音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ニンナ・ナンナ

2025-03-07 21:00:00 | バロック
木曜日午前中、子育てサロンの卒会記念のコルクボードの準備をしました。

布をハートや星に切って、裏側に両面テープを貼ります。

コルクボードの枠に貼る布も裏側は両面テープ。
子どもの写真を挟む木製洗濯バサミに貼る布を切ってやはり両面テープ。

両面テープをくっつけるラフィアは地域の方のご寄付です。
押しピンには100均のビジューをセット。
ヨーヨーキルトは、以前作った残りです。

それにも裏に両面テープを貼ってお母さんたちに自由に貼ってもらいます。

子どもたちがスタッフと遊んでいる間にお母さんたちに仕上げてもらいます。

「来るだけで、こんな物をもらえるなんてやり過ぎじゃない?」という意見もあります。

「物じゃ無くて、子どもたちと一時離れて楽しむ時間を持ってもらうんです。」と言いました。

たかだか20分位の短い時間。
それも離れない子もいます、泣いたら気になって中断しながらの製作です。
短い時間で仕上げられて、素敵に出来たらお母さんたちうれしいんじゃないかなぁ?

子育てサロン
ぽっぼくらぶ
第2火曜日
次回3月11日
会館との2 10:00〜11:30
申込不要、無料 保護者と子どもたち 妊婦さん

Ninna Nanna
ニンナ・ナンナ
イタリア語で子守唄のことです。
バロック時代から伝わる子守唄ですが作者はわかりません。

アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ(Artemisia Lomi Gentileschi、1593 - 1652年)ローマ生まれ、ナポリ没

イタリア、カラヴァッジオ派の画家でフィレンツェの美術アカデミーにおける初の女性会員。

1610年聖母子
ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナにあげたら
彼女はそれを一週間抱っこするつもり

黒人に渡したら
彼はそれを1年間抱っこするつもりです

ニンナ・ナンナ
そんな赤ちゃんは私のために!




ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナに渡せば
彼女はそれを一週間保管するつもりだ
ブラックウルフに渡せば
彼はそれを1年間抱っこするつもりです
それをホワイトウルフに渡せば
彼はそのこを長く抱っこするつもりはありませんよ

ニンナ・ナンナ
誰にもあげませんよ

カウンターテナーのフィリップ ジャルスキーと古楽器アンサンブル 
タの演奏です。





懐かしいフルートが蘇った!

2025-03-06 20:48:00 | ロマン派
プリマ楽器のフルート。
高校生の時にお年玉やアルバイトで貯めたお金を全部つぎ込んで買ったファーストフルートです。
買ってきた時は嬉しくて枕元に置いて寝ました。

部活のブラスバンドでずいぶん活躍してくれました。
地域のブラスバンドにもこのフルートを握りしめて参加していました。

しかし、それから数年後。
新しいフルートを買い、このフルートは放置。

長い年月のうちにキーに緑青が浮き、タンポは破れ、音が出なくなって芯も少し歪んでいたかもしれません。
全てのキーが閉まらないという惨状に。

それが、2月にフルートの角谷雅一さんと、ピアノ坂田恭子さんと久米でドップラーのアンダンテとロンドを練習した時のこと。

「これはなんですか?」と角谷さんに聞かれるままに「プリマフルート、もう無いでしょう。サンキョウフルートになっちゃって…。もう古くて音が出ないんです。」
と見せてみると、
「これは、珍しい!これ持ってかえっていいですか?」
「えっ!いや、これは私のファーストフルートなので、置いときたい。」
「音が鳴ったら?」
「それはめちゃくちゃ嬉しいです。」
「治してきますよ。」
というわけで、角谷さん、持ち帰ってしまいました。

そして2月28日の「聴き合い会」の時、「できましたよ!」と持ってきてくれました。

「音が鳴る!!」

これでドップラーのトリオ、メンコンのヴァイオリンパートも吹いてくれました。
びっくり!
こんなに嬉しいことはありません。
感激しました!
懐かしい楽器が戻ってきました。これからは時々鳴らして可愛がりたいと思います。
こんな素晴らしいことが私の人生に起きるなんて夢のようです。
角谷さんに感謝です。

マリオンに憧れてこの楽器を買いました。
彼が、吹いていたのはサンキョウフルート。
かつてのプリマフルートです。

ニースでマリオンの授業を聴講しました。人気すぎて受講席取れなくて他の先生の授業を受けました。
彼は当時輝けるスターでした。

アラン マリオン(1935-1998年)フランス マルセイユ生まれ、1938年、マルセイユ生まれ。韓国ソウル没

9歳からマルセイユ音楽院でジョゼフ・ランパルにフルートを師事し、14歳で首席で卒業。
その後はパリでジャン=ピエール・ランパルの薫陶を受け、1961年にジュネーヴ国際音楽コンクールに入賞を果たしました。

