音楽の喜び フルートとともに

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49年の封印

2025-03-13 21:00:00 | ロマン派
月曜日に行った京都出町柳商店街の映画館「出町座」
並びには
昔の映画のパンフレットや、LP版レコードを売っているお店があり、
懐かしい絵本を売っている古本屋さんがありました。

もはや何を売っているのか、よくわからないお店も…。
ここはゆっくり時が過ぎているような気がします。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813 - 1901年)フランス第一帝政ブッセート レ・ロンコレ生まれ、
イタリア ミラノ没

ヴェルディの肖像、モレンティーニ作、1839 ~ 1840 年

初めて書いた歌劇「オベルト伯爵」が成功し、ミラノ スカラ座の興行主メレッリの依頼され、27歳1840年に、喜歌劇「1日だけの王様」または偽のスタニスラオ
を書きました。

しかし、この興行は大失敗。
批評家からも散々な酷評でした。
ヴェルディは以来喜歌劇を封印。

次作1889年喜歌劇「ファルスタッフ」を書くまで49年かかりました。

こちらの方は、チケットは通常の30倍の価格にも関わらずヨーロッパ中から王侯貴族たち、芸術界の重鎮が集まり大盛況。
カーテンコールは1時間続いたそうです。

「1日だけの王様」のために集められたオペラ歌手に喜歌劇の経験がなかったことが失敗の原因にあげられています。

また、イタリアはオーストリアに支配され、人々の不満が渦巻き、リソルジメント(イタリア独立運動)の気運が高まっていた時代の空気に合わなかったこともあるかと思われます。

個人的な理由として、ヴェルディの2人の子供と妻マルゲリータ・バレッツィ

が、それぞれ1838年、1839年、1840年と、この作品の作曲前と作曲中に亡くなったことが大きいでしょう。

この後シリアスな悲劇の歌劇の傑作の数々を生み出しますが、この失敗が無ければ、成功も無かったかもしれません。

喜歌劇「1日だけの王様」

オペラの台本作家、フェリーチェ・ロマーニ

ポーランド王スタニスワフ・レシュチンスキ王

は継承戦争の歴史上の人物で、 1709年のポルタヴァの戦いでザクセン人の侵攻を受け、王位を失います。
1733年に王位を回復しましたが、1736年に再び廃位され、フランスに亡命しました。

このオペラは、スタニスワフがフランスから王位回復のために帰国する時にベルフィオーレ騎士をフランスで自分の身代わりに立て、ポーランドに戻るまでの1733年が舞台です。
ちなみにスタニスワフ王は登場しません。

2組の結婚パーティがあげられる予定。
1組は男爵の娘ジュリエッタと、町の財務官のラ・ロッカ氏。

もう1組の結婚は、男爵の姪であるポッジョ侯爵夫人とよそから来る伯爵です。

しかし、実はジュリエッタは財務官の甥エドアルドとポッジョ夫人はベルフィオーレと愛し合っています。

男爵と、婿になる財務官は喜び合っています。

「やあ、婿どの、よろしくね!」

そこへ、ポーランド国王が到着したと告げられます。

ポーランド王(ベルフィオーレ)は、今日の結婚パーティーにお客様として呼ばれています。

やってきたベルフィオーレは、男爵に

「今日は誰と誰が結婚するのかな?」

と尋ねたところ、私の娘とこの財務官、ポッジョ夫人と…、とこの名を聞いて驚くベルフィオーレ。

ベルフィオーレは1人になり、ポーランドにそろそろ着くであろうという本物の国王・スタニスラオに急いで手紙を書きます。

「親愛なる王よ、私の役目を解いてください、でないと私は恋人を失ってしまいます!」

そこへ、エドアルドが登場します。
彼は彼で財務官の甥なんですけれども、ジュリエッタと相思相愛なのに、伯父にそのジュリエッタを取られてしまうので、
エドアルド、絶望して、

ニセ王に
「僕をポーランドに連れて行ってください」
と願います。

彼らが去ったところへ、ポッジョ夫人が入ってきます。

彼女はにせの国王を見て、あれはどうやら、ベルフィオーレじゃないかと見破ったようです。ところが以前ベルフィオーレは王から密命を受けたので、突然彼女の前から姿を消しました。

