは、古代から続く「永遠の象徴」を表現した存在です。
キリスト教では、これに加えて「神の永遠の愛や神が与える生命を象徴する」といった意味が込められています。
ツリーの頂上部に飾る星はイエス・キリストの降誕を知らせたベツレヘムの星を表しています。

また、クリスマスツリーは旧約聖書の『創世記』に登場する「知恵の樹」の象徴であるという説もあります。
蛇にそそのかされたアダムとイブが「禁断の果実」を口にし、その結果神によって楽園を追放されてしまうという話が有名ですが、その「禁断の果実」がなっていた木が「知恵の樹」です。
ツリーによく飾られる球形のオーナメントは、アダムとイブの食べた「禁断の果実」を象徴しているといわれています。

フランツ・リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

晩年のフランツ・リスト(おそらく1870年代以降)

「クリスマス・ツリー」Weihnachtsbaum S186は1874-1876年にかけて作曲された曲集です。
この曲はリスト晩年のローマで、孫娘ダニエラのために作曲したものです。


後列左から 
ダニエル、コジマ・ワーグナー
前列左から
アンナ・ラガー(リストの母親)
ブランディーヌ
ガバネス(家庭教師)

左からコジマ、ブランディーヌ、ダニエル
リストには3人の子供と6人の孫がいました。6人の孫の1人はブランディーヌの子ども、5人はコジマの子どもです。
ダニエラ・センタ・フォン・ビュローは1860年10月12日、ベルリンで生まれました。コジマとハンス・フォン・ビュローの娘、リストの最初の孫です。

1980年に、12曲にまとめた版がベーレンライター出版社から出版されました。


「クリスマスツリー」は古い民謡や教会の聖歌などを原型としたものです。

第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite ; この楽曲は詩篇歌の歌詞がついていますが、ピアノのみでも弾くことが可能な曲です。

第2曲 おお、聖なる夜! O heilige Night! ; この楽曲も第1曲と同様に、クリスマスの歌詞が付いています。

第3曲 かいば桶をかこむ羊飼いたち Die Hirten an der Krippe  ;  この楽曲はハルモニウムで弾くことも可能です。6/8拍子の曲。この楽曲の動機は、アッシジの聖フランチェスコ
現存最古のフランチェスコ像(スビアーコの聖窟のインフェリオーレ教会蔵、1223年作)
の太陽賛歌と共通しています。

第4曲 信者たちよ、キリストへ Adeste fideles ; この楽曲は東方三博士
イタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂にある、三博士のモザイク画(526年)。上にBALTHASSAR、MELCHIOR、GASPARと書かれている
の行進になっていて、今日でも教会で賛美歌として歌われています。
「誠実な人々よきたれ」という邦題がつけられています。

第5曲 スケルツォーソ Scherzoso ; 人々がクリスマス・ツリーのろうそくに火をともしますす。

ニューヨーク・ロックフェラー・センターのクリスマスツリー
第6曲 鐘 Carillon ; 教会の鐘が静かに鳴る情景を現しています。

第7曲 仮眠のうた Schlummerlied  
第8曲 古い田舎のクリスマスの歌 Altes provencalisches Weihnachtslied  

第9曲 晩鐘 Abendglocken ; リストは青年期から晩年まで鐘をピアノで表現しています。

第10曲 むかし Ehemals  

第11曲 ハンガリー Ungarisch-Natale Ungherese

第12曲 ポーランド Polnisch-Natale Polacco

第11曲と第12曲は技巧的で、それぞれリストとカロリーヌ

カロリーヌ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人。ポーランド系貴族で、祖国の膨大な領地を治める大地主。キエフでリストと知り合い、作曲家としての創作活動に専念すべきとリストを説得して、ピアニストから引退させた立役者であり、リストの後半生に最も大きな影響を持ったパートナーでもありました。読書とタバコを愛する知的教養の塊のような女性でした。
の故郷を現しています。