1964年からフランス国立放送室内管弦楽団の首席奏者を務め、1967年にはパリ管弦楽団の首席奏者に転じました。
1972年にはフランス国立放送管弦楽団の首席奏者になり、
1977年からアンサンブル・アンテルコンタンポランに参加しました。

教育者としては、1969年からパリ音楽院のフルート科の教授となり、1986年からニース夏季アカデミーでもフルートを教えました。
1980年に初来日し、以後度々日本に来演しました。
1998年にマスター・クラスを開いていたソウルで急死しました。

フランソワ・ボルヌ(1840年 - 1920年)フランス共和国モンペリエ生まれ、フランストゥールーズ没

は、ボルドー大劇場

のオーケストラで演奏していたフランスの フルート奏者です。

トゥールーズ音楽院(トゥールーズ高等音楽学校)の作曲家兼教授でした。

フルートの技術的改良で知られています。

技術的な可能性を高めるためにベームの楽器に改良を加えました。

また、フルートの新しい可能性を演奏家が披露できるような曲を書きました。

改良されたメカニックのせいでテクニックがより簡単になり、音質と音量が向上したことで、よりヴィルトゥオーゾ的で表現力豊かな音楽が可能になりました。

最も知られているボルヌの仕事は、ロマン派のフルートのレパートリーの定番である ビゼーの「カルメンの主題による華麗な幻想曲」
カルメン幻想曲の初版の表紙1880年
の作曲です。



お茶を愛でた王室

2025-03-05 20:57:00 | バロック
日曜日に行った茶源郷和束町で買った煎茶ドレッシング。

生野菜のサラダにかけて… !
甘い!酸味少しとお茶の香りはさすがですが。
味醂やお酒の甘さでいい甘さですが、サラダより、豚しゃぶか、デザートにかけて食べたい感じでした。
井手町の薄揚げ。

これがおいしいんです。

豚肉と野菜のあんかけに入れたら絶品でした。
しかも大きいので、お味噌汁に入れたりまだまだ使えます。

イギリスが東インド会社によって中国から紅茶を輸入したのはジョージ3世(1738年~1820年)の頃でした。

「ファーマー王」と言われていて政治にはあまり興味がありませんでした。
現在のドイツ北部に存在したメクレンブルク=シュトレーリッツ公国に生まれたシャーロットを妻に迎えました。

ほぼ無名のシャーロットを選んだのはプロテスタントで跡継ぎを生んでくれる女性だぅたからだそうです。

期待通り彼女は14人の子どもを産みました。

ジョージ3世と子どもたち

紅茶を飲む風習も定着し、この頃には王妃は紅茶陶器の「ウェッジウッド」のクリームウェア(磁器ではなく陶器)を支援し、
シャーロット王妃が絵柄のクリームウェア
夫婦でコッツウォルズの近くに保養に行き、音楽会の帰りに寄ったウースターの街のウースター窯でシャーロット王妃が「ローヤルリリー」というティーセットを購入。
日常のティータイムに使われていたそうです。

ローヤルリリー
ゴールデン・ジュビリー( golden jubilee)とは重要な出来事の50周年記念日のことです。
また、それを祝賀して開催される祝典のことです。英語圏での呼び名ですが、50年の節目の祝典は世界各地で行われます。

ジョージ3世は、実際に即位50周年となる1810年に先立ち、1809年10月25日に祝賀されています。


花火が打ち上げられ

ロイズの北側正面のイルミネーション

ヴォクスホール ガーデンは、高さ 70 フィートを超える、忠誠の輝かしい神殿を思わせるように配置された、さまざまなランプ。ちょうど 50 個展示され、皇帝の王冠やその他の王家の紋章で飾っていました。

音楽は「神は王を守る」が聖歌隊によって合唱され、鐘が音楽のように1日中鳴らされたと言われています。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

はすでに亡くなっていますが、その後の王室で戴冠式や式典には必ずヘンデルの司祭ザドクや戴冠式アンセムが演奏されたことから、この時も楽団によって演奏されたと思われます。