「裏切られた」と思い、伯爵との結婚を進めてベルフィオーレがどう出るか、試すことにします。

第1幕 屋敷の庭。
ジュリエッタが悲しそうにしています。

そこへ男爵と財務官が来て、沈んでいるジュリエッタに声をかけます。ほどなくそこに、にせ王ベルフィオーレがエドアルドを連れて登場します。にせ王は、男爵と財務官に

「君たち、こっちでちょっと、政治的軍事的な話をしよう、その間エドアルド、お前はこちらのお嬢さんのお相手をしていなさい」

若い二人を二人きりにしてやろうという配慮です。

仲が良さそうな二人を見て、財務官は気が気でありません。かといって、国王の話をさえぎるわけにはいかない。

「あいつら近すぎる!離れろ!」

「おやおや財務官、君、話に集中していないね」

「いえいえ、そのようなことは」

こうやって話しているところへポッジョ夫人がやってきます。

焦るベルフィオーレ。男爵たちはベルフィオーレを、こちらポーランド王です、と紹介します。

ポッジョ夫人は、その正体に気づきつつも、空気を読んでその場では型どおり挨拶します。   

にせ王と男爵、財務官は別の場所へ。若いカップル2人が侯爵夫人に助けを求めます。
ポッジョ夫人は若い二人に協力することを約束します。

にせ王ベルフィオーレは、財務官に、

「君はやっぱりとても優秀だから、ジュリエッタとの結婚をやめてくれれば、ポーランド王女と結婚させて、君を大臣にしてあげよう」

財務官はまんまと喜び、承諾します。

にせ王がいったんその場を去ったところへ、男爵が登場します。

財務官は、
「ポーランド王から大臣の位と王女とのご縁談をいただいたので、この婚約は破棄します」
と言うので当然男爵は激怒。

「ふざけるな!貴様!決闘だ!」

暴れる男爵、うろたえる財務官。みんなが駆けよってきます。

ジュリエッタは喜びます。ポッジョ夫人も、

「それだったら、この若い男エドアルドと結婚させちゃえば?」
と言いますが、男爵は
「いや、だめだ!」とまた暴れています。

そこへにせ王が現れて、その場をとりなします。みんながにせ王に何とかしてください、と口々に願うフィナーレとなって、第1幕終了です。

第2幕。
屋敷では、召使いたちが、どうやら今夜の結婚式はなくなるんじゃないかと噂しています。
そこへエドアルドが現れ、
一筋の希望が見えている、と歌います。

一方、にせ王ベルフィオーレはジュリエッタに、「父親である男爵がなぜエドアルドとの結婚に反対するのか、」と聞くと、彼女は「男爵が貧しいのでエドアルドは金が無いから」と言います。

そこで偽王、財務官に
「君の財産とお城の、たくさんあるうちの一つを、君の甥であるエドアルドに譲りなさい」
と命令します。

財務官1人になったところへ、また男爵がやって来ます。
まだ怒っているようです。いろいろ言い争った挙句、決闘になりかけて、逃げる財務官、追う男爵。

さてポッジョ夫人、偽王に

「私を捨てて去っていった、とある騎士を私は許しません」

「(彼女、俺がベルフィオーレだって、気づいてるよな)いやいや、その騎士を許してやったらどうかね」

お互い、相手がどうやらとぼけているようだと悟りながらも、腹を探り合っています。

そこへ男爵が、「ポッジョ夫のお相手の伯爵が間もなく到着する。」と告げます。

夫人はベルフィオーレへの当てつけに、予定通り結婚する素振りを見せます。

にせ王ベルフィオーレは、
「あの、例の騎士のことは、どうするんだね?」

「私をその騎士が愛しているなら、ここに現れて止めるでしょうけどね」

困ったベルフィオーレ。

「(どうすりゃいいんだ!任務は破れない!)」

一方、エドアルドとの結婚が上手くいきそうで嬉しそうなジュリエッタ。そこへエドアルドが駆け込んできて、「そろそろ出発するポーランド王に、ついていかなくてはならない。」と告げます。

驚くジュリエッタ。

「私も一緒に行くわ、王にお願いする!」と宣言して、にせ王のもとに2人で向かいます。

一方ポッジョ夫人は
「1時間以内にベルフィオーレがここに現れなければ、この伯爵と結婚します」と宣言します

ベルフィオーレは、いよいよ焦ります。が、そこへ、本物のポーランド王から手紙が届き、

「自分は無事にポーランドのワルシャワに到着した、ベルフィオーレ、お前の役目を解いてあげよう」

との知らせが来ました。

ようやくにせ王は、自分を騎士ベルフィオーレだと名乗り、喜ぶポッジョ夫人。

それを聞いて、男爵や財務官はだまされた!とようやく騙されたと気づきますが時すでに遅し。

ポッジョ夫人とベルフィオーレ、エドアルドとジュリエッタの2組の結婚が成立し、みんなに祝福されたのでした。

長く忘れられていましたが、最近は何度か再演されています。
序曲「1日だけの王様」



暁の星

2025-03-12 21:00:00 | バロック
第2火曜日午前中は子育てサロン「ぽっぼくらぶ」当日でした。
申込不要、無料

インスタグラムでお知らせしているせいか、最近内容を知って来てくれている人が多いような気がします。
前日と違って冷たい雨模様で「一生懸命、準備した時に限って、こうなんだよね。」と言っていたら、雨にも関わらず、たくさんの親子連れが来てくれました。
お名前を呼んだり、ぽっぼくらぶの歌を振り付きで踊って、触れ合い遊び。
これが大事です。 
しっかりお母さんと遊んだという意識があれば、割と母子分離うまくいきます。
今回も少し泣いた子もいますが、しっかりお母さんから離れて遊んでくれました。

さて、お母さんたちは、両面テープを剥がして、枠と、洗濯バサミ、画鋲の他はおまかせ。
好きなところに貼ってもらいます。





素敵にできたでしょう?
この洗濯バサミに朝一番に撮った親子写真を挟んで持ち帰ってもらいます。
子どもたちはスタッフが見ています。
子どもたちはおもちゃとお母さんの間を行ったり来たり、滑り台に群がったり、中には割れ関せずで自分の遊びに集中している子もいます。
みんなが喜んでいる顔を見られてよかった!
今回は年度末なのでお弁当を食べながら会議をしました。