クリスマスツリー
り第4曲「信者たちよ、キリストへ 」Adeste fideles
「誠実な人々よきたれ」


低音の魅力

2024-12-22 20:59:00 | バロック
 土曜日伊藤公一先生のレッスンで梅田ドルチェ楽器に行きました。
またまたこってり絞られました。

先生はニコニコして穏やかで少しも怖くはないのですが、どんな音の乱れも聞き逃しません。

私が思っているレガートはレガートではなく、スタカートはスタカートではない。
合っていると思っている音はズレているという具合に…。
「楽譜に書かれている。あたりまえのことをあたりまえにする。」と言うのがどんなに厳しいことか身に叩き込まれるレッスンです。

、レッスンのあと、榎田先生が「ある。」と言っておられた樹脂のバスフルートを試しに3階でパウエルフルートフェアーをやっているはず、行ってみました。

フェアーの調整会…予約取れなかったです。
「久米さん、調整受けられますか?」と店員さんが聞いてくれました。
「出遅れて予約取れなかったんです。」と言うと
「それがたった今キャンセルが出て、12:40が空いているんです。どうされますか?」
12:35!
「うわぁ~!お願いします🙇」
飛びつきました。
「今日宝くじ買ったら当たるかも。」と調整の小林さん。
しっかり見ていただきました。

その間、バスフルートのお試し。
樹脂フルートのGou

グレーが出てきました。
吹いてみるといいです!
軽くて音も簡単に出て、調整もほぼ要らないそうです。
少し誤算はCと C#トリルキーが押しにくいこと、思っている位置にない上に内側に埋まっていて押しにくい。
これで39万円。

「個体差はあるのですか?」と聞くと
「ありますよ。」と茶色を出してきてくれました。
本当です。こちらの方が音が前に出る感じです。

「吹き比べていいですか?」というとSANKYOのバスフルートが出てきました。

ドロップ型のキーが、思いのほか押しやすいです。

「いいですね〜。」
「いいですね。」音色、音の出、申し分無いです。

良くなったとは言え、やっぱりこの音色にはかないません。
しかし、重たい。
「一曲吹けないわ。」というと
支持棒をつけてくれました。

膝に立てて使ったり、首から下げたストラップにつけて演奏するのと使い分けられます。長さも調整できます。

これは便利。

「これなら買いたい。高いですか?」
「これはリップ銀で116万円。」

樹脂が39万円なのでだいぶ違いますが、この音色なら買いたい。
ところがその楽器は先約が合って売れないそうです。
残念。
というか無かってよかったのか。
お財布のことをおもうとね…。
安くていい楽器はなかなかありません😭💦。

オーケストラでの低音木管楽器と言えばファゴットです。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1742年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、オーストリア大公国ヴェネツィア没

1725年

ファゴットのための協奏曲を量産しています。
現存しているRV466番から504番までの39曲の楽譜が残されています。
468と482は一部ですが。

すべてはファゴットと弦楽、通奏低音のための協奏曲になっています。
制作年代ははっきりとしていませんが、多くは1720年頃に作曲されています。
1720年と言えば
1718年-1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒ(1667-1739年 在位1678-1739年)

の宮廷楽長として奉職した最終年です。

ピエタ音楽院(1346年に孤児や棄児を養育するための慈善機関として設立されました。女子は主に音楽教育を男子は大工などの教育を受けました。音楽会の収入や寄付で、成り立っていました。)
ヴィヴァルディが教鞭をとったピエタ慈善院付属音楽院
で1716年から名実共に「協奏曲長」(Maestro de' concerti)に就任していたこともあり、おそらくこの音楽院のオーケストラのために作曲したのではないかと思われます。

このあとの
1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を正式に交わしています。

ファゴット協奏曲RV484





もう家の無い子どもたちのクリスマス

2024-12-21 21:00:00 | 近代
金曜日くずはモールで私たちの仲人さんにやっとお歳暮…お年賀?を送りました。
もう熨斗無し。
いつも干支飾り。
他のものを送ったこともありますが、他のものは要らないそうです。