ジョージ2世「戴冠式アンセム」より『主よ、王はあなたの力に喜びたり』HWV 260








枯れた演奏

2025-03-04 20:55:00 | ロマン派
リッタースハウゼンの木管フルート、榎田先生が頭部管の割れを治してきてくださいました。

けれどタンポが乾いてボロボロに。
今とは規格が違う薄いタイプのタンポで替えがないらしいです。
吹かせてもらいましたが、上手くならせません。

先生は吹けるんだけれど…。
アンサンブルのメンバーたちも吹いてみましたがなかなか…。 

結局榎田先生が、
「オープンG#だけじゃ無くてさ、ブリジアルキーも違うだろ。こんな楽器吹けるの世間広しと言えども俺ぐらいだからさ。俺の持ってるベーム式の木管と交換してあげるよ。」
「確かに…。」
というわけで、またまた先生お持ち帰りになりました。

「ちょっと時間かかるかもしれないけど…。」と、いつになるんだろう? 

木管フルート欲しいです。

月曜日夜はドボルザークの「セレナーデ」第1楽章を練習しました。
それからヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」合奏協奏曲、休憩を挟んで、「テイク・ファイブ」「煙が目にしみる」
「煙が目にしみる」は「みなさんの演奏は元気よすぎるんですよ。高音に向かってもっと減衰して、小学生みたいな演奏だよ。」
「丸ビルの上のバーラウンジで呑んだことありますか?大人の感じ。」「丸ビルもう無いけと…。」と隣のA氏。

在りし日の丸ビル

スカイラウンジ トップサーティ
それはともかく初めからやり直し。
「今でやっと20歳くらいです。もっと大人の感じ、枯れたおじさんみたいに。」
「テイク・ファイブ」は5拍子が難しい。

私はダルセーニョの後分からなくなってしまいました。
「迷子になったわ」ととなりのメンバーに言うと「あ!このセーニョ、ウソウソ。こっちに飛ぶんだ。」と楽譜のミスプリントでした。休んでたから伝わって無かった…。
「また、ちゃんと練習しててくださいよ。」とこちらはなりました。

クラッシック音楽で枯れた感じと言えばブラームスの「クラリネット五重奏曲」を挙げる人も多いです。

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms(1833- 1897年)ハンブルク生まれ、ウィーン没

クラリネット五重奏曲 (ブラームス
ヨハネス・ブラームスのクラリネット五重奏曲ロ短調 作品115は、彼の晩年に完成しました、

ブラームスを代表する室内楽曲の1つです。

1891年の夏にバート・イシュル

で作曲されました。
姉妹作の《クラリネット三重奏曲 イ短調》作品114と同時期の作品です。

ブラームスは夏の時期に様々な避暑地を訪れていましたが、何度か訪れていたこの避暑地以上に快適な土地はないと、前年からその地で夏を過ごすようになっていました。 
バート・イシュル滞在中にブラームスは興が乗り、珍しく速筆で作品を仕上げています。

この2曲の初演は非公開を前提に、マイニンゲン公ゲオルグ2世(1826-1914年)

の宮廷
マイニンゲン宮廷劇場
において11月24日に行われました。演奏者は、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルト

とヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム

マイニンゲン宮廷管弦楽団のメンバーでした。
このときと同じ顔ぶれによる公開初演は、ベルリンにおいて12月10日に行われ、熱狂的な反響を得て全曲が繰り返し演奏されました(ただしその2日後の上演は、評価が芳しくなかったという)。とうとう1892年1月5日にウィーン初演が行われました。
このときの演奏者は、クラリネット奏者のフランツ・シュタイナー(1839 - 1902)と、ロゼー四重奏団でした。それから15日遅れで、ミュールフェルトとヨアヒム四重奏団もウィーンで上演を行って大成功を収め、この時は無条件で称賛の念を表す批評で占められました。

ブラームスは、《クラリネット五重奏曲》のあまりの評価の高さに対して、「自分は《三重奏曲》の方が好きだ」と言っています。


第1楽章
アレグロ(ロ短調、6/8拍子、ソナタ形式)

第2楽章
アダージョ(ロ長調~ロ短調~ロ長調、3/4拍子、三部形式)

第3楽章
アンダンティーノ(ニ長調の間奏曲、4/4拍子)

第4楽章
コン・モート(ロ短調、2/4拍子、変奏曲形式)


