音楽の喜び フルートとともに

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強打者マイティ ケーシー

2024-08-23 21:00:00 | 現代
野球にあまり興味はないけれど…阪神電車に乗って西宮ギター練習会に行ったら、向こうの線路に甲子園ラッピング電車が…。
うまく撮れなかったけれど、甲子園は特別な球場。
これを投稿する明日には優勝校が決まります。
優勝するのは たった一校。
去って行った高校生たちもきっと何か大きなものを得たはず。
勝っても負けても試合を楽しんで!

ウィリアム・ハワード・シューマン(1910– 1992年)アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス生まれ、

少年時代からヴァイオリンやバンジョーを弾き始めますが、当初は野球に情熱を注ぎました。

ハイスクール時代にダンス・バンドを結成し、自らはベース奏者として結婚式などで演奏しました。

1928年にニューヨーク大学商学部に入学すると同時に、広告業界で働き始めます。この頃は、親しい友人のE.B.マークス・ジュニアらの作詞家とともに、ポピュラー音楽の作曲を始めています。

1930年4月4日に実姉オードリーとともにカーネギー・ホールにおいて、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴いて深い感銘を受け、職業作曲家への転身を決意します。

大学を中退し、個人教師について作曲を学び始めます。

セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951年)

の知遇を得ます。彼は後にウィリアム・シューマンの庇護者となりました。

1935年から1945年まで、サラ・ローレンス大学で作曲を指導。

1943年に、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に基づくカンタータ『自由の歌』(A Free Song )によって、ピューリッツァー音楽賞の最初の受賞者に選ばれます。
1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設します。
1961年にリンカーン・センターに音楽監督として転出します。

1953年シューマンは
オペラ「強打者マイティ ケーシー」を作曲しています。

「アメリカの心と精神を知りたい人は、野球を学んだほうがよいでしょう... 1951年秋に私たち全員が経験した情熱の素晴らしい浄化、土壇場でリーグ優勝を奪われたドジャースの運命に対するうめき声は、ギリシャ悲劇がどのようなものであったかを私たちにいくらか教えてくれます。野球は、国民的で、英雄的で、都市国家の対立の中で分裂している点でギリシャ的です...アメリカ人は野球を理解しています。それは明確なアメリカの思想の真実の領域です。」

オペラ「強打者マイティ ケーシー」あらすじ

野球のビッグマッチの日、センタービルは州選手権をかけてマッドビルと対戦します。9回裏、負けているマッドビルのために、名選手ケイシーが打席に立ちます。ケイシーは力強くスイングしますが、結局、ファンの希望をよそに三振してしまいます。





グーグル先生もダジャレ好き?

2024-08-17 21:00:00 | 現代
12日にお墓参りをした後、
母が「生駒スカイラインに行きたい。」というのでそのままドライブ。
どうも次男と姪と母でお正月に一度来たらしいです。
行くことにしました。
生駒の尾根を通るラインで、信貴山まで通じています。

緑深い。 

生駒山上遊園地があります。
リスのロープウェイが見えましたが、近寄るのを断念。

生駒山上遊園地ホームページより

渋滞になるほどではありませんが、結構駐車場いっぱいでした。

そして淡路島まで見えます。
展望台

「前来た時は寒すぎてよく見れんかった。」と次男。
確かにここは寒いでしょう。
今回は暑すぎ

幸せの鐘と恋人たちの南京錠をかける場所があるそうです。母と私は麓で待機。

夫と次男、二人で鐘をついてきてくれました。

そして信貴山出口。外で遊んで帰ってきても良いそうで、大きなダム湖を見て…なんとそこでバンジージャンプをしていました。生を見たのは初めて!
しかし遠くて写真も撮れない。

見に行きたいなと駐車場を探したら全部1日料金。
温泉や神社もあるので、長居する気がない私たちには無理かもとUターン。
すると、小さなダム湖。

少し駐車して、寄ってみました。

ダム湖の反対側。



少し上流に吊り橋があるのを発見。
歩いて行ってみました。

人が1人通れるだけの吊り橋。

しかも、他の人が歩くと結構揺れます。
これは高所恐怖症の人には無理かも。





亀や魚が泳いでいるのが見えました。
あまり人もいなくて、得した気分。

Look at the World
ジョン ラター(1945年〜)

