音楽の喜び フルートとともに

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2016-05-12 21:54:51 | 哲学
サンクス マザーズデイというミニバラは、2年前にコンサートに出た時にいただきました。名前の通り母の日近くになると、ちゃんとさいてくれます。
今年も、

こどもが生まれて数年は、緊急事態。
赤ちゃんのお世話で、ちゃんと寝ることも、食べることも、お風呂に入ったり、トイレに行くこともできませんでした。

それでも、こどもは熱を出したり、言葉数が少なかったり、歩き出すのが遅かったり…。
その度に、何か間違ってたんじゃないか?
親としてやるべきことを、怠ったのではないか?
こどもの顔や身体をよく見たり、
別の何かを加えたり、今までやっていたことをやめてみたり。
本を読んだり、ママ友に聞いてみたり。

お世話しなければ、赤ちゃんは、死んでしまう。
あたりまえに、赤ちゃんを育てている何万人の母親と自分を比べて、落ち込んでみたり。

思春期、あれほど反発した自分の母さえ、自分よりもりっぱにみえます。

しかし、そのあたりでだんだんと気がつき始めました。

どんなに頑張っても、完璧な母親にはなれないと。
そして世界中どんなに探し回っても完璧な母親は、いないと。
自分が、あり得ない完璧なこどもを求めているから、こどもも、私も苦しい。と

完璧な母だけでなく、完璧な父も、完璧な人間もいない。

ありのままの人がいて、人はみんなそれぞれに、醜くて、美しい。
そして、変化します。
成長することもあれば、停滞して見えたり、後退して見えたり。
生きていたら、いろいろなことがあります。
完璧でなくても、幸せにはなることができます。
幸せでいましょう。




ロボット

2016-04-25 21:44:25 | 哲学
関西医大のエントランスに、pepperくん。

関医くんと言うらしいです。
館内を案内してくれます。

かわいい❤️
対話したかったけど、隣りのカウンターにいつものお姉さんがいるのに失礼かもしれない。
それに質問が無い。残念。
帰ってからも、残念感が…。

アシモフのIロボットは、人間を殺さないというルールに縛られていましたが、多くの人間は、ルールが無い。
1985年のオーソン スコット カードのエンダーのゲームでは、選ばれた子どもがゲームを延々する。ママのお昼を食べ、またゲーム。最後に、それはゲームではなくリアルな戦争だったとわかります。

SFでしたが、今はもう現実の戦争の姿です。
アメリカの若者が、恋人とショッピングをして、マクドナルドでお昼を食べて、画面の前に座って、ボタンとコントローラーで、爆撃。
何人か殺した後、地下鉄に乗って家に帰って安全なベッドで寝るのです。
殺されたり、負傷する恐怖が一切無いのです。

先天性無痛無汗症の子どもは、痛みがないので、歯が抜けた時に、親の喜ぶ顔を見て、次の日、全ての歯を自分で抜いてしまったり、空を飛べるかもしれないと、何度骨折しても2階の窓から飛び降りてしまう。
ということが、あったそうです。
また、同じ無痛症の兄弟同士で、好奇心からナイフで、手足を、切っりあってしまったこともあったそつです。
母親が、2人を見つけた時、血だらけで無邪気に大笑いしていたそうです。

痛みを感じないということは、大変なことです。
この子どもたちは、両親や周りの人の教育や、サポートによって、わからない痛みへの結果や、もたらす影響を知っていき、無痛症がありながらも、平穏に生きていくことができるようになります。

耳が聞こえ無い人や、目が見えない人にも情報やサポートがあるように。

しかし、社会が赦し、国が奨励し、教育され、拍手され、激励される無痛が
引き起こす結果を誰が止めることができるでしょう?

障害や、病いであると認められることさえない。

ババラギという南の島の酋長が、人が1人亡くなると、島ではその人を悼んで、浜辺で泣く。友だちが寄り添う。

いつまで?2日?3日と聞くと、

驚いて、酋長は、大切な人が亡くなった悲しみが癒えるまで、何日かかるかわからない。
と答えました。

もう、こんな話の方が昔話しのファンタジーになったのかしら?




