例年ならもう今頃は売切れですが、蛇は人気がないのか、まだたくさんありました。
それでも、人気のものはさすがに在庫が少ない。現品限り、最後の1個をゲットしました。
贈ってもらうようにお願いしたら、送料が本体の半額!
高っ!
でも仕方ないものね。時間も無いし…。
お願いしてきました。

AIさんに聞いたら、巳年は、蛇が脱皮を繰り返して再生し、餌を食べなくても生き続ける強い生命力を持つことから、新しい挑戦や変化に対して前向きな姿勢を示す年。

蛇は金運の象徴、「豊かさ」や「繁栄」を意味します。

巳年生まれの人は、努力家で、物事を成し遂げるための粘り強さを持っています。また、冷静沈着で分別ある判断ができ、感情を抑えて常識的な行動をとるため、内面では感受性が強く、人の気持ちを察して行動をとることも得意です。

ですって!亡くなった父が、巳年でしたが、確かに努力家で粘り強かった。
田舎の農家から、二宮金次郎ばりの努力で医学部に入ったそうです。
せっかく入ったのにアルバイトしながら勉強。
やり過ぎて体を壊し、お金のかかる医学部は断念し、教師になる道を選んだそうです。

来年はみんなにとっていい年になりますように🙏

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマ

の息子(エンマの連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、ドビュッシーは戦争を恐れるようになりました。

ドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難しましたが、1か月後にパリへと戻ります。

この時すでにドビュッシーの身体は病に侵され、大腸癌を発病していました。

この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手しますが、完成したのは3曲のみでした。

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出します。  

3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っています。 
これから数年後の
フォッシュ通りからの眺め。
1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取りました。55歳。

1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅でした。

1915年第一次大戦中の陰鬱な時代に
「もう家のない子供たちのクリスマス(Noël des enfants qui n'ont plus de maison)」は作曲されました。

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Bien sûr! papa est à la guerre,
Pauvre maman est morte
Avant d'avoir vu tout ça.
Qu'est-ce que l'on va faire?
Noël! petit Noël! n'allez pas chez eux,
N'allez plus jamais chez eux,
Punissez-les!

Vengez les enfants de France!
Les petits Belges,les petits Serbes,
Et les petits Polonais aussi!
Si nous en oublions,pardonnez-nous.
Noël! Noël!
Surtout,pas de joujoux,
Tâchez de nous redonner le pain quotidien.

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!
Noël! écoutez-nous,
Nous n'avons plus de petits sabots:
Mais donnez la victoire aux enfants de France!


わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
おとうさんは戦争に行ってしまい
おかあさんは、死んでしまった
この残虐な仕打ちを見ることなく
これからどうすればいいの?
メリー・クリスマス。クリスマス。
やつらの家にはもう祝福がありませんように。
神様、やつらを罰してください。

フランスの子供たちよ。復讐を!
ベルギーの子も、セルビアの子も
ポーランドの子たちも。
かれら仲間たちを忘れてました お許し下さい。
メリー・クリスマス。クリスマス。
プレゼントのおもちゃはもうないけれど
日々のパンだけはどうかお恵みください

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!
メリー・クリスマス。神様、お聞きください
わたしたちにはもう、履く靴すらないけれど
フランスの子供たちに、勝利をお授けください
美しい歌声ですが、子どもたちに深い心の傷を負わせた第一次世界大戦が、ドイツへの重い賠償責任を負わせ、第二次大戦でのホロコーストを産み、その傷がさらにガザの空爆に繋がり…。終わらない暴力の連鎖の中に未だにいる世界を思わずにはいられません。

本当の強さでお互いを赦し合う日は来るのでしょうか?
来なければ、行きつく先は
ああ!本当に来年はいい年にしなければ!






2024-12-20 21:02:00 | 現代
京都医療センター藤森駅で降りるとに、晴れていたのに小雨、というより霙(みぞれ)。
傘を持っていかなかったのでコートのフードをかぶって行きました。

寒い!