ロンドン生まれ。ハイゲート校に入学し、聖歌隊員としてブリテン『戦争レクイエム』の最初の録音(1963年)などに参加しました。

その後、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジで音楽を学びます。

在学中から既成のクリスマス・キャロルを編曲するとともに、自ら作詞・作曲した新作キャロルを発表します。

卒業後、1975年からケンブリッジ カレッジの音楽科主任を務め、合唱団の指導にあたりました。

1979年、作曲活動に専念するためカレッジを辞し、1981年には教え子を中心としたプロの合唱団ケンブリッジ・シンガーズを結成。 

1984年には専用レーベルのコレギウム・レコードを設立、自作を含めた合唱曲を多数録音しています。

1980年、プリンストンのウェストミンスター合唱大学の名誉フェローに就任。

1985年から1992年にかけて、慢性疲労症候群に罹患。この影響によって契約を守ることが保証できなくなったため、1985年から委嘱による作曲をストップしました。

1988年、教会音楽家連盟のフェローに就任。1996年、教会音楽への貢献を認められ、カンタベリー大主教からランベス音楽博士号を授与されました。

「橋 クラッシック作曲家」で検索したら、ラターの「Look at the world」がヒットしました。
?と思って読んでみたら、ケンブリッジシンガーズの為にクリスマス・キャロルとして作曲された曲。

ケンブリッジ→ブリッジ→橋
ばんざーい!
グーグル先生もダジャレ好き?
とにかくこの曲、合唱団で世界中に流行っているそうです。

「Look at the world」
世界を見て、私たちの周りのすべてのものを見てごらん。
世界を見て、毎日驚きを感じるだろう

世界を見てごらん。
私たちの道にはたくさんの喜びと驚き、たくさんの奇跡があります。

主よ、あなたに賛美を。
私たちが分かち合うすべての贈り物とあらゆる祝福が見えるように、
感謝の心を、
すべてはあなたから来ます。

実りや花を生み出す大地を見て、
太陽の光や雨を空に見て
丘を見て、木々や山々を、
谷と流れる川、野原と平原を見てごらん。
春を思い、夏の暖かさを思い、
冬の寒さの前に収穫をもたらします。
すべてのものは成長し、すべてのものには季節があり、
すべては父の愛に包まれています。

すべての良い贈り物、私たちが必要とし大切にしているものはすべて、
与えられます。
私たちは神の手、神のすべての恵みの源です。
神は地で、神は天です。

ジョン ラター自身の指揮で「Look at the world」


飛行機を飛ばしてみました。

2024-08-03 21:01:00 | 現代
水曜日は、5歳児を幼稚園までお迎えに行って1時間ほど預かりました。

幼稚園で作った蝶々。
ストローが2本ついていて、吹いたら飛びます。
これが気に入っていて、「作ろう!」と言ってきました。
「いいよ!」
ところが、「ストローが無いよ。」あちこち探してみましたがありません。

「ストローが無くても作れる飛ぶおもちゃってある?」
と聴くと、「ある!飛行機。」
「3角飛行機と4角飛行機。折ってあげる。」
3角に折ってから作るのが3角飛行機、4角に折ってから作るのが4角飛行機。
昔々からある飛行機です。

折り紙で作って飛ばしてみました。
4角飛行機は飛びません。
3角飛行機は飛びます。が、まだまだ飛ぶ飛行機が有りそう。
スマホでみたらたくさん出てきました。

作っでみました。
先折れ飛行機。
3角飛行機より飛びます。
「せーの!」で一緒に飛ばして、どちらが飛ぶか?やってみました。
「次のも!」

ジェット飛行機、これもよく飛びます。先折れ飛行機より飛びます。

輪っか飛行機。
これは全く飛びません。飛ばし方にコツがいるみたい。
結局飛ばせませんでした。

おヘソ飛行機は、A4で折る飛行機ということで、楽譜の反故紙で作りました。これが一番飛びました。

ここで時間。
「今度、続きやろうね!」と言いながら帰っていきました。


レオナルド・ダ・ヴィンチによるフライングマシン(オーニソプター)の設計図(1488年頃)

ライト兄弟が1903年に飛行機を世界で初めて飛ばしました。

ライトフライヤー号は木製の骨組に羽布張りで、方向転換ができ、ガソリンエンジンを使用していたそうです。

ヨーロッパでは、
サントス・デュモン(1873-1932年)ブラジル帝国ミナスジェライス州パルミラ生まれ、ブラジル サン・パウロ州グゥアルジャ没

1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。6号機はパリの市民らからは"プティ・サントス"と呼ばれ親しまれました。

1906年10月22日、ヨーロッパで初となる動力機の飛行に成功しました。

デュモンの飛行機「14ーbis」
アメリカのライト兄弟に遅れること3年、1906年10月23日にエンテ型の動力機「14-bis」号の公開実験で高さ3m、距離約60mを飛行しました。