オウムガイの世界

2016-02-25 23:22:29 | 哲学

アンモナイトは3億五千年前、古生代デボン紀から中生代白亜紀に、世界中に繁殖していたそうで、その後絶滅。なので、地層の時代を特定するために欠かせない化石だそうです。
そのアンモナイトに似ていることで有名なオウムガイ。
生きている化石とも言われています。

実際にはイカやタコの方が、アンモナイトよりは近いらしいですが、厳密に言うとやっぱりイカタコとも違って、オウムガイ科オウムガイ属だそうです。
貝のようにも見えますが、軟体動物だそうです!
宮沢賢治が、イギリス海岸と名付けた北上川の土手は、イギリスドーバー海峡の崖と同じ白亜紀の化石が出てくるそうですが、実際には淡水なので、ドーバーとは違うそうです。

オウムガイだって、アンモナイトとは違うけれど、見れば見るほど、おもしろい形、不思議な模様。
誕生したのはアンモナイトより古く4億5千年前。
以来、長いこと進化ぜず同じ形だそうです。
ゆっくりと殻を成長させながら生きるそうで、11年から20年生きるそうです。

46億年前に地球が誕生してから、生物の誕生が40億年前。370万年前に初めの人類アウストラロピテクス。
20万年前~14万年前に今の人類の祖先が現れたそうです。
たかだか20万年の人類の歴史を4億年を生き延びたオウムガイはどう見るのでしょうか?
進化といいますが、4億年形を変えないでオウムガイは生き延びて来ましたが、進化の頂点にあると思っている人類は、たかだか6桁を生き、こういう貴重な生物をも、もろともに自滅の道に引き入れてしまうのでしょうか?
ご立派な脳があるために、想像を膨らませ、疑心暗鬼を呼び、200万発の核兵器は、地球を何度も滅亡させる力を持っています。

素晴らしい宗教も、哲学も、科学も、,芸術も軍隊の前には本当に無力なのでしょうか?
地球の死の淵まで追いやった大戦を経ながら、想像力をこんな形で使うことを世界中で赦すなんて!

現代人の空洞は、抑止力という社会の考えを基礎の上に巣食っているから。
相手は信じられないから、相手が武装するから、というのは、どんな美辞麗句で飾ってもつまりは、相手によって自分の行動を決めること。
相手の責任であって、自分の責任で行動するのではないから。
どこまでいっても、自信が湧いてくるわけはないのです。

外側を武装すればするほど、内側は弱くなる。
自分がしたいことを選んでいるのではなくて、しなければいけないことをしているだけだから。
そんなところには人間としての喜びが有り様がないから。
長生きはできても、命は輝かない。

つまりはオウムガイの方がずっと生命を輝かせて生きているということに愕然とするのです。


チャレンジしよう。

2016-02-19 22:19:10 | 哲学

次男が春休みで帰ってきました。
お土産はいつものパン屋さんのパン。

瀬戸内レモン酒となぜかふきのとう味噌。

最後はやっぱり広島県産レモン。

レモンが名産でよかった!
レモンワッフル、レモンクッキー、レモンケーキを妹と姪と祖父母に買ってきました。

福山で勉強していただけでなく、尾道でイカ釣りをやったりしていたらしい。
しかも、夜中。
おもしろそう!私もやってみたい。寒いのは嫌だけど・・・。

当たり前ですが、親の知らない道をどんどん歩んで行っていることがうれしいです。
もっともっと世界を広げて、いろんなことを吸収していって欲しいです。

私もこれぐらいの頃、いろいろ冒険しました。
茶道、華道、指揮をしたり、お琴を弾いたり、歌を歌ったり、ギターを弾いたり、コントラバスを弾いたり、行き先のない旅にでたり、スキーをしたり、スキューバダイビングをしたり、テニスをしたり、スカッシュをしたり、ジムに通ってみたり、巫女さんのお手伝いをしたり、百貨店の売り子をしたり、漫画を描いたり、舞台に出たり、シナリオ書いたり、小説を自費出版してみたり、フルートを一本持って、フランスに行ったり、アニメの上映会をしたり、コンサートも一つ一つが冒険です。