ひな祭りの起原とグノー

2025-03-03 21:00:00 | ロマン派
日曜日、久しぶりに夫、次男、私で井手町の道の駅でお昼食べました。

外は小雨と霧。

ひな祭りのイベンで

煎りたてのほうじ茶試飲させていただきました。
格別な香りで美味しかった。

さて、お昼ごはんは煮込みハンバーグ。

フライ定食

井手町チャンメン。
町おこしうまくいっているようです。
小雨交じりの中、レストランは満席でした。
安くて新鮮なお野菜を買って帰りました。

雛祭り(ひなまつり)は、3月3日に行われる行事で、女児の幸福を祈るために行われ、雛飾り、白酒、菱餅、桃の花などを飾ります。

雛飾り
3月3日は五節句の一つ上巳の節句にあたり、桃の節句(もものせっく)、雛の節句(ひなのせっく)とも呼ばれます。

「上巳の節句」という名称は中国由来の上巳(3月最初の巳の日)に行う行事が3月3日に固定し、桃の節句を指す様になりました。

「桃の節句」は桃の花が咲く時期である旧暦の3月3日(新暦の4月頃)に行われていましたが、明治以降は新暦の3月3日に行なうことが一般的になりました。

しかし新暦3月3日には桃は咲かず、桃の造花を用います。

雛人形の起源は諸説あるそうです。
古代中国には上巳の日(3月最初の巳の日)に川で身を清める風習があり、これが日本に伝わって草や藁など作った人形(ひとがた)に穢れや災いを移して川や海に流す風習と融合しました。

平安時代に上流階級の子女の間には小さな紙人形でままごと遊びをする「ひいな遊び」がありました。
「ひいな」はサンスクリット語で「小さい」という意味の「ヒナ」が語源だそうです。

貴族の間で「幼児の守りとしてその枕もとにおいた「形代(かたしろ)」の一種の「天児」(あまがつ)、同様の目的で用いられた「這子(ほうこ)」も作られました。

天児・這子は後の「立雛」の起源になりました。

室町時代(1336-1493年)に現在の雛人形の原形ともいえる「立雛」が登場。
現在のものと同様、雛が座っている「室町雛」

も室町時代に登場しました。

近世
雛人形主体の節句の歴史は「案外に新しく」、江戸時代初頭に記録に現れ始め、寛文(1661- 1673年)移行に雛祭りが定着。一般化したのは明治以降だそうです。

江戸中期ころまでは雛祭りは「雛遊び」と呼ばれていました。「雛人形」という名称も江戸時代に生まれました。

雛壇は江戸初期には平壇でしたが、宝暦(1751-1764年)・明和(1764-1772年)年間に2、3段、安永年間(1772-1781年)に4、5段、幕末に7、8段となり、十五人揃いの雛飾りも江戸末期に定着しました。

雛人形は江戸時代初期には「ひいな」の名残を残す立った形の「立雛」

でしたが、寛永時代の「寛永雛」


の頃からは紙雛の面影を残しつつも立体化。

享保時代には寛永雛をさらに高級化した「享保雛」が登場。

「高さ約45センチから、時には60センチ以上」もある大きなもので衣装は中国の影響が見られます。
寛永雛は華美であるとして幕府に規制されました。

江戸幕府はこれ以降も華美な雛人形に対ししばしば製作の禁令を出しました。
寛政の改革(1787 -1792年)で規制されたときには、規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた数cmほどの雛人形が流行しました

が、これも規制されます。

京都生まれの岡田次郎左衛門が宝暦2年(1763年)に江戸へ下り、典雅な「次郎左衛門雛」

が普及しました。

「写実的な傾向をたどってきた内裏雛に、復古的な典雅さをもちこんだ次郎左衛門雛の清新さが、江戸の人気を独占し、宝暦から明和、安永、天明(1781-1789年)、寛政(1789-1801年)年間まで、約30年の間にすっかり代表的な江戸雛の位置を確保しました。

江戸後期には「公家などで、有職の間違いを訂正し、宮中の雅びな装束を正確に再現」した「有職雛」

が登場。

次郎左衛門雛とともに人気があったのは古今雛

で、文化の中心が京都から江戸に移ったのちに江戸で成立しました。

古今雛は有職雛と違い「有職にとらわれない華やかな装束」をまとった「写実性の高い身体表現」が特徴です。
「現在の雛人形はこの古今雛にかたどってつくられています。

シャルル・フランソワ・グノー(:Charles François Gounod、1818 - 1893年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン・クルー没

1870年ナダール撮影

『操り人形の葬送行進曲』 Marche funèbre d'une marionnetteは、1872年に作曲したピアノ小品です。
作曲家本人によって管弦楽曲に編曲され、1879年に出版されました。

この作品は、グノーが普仏戦争(1870-1871年)

の戦乱を避けてロンドンに住んでいた時期に作曲され、1872年7月13日にロンドンでピアノ版が出版されました。

この作品を完成させた後、グノーはほかの組曲をすべて放棄しました。
楽譜はヴィギエ夫人(Madame Viguier)