竹皮弁当780円。
ごちそう様でした。
原材料費高騰のため、来年の3月手づくりは違う物を考えます。
暁の星はいと美しきかな

ヨハン セバスチャン バッハ(1685−1750年)神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハ アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没


カンタータ「暁の星はいと美しきかな」は、BWV1。

第1番になっていますが、作曲されたのは1724年で、バッハが聖トーマス教会

の楽長に就任して2年後に当たり、この歳を前後して後期のカンタータが多数作曲しています。

最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラが1720年7月に亡くなります。

彼女との間に7人の子どもがいたバッハは、
1721年、宮廷ソプラノ歌手16歳年下のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ(1701−1760年)

と再婚しました。
アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っていますが、彼女はバッハとマリア バルバラの子を含め10人の子どもを育てています。

1722年6月5日に、トマス・カントル、ヨハン・クーナウ(1660-1722年)

が死去し、後任の募集が行われました。

まず、候補として挙がった人物が、市民の人気を博し知名度も高かったゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)


1745年テレマン
でしたが、彼はラテン語を教えることを拒み、かつハンブルクでの昇給が約束されたため、辞退しました。

バッハの名は同年12月21日に市参事会の議事録に登場しますが、この時点で既に8人の名が挙げられていました。

トーマス教会のロマン派オルガン

その次に、候補として挙がった人物が、ダルムシュタットの宮廷学長クリストフ・グラウプナー(1683-1760年)で、1723年1月17日に2曲のカンタータを上演し大成功を収めましたが、その時の主君ヘッセン公が解雇を拒否し昇給をして彼を引き留めたため、同年3月23日に彼も辞退しました。

その次に、バッハとその他に、メンゼブルクの宮廷オルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマンと、ライプツィヒの新教会オルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3人の候補が挙がるが、3人とも学科の授業に難色を示し、4月9日の議事録には「最良の人が得られなければ、中くらいのものでも採用しなければならない」という意見も上がっています。

市長ランゲは4月22日の正式な選抜会議にて、2月7日に行われたバッハのクラヴィーア演奏を称賛していますが、バッハが採用された最大の理由は教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意した点でした。


「暁の星はいと美しきかな」はこのタイトルからも分かるように、聖母マリアの受胎告知の祭日に演奏されたカンタータです。

フランシスコ・ゴヤ Francisco José de Goya y Lucientes『受胎告知』個人蔵 1785年
実はルター派は偶像崇拝を嫌うため絵画あまり残されていません。
バッハのカンタータはルター派の教会の行事のため作られた実用的な音楽です。

ドイツ・プロテスタント音楽に受け継がれた伝統に忠実に従っていて、素朴な音楽です。

オペラでは最も華やかなアリアは、バッハのカンタータでは、切々と歌う敬虔そのものの音楽に変身しています。

オーケストラも合唱も、当時のバロックスタイルから見ると地味です。
その地味さの中に宗教性が秘められています。

バッハのカンタータは約200曲ありますが、そのどれもが個性をもち渋い輝きをもっています。


シューベルト失恋の悼み

2025-03-11 21:00:00 | ロマン派
月曜日午後は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスン。

いいお天気で鴨川も遊んでいる人がちらほら。

ライヒャルトのエデュードの3番を先生と吹きました。
「指はまわるけど、ゆっくり息を吹き込んで次の音を作る。
声楽家が歌うのにそう簡単に音は取れないでしょう。歌を歌うつもりでしっかり音を吹き込んで!」

後は。タファネルの「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」を見て頂きました。

姿勢、音程が特に低音で低くなりすぎ無いように、フレージングを考えてブレスをとるように。

帰りに出町柳商店街

でランチ食べて帰りました。

久しぶりの銀鮭定食。
煮卵が絶品。
銀鮭も上手く焼いています。
お味噌汁は野菜たっぷりで美味しかった。

おっきなかぶら!
近江かぶら159円、キャベツ299円よりコスパいい?
楽器があるので重くて買えなかったけど…。欲しかった.
食い意地はり過ぎ😅💦

フランツ ペーター シューベルト Franz Peter Schubert (1797-1828)
神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1814-1815年のシューベルト
レオポルト・クーペルヴィーザー(1796 - 1862)による16歳のフランツ・シューベルトの肖像画
1820年作曲されたのが「春への信仰」D.686です。

シューベルト23歳の9月。
その2ヵ月後の11月に、初恋の人、テレーゼ・グロープ

がいよいよ結婚することになりました。
とても結婚できるような経済状態になかったシューベルトは、彼女との結婚を諦めています。

詩はヨハン ルートヴィヒ ウーラントJohann Ludwig Uhland (1787-1862)
ドイツの中世の文学や民謡を研究する文献学者で詩人です。
後に自由主義的ドイツの実現を掲げ代議員にもなっていますが、その夢は挫折しています。