11月12日再び公開で高さ6m、距離220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得しました。

このため暫くの間、デュモンが世界初と思われていた時代がありました。

1910年頃から多発性硬化症を発病し、引退してパリ郊外に家を買って隠遁生活をしていました。

しかし、第一次世界大戦が勃発し、飛行機や飛行船が兵器として使用された事実に失望し、ヨーロッパを去りブラジルに帰りました。

ところが、平和の国と信じて帰ったブラジルでもその飛行機が内戦鎮圧に使用されました。

デュモンは著名人の署名を集め、飛行機を戦争に使用しない提言を行いました。
が、ヴァルガス大統領(1862-1954年)

や国会はこれを黙殺しました。

デュモンはこれに絶望し、この後サンパウロ州グアルジャのホテルでネクタイで首を吊って自殺しました。

当局はデュモンの死因を「心臓発作」と発表しました。

ウィリアム ターナー ウォルトン(1902-1983年)イングランド ランカシャー オールダム生まれ、イタリア イスキア島没

1942年「スピットファイア」前奏曲とフーガ は英名をThe First of the Few(数少ない最初の人)というイギリス映画の音楽として作曲されました。

戦闘機スピットファイアの製作をしたRJ ミッチェルの伝記映画。


それはデュモンが心底嫌った
戦争利用を前提とした飛行機製作を英雄視する内容になっています。




ファシズムに追われた作曲家

2024-07-30 21:00:00 | 現代
日曜日はお琴の合わせの後、阪急宝塚線で池田へ、池田公民館ホールで、池田ギター練習会でした。


公園の中にあります。
反対側は公園のグラウンド。
2時前に着いたら、小学生の男子が公民館のエレベーターホールに駆け込んできました。
一緒にエレベーターを待っているとエレベーターの上に設置してある電光掲示板を指さして
「37.7℃やって!」 
「もう、外で遊んだらあかんな。」
本当にそうです。
ロビーに子どもが遊べるコーナーが作ってありました。
ホールは4階。

先週西宮で主催の鈴木淳一さん
に誘われました。

お相手は先週と同じ渡邉信行さん。
テデスコの「ソナチネ」op205の第一楽章。
実は当日初合わせ。
良い子は真似をしないように。

マリオ カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968年)
イタリア フィレンツェ生まれ、

フィレンツェでイタリア系ユダヤ人(セファルディ系)の銀行家の家庭に生まれます。 

母親にピアノの手ほどきを受け、9歳にして最初のピアノ曲を作曲します。

1914年にフィレンツェ音楽院のピアノ科を修了すると、作曲科に転じてイルデブランド・ピツェッティに師事し、1918年に卒業資格を得ます。

フランス帰りの作曲家でピアニストのアルフレード・カゼッラにより注目され、作品を演奏会でとり上げられるようになります。
カゼッラは、テデスコの作品が国民音楽協会(イタリア現代音楽協会(英語版、イタリア語版)の前身)の演奏会でも取り上げられるべきだと考え、前途有望な新進作曲家のひとりとしてヨーロッパ中に売り出すことを図りました。

テデスコの作品は、1922年度国際現代音楽協会ザルツブルク大会に取り上げられました。

1926年、ニッコロ・マキャヴェッリ原作の自作のオペラ《マンドラゴラ Op. 20》を初演。
これは偉大な文芸作品に着想を得た最初の作品であり、このほかに、アイスキュロスやウェルギリウス、ウィリアム・シェイクスピア、ウィリアム・ワーズワース、ウォルト・ホイットマン、ジョン・キーツの作品を原作として作曲を行ないました。

民族的な素材による作品として、旧約聖書やユダヤ教の典礼に基づく《ヴァイオリン協奏曲 第2番「預言者たち」》がある。これはヤッシャ・ハイフェッツの依嘱作品で、反ユダヤ主義がヨーロッパ中にはびこる中で、ユダヤ系の血統への自負や、作曲者自身の言を借りると「昔日の輝き」を表現したものです。

1932年度国際現代音楽協会(ISCM)ヴェネツィア大会で、スペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアと初めて出逢います。

この出会いに触発されて《ギター協奏曲 第1番》を作曲、100曲余りあるギター曲の第1作となりました。

これによってテデスコは、20世紀におけるギター音楽作曲の大家との名声を得ます。

《世紀を越える変奏曲》、ギター・ソナタ《ボッケリーニを称えて》、ギターと朗読者のためのメロドラマ《プラテーロとわたし》などを作曲しています。

その翌年にイタリアのファシスト政権が文化綱領を明らかにしますが、それは芸術をプロパガンダの道具と見て、人種主義を広めようとするものでした。

ムッソリーニが1938年に公的に人種政策を採用する前から、テデスコは放送局や演奏会場から締め出しを食らっていました。

そして、彼にイタリア脱出を決意させたのは人種法でした。

スカラ座の前音楽監督のアルトゥーロ・トスカニーニに手紙を書いて窮地を訴えると、トスカニーニは渡米するなら支援するとの約束を返してきました。

1939年、第二次世界大戦開始の直前にテデスコはイタリアを離れました。  

ハリウッドについたテデスコはハイフェッツの援助のもとに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約して映画音楽の作曲家となりました。