前に来た時、川にいた鴨の姿も見えませんでした。

学校帰りの小学生が年嵩の男の子に「雪降って寒いから、お前んち寄っていってもいい?」と聴いて「お前の家の方が近いやん。」と断られていました。
ぶっと吹いてしまった。
けれどなんだか気持ちはわかるなぁ。
寒いと人恋しいんだよね。
雪はあっという間にやみました。

武満徹(1930-1996年)日本東京都生没

1961年
1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれます。

父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めました。

山口県出身の母麗子は祖父が漢学者。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と積極的に文通したり、軍部批判を声高にしゃべったりする女性でした。

父は玉突きやダンスの得意な、かなりの放蕩者だった。会社へはあまり行きたがらず、「将来、徹を絶対に会社員にしてくれるな」と口にしていました。
武満が後年会社員を目指したのは、父の言葉への反発からでした

生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡ります。

1937年(昭和12年)、小学校入学のために単身帰国、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学、終戦まで7年間にわたって叔母の家で育てられました。

1938年(昭和13年)に父が病死。母は、父が亡くなった後上京するも、生計を立てるため武満とは別に暮らしたました。

叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、株屋だった叔父はほとんど家に帰らず、道楽に明け暮れました。

年上の従兄が4人同居していて、下の2人に武満は影響を受けました。

叔母は生田流箏曲の師匠で、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られるます。

1943年(昭和18年)、旧制の私立京華中学校に入学。
額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」でした。

在学中の1945年(昭和20年)に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員されます。

軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)を耳にして衝撃を受けます。

また戦争中は予科練を受験。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年でした。

戦後最初はサラリーマンを志していましたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめました。

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接しました。

やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学でした。

京華中学校卒業後、1949年(昭和24年)に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)

作曲科を受験。

この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在します。

1950年(昭和25年)に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューします。

この曲は当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評されます。

この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとりました。 

瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表しました。

「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけました。

これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレート(人や動物の声、鉄道や都市などから発せられる騒音、自然界から発せられる音、楽音電子音楽曲などを録音、加工し、再構成を経て創作されます)の手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられています。

前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっています。

この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)
と1954年に結婚しました。

病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨

は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住しました。 

1957年(昭和32年)、早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキー

が偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となりました。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、フルート、テルツギター、リュートのための「リング」(1961年)などを発表します。

大阪御堂会館


で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになります。

この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがあります。

この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてインターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズでグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がりました。

1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ています。

1962年(昭和37年)にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲しました。

1963年作曲「雪」Le neige
1963年は武満の「うた」がたくさん生み出された年でした。

この曲は映画「白と黒」の主題歌でフランス語の詞。詞を書いたのは美術評論家の瀬木慎一で、映画では岸洋子によって歌われました。

『白と黒』(しろとくろ)は、1963年の日本のミステリー・サスペンス映画。橋本忍のオリジナル脚本を堀川弘通監督が映画化しました。

雪 La Neige
Il neigeait, il neigeait
Quand il se fut eloigne
Elle pleure de nouveau
Apres la nuit blanche
Une autre nuit blanche

雪が降っていた、雪が降っていた
おとこが離れていったとき
おんなはまた泣き出す
白い夜のあとの
もうひとつの白い夜
**:**


ローナ・マギーフルートリサイタル

2024-12-19 20:57:00 | コンサート
ローナ・マギーフルートリサイタルに行って来ました。
京都アルティホール
ピアニストは石橋尚子さん。
伊藤公一先生もデュオで出演されます。

丹波橋から近鉄特急

…ではなく急行国際会館行きに乗っていきました。

ロビーにはすでに長蛇の列。
「あぅ!」と手を振ったのは伊藤公一セミナーで一緒だった今田聡美さんでした。
さとみんチャンネル

一緒に聞くことにしました。ラッキー!
プログラムはローナさん自身の言葉で書かれていました。
何を伝えたいのか?がはっきり伝わってきたので抜粋ですが転載してみます。

今回のプログラムは幻想的な要素を共通して取り入れたといいます。

マックス マイヤー オルバースレーベン(1850-1927年)