Frühlingsglaube, D686
春への信仰
穏やかな風が目を覚まし、
昼夜を問わず、そよぎ、息づいている。

それはいたるところで活動している。
おお新鮮な香り、おお新しい響き!
さあ、あわれな心よ、心配するな!
今やすべてのことが変わるにちがいない。

世の中は日ごとに美しくなっていく。
さらにどうなりたがっているのか誰も知らない。
花は咲くことをやめようとしない。
最も遠く深い谷まで花が咲いている。
さあ、あわれな心よ、苦しみを忘れるのだ!
今やすべてのことが変わるにちがいない。


バロック大研究組曲「鳥」

2025-03-10 21:00:00 | 近代
土曜日に行った山田池公園の梅林は野鳥がいろいろいました。

日本にいるキツツキ属の内で1番小さなコゲラ。
小啄木鳥 “Japanese Pygmy Woodpecker”
見えるかな?
香里園にいるときは時々見ましたが、大きな木がない牧野では数年全く見ませんでした。
ここで会えてうれしかったです。

それから四十雀(シジュウカラ)は、集団でちょこちょこ移動していました。

ジョウビタキのメス。地味😅

この集団は?

川鵜でした。

これは見にくい!
土管の上に枚方市の鳥。
カワセミさんでした。

おっと!増殖中のヌートリアさんもいました。

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879 – 1936年)イタリア王国ボローニャ生まれ、イタリア王国ローマ没

1927年に組曲「鳥」を作曲しました。
初演は1927年6月、サンパウロの市立劇場で、作曲者指揮シカゴ交響楽団により行われました。
翌1928年にフリッツ・ライナー指揮、シンシナティ交響楽団により2度目の演奏が行われました。
作曲と言っても、バロック時代の曲の編曲で、レスピーギの古典音楽に対する尊敬と理解が伝わってきます。

組曲「鳥」
1.前奏曲
アレグロ・モデラート、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)が原曲と言われていますが見つけられませんでした。情報求めます。

2.鳩
アンダンテ・エスプレッシーヴォ、嬰ヘ短調、3/4拍子。
ジャック・ガロ(1625-1695年)
のクラブサン曲

によります。

3.牝鶏
アレグロ・ヴィヴァーチェ、イ短調、3/4拍子。
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764年)

の新クラヴサン組曲集 第2番(第5組曲)『めんどり』によります。原曲はこれ。


4.夜鶯
アンダンテ・モッソ、ハ長調、3/4拍子。
原曲の作曲者不詳。17世紀のヴァージナル(チェンバロの一種)
フランドルのヨハネス・クーシェのミュゼラー型ヴァージナル(1650年)
のための楽曲によります。

5.郭公
アレグロ、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)

のピアノ曲『かっこうの鳴き声をもつトッカータ』(Toccata collo schertzo cuccu )によります。

レスピーギ組曲「鳥」


ここに春が来た!

2025-03-09 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の午後、近所の山田池公園に行ってきました。
ここは1500年前に作られた山田池を中心に1979年に整備された300本の梅林があります。
「そろそろ、見頃じゃない?」
小雨混じりですが…。

咲いてる!!

かわいい! 
梅一輪 一輪ほどのあたたかさ
        服部嵐雪

いろいろな種類の梅が。

咲いてて

素敵でした。

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini)1322-1397年イタリア フィレンツェ生没

ミニチュアのオルガンを演奏する
フランチェスコ・ランディーニ
(15世紀のスクアルチャルーピ写本より)

ランディーニの生涯の詳しいことは判明していません

父親はジョット派の著名な画家ヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-1358年)


でした。

子どもの頃、天然痘にかかって失明したことで、ランディーニは早くから音楽に打ち込むようになり、リュートなど多数の楽器演奏、歌、詩作、作曲を習得しました。

ランディーニがリュートとプサルタリーPsaltery


を結合させた「syrena syrenarum」という楽器(バンドゥーラ (Bandura)


の先駆と考えられている)などを発明したという記述が残っています。

1360年代の数年間ヴェネツィアに滞在していたキプロス王から月桂冠を授けられたという記述があります。

ランディーニは1370年以前に何度か北イタリアで過ごしていたとされています。

音楽のいくつかがその証拠で、たとえば、モテットは1368年から1382年までヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤めたアンドレア・コンタリーニ(1300-1382年)


に献呈されています。

さらに、ランディーニの作品のことが北イタリアの文献によく出てきます。

1361年、ランディーニはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストに雇われました。

1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)で働きました。

ランディーニは当時の政治的・宗教的論争に深く関わりましたが、フィレンツェ当局の恩恵は受け続けていたようです。

ランディーニはトレチェント音楽(1300年代のイタリア音楽)の作曲家の多くと面識があり、その中でもロレンツォ・ダ・フィレンツェ(?-一1373年)はサンタ・トリニタ修道院で一緒でした。

また、アンドレア・ダ・フィレンツェ(Andrea da Firenze)とは1370年代に知り合いました。

1375年頃かあるいはそのすぐ後、アンドレアはフィレンツェの僕会(下僕会。Servite Order)のオルガン製作の相談役にランディーニを雇いました。

楽器を調律する3日間に二人が飲んだワインの領収書が残っています。

ランディーニは1379年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂(Santissima Annunziata, Florence)