それから15年の間に、MGM以外のものも含めて、約200点の映画に楽曲を提供しました。

映画は本質的にアメリカ的な芸術の形だと割り切っていました。

アメリカ合衆国でも新しいオペラの作曲を続け再起を賭けたものの、生前および没後も上演されることはなく、娯楽作品として構想された《真面目が肝心 Op. 198》が死後上演された最後のオペラになりました。

テデスコのスコアとしてよく知られているのはルネ・クレールの『そして誰もいなくなった』 (1945)、チャールズ・ヴィダーの『カルメン』 (1948) などであるが、クレジットされている作品以外にも多数の映画音楽を作曲している(たとえば『名犬ラッシー 家路』 (1943) )など多くあります。

フルートとギターのためのソナチネ op.205は、
1965年に、ウィーン・フィルの首席フルート奏者、ヴェルナー・トリップと高名なギター/リュート奏者、コンラート・ラゴスニックのために書かれました。
ファシズムによってアメリカ商業音楽を作らなくてはいけない状況に置かれ、それらを量産したテデスコは生涯、現代クラッシック音楽を作りたかったと言われています。
作られたオペラや他の曲は上演機会が少ないままですが、ギターを主とする曲のみが演奏され続けています。

第1楽章



ハープの日

2024-07-22 21:02:00 | 現代
7月21日(日)は塚口駅近くのt-raumで、ハープの発表会でした。
なんと!プログラム1番。
ゲストのプロ演奏のお一人が演奏されたすぐ後です。
内心「ひえ〜!」という感じ。

リハーサルのために12:00入り。
12:30から10分「ロンドンデリーの歌」を弾いてみました。

1回目は上がってて、手元を見たら楽譜が見れず、楽譜を見たら手元が見れず…そして目は悪くなってて楽譜がよく見えない。
という感じで、ミスばかり。
「時間あるから、もう一回弾いてもいいですよ。」と先生。

2回目は落ち着いてきました。

本番もこんな感じならいいのに!

さて、後から来た金重さんと持ってきたお昼を食べて、着替えて、さあ、本番。

すぐに自分の番。
う〜ん。途中でペダル操作をA♭→Aにして、その後A→A♭に戻すはずが、隣のG→Gシャープに
気づかず続行したら変な音がでてしまいました。

先生が、「その隣、隣です。」とこっそり教えて下さって、戻ってペダルを治して、3和音引きなおして、最後まで…。
ハープって本当に難しい。
練習では一度も踏み間違ったことは無かったのに…。

野田千晶先生が出演されるコンサートのお知らせがありました。
2023年1月に亡くなられた作曲家の藤井修先生の追悼コンサートです。


今回出演した若手演奏家の2人と後もう一人の3人が高校生の時に3人のために作曲された曲もあるそうでその曲も先生が入って演奏されます。

藤井修
1946年10月1日ー2023年1月27日没
岡山県笠山市生まれ、

3歳で母 貞枝死去(享年39歳)
1951年4歳の時に父再婚 継母に育てられます。
1963年1月 16歳 父 善一死去(享年56歳)
1965年4月~1967年10月 18~21歳
奈良ドリームランド音楽隊に就職し、
クラリネットで入隊します。(打楽器)

打楽器を永野成計氏、山口十郎氏に師事
この頃、ドリームランド内でアイヌの人々と知り合い、アイヌ文化に興味を持ち始めます。
1968年4月~1972年5月 21~25歳
大阪PL吹奏楽団首席打楽器奏者として就職。

PLマーチングバンド連盟創設に携わり、初代講師とし0人編成の女子鼓笛隊を創立し指導、NHK紅白歌合戦にも出場します。

1972年6月~1980年11月 25~34歳
芸能プロダクションに所属し、芸能人のバックバンドでヴィブラフォン、ドラム、ラテンパーカッションを担当し、テレビ・ラジオ・コンサート・スタジオレコーディングなどで演奏。

NHK大阪放送管弦楽団、宝塚管弦楽団等のオーケストラで、ティンパニー、各打楽器を担当

ヤマハ、カワイ、テクニトーン、梅田ナカイ楽器等で、ドラムやラテンパーカッション等のレッスン担当をします。

1976年6月 29歳
継母 ヲキミ死去(享年70歳)