ファンタジー ソナタop17
フランツ リストに師事したトーン ポエム 第2楽章はシュテンドヒェン(セレナーデ)愛するひとに捧げる愛と優しさのの証の曲 シューベルトのシュテンドヒェンにインスパイアされました。

マデリーン ドリング(1923-1977年)

フルートとオーボエのための三重奏曲
イギリスで生涯をすごしながらラフマニノフ、プーランク、ガーシュインに影響をウケました。
1947年オーボエ奏者のロジャー ロードと結婚。彼のための曲を書くようになりました。
そのような曲の一つで1967年に書かれました。またブーランクの影響が色濃い曲です。

この曲はローナさん伊藤公一先生、石橋尚子さんのトリオで演奏されました。

外山雄三(1931-2023年)

ファンタジー1985.
日本を代表する作曲家のこの曲富久田治彦先生の演奏で聞いてとても感動し取り上げたそうです。

セザール フランク(1822-1890年)



ソナタ イ短調
1886年作曲オルバースレーベンの曲より数年後に作曲。

ヴァイオリン奏者イザイ

に結婚祝いとして贈られました。
愛は。簡単には手に入らない。
第一楽章 深い思索と探求。
激しく衝動的な第二楽章
最も個人的で激動的な「レチタティーヴォとファンタジア」を経て壮大な結婚の鐘が鳴り響く。
フランク自身結婚に両親から反対され彼らと完全に決別。
1848年のパリ革命のさなかようやく教会にたどり着いた。
音楽が人生そのものを語り始めます。 


アンコールはアレクサンドル グラズノフ(1865-1936年)
1898年バレエ音楽「ライモンダ」より間奏曲 ローナさん、伊藤公一先生、石橋尚子さんのトリオアンコール。
夢のように美しかった!


ポール タファネル
アレグレット1890年作曲

フィリップ ゴーベール
2つのスケッチよりSur la plaine

後一曲だけ
パラディスのシシリエンヌ

今田さんと帰り道、
「素晴らしかった!」
「しなやかな演奏だったね。」
「シシリエンヌとか何度も吹いたけれどあんなふうに吹いたことなかったわ。もっとていねいに表情豊かに吹けるってわかったよ〜!」興奮して言い合ってました。

ローナ マギーさんの演奏てドビュッシーの「美しい夕暮れ」



ガーシュインのララバイ

2024-12-18 21:46:00 | 現代
火曜日久しぶりに赤ちゃんのサポートでした。
実は赤ちゃんのお兄さんがインフルエンザから肺炎になり入院。
その後、赤ちゃんは腸炎にかかりという具合でお兄さんを保育園に送っている間赤ちゃんの保育という任務ができなくなっていました。

病児保育は制度上できないので、残念でした。
本当は子どもが病気の時こそ、助けが欲しいのにね。

ジョージ ガーシュイン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。

初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」でした。

父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ぃましたが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになりました。

13歳の時から正式にピアノを習い始め、また、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。

しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。

彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーにあった楽譜出版社
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。

出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザー(1895-1986年)


との共作になる1919年の歌曲「スワニー」
アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。

この頃ガーシュインは「子守歌」(こもりうた、Lullaby)を作曲しました。
弦楽四重奏のための作品。
訳さずに「ララバイ」とも呼ばれています。 

ガーシュインは、学生の課題曲として「子守唄」を 作曲しました。

彼の教師であるハンガリー移民のエドワード・キレニは、彼にクラシック音楽理論の徹底的な講義を授け、シェーンベルクやドビュッシーなど当時のヨーロッパの作曲家を紹介しました。

「子守唄」はガーシュインの最初の「本格的な」作品でした。

兄のアイラ・ガーシュインは、このカルテットが音楽仲間のプライベートな集まりで何度も演奏され、「いつも歓迎された」と回想しています。

この曲の主題歌は、1922年の失敗作ミュージカル『ブルーマンデー』のアリア(「誰か私のジョーを見た人はいるか」)の冒頭に使われました。

ミュージカル「ブルーマンデー」CD

このショーは失敗に終わりましたが、おそらくこのショーがきっかけでポール・ホイットマンが 1924年に『ラプソディ・イン・ブルー』を作曲することになりました。

約40年後、アイラは『子守唄』の原稿をハーモニカの名手ラリー・アドラーに見せ、アドラーが編曲したハーモニカと弦楽四重奏曲は1963年のエディンバラ音楽祭で演奏されました。