で新しいオルガン製作を助け、1387年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

のオルガン建造計画に励みました。


当時の作家たちの多くが、作曲家のみならず歌手、詩人、オルガニスト、さらに情熱的に献身的なフィレンツェ市民としてのランディーニの名声を証言しています。

音楽で聴衆を感動させるというランディーニの評判はかなり高く、作家たちは「その旋律の甘美さはまるで胸から心臓を飛び出させるほど」と記しています。

ランディーニは死後、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。
そこにはポルタティフ・オルガン(en:Portative organ)
セシリアがポルタティーヴォを演奏している様子を描いたもの(アルテ・ピナコテークのバルトロメウ祭壇の詳細)。パイプの右側にふいごが見えます。
らしきものを持ったランディーニの姿が描かれています。

ランディーニ作曲
Ecco la primavera
ここに春が来ました。

それは心を喜ばせます。

恋に落ちる時が来た

みんな幸せそうに見えます。

私たちは空気と時間を大切にしています 。

それは変わらない喜びを呼びます。

この曖昧な時の中で

すべてにはかなさがあります。

鮮度抜群のハーブたち

そして花が草原を覆う

そして飾られた木々

私も同じです。















旅好きサン・サーンスの芸術論

2025-03-08 21:00:00 | 近代
枚方市役所にバスボート申請に行ってきました。
昨年の8月で切れていました。
しばらく使わないから良いかと思っていましたが
榎田先生が4月21日に神戸市と大邱市の友好イベントで韓国大邱市のフルートオーケストラを指揮される。
と言うことで「エスカル」のメンバーからも助っ人を募られました。

私も手を上げた何人かと一緒に行くことになりました。

久しぶりのバスボートで戸籍謄本を取るところからでした。
近所のダイソーで証明写真を撮り、行ってみると、駅前の駐車場は満車。

周りに並んでいましたが、そこにも入れないので「帰ろうか?」と思いましたが、駅前周辺をぐるっとひと回りして、「やっぱりもうワンちゃんあるかも。」と行ってみると最後尾に並ぶことができました。
値上げしたので結構回転が速いです。
30分ほどで入ることができました。
戸籍謄本も並んでいましたが、またマシ。
「これからバスボートセンターに行きますが駐車料金は?」
みなまで言う前に「複数の課に行かれると言うことなので90分お付けしておきましたので、それ以上は割引きありませんのでお気をつけて下さい。」

枚方市岡東公園のカリヨンの向かい側の、

サンプラザ1号館2階にバスボートセンターがあります。
前回は駅ビルの中でしたが少し移動されました。
こちらは全く待ち無し。
マンツーマンで申請書を書くところから教えていただきました。
それでも出来てくるのは3/21以降だそうです。
そんなものかな?
とりあえず申請出来てほっとしました。
本当にこういうこと苦手…。
こんなことで航空券取ったりホテル取ったり大丈夫?

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns,1835 - 1921年)
フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

サン=サーンス。ピエール・プティ撮影。1900年。

彼は無類の旅行好きでした。
生涯で27か国に計179回の旅に出ています。

サン=サーンスがピアニストとして聴衆の前に初めて登場したのは11歳。

少年時代のサン=サーンス。
それから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝うための記念コンサートがパリのサル・プレイエルで開かれました。
この年の3月から4月にかけて作曲された第5番の協奏曲はその際に初演され、当時61歳だったサン=サーンスがピアノ独奏を受け持ちました。

楽譜は同年に出版されています。
2台ピアノ版は献呈先のルイ・ディエメによって編曲されました。

この曲は避寒先のカイロで書かれました。

第5番には、この国での見聞や、東方的でエキゾティックな雰囲気が反映されています。そのため、サン=サーンスとしては珍しく、表題的な雰囲気を持った「絵画的な」協奏曲が生まれました。

1891年サン・サーンスはエジプトに旅に出ます。
ムハンマド・アリー朝、サン=サーンスは第6代君主タウフィーク・パシャ(1852-1892)の次男で第7代の弟、ムハンマド・アリー(1875-1955)王子(皇太子)

と親しくなり、エジプト滞在する際、彼のためにカイロのローダ島に建てられたマニアル宮殿

に何度も立ち寄っています。
そして王子のために《物憂げなワルツ op.120》(1903)を作曲しています。

1月末にアレクサンドリアに到着し、2月にはルクソール、3月中旬から4月中旬までカイロと、長期滞在になりました。
テノールとバリトンのための二重唱曲《ヴィーナス(ウェヌス)》を作曲し、デュラン出版社に宛てています。

エジプト考古学者のジョルジュ・ルグラン(1865-1917)
ともあっていたようです。
カルナック神殿にある大スカラベ像を見学するサン=サーンスと像の発見者のジョルジュ・ルグラン(1908年以降)
ナイル川の上流、エジプト南部アスワンからスーダンにかけてのヌビア(元々はエジプトと同一の祖先をもっていたものの、その後ギリシャ・ローマ人との混血が進んだエジプトとは異なる文化圏を形成した地域。)を旅行し、ナイル川をダハビア(屋形船)に乗って移動しましたが、そこで船頭が歌うヌビアの恋唄を聴き取ります。