1977年~2014年 30~68歳
多くの中学高校吹奏楽部、アマチュア吹奏楽団にて、オリジナルのシステムによる吹奏楽、打楽器、打楽器アンサンブル指導を行い、地区大会、全国大会出場等の好成績に導きます。

1978年~2018年 31~72歳
プロ・アマの各音楽団にて、編曲・打楽器演奏を行います。

1980年4月~2006年3月 33~59歳
カワイ(旧 中央)音楽学園講師を務めます。

吹奏楽作品、打楽器作品など多数。 
ハープの曲もたくさん残しておられます。

その中の一曲「星の歌」を野田先生が披露してくださいました。それが本当に美しい曲!
ぜひいらしてください。


85歳現役の作曲家

2024-07-21 21:15:00 | 現代
西宮ギター練習会…の前に梅田ドルチェ楽器さんで伊藤公一先生のレッスン。
あい変わらずスケールとアルペジオから

簡単な物を吹けなくて、難しい曲が吹けるわけはない。
ということはおっしゃいませんが、そうなのだろうなとひしひしと感じます。

スラーの意味イチからやり直しました。
指の不具合が音の移動の歪みや、滑らかさを害う動きを生みます。
何年やってもやっぱり基本が大事。

午後から西宮ギター練習会
今津公民館でした。
阪急電車は天神祭りモード。
間に合いました。

私は渡邉信行さんとオブリビオンとイベールの間奏曲を演奏します。

フルートの竹内聡さんと3人で「ロンドントリオ」の1番をしました。

写真は竹内さんと渡邉さんのテデスコの「ソナチネ」2.3楽章です。

オブリビオンは7月7日に亡くなった国田さんの追悼演奏でした。
みんなで黙祷をしてから演奏しました。
前にも書きましたが、国田さんの不機嫌な顔を一度もみませんでした。
いつもニコニコ、優しい笑顔しか思い出せません。

さて追悼演奏が終わった後、イベール。
この曲はよくやっていますが渡邉さんとは久しぶりでした。

渡邉さんは推進力が強いです。
その力に押されてつい吹いてしまう感じ、演奏はそれぞれ個性があって、それぞれにみんなおもしろいです。
これだからやめられない。

ハイドンの「ロンドントリオ」は旧知の渡邉さん、竹内さんにせっかくなので入れてもらいました。
竹内さんはフルートアンサンブルエスカルのメンバーでもあるので私とも縁があります。
楽しかった!

今日はクラリネットの人もきていました。
実はギターを探しているということで岡山さんをご紹介しました。
「タンゴの歴史」1.2を珍しい編成で聴きました。クラリネットのタンゴも素敵でした。

なんだか音楽の輪がどんどん広がっている気がします。
そしてまあ、とにかく皆さん熱演。
こうして1ヵ月に一度発表するとなるとみんな目に見えてうまくなってきます。   

私も牧野生涯学習センター音楽室で「聴き合い会」をやっています。
第14回7月29日(月)
第15回8月23日(金)
13:00開演

こちら、どんな楽器でもOK。
1枠15分 協力金500円
お互いの演奏を聴き合い励まし合いましょう。
ということで勇気を奮ってご参加ください。


さて、西宮に戻るとコンクール荒らしのようなツワモノも。

ブローウェルという作曲家がいますが、鈴木さんはブローウェルマニアというくらい大好きな人です。

エテュードを何曲も弾かれました。
存命のブローウェルの新作もご存知で、ソナタの楽譜も忍ばせていました。どれだけ好きなの?!

レオ ブローウェル(1939年生まれ〜)85歳キューバ ハバナ生まれ、

作曲家でギタリスト。
アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びました。

ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペに師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。

ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲ですが、ギター協奏曲や40本以上の映画音楽も手がけています。

ギター協奏曲第11番は「レクイエム―武満徹の思い出に」です。

彼の代表作の一つ《シンプルなエチュード》。
この作品は、1973年に1-10番が、そして2001年には《新シンプルなエチュード》として11-20番までが作曲されました。

『エチュード』は『練習曲』の意味で、それぞれの楽章は特定の演奏テクニックの習得に役立つように書かれています。


音楽なんて嫌い!