に献呈されています。

フランスでは1873年に出版されました。

グノー本人による管弦楽版はフランスに帰国した後の1879年に出版されました。

ピアノスコアに書かれた標題、管弦楽版は3のみ。

1.アレグロ「操り人形が壊れた (La marionnette est cassée !!!)」

2.アダージョ。
「劇団の嘆きのざわめき (Murmure de regrets de la troupe)」

3.アレグレット。
「葬列 (Le cortège)」

4.ニ長調に転調、
「ここで劇団の主要人物たちが立ち止まって一服する (Ici plusieurs des principaux personnages de la troupe s'arrêtent pour se rafraîchir)」

5.ニ短調の主旋律が戻ってきます。
「帰宅 (Retour à la maison.)」

『操り人形の葬送行進曲』管弦楽版



6つのレントラー舞曲

2025-03-02 21:13:00 | 古典
土曜日朝は伊藤公一先生のレッスンでした。
1月が目の手術で抜けて、2月のレッスンがご都合が合わず3月1日になってしまいました。
久しぶりにお会いすると、背筋が伸びます。
もっと小さな音の違いに耳を傾けなくては!と自戒の1時間でした。

終わってからから、仙台牛タン麦とろのお店で小鉢ランチ頂きました。
小鉢3鉢は選べます。

これで1200円。
美味しくて、コスパ最高でした~!

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領 ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

6つのレントラー舞曲 (ドイツ語:6 Ländlerische Tänze KV 606 英語:Six dances in the Ländler style : K.V. 606[1])は、1791年2月28日にウィーンでモーツァルトによって作曲されました。

レントラー(独:Ländler)は、3/4拍子の南ドイツの民族舞踊です。
18世紀末頃まで、現在のドイツ、オーストリア、スイスにあたるドイツ圏南部一帯で踊られていました。

13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェッラー(Weller)から発展した民族舞踊です。

2人一組で、飛んだりはねたりもする踊りです。

レントラーの伴奏音楽は、純粋な器楽のこともあれば、ヨーデルのような歌が混ざることもあります。

1897年レントラー
19世紀ヨーロッパで舞踏会が一般的になると、レントラーはより速いテンポになり、より優雅さが追求されるようになり、男性はHobnail(底に釘が打ち付けてある長靴)を身につけるようになりました。

ダンスホールが一般的になると靴を脱ぎ捨てより優雅に踊られるようになりました。
これはワルツの前身だと考えられていますが、系列的にはワルツ、及びウィンナ・ワルツの親戚になります。

クラシック音楽では、ベートーヴェン、シューモーツァルトベルトもレントラーを作曲。
しています
また、ブルックナー、マーラーは自身の交響曲の舞曲楽章で通常のスケルツォの代わりにレントラーを採用しました。

ベルクがヴァイオリン協奏曲で引用したケルンテンの民謡もレントラーで、オペラ『ヴォツェック』の第2幕でもレントラーが演奏されています。

モーツァルトの、他にもハイドンのドイツ舞曲もレントラーを書いています。ブリテンの『ピーター・グライムズ』でも、舞踏会のシーンでレントラーが演奏されています。


メントリと言えば

2025-03-01 20:51:00 | ロマン派
金曜日は第21回聴き合い会でした。
ヴィオラの演奏。

ギター独奏。

古楽器ビウエラ

チェロとフルート、ピアノのメンデルスゾーンのピアノトリオ。ヴァイオリンをフルートに編曲。
クラリネットとピアノ

フルート2本とピアノでドップラーの「アンダンテとロンド」演奏しました。

即席フルート2クラリネットのトリオ。

即席ギターとフルートのデュオ。
などなど、
楽しかった〜!
充実の1日でした。

第22回聴き合い会は
3月18日(火)
12:15開場13:00開演
牧野生涯学習センター 音楽室
お互いの演奏を聴き合い励まし合いましょう。
勇気をふるってご参加ください。
申込 久米まで

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847年)ハンブルク生まれ、ライプツィヒ没

1839年メンデルスゾーン ジェームス・ウォーレン・チャイルド画
ピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品49は、1839年9月23日に完成し、翌年出版されました。

この作品は、ヴァイオリン、チェロ、ピアノからなる標準的なピアノ三重奏曲として作曲されています。

1832年1月21日、メンデルスゾーンはパリ滞在中に妹のファニー・メンデルスゾーン(1805-1842年)