ナイル川のダハビア
この小旅行の後、ルクソールのホテルに缶詰めになって《ピアノ協奏曲 第5番》を作曲します。
後の手紙でルクソールの環境について「ここより仕事するのにふさわしい所はありません、私は水を得た魚のようです。」と述べています。

Camille SAINT-SAËNS, « Égypte », L'Écho de Paris, 29e année, N° 10046, 4 février 1912, p. 1.には、下記のような文章を寄稿しています。

「ところで、我々の近代西洋文明は反芸術の方向へ歩みを進めている。

その証拠が、「芸術」に専念しようとする意図そのものなのだ。

本当に芸術が浸透しているところでは、呼吸をするようにもはや芸術を意識しないものなのである。

ローマの都市であったポンペイにおける芸術を見るように、ギリシア文明においても芸術はそのように存在したし、ギリシアのその本質においては、単なる調理器具といった全くの日用品ですら、常にスタイルを備えていた。

ヨーロッパ文明に侵される前の日本においても、かの国伝来のちょっとしたものであっても、芸術家の称賛に値するものであったのに。

今でも日本人は驚嘆に値するものを作っているが、同時にヨーロッパの商人にそそのかされて、ぞっとするものも作っている。

我々西洋人と同じように、日本人も芸術品と並んで商業品を作っていて、その結果、芸術の感覚が失われてしまった。」

ピアノ協奏曲第5番
第1楽章 アレグロ・アニマート
ヘ長調、4分の3拍子、 

第2楽章 アンダンテ - アレグレット・トランクイッロ・クアジ・アンダンティーノ

4分の2拍子に転じ、サン=サーンスがナイル川で聴いたヌビアの愛の歌によるメロディが切々と歌われ、「コオロギやカエルの鳴き声」(サン=サーンスによる)が聞かれる。後半にはガムランを思わせる響きも現れます。

第3楽章 モルト・アレグロ
ヘ長調、4分の2拍子
サン=サーンスは「航海の楽しみ」と表現。船のプロペラの動きが模されているといいます。
後に、この楽章のみ『練習曲 ヘ長調 作品111-6』としてピアノ独奏のために編曲されました。








ニンナ・ナンナ

2025-03-07 21:00:00 | バロック
木曜日午前中、子育てサロンの卒会記念のコルクボードの準備をしました。

布をハートや星に切って、裏側に両面テープを貼ります。

コルクボードの枠に貼る布も裏側は両面テープ。
子どもの写真を挟む木製洗濯バサミに貼る布を切ってやはり両面テープ。

両面テープをくっつけるラフィアは地域の方のご寄付です。
押しピンには100均のビジューをセット。
ヨーヨーキルトは、以前作った残りです。

それにも裏に両面テープを貼ってお母さんたちに自由に貼ってもらいます。

子どもたちがスタッフと遊んでいる間にお母さんたちに仕上げてもらいます。

「来るだけで、こんな物をもらえるなんてやり過ぎじゃない?」という意見もあります。

「物じゃ無くて、子どもたちと一時離れて楽しむ時間を持ってもらうんです。」と言いました。

たかだか20分位の短い時間。
それも離れない子もいます、泣いたら気になって中断しながらの製作です。
短い時間で仕上げられて、素敵に出来たらお母さんたちうれしいんじゃないかなぁ?

子育てサロン
ぽっぼくらぶ
第2火曜日
次回3月11日
会館との2 10:00〜11:30
申込不要、無料 保護者と子どもたち 妊婦さん

Ninna Nanna
ニンナ・ナンナ
イタリア語で子守唄のことです。
バロック時代から伝わる子守唄ですが作者はわかりません。

アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ(Artemisia Lomi Gentileschi、1593 - 1652年)ローマ生まれ、ナポリ没

イタリア、カラヴァッジオ派の画家でフィレンツェの美術アカデミーにおける初の女性会員。

1610年聖母子
ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナにあげたら
彼女はそれを一週間抱っこするつもり

黒人に渡したら
彼はそれを1年間抱っこするつもりです

ニンナ・ナンナ
そんな赤ちゃんは私のために!




ニンナ・ナンナ
この子を誰にあげようか?
魔女ベファーナに渡せば
彼女はそれを一週間保管するつもりだ
ブラックウルフに渡せば
彼はそれを1年間抱っこするつもりです
それをホワイトウルフに渡せば
彼はそのこを長く抱っこするつもりはありませんよ

ニンナ・ナンナ
誰にもあげませんよ

カウンターテナーのフィリップ ジャルスキーと古楽器アンサンブル 
タの演奏です。





懐かしいフルートが蘇った!