2024-06-10 21:00:00 | 現代
日曜日の午後から、六甲里夢で「から騒ぎ」コンサートでした。
小雨混じりの中、11:30集合。
迷って遅くなりました…。

だってGoogleMAPで検索していったら、建物の裏側に案内され、そこは建物は見えているのに袋小路になっていて里夢には行けないのでした。
結局、入口を探して建物を大回りで一回り…。
わかってしまうと信号を渡ってすぐのところでした。なんとか間に合いましたが…これも方向音痴のせいかしら。

昨年もご一緒した方がいて和やかにリハ。

着替えて始めようとしたら金重さんが「ちょっと待って眼鏡がない!」
「眼鏡かけてはるよ」
「いや、これじゃないねん。中近両用眼鏡!」ということで、眼鏡取りに客席まで走った金重さんに代わり「こういう時どうしたらいいのでしょうね。」とか、しゃべりながら間をつぶし。

「やっぱり無いわ。家に忘れてきたみたい。」
軽いハプニングでした。
気を取り直して演奏。
ホフマイスターのフルートとヴィオラのための二重奏。
思ったよりゆっくりでしたが、返っていい演奏ができたみたいでした。

初めにドキドキしてしまうと、反対に落ち着いてくるというか。

今日は弦の人が多く。
チェロ四重奏の珍しいプログラムや
木管を加えた七重奏、イベールの木管トリオ、バーンスタインの声楽曲などおもしろいものが聴けました。

レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918- 1990年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンス生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

1944年

は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られています。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきた音楽家でした。
愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。

「I hate music 音楽が嫌い: ソプラノとピアノのための5つの子ども向け歌曲集」は、1942年に作曲され、1943年に歌手のジェニー・トゥーレルとピアノ、バーンスタインによって初演されました。

当時同居していた友人のエディス・メリルに捧げています。

メリルが「音楽が嫌い」という言葉を口にしました。
メリルはバーンスタインがピアノを弾き、歌手を指導するのをじっと見ていた時に言ったと伝えられています。

「I Hate Music」は、バーバラという名の10歳の少女の視点から歌われる5曲から成っています。

この作品の全体の構成は、「回文構造」にまとめられていて、1曲目(「私の名前はバーバラ」)と5曲目(「私も人間です」)はブックエンドの役割を果たしています。

バーンスタインは、この曲の注釈で、この歌を演奏する際には

「...はにかみは絶対に避けなければならない。子どもの表現の自然で無理のない甘さでは、決してうまく金色に染めることはできない。むしろ、歌手の威厳と洗練された理解力に比例して、音楽を通して伝わってくるのだ」と書いています。

音楽なんて嫌い!
1「私の名前はバーバラです」
2「木星には7つの衛星がある」
3「音楽なんて嫌い!」
4「大きなインディアンと小さなインディアン」
5「私も人間です」

5つの子供の歌より
「音楽なんて嫌い!」

1.お母さんったら言うの
 「赤ちゃんはビン詰めで配達されるのよ」って
でも先週はこう言ってた
「赤ちゃん用の茂みの中で大きくなるのよ」って

こうのとりも信じないわ!
動物園で自分達の子供にかかりっきりだもの!


それに「赤ちゃん用の茂み」って何なの!?

あたしバーバラ

2.金星には月が7コあるの 9コだったかしら?

土星には100万 億 兆と69コあるの
その一つ一つは小さい太陽で
それぞれ6コの小さい月がついているのよ!

でも地球には1コしかないの!
9コあったらどんなに楽しくなるか考えてみて!

きっと9倍ロマンティックになるわ!
ワンちゃんたちは気が狂うまで吠えるわ!
大西洋の満ち引きは9回になるわ!
月の住人も巨大になるわ!

でも地球には1コしかないの! たった1コしか!

3.音楽なんて嫌い!
でも歌うのは好き
ラディダダディ ラディダディ
でもそれは音楽じゃない 
音楽と呼ぶものじゃない
そうです 違います

音楽 
それはたくさんの男の人たち
たくさんの尻尾をつけて
たくさんの女の子たちみたいに
たくさんの騒音を出す

音楽 
それはたくさんの人たち
本当は全然そこにいたくないのに
たくさんの椅子とたくさんの気どった空気の大きな暗いホールにいて
たくさんの毛皮とダイヤモンドをつけている

音楽なんてバカみたい!

音楽なんて嫌い! 
でも歌うのは好き
ラディダダディ ラディダディ  ラディダディ

4.大きなインディアンと小さなインディアンが街を歩いていました

小さなインディアンは
大きなインディアンの息子でしたが
大きなインディアンは
小さなインディアンのお父さんではありませんでした

なぞなぞです
小さなインディアンは大きなインディアンの息子で
大きなインディアンは
小さなインディアンのお父さんではないとすると
大きなインディアンはいったい誰でしょう?

答えは2小節後



お母さん!

5.わたし今日分かったの
わたしもあなたたちのように一人の人間だって
わたしは風船が好き 
みんな風船が好きでしょう
でもみんな言うの
「かわいいわね 風船が好きだなんて!」って

わたしもあなたたちのように
一人の人間なのよ!

わたしはみんなの好きなものが好き
やわらかいものや映画や馬や
あたたかいものや赤いもの

あなたたちもそうでしょう?