に宛てた手紙の中で、ピアノがヴァイオリンやチェロに対してより積極的な役割を果たすような作品を書くことについて書いています。

この三重奏曲は1840年2月1日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス
最初のゲヴァントハウス(1781年)。フェリックス・メンデルスゾーンによる水彩画。ルイジ・ケルビーニのオペラ「アリババ」の歌詞がいくつか描かれていて、1835年10月4日のメンデルスゾーンの初コンサートを記念して、ゲヴァントハウスの首席歌手ヘンリエッテ・グラバウ=ビュナウに贈呈されました。
でヴァイオリンのフェルディナント・ダヴィト、チェロのフランツ・カール・ヴィトマン、メンデルスゾーンのピアノによって初演されました。

ロベルト・シューマン(1810-1856年)

は三重奏曲を
「現代の三重奏の傑作であり、当時のベートーヴェンの変ロ長調やニ長調、シューベルトの変ホ長調と同じく、これは未来の世代を喜ばせるだろう」
と称賛しました。

1898年、ミュージカル・タイムズはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907年)

にインタビューした時に、ヨアヒムは1844年のロンドンでの公演を思い出しました。

この公演では、メンデルスゾーンは再びピアニストを務めました。

当時、パート譜があったのはヴァイオリンとチェロだけでした。メンデルスゾーンは

「気にしないで、ピアノの上に楽譜を置いて、時々人が向きを変えればいい。だから暗譜しているように見える必要はない」

と言いました。つまり、楽譜はメンデルスゾーンの頭の中にあったということです。

この曲はメンデルスゾーンの室内楽曲の中でも最も人気のある作品の一つで、八重奏曲作品20とともに彼の最高傑作の一つとして知られています。

この作品の初期の作曲中に、メンデルスゾーンは同僚の作曲家フェルディナント・ヒラー(1811〜1885年)

の助言を受けてピアノパートを改訂しました。 

ヒラーは「一度決心すると、いつもの誠実な真剣さで、ピアノパート全体を書き直し、長さを引き受けた」と書いています。

改訂版はよりロマンティックでシューマン風のスタイルとなり、ピアノは三重奏曲の中でより重要な役割を担うようになりました。

実際、改訂版はシューマンが、
「メンデルスゾーンは19世紀のモーツァルトであり、最も聡明な音楽家であり、時代の矛盾を最も明確に理解し、それを最初に解決した人物である」

と評価しました。

ピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品49




甘美な慰め

2025-02-28 20:57:00 | バロック
生徒さんにいちごいただきました。
お散歩コースにいちご農家さんがあるそうで、ひかりという品種のいちごだそうです。

その名の通り香り高く、甘くそして爽やかな味。
自然の恵み。
ありがとうございました。


ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

1725年教会カンタータ『甘美な慰め、我がイエスは来る』 BWV 151を作曲しました。

バッハは、1725年後半、ライプツィヒのトーマス教会
トーマス教会
のカンターに就任して3年目に、第3カンタータ・サイクルの一部として、この独奏カンタータをライプツィヒで作曲しました。

彼は、クリスマスの3日目に祝われる福音記者ヨハネの祝日の教会礼拝のためにこの曲を書きました。
トーマス合唱団
現在もあるトーマス合唱団
は、3日連続の祝日のためのバッハの他の作品と同様に、最終楽章でのみ使用されました。

祭日の規定の朗読は、ヘブライ人への手紙(ヘブライ人への手紙 1:1–14 )

パピルス 13 、西暦 3 世紀または 4 世紀、コイネーギリシャ語の原文で書かれたヘブライ人への手紙が記されています
と、ヨハネによる福音書
パピルス52(表; 西暦150年頃)のヨハネ18:31–33
の序文(言葉への賛歌とも呼ばれる)(ヨハネによる福音書 1:1–14)でした。

バッハは、この手紙にインスピレーションを受けたゲオルク・クリスティアン・レームス(1684-1717年)
カンタータのテキストの作者、ゲオルク・クリスティアン・レームス
のテキストを選びました。

最終楽章は、 1560年に出版されたニコラウス・ヘルマン

作詞・作曲のクリスマスキャロル「Lobt Gott, ihr Christen alle gleich」(すべてのキリスト教徒は平等に神を称えよ)の最終節に曲を付けたものです。

バッハはこのカンタータを1725年12月27日に初めて演奏しました。
1728年から1731年にかけても再演されました。
自筆楽譜とパート譜は現在ドイツのコーブルク音楽院

に所蔵されています。

1. アリア
甘美な慰めよ、私のイエスが来られる、
イエスは生きて生まれました!
心も魂も喜び、
私の最愛の神が私を持っているからです
今は天国に選ばれています。

2.レチタティーヴォ
3.アリア
4.レチタティーヴォ
5.コラール



女性の影が無い?!