その時限りの経験も、何度もチャレンジしてみたことも、なんともならなかったこと、恥ずかしかったこと。失敗も数限りなく。

どんなことをやっても、たとえ失敗をしたとしても、今となっては自分の中では、経験しておいてよかったことになっているのは不思議です。

とここまで、息子に言っているだけなら、気楽なものです。

まあまあいい年ですが、私もチャレンジ精神を忘れずに、これからも冒険し続けたいと思います。


年賀状事件

2015-12-31 21:26:56 | 哲学

「父、認知症でも元気」と年賀状に書いてみんなに配りました。
たまたま来ていた母が「認知症なんて書かん方がいいよ。」
「なんで?」
「こんなこと、書く事じゃない。」
「だからどうして?」
「・・・。」

もう、3年以上なって、いろんな公的サービスも受けて、隣近所の人や、カラオケサークル、同窓会、あらゆる関係するところに断りを入れておいて今さらなぜなんだろう?
母はついに何も言わずに帰ったけれど。
名誉とか、年賀状から誰かの気分を悪くしたくないとか・・・。
私にはそういうところが欠落しているのかもしれません。

というか、もうこういうことについて、数年前に私の中では結論がでてしまっているんだなということを再確認してしまい。そして、親といえども同じ考えであるとは限らないということを思いました。

ひどいアトピーの子どもをもった親としては、こういう人と違うこと。障害、病気を隠しても守らなければならない何かと、子どもの生命の安全を天稟に掛けると、もう話すしかない。ということでした。

幼稚園でも、学校でも、友達関係でも、うっかり出されたものを口に入れた途端に、呼吸困難、アナフィラキシーショックにでもなったら・・・と考えると、とりあえず言うことが、子どもの安全を守る一番でした。

もしかしたら、口に入れてしまうかもしれない。だからって、相手に責任を問わないと決めていました。一緒についていけなくなった小学校に入る頃には、自分で自分の身を守れるように躾ていましたし、それで間違ったら本人の責任だと思おう。と覚悟して外に出していました。

面倒なことになるのが嫌な人とは付き合わなかったかもしれませんが、嫌だという人に無理して付き合わせるつもりもありません。

ある時から「信じる」と決めたのです。
息子は強い。自分のことは自分で守れる。
もう一つは、人々の善意を信じる。

もし、期待通りの対応でなかったとしても、それは、完璧な人間はいない、お互いの未熟さのせいであって、成長の過程であると思うことにした。ということです。

正直、嫌なこともいろいろあったけれど、隠しながら人の手を借りるなんてことはできないし、誰一人として誰の手も借りずに生きることなんてできないし、健康な人だってしていない。

それを認め合うことは、みんなの安心や、安全を増やすことになると思うのです。
なので、すみません。私の年賀状には、父認知症と書いたまま発送されています。

病気はひょっとしたら、忌みごとなのかもしれません。
おめでたい年賀には、忌み言葉というのがあって、それが日本の伝統だと言われればそうかもしれません。

しかし、考えてみてください。伝統は月経も、出産も不浄とし、女自体不浄とされ、極楽往生もしないとされたり、場所によっては女や障害のある人は間引かれたり、流されてきたのです。

そういう伝統に従いたい人は従うのもいいでしょう。強制はしません。
でも、私はそうやって、自分ではどうしようもないことで、人を排除するのも、排除されるのも吐き気がするほど気持ち悪くて仕方がないし、誰かを軽蔑することで得る優越感などちっぽけで、恥ずかしいものだと思うのです。

一時は健康なグループに属したみたいで、強くなったような気がするかもしれませんが、結局は、自分一人の人間としての自信がないから、属したくなるのであって、そういう自分を自分から隠せば隠すほど、一人の人間としては自信がなくなって弱くなるのだと思います。

それに、認知症でも父の満面の笑顔は、社会的には弱くなったかもしれませんが、人間としてはなかなか行けていると私は思っているのです。


ハッピーメリークリスマス!