2025-03-06 20:48:00 | ロマン派
プリマ楽器のフルート。
高校生の時にお年玉やアルバイトで貯めたお金を全部つぎ込んで買ったファーストフルートです。
買ってきた時は嬉しくて枕元に置いて寝ました。

部活のブラスバンドでずいぶん活躍してくれました。
地域のブラスバンドにもこのフルートを握りしめて参加していました。

しかし、それから数年後。
新しいフルートを買い、このフルートは放置。

長い年月のうちにキーに緑青が浮き、タンポは破れ、音が出なくなって芯も少し歪んでいたかもしれません。
全てのキーが閉まらないという惨状に。

それが、2月にフルートの角谷雅一さんと、ピアノ坂田恭子さんと久米でドップラーのアンダンテとロンドを練習した時のこと。

「これはなんですか?」と角谷さんに聞かれるままに「プリマフルート、もう無いでしょう。サンキョウフルートになっちゃって…。もう古くて音が出ないんです。」
と見せてみると、
「これは、珍しい!これ持ってかえっていいですか?」
「えっ!いや、これは私のファーストフルートなので、置いときたい。」
「音が鳴ったら?」
「それはめちゃくちゃ嬉しいです。」
「治してきますよ。」
というわけで、角谷さん、持ち帰ってしまいました。

そして2月28日の「聴き合い会」の時、「できましたよ!」と持ってきてくれました。

「音が鳴る!!」

これでドップラーのトリオ、メンコンのヴァイオリンパートも吹いてくれました。
びっくり!
こんなに嬉しいことはありません。
感激しました!
懐かしい楽器が戻ってきました。これからは時々鳴らして可愛がりたいと思います。
こんな素晴らしいことが私の人生に起きるなんて夢のようです。
角谷さんに感謝です。

マリオンに憧れてこの楽器を買いました。
彼が、吹いていたのはサンキョウフルート。
かつてのプリマフルートです。

ニースでマリオンの授業を聴講しました。人気すぎて受講席取れなくて他の先生の授業を受けました。
彼は当時輝けるスターでした。

アラン マリオン(1935-1998年)フランス マルセイユ生まれ、1938年、マルセイユ生まれ。韓国ソウル没

9歳からマルセイユ音楽院でジョゼフ・ランパルにフルートを師事し、14歳で首席で卒業。
その後はパリでジャン=ピエール・ランパルの薫陶を受け、1961年にジュネーヴ国際音楽コンクールに入賞を果たしました。

1964年からフランス国立放送室内管弦楽団の首席奏者を務め、1967年にはパリ管弦楽団の首席奏者に転じました。
1972年にはフランス国立放送管弦楽団の首席奏者になり、
1977年からアンサンブル・アンテルコンタンポランに参加しました。

教育者としては、1969年からパリ音楽院のフルート科の教授となり、1986年からニース夏季アカデミーでもフルートを教えました。
1980年に初来日し、以後度々日本に来演しました。
1998年にマスター・クラスを開いていたソウルで急死しました。

フランソワ・ボルヌ(1840年 - 1920年)フランス共和国モンペリエ生まれ、フランストゥールーズ没

は、ボルドー大劇場

のオーケストラで演奏していたフランスの フルート奏者です。

トゥールーズ音楽院(トゥールーズ高等音楽学校)の作曲家兼教授でした。

フルートの技術的改良で知られています。

技術的な可能性を高めるためにベームの楽器に改良を加えました。

また、フルートの新しい可能性を演奏家が披露できるような曲を書きました。

改良されたメカニックのせいでテクニックがより簡単になり、音質と音量が向上したことで、よりヴィルトゥオーゾ的で表現力豊かな音楽が可能になりました。

最も知られているボルヌの仕事は、ロマン派のフルートのレパートリーの定番である ビゼーの「カルメンの主題による華麗な幻想曲」
カルメン幻想曲の初版の表紙1880年
の作曲です。



お茶を愛でた王室

2025-03-05 20:57:00 | バロック
日曜日に行った茶源郷和束町で買った煎茶ドレッシング。

生野菜のサラダにかけて… !
甘い!酸味少しとお茶の香りはさすがですが。
味醂やお酒の甘さでいい甘さですが、サラダより、豚しゃぶか、デザートにかけて食べたい感じでした。
井手町の薄揚げ。

これがおいしいんです。

豚肉と野菜のあんかけに入れたら絶品でした。
しかも大きいので、お味噌汁に入れたりまだまだ使えます。

イギリスが東インド会社によって中国から紅茶を輸入したのはジョージ3世(1738年~1820年)の頃でした。

「ファーマー王」と言われていて政治にはあまり興味がありませんでした。
現在のドイツ北部に存在したメクレンブルク=シュトレーリッツ公国に生まれたシャーロットを妻に迎えました。

ほぼ無名のシャーロットを選んだのはプロテスタントで跡継ぎを生んでくれる女性だぅたからだそうです。

期待通り彼女は14人の子どもを産みました。

ジョージ3世と子どもたち

紅茶を飲む風習も定着し、この頃には王妃は紅茶陶器の「ウェッジウッド」のクリームウェア(磁器ではなく陶器)を支援し、
シャーロット王妃が絵柄のクリームウェア
夫婦でコッツウォルズの近くに保養に行き、音楽会の帰りに寄ったウースターの街のウースター窯でシャーロット王妃が「ローヤルリリー」というティーセットを購入。
日常のティータイムに使われていたそうです。

ローヤルリリー
ゴールデン・ジュビリー( golden jubilee)とは重要な出来事の50周年記念日のことです。
また、それを祝賀して開催される祝典のことです。英語圏での呼び名ですが、50年の節目の祝典は世界各地で行われます。