2025-02-27 20:54:00 | バロック
月曜日の夜はフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
お休みが多く久しぶりにポップス初見大会しました。
頭の体操になります。
ヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」もやりました。
2ndソロがお休みなので代吹きしました。

榎田先生
「バッハ好きな人。」
「はい!」と何人か手を挙げました。私も!
「変わってるねぇ。バッハは女々しくてしつこいんだよ。昨日神戸でブランデンブルクの3番やったんだけど、何度も何度も繰り返しでね。
それに比べたらヘンデルとベートーヴェンは、はっきりしてる。生涯独身だけれどゲイってわけじゃない。女性と付き合ってはいるけれど
「(音楽に)女の影が無いんだよ。だからスッキリしてて俺の性にあってるんだ。」
先生の個人的見解です。

スッキリ、シンプルに直線的に大胆に演奏するようにと言うことでしょう。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685- 1759年)神聖ローマ帝国マクデブルク公国、ブランデンブルク=プロイセン ハレ生まれ、イングランド王国ミドルセックス州ウェストミンスター没

1723年のヘンデル バルタザール画

の理容外科医の父ゲオルグ
ゲオルク・ヘンデル(1622–1697)
と妻アンナには5人の子どもたちがいました。
(ドロテア・エリザベート、ゴットフリート、クリストフ、アンナ・バルバラ、カール、ゾフィア・ロジーナ)

アンナは1682年に亡くなり、1年以内に60歳のゲオルクは、今度はギービヒェンシュタインの聖バルトロマイ教会のゲオルク・タウスト牧師の娘ドロテアと結婚しました。

タウスト牧師自身も代々続くルター派牧師の家系の出身でした。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはこの結婚で1685年に生まれた2番目の子どもです。
ヘンデルが洗礼を受け、フリードリヒ・ザッホとヘンデルがオルガン奏者として演奏したハレのマルクト教会
最初の息子は死産でした。

その後、1687年10月6日に生まれたドルテア・ゾフィアと1690年1月10日に生まれたヨハンナ・クリスティアーナ(1709年死去)という2人の妹が生まれました。

『快活の人、沈思の人、温和の人(L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato)HWV 55

ジョン・ミルトン(1609-1674年)

の詩をもとにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1740年に作曲しました。

全3部からなる英語の独唱・合唱曲で世俗音楽です。
「田園的頌歌」と呼ばれることもあります。

『快活の人』(L'Allegro)と『沈思の人』(Il Penseroso)はミルトンの初期の傑作のひとつで、学生時代の1631年の作と推定されています。

トマス・コール「快活の人(イタリアの夕暮れ)」1845年
2つの詩は対照的な内容をもっています。

前者では憂鬱を追いはらい、田園風景と音楽や酒宴の喜びを描き、また都市の人々の歓楽を描いています。

後者は喜悦をまやかしとして退け、修道女やギリシア悲劇をたたえ、夜や学問の世界を快楽としています。

1736年の『アレクサンダーの饗宴』の成功以来、ヘンデルは17世紀の詩をしばしば音楽化しました。

ヘンデルの支持者であったジェイムズ・ハリスは『快活の人』と『沈思の人』に曲をつけるようにヘンデルに提案しました。

ヘンデルはチャールズ・ジェネンズ(1700-1773年)

に翻案を依頼しました。

ジェネンズの台本では最初の2部は『快活の人』および『沈思の人』の詩を分割し、組み合わせることによって構成していて、原詩の328行中の225行を利用しています。

短い第3部「温和の人」の詩はジェネンズ本人によってつけ加えられています。

ヘンデルは1740年1月19日に作曲を開始し, 2月4日に完成しました。
2月27日、リンカーンズ・イン・フィールズ劇場で初演され、シーズン中に5回上演されました。
翌年にも再演されました。

第1部では歓楽(Mirth)と幽愁(Melancholy)の女神の名を呼び、田園の自然や村人の生活をたたえます。

無気味な低音楽器の伴奏によるアッコンパニャートにはじまり、笑い声の模倣(第5曲)、
フルート伴奏による鳥の声の模倣(第13曲)、
狩りのホルン(第14曲)など、描写的なアリアが登場します。