2015-12-26 00:09:51 | 哲学

メリークリスマス!
クリスマスの過ごし方はいろいろあります。
ワクワクして、サンタクロースの奇跡を待った子ども時代。
クリスマスツリーを飾ったり、ケーキにロウソクを付けて吹き消したり、プレゼントを待ったり、いい子になると誓ったり。

親になって、子どもを魔法にかける喜びを知った数年。
本当に子どもたちが楽しんでいるのみるのはたのしかった。

さて大人ばかりで、感動が薄くなった今、世の中楽しいことはなんにも無いと、がっかりすることはありません。
奇跡を起こせるのは、サンタクロースばかりではありません。
家族がいてもいなくても、ボランティアをしたり、身近な子どもたちのために何かできることをしたり、見知らぬ子どものために寄付をしたり、

誰かが、アンケート調査をした結果があります。
自分の為の買い物は、何かしら後悔があるそうです。でも、誰かを喜ばせるために出したお金は、後悔が無いし、後になるほど喜びになるそうです。

余裕が出来たら、お金をだそうと思ってしまいそうですが、余裕が無くて、世の中が苦しくて仕方ない時ほど、寄付をしたことは、自分に効いてきます。

それは、自分が世の中の犠牲者ではなくて、創造者の一人だと思わせてくれます。
力の無い翻弄されるだけの一枚の葉ではなくて、光を養分に変えて太い幹に送る一枚の葉だということに気づかせてくれます。

いいことが自分の周りに何もなくても、いいことを起こせる。いいことを起こしたかもしれないと思って生きることは自分に思わぬ勇気とパワーをもらえます。
一緒に奇跡をおこしませんか?

これはデザートアイスバーカラフル。近くのスーパー銭湯に母と次男を連れて行き、見つけて一緒に食べました。

ささやかに、ハッピーメリークリスマス!


父の帽子

2015-11-18 00:07:20 | 哲学

Mさんから、頂いたカブ。
薄くスライスして、塩をして、少し置いて、こんぶとトウガラシと一緒に甘酢につけました。


おいしくて、ついつい食べてしまいます。

夕方雨の中、母に頼まれて平和堂へ行きました。
雨がすごすぎて、センターラインが見えません。
怖いので徐行運転。
平和堂デイで、全館割引。
父のズボン、父のセーター、父の靴下、父のパンツ。
母と2人で買うのは父のものばかり。
母がレジに並んでいる間に、近くをウロウロしていると、
「今からタイムサービス、この中央廊下全品半額!」の声。

行ってみると、レディスのボトムや、トップスがたくさんぶら下げてあります。
安いけれど、ちょっと今の時期にすれば薄手。
ダウンジャケットは、昨年の流行り。

「男性小物、スカーフ、帽子も半額!」
と、ワゴンが増えました。

見ると、いつも父がかぶっている帽子の定番品が。
「お母さん。」と母を呼んだら、「ああ。これこれ。」とやっぱりそうでした。
半額で買えました。

さて帰ろうと、車で外に出ると、やはりすごい雨。サーチライトで照らしてもそう明るくなりません。
怖いです。
平和堂の中にいるうちは少しも気づきませんでした。

決死の買い物の成果を持ち帰ると、父が帽子をとても気に入って、夕飯を作っていると、「どうしたん?これ、わしに買ってきてくれたんか。」
と見つけてかぶっています。

「お父さんに平和堂で買ってきた。」と母。
「へー!いいやんか。」と父はニコニコ笑ってかぶってみます。
その笑顔を見ると、「ほらね、買ってよかった。」と母。私も手伝ったのでうれしいです。

認知症がいいのは、忘れてしまうこと。
10分ほどしたら、また、同じ感動、同じテンションで「どうしたんやこれ?」と始まります。

なんども、感動を伝えてくれます。

かつては「ありがとう」も「うれしい」も一回言えば、それで良いと思っていたり、言わなくても伝わると思ったり。
「ごめんなさい」や「すみません」という言葉ですませてしまったり。
父もあまり言わない方でしたが、最近は何回も喜んでくれるので、喜びは何倍にも、何時間にもなります。