この曲は1967年にジュリアード弦楽四重奏団によってアメリカ議会図書館で初演され、弦楽オーケストラによる演奏も時折聞かれます。

New York: New World Music Corporation, 1968. Plate NW-1006-24(10)

この曲は多彩なハーモニーとシンコペーションのリズムが使われブルースや、ラグタイムを思わせます。

作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン
ジョージとアイラ
は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。


ウェーバーのフルートトリオ

2024-12-17 21:06:00 | ロマン派
コンサートが一つ終わって、ずっと練習していたドップラーをとりあえず棚上げに。
次は。26日にやるフォーレのドリーから3曲、

クーラウのフルート二重奏op85第1楽章、ドップラーのアンダンテとロンド、またまたクーラウのトリオop119
、「カルメン」トリオ編曲、ウェーバーのトリオに未定の曲。

それから1月にはハープの発表会でフルートでビゼーのアルルの女のメヌエットとベルガマスク組曲、ハープとヴァイオリンで「カヴァレリアルスティカーナ」…遊んでは居られません。
とは言え基礎練。
頑張りま〜す。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826年)神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティーン生まれ、イギリス ロンドン没 

フランツ・アントン・フォン・ウェーバーとウィーン出身の歌手であった2度目の妻ジェノヴェーファ・ウェーバーの3人の子どもの長男として生まれます。
ウェーバーは先天性の股関節障害を持って生まれ、4歳になるまで歩き始めませんでした。しかし、その頃にはすでに、彼は有能な歌手でありピアニストでした。

ウェーバーが生まれた次の年、父フランツは劇団を結成します。
そのため、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなりました。

幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せませんでした。
しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼンでヨハン・ホイシュケルから本格的な音楽教育を受け、才能を見せます。

その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(1737-1806年)

(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]

にも師事しています。

ザルツブルクでのカールの日々は、1798年3月13日に結核で亡くなった母ジェノヴェーファと、1798年12月29日にミュンヘンで1歳になる妹アントネッタの死によって暗い影を落としました。母の死後、父方の叔母アデライデがカールの世話を引き継ぎました。

1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲します。楽譜は、翌1800年に火事で消失しています。

1803年半ば、ウェーバーはウィーンで、マンハイム、ストックホルム、ダルムシュタットの重要な音楽学校の創設者であるアベ・フォーグラーのもとで勉強を続けました。
そこでジャコモ・マイアベーアとして知られるヤコブ・マイヤー・ベーアで、ウェーバーの親友となった。手紙の中で彼らはお互いを「兄弟」と呼んでいました。

1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、会計操作の問題に巻き込まれ、裁判では認められたものの、
民事法では借金を背負うことになり、2年後には楽長を退きます。

冷静になる副作用として、ウェーバーは日記をつけ始め、支出や通信をリストアップし、特別な出来事について時折コメントするようになりまし。

この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声が出せなくなりました(声を失うまではかなりの美声だったと言われています)。
その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とします。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力します。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させました。

1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)

に移ります。
1817年11月4日シルヴァーナのタイトルロールを創作した歌手カロリーネ・ブラント

と結婚しました。

当時宮廷ではイタリア・オペラが主流でしたが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑みます。

結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。
また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行いました。

1821年、ベルリンで『魔弾の射手』


が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。

この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われています。

この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場

の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
を作曲します。

そのとき彼は結核を患っていましたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していました)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳でした。

コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されましたが、
18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還しました。

フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259は1818-1819年に作曲されました。

1817年34歳のウェーバーは、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移り、放浪生活から脱出、ここからウェーバーの快進撃が、はじまります。その頃の作品です。