最後は下降音階による鐘の音の模倣で若者たちの踊りについて歌いますが、急に静かになり、人々は眠りにつきます。

第2部では夜の星々とそれにまつわるギリシア悲劇について歌われた後、朝が来て都市の賑やかさがトランペットとティンパニつきで歌われます(第27曲)。

人は宴会や演劇の楽しみを歓楽の女神に求め、また天上へと導くオルガンの響きや静かな隠者の生活の楽しみを幽愁の女神に求めます(第38曲、フーガ風の長い合唱で終わる)。

第3部では行き過ぎた快楽は苦痛に変わるとして、中庸(Moderation)の神に呼びかけ、節度や質素や安楽を美徳とする。二重唱と合唱で中庸をたたえて曲を終わります。

第1部快活な人
「夜の朝を盗むように」
朝から夜を盗むように、
そして影を溶かして消し去ります:
それで真実は幻しの魅力を溶かすのか、
そして上昇する理性が暴走する
心を引き起こした煙には、
知的な日々を取り戻す。「魅力はすぐに溶けてしまう、
そして朝が夜を盗むにつれて、
闇を溶かして 湧き上がる感覚
まとわりつく無知な煙を追い始めます。





フォークを採取した作曲家

2025-02-26 21:00:00 | 国民楽派
月曜日、久しぶりに1日家にいました。
ハーブを練習して、お昼食べたらくたびれていたのか少し眠ってしまいました。
午後からはフルート練習。
結構な大曲が3曲とバッハのソナタなど吹く機会があります。

夕方次男が帰ってきて郵便をチェックしたら、オリエンタルカレーから何か来ていました。

「当たってる!」と次男。
開けてみると

オリエンタルカレーの金のキャラフォーク。(メッキ)
持ち歩く時の袋付きです。
前回はハズレ。

で、これ送ってきたそうです。
この箱についているマークを送るとまた応募できるみたい。
「エンドレスだね。」
「フォークときたらスプーンがいるだろう。」

まだ、やる気みたいです。

フォークが出てくるクラッシック音楽を探したら、民族音楽のフォークがヒットしました…やっぱりそう来るだろうね。

バルトーク ベーラ(1881-1945年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ナジセントミクローシュ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン没

ルーマニア民俗舞曲(ルーマニアみんぞくぶきょく、Sz.56)は、バルトークが1915年に作曲した6曲からなるピアノの小品の組曲です。

1917年、自身の手により小管弦楽に編曲(Sz.68)されました。
バルトークの最もよきルーマニアの友人であり、また最も民謡採集に協力した人物であるイオン・ブシツィアに献呈されました。

ハンガリー王国の一部だったトランシルヴァニア各地の民謡を題材にしたものです。

民謡であるため全体的に旋法的であり、民俗的な音楽の原型を保った民謡編曲作品の一つですが、その他の編曲作品と同じように、独特な和声を用いています。 
民謡という素材に新たな生命が与えられています。

ピアニストだったバルトーク自身もコンサートの際にはよく演奏していました。

原曲の民族音楽的な要素をより強く感じさせる彼自身の編曲も、今では小オーケストラのためのレパートリーの一つとして定着しています。

他にも、ハンガリー弦楽四重奏団の主宰者でバルトークと親しかったヴァイオリニストのセーケイ・ゾルターン
セーケイと フョードル・シャリアピン(左)
によるヴァイオリンとピアノによる編曲版(1926年)、アーサー・ウィルナーによる弦楽合奏版、管楽アンサンブル版などが存在します。

1.棒踊り(ルーマニア語Jocul cu bâtă採譜地:Voiniceni)
Allegro moderato イ調。

2.帯踊り(ブラウル舞曲。ルーマニア語:Brâul,採譜地:Igriș)
Allegro 二調。

2.踏み踊り(ルーマニア語:Pe loc,採譜地:Igriș)
Andante ロ調バルトーク

3.角笛の踊り(ブチュム舞曲 ルーマニア語:Buciumeana,採譜地:Bucium)
Moderato(一部の版ではMolto moderato) イ調。

4.ルーマニア風ポルカ(ルーマニア語:Poarga Românească,採譜地:Beiuș)
Allegro ニ調。チェコの影響を感じさせるリズム的には面白い楽章。バルトークは8拍を一単位とする独特なポルカのフレーズを律儀に2拍子と3拍子の交替で記譜しています。オリジナルは村の青年によるヴァイオリン演奏です。

5.速い踊り(マルンツェル舞曲 ルーマニア語:Mărunțel,Aprózó,採譜地:Beiuș, Neagra)
Allegro - Piu allegro(管弦楽版ではL'istesso tempo - Allegro vivace)イ調。別々の場所で採譜されました、相互に関係のない二つの舞曲のメドレーです。
ヴァイオリンとピアノ編曲版で