わたしはいろんな事を考えてるわ

空の向こうには何があるんだろうとか
そのまた向こうには何があるんだろう とか

でもみんな言うの
「かわいいわね 何でも知りたがって!」って
あなたたちもそうでしょう?

もちろんあなたたちのような人達の前で
こんなことを言うのにはまだ若いわ
でもわたしも一人の人間なの!

まだ十歳だけれど
わたしもあなたたちのように
一人の人間なのよ!



ベジタブルオーケストラ

2024-06-07 21:01:00 | 現代
木曜日は、母の定期検診。
数年前した大動脈弁の安全確認です。
うちから30分、実家から約1時間。渋滞時。
血液検査9:00なので7:30に家を出て行きました。
同居の姪が東京の職場に転職したので、母送の仕事が戻ってきました。
ほんの数ヶ月のお休みでした。
久しぶりの病院。

病院の植込みに紫陽花



血液検査、心電図、レントゲン、診察のセットです。
待ち時間長いので、合い間にブログの下書きです。

ようやく順番が来たので診察。
「術後のケロイドが痛いんです。」
心臓外科の内科から、形成外科で診てもらうことになりました。

そこから2時間。
貼り薬で対応してもらいました。

会計含めて1時になっていました。

駐車場にネズミモチの花が咲いていました。

お腹すきました。
近くの伊藤軒に行くとここも行列でさらに1時間。

野菜あんかけ丼定食と

焼き野菜定食。
野菜と豆で肉や魚はありませんが、お腹いっぱいになります。

「あんかけ丼の下は麦ご飯やわ。」と言いながら食べている母。

この後、甘党の次男にお土産の水無月を買ってくれました。

それから、母の買物巡り。
コーナンでペチュニアやペンタスを買い込んでいると長男から母にLINEが「今晩来るって!」
あら大変と夕飯の材料をスーパーで買って、院外処方の薬を駅前薬局でもらって帰りました。

母を送り届けて帰宅すると5時過ぎ。
疲れた〜!
けど、洗濯しながら、週末のあれこれコンサートの練習してから夕食準備でした〜。

今日は疲れたので、ランチと同じベジタブル オーケストラで癒やされようっと。

このグループは1998年2月にウィーンで結成され、10人のミュージシャン、1人の料理人、1人の音響技術者で構成されています。

アンサンブルのメンバーは皆、様々な芸術分野で活躍していて(訓練を受けたミュージシャン、音響詩人、彫刻家、メディアアーティスト、デザイナー、建築家など)一緒にプロジェクトの概念化と実行に取り組んできました。

感覚的で響きのある体験を生み出すことがこのオーケストラの目的です。

フルクサス運動(1960年代から1970代にかけて発生した、芸術家、作曲家、デザイナー、詩人らによる前衛芸術運動。ラテン語で「流れる、変化する、下剤をかける」という意味を持ち、1960年代を代表する芸術運動として、ネオダダと並び称されました。)の音楽的概念、例えばジョン・ケージの作品は、このユニークなオーケストラのインスピレーションの源であると考えられています。

彼らの独特なレパートリーは、サウンドアート、実験音楽、電子音楽にも深く根ざしています。
彼らは自身の作品だけでなく、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ドイツのエレクトロニックバンドを取り入れ、これまでに聞いたことのない解釈を演奏しています。

すべての作品は、さまざまな形式のグラフィカル記譜法(現代音楽などで五線による記譜法不可能な場合良く用いられます。おおよそでやる即興音楽的な性格がとても強い)を特徴とし、ライブパフォーマンス専用に作曲されています。





アレンジで大ヒット!

2024-05-28 21:02:00 | 現代
月曜日は渡辺橋近くのサロン・ド・プリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習でした。
6月16日発表会なので、練習にも力が入ります。

ドビュッシーの小組曲全曲と大阪組だけて「宝島」を演奏します。
榎田先生は8時までで、そのあと残って9時まで練習。


「宝島」は1986年和泉宏隆作曲
フュージョンバンドTHE SQUAREの11個のアルバム 「S・P・O・R・T・S」の中の一曲です。
世界的にアナログ機材からデジタル機材に移行する過渡期に制作された作品で、シンセサイザーや、デジタル楽器を使ったアルバムになっています。

神戸から来たSさん、この紋所は…ト音記号とへ音記号と♭
真島俊夫が吹奏楽に編曲し、全国に広まり、ロングヒットとなりました。

オーケストラ編成での『宝島』。
サックス奏者のYUCCO MILLERのアレンジ版
宮川成治編曲による20人むけのバンドスコア
鍵盤ハーモニカのアレンジ。
エレクトーンアレンジなどなと
様々なアレンジが存在しています。

また、アニメ「響けユーフォニアム」の中でも、演奏されたそうです。

さて、フルートアンサンブルによる私たちの演奏はどうなるのでしょうか?