ジョージ3世は、実際に即位50周年となる1810年に先立ち、1809年10月25日に祝賀されています。


花火が打ち上げられ

ロイズの北側正面のイルミネーション

ヴォクスホール ガーデンは、高さ 70 フィートを超える、忠誠の輝かしい神殿を思わせるように配置された、さまざまなランプ。ちょうど 50 個展示され、皇帝の王冠やその他の王家の紋章で飾っていました。

音楽は「神は王を守る」が聖歌隊によって合唱され、鐘が音楽のように1日中鳴らされたと言われています。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

はすでに亡くなっていますが、その後の王室で戴冠式や式典には必ずヘンデルの司祭ザドクや戴冠式アンセムが演奏されたことから、この時も楽団によって演奏されたと思われます。

ジョージ2世「戴冠式アンセム」より『主よ、王はあなたの力に喜びたり』HWV 260








枯れた演奏

2025-03-04 20:55:00 | ロマン派
リッタースハウゼンの木管フルート、榎田先生が頭部管の割れを治してきてくださいました。

けれどタンポが乾いてボロボロに。
今とは規格が違う薄いタイプのタンポで替えがないらしいです。
吹かせてもらいましたが、上手くならせません。

先生は吹けるんだけれど…。
アンサンブルのメンバーたちも吹いてみましたがなかなか…。 

結局榎田先生が、
「オープンG#だけじゃ無くてさ、ブリジアルキーも違うだろ。こんな楽器吹けるの世間広しと言えども俺ぐらいだからさ。俺の持ってるベーム式の木管と交換してあげるよ。」
「確かに…。」
というわけで、またまた先生お持ち帰りになりました。

「ちょっと時間かかるかもしれないけど…。」と、いつになるんだろう? 

木管フルート欲しいです。

月曜日夜はドボルザークの「セレナーデ」第1楽章を練習しました。
それからヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」合奏協奏曲、休憩を挟んで、「テイク・ファイブ」「煙が目にしみる」
「煙が目にしみる」は「みなさんの演奏は元気よすぎるんですよ。高音に向かってもっと減衰して、小学生みたいな演奏だよ。」
「丸ビルの上のバーラウンジで呑んだことありますか?大人の感じ。」「丸ビルもう無いけと…。」と隣のA氏。

在りし日の丸ビル

スカイラウンジ トップサーティ
それはともかく初めからやり直し。
「今でやっと20歳くらいです。もっと大人の感じ、枯れたおじさんみたいに。」
「テイク・ファイブ」は5拍子が難しい。

私はダルセーニョの後分からなくなってしまいました。
「迷子になったわ」ととなりのメンバーに言うと「あ!このセーニョ、ウソウソ。こっちに飛ぶんだ。」と楽譜のミスプリントでした。休んでたから伝わって無かった…。
「また、ちゃんと練習しててくださいよ。」とこちらはなりました。

クラッシック音楽で枯れた感じと言えばブラームスの「クラリネット五重奏曲」を挙げる人も多いです。

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms(1833- 1897年)ハンブルク生まれ、ウィーン没

クラリネット五重奏曲 (ブラームス
ヨハネス・ブラームスのクラリネット五重奏曲ロ短調 作品115は、彼の晩年に完成しました、

ブラームスを代表する室内楽曲の1つです。

1891年の夏にバート・イシュル

で作曲されました。
姉妹作の《クラリネット三重奏曲 イ短調》作品114と同時期の作品です。

ブラームスは夏の時期に様々な避暑地を訪れていましたが、何度か訪れていたこの避暑地以上に快適な土地はないと、前年からその地で夏を過ごすようになっていました。 
バート・イシュル滞在中にブラームスは興が乗り、珍しく速筆で作品を仕上げています。

この2曲の初演は非公開を前提に、マイニンゲン公ゲオルグ2世(1826-1914年)

の宮廷
マイニンゲン宮廷劇場
において11月24日に行われました。演奏者は、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルト

とヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム

マイニンゲン宮廷管弦楽団のメンバーでした。
このときと同じ顔ぶれによる公開初演は、ベルリンにおいて12月10日に行われ、熱狂的な反響を得て全曲が繰り返し演奏されました(ただしその2日後の上演は、評価が芳しくなかったという)。とうとう1892年1月5日にウィーン初演が行われました。
このときの演奏者は、クラリネット奏者のフランツ・シュタイナー(1839 - 1902)と、ロゼー四重奏団でした。それから15日遅れで、ミュールフェルトとヨアヒム四重奏団もウィーンで上演を行って大成功を収め、この時は無条件で称賛の念を表す批評で占められました。

ブラームスは、《クラリネット五重奏曲》のあまりの評価の高さに対して、「自分は《三重奏曲》の方が好きだ」と言っています。


第1楽章
アレグロ(ロ短調、6/8拍子、ソナタ形式)

第2楽章
アダージョ(ロ長調~ロ短調~ロ長調、3/4拍子、三部形式)

第3楽章
アンダンティーノ(ニ長調の間奏曲、4/4拍子)

第4楽章
コン・モート(ロ短調、2/4拍子、変奏曲形式)