それで、私たちが調子に乗ったり、父を馬鹿にしたい気持ちになるか?というと、全く反対で、こういうことをすると、父が喜ぶのかということがはっきりわかり、また繰り返して喜んでもらいたい気持ちになるのです。

このことから、周りの人を喜ばせたり、感謝したりはどんどんやった方が、自分が楽しく生きられるようになる。ということがはっきりとわかります。

認知症になった父から学ぶことは多いです。


同じ月の下で

2015-09-28 22:45:35 | 哲学

今日はスーパームーン。さっき、撮影のため、外にでたら雲がかかって見えません。早くとっておけばよかった。試したいことがあったのになぁ。
代わりに地上のスーパームーン。マリーゴールド。
月のように丸くて、かわいいでしょ。よく咲いています。



どんどん咲く簡単なマリーゴールドは、花びらが重なっているところもゴージャス過ぎて、日本人としてはもうたくさんと思ってしまいます。
桜のようなはかなさもないところも、人気が今ひとつない理由かも、

しかし、マリーゴールドは丈夫でよく咲くので安心です。安心って大事。
バラが咲かなくなっても、水をあげるだけで元気に咲いてくれています。
それによく見ると、花びらが繊細できれい。


お月様は世界中に戦争による被害、天災による被災、人災、貧困にあえぐこどもたちがあふれていて、同じ月を見て泣いているなんて、知らないでしょう。

世界中の大人たちが、自分が一番傷ついて、苦しんでいるのだから、腹を立てて、仕返しをして世界をめちゃくちゃにしてしまってもいいと考えるから、子どもたちはいつもひどい迷惑をこうむっているのです。

これは政治の話ではありません。宗教でもありません。
右でも、左でもありません。

人権、
人として生きるために必要なこと、例えば、衣食住。言葉を発すること、意見を言うこと、トイレに行ったり、遊んだり、勉強したり、大人なら働いたりすること。

運動でも、活動でもありません。憲法に書かれていますが、憲法ですらない。憲法はそれを実現するために形にした方策であって、憲法それ自体が目的ではありません。

人としてこうありたい。ということ。
人として、人同士として、あたりまえの権利をお互いに大切にしましょう。
それだけのこと。

あなたにもあって、私にもある。
私にもあって、あなたにもある。

お互い様。と言ったほうが、いいのかもしれない。

同じ月の下で、安心して眠ることもできない子どもたちを作らないように。
相手の権利を取らないで、自分の権利を守るためにはどうしたらいいだろう?

人生は二者択一では無い。善悪でも無い。
複雑で、難しいことばかり、本当に嫌になってきます。

それでも、必ず、第3の道があります。
それを探すために時間がかかったり、苦悩するなら、いくら苦悩してもいい。
それが子どもたちに安心な世界を渡すということに繋がると信じるから。


諦めない人々

2015-09-18 23:19:37 | 哲学

暑い暑い夏が過ぎ、元気がなかったガーベラに花が戻って来てくれました。

FBのいいところは、いろいろな人の見方がわかるところ。
一つの記事もいろんなコメントが寄せられます。正直、嫌になっちゃうほど、醜悪な誹謗中傷のようなコメントもあるけれど、
メディアの読み方もいろいろあるんだってことが、わかっておもしろい。

面白かったのは、産経新聞の世論調査 安保法案でデモ参加者は全体のたった3.4%、これからデモに参加したいと思っている人は18.3%に過ぎない。という報道に、日本の人口に当てはめて計算した人がいて、人口の3.4%は425万人、参加したい人18.3%は2196万人だって。

合わせると21.7%国民の約2割。
5人に一人が安保反対デモに参加したか、参加したいと思っているということ。
そういうふうには記事からは私は読めなかったなぁ。

同じものを目にしていたり、聞いていたりしていても、人によって受け取るものは全く違うということを教えられました。
それに、元気な人たち、諦めない人が世の中にはたくさんいるということがわかって、私も元気になってきました。