ピッコロ、コンサートフルート3本、アルトフルート、バスフルートのフルート六重奏。

私はといえば、いつものクラッシックとは違うアドリブに苦戦。
本番までには解決しておきますので

ぜひ、おいでください。
6月16日(日)ラサーラ ディ オルフェオ(神戸六甲ライナー センター前下車5分)
13:00〜

真島俊夫(1949ー2016年)
山形県鶴岡市生まれ。  
神奈川大学工学部中退。
吹奏楽に在籍、トロンボーンを担当していました。
兼田敏に作曲を学びます。

全日本吹奏楽コンクール課題曲をはじめとする数多くの吹奏楽曲を作曲しているほか、二十数年以上にわたり「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」にスコアを提供、代表的な編曲としては「宝島」「オーメンズ・オブ・ラブ」「チュニジアの夜」等、そして「ドラゴンクエスト」シリーズの全吹奏楽編曲を担当。吹奏楽界のジャズ・ポップスの啓蒙に努めます。

2006年、フランスのリールで開催されたクー・ド・ヴァン国際交響吹奏楽作曲コンクールに於いて『鳳凰が舞う』がグランプリを受賞。

2008年8月、オリジナル作品のCD『真島俊夫作品集』がキングレコードより発売されています。

2013年2月3日より、シンフォニックジャズ&ポップスコンテストの大会総監督に就任。

2016年4月21日、がんのため逝去。67歳没。

指揮 真島俊夫による「宝島」吹奏楽アレンジ版



肉球フィナンシェ

2024-05-21 21:01:00 | 現代
肉球フィナンシェ。
知恩寺の手作り市で買いました。
賞味期限…大丈夫。

これ見つけた途端、ギターの川原さんの顔が頭に浮かびました。

猫好き、可愛いもの好き💖
土曜日演奏の前にプレゼント。
「わぁ〜!かわいい。」
この声が聞きたかったんだよね〜!

早速撮影大会。
猫さんのボトルホルダーと一緒に。
このボトルホルダーの猫さん、川原さんが飼っているキジトラ猫の春夫さんそっくり。

この後、美味しく頂いてくれました。

アーロン コープランド(1900 - 1990年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウィンチェスター没

は、20世紀アメリカを代表する作曲家のひとり。アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られています。

指揮や著述、音楽評論にも実績を残しました。

ニューヨーク州ブルックリン、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれました。

14歳で本格的にピアノを習い始め、作曲家を志したのは15歳のときといわれています。

16歳からルービン・ゴールドマーク
(1872-1936年)
(オーストリアの作曲家カール・ゴルトマルクの甥)に作曲を師事します。

1921年、21歳のときにパリに留学、アメリカ音楽院
1921年フォンテンブローに米軍軍楽隊のレベルアップのために設立されました。
でナディア・ブーランジェ
1887−1979年
の弟子となります。

パリ留学中にはジャズの要素を取り入れた曲を多く書いていましたが、次第に一般大衆と現代音楽の隔たりを意識するようになります。

1924年に帰国すると、「アメリカ的」音楽を模索、アメリカ民謡を取材・研究し、これを取り入れた簡明な作風を打ち立てる。出世作『エル・サロン・メヒコ』(1936年)が発表されました。
また『ビリー・ザ・キッド』(1938年)、『ロデオ』(1942年)、『アパラチアの春』(1944年)などのバレエ音楽で人気を博します。

その後、再び純音楽的作品に戻り、十二音技法を用いるなど曲折の後、晩年は非常な寡作と成りアルツハイマー病を発症して創作活動を事実上終えます。

「猫とネズミ」 は、彼の作品の中で最初に出版された作品です。

1921 年にフランスのパリで学校教育を始める直前に書かれました。

この作品は、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ

1621-1695年フランスの寓話作家
の寓話『老いた猫と若いねずみ』
1897 年版のオーギュスト ヴィマールによる寓話のイラスト
に基づいています。

この寓話はフランス王ルイ  
1682-1712年フランス王太子10ヶ月あまりの在位で亡くなりました。
の依頼により作られました。

経験豊富な猫に捕まえられたネズミは、「今は体が小さいので、猫の子孫のために太らせて食事を作った方が良い。」と主張して命乞いをします。

猫は、「そのような行為は私の性質に反している。」と答えます。「子どもたちは私の助けなしで自分たちで食べていくでしょう。」

この寓話は当時若い王子は傲慢でわがままだと考えられていて、人は常に思い通りに動くわけではない。という戒めがテーマになっています。