FBは、ほとんどはたわいのない話。
寒くなってきたとか、散歩してたら、山に雲がかかったとか、美味しいものを食べたとか、地域のお祭りを手伝ったとか、

でも、それが大事なんだと思います。意見だって、いろいろある。全面的賛成、部分的賛成、積極的賛成、消極的賛成、積極的反対、消極的反対。変わることも有るし。

意見が違う人を敵とか味方とかいったら、ナチスの全体主義と同じ。
意見はみんな持ってもいいし、表明する権利もあります。
意見は違っても、自分と同じ、他愛のない生活の中の喜びや、悲しみを持つ人がそこにいると、見えていれば大丈夫。きっと。


アイヒマン実験

2015-09-16 22:07:24 | 哲学

1960年代、アメリカで、ミルグラムという人がしたこんな実験があります。
20歳から50歳代の男性を新聞広告で実験協力者として募集、偽のくじ引きで、教師と生徒に役割を分担させて、生徒が問題を間違えるたびに教師役は45Vから始め、15Vづつ電流を上げていくという実験です。

実は被験者は教師役だけで、生徒は役者です。

生徒は、75Vで、不快を訴え、120Vで大声で苦痛を訴え、270Vで苦悶の金切り声をあげ、300Vで大声で実験中止を求め、330Vで無反応になります。

また、実験を拒否しようとしたら、白衣を来た人物が出てきて、4度実験続行を促します。下記のように。

  • 続行してください。
  • この実験は、あなたに続行して いただかなくては。
  • あなたに続行して いただく事が絶対に必要なのです。
  • 迷うことはありません、あなたは続けるべき です。

四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を求めた場合、実験は中止されます。
あらかじめ被験者には45Vは体験させておいて、さて実験開始。
演技をする生徒を前に、

135Vで一人が、実験を疑い、意見をぶつけました。

しかし、その後、疑問を感じると言いながら。誰も300Vまでやめませんでした。

40人中25人(65%)が最高電流の450Vまであげました。

1960年、ヒトラー政権下で数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送ったアイヒマンが、妻の誕生日に花を贈ったことで、正体がばれ、捕らえられ裁判にかけられました。

そこで、アイヒマンは、一般に思われているような人格異常者ではなく、真摯に職務に励む、一介の平凡で善良で、小心な公務員。妻に花を贈り、家族に愛情を注ぐ普通の市民のように見えたそうです。

1961年、ナチスが特別なのか?普通の市民でも一定の条件下では誰でも残虐行為をするのか?を調べるためにこういった実験を行ったそうです。

ここからは、私見です。
白衣の男性、社会的権威の象徴。そして、実験は社会的正義と思われるものを象徴していると思います。
教師と生徒は、伝統的に生徒に対しての権威で、善を行い、教えるものとされています。
しかし、ここでは仮のものであって、現実には仕事を失ったり、路頭に迷ったりするものではありません。

それでも人に通電するという、紛れもない暴力行為を、普通の人々は、正当化する名目さえ与えれば、いや、正当化では無い。ちょっとした社会的権威からのプレッシャー。それも自分は殺されるというようなひどいものではなく、軽いプレッシャーで行ってしまう。そういうものだということを、しっかり自覚した方がいいと思うのです。
考えたら過半数以上が、通電を拒否する世の中だったら、とっくに国による暴力行為はなくなっているはずです。

しかし、一方で自分が殺されても、絶対に暴力を選ばなかった人もいます。
ガンジー、キング牧師、ネルソン・マンデラ。
彼らは特別だったのでしょうか?
でも、国を変えるようなことは、彼ら一人では成し得なかったはずです。
彼らを支えた無名の大勢の人々。傍観することをやめ、彼らの隣に立った人々。
銃や、国家権力の前に丸腰でたった人々。

私もボタンを押すかもしれない。今、押さずにすんだかもしれないけれど、次は押すかもしれない。
そう考えるのは、つらいけれど自覚しておかないと、無邪気、純粋、天真爛漫は、簡単に通電する。そう思うのです。