月曜の夜は6:30〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
デジレ・アルトー(1835-1907年)
ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役
階段を昇って、ドアを開けると
「あれっ?!なんでいるの?」と思わず声が出てしまいました。
ドルチェ楽器の安川さん。
どうも樹脂のバスフルートを榎田先生に言われて売りに来たらしいです。
しかも、エスカルメンバーがバスフルート在庫最後の2本をお買い上げ。
びっくりしました。
おかげでバスフルートを吹くメンバーがいっぱい。
というわけでバスフルートを私がエスカルメンバーとして吹くという需要がなくなってしまいました。
でも…でもSANKYOのバスフルート欲しいなぁ…。
どうしようかなぁ。
いずれにしても受注生産なので、あれが回ってくれば買っちゃうかもしれないけれど…。
もし来たら運命だな。これは。
来ない確率高そうだけど…。
年内最後の練習なので、忘年会でした。
1年間お世話になりました。良いお年をとご挨拶。
今年もフルートアンサンブル楽しかった!呑み会も!!
写真撮るの忘れました。
『運命』と言えば、ベートーヴェンの交響曲5番ですが、「運命」 作品77は、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
が作曲した管弦楽のための交響詩、または幻想曲です。
1868年28歳の時に作曲されて1869年に初演が行われました。
ところが、後年チャイコフスキーが総譜を破棄してしまい、作曲者の死後3年経ってから遺作の作品番号を付されて出版されました。
チャイコフスキーが作曲に着手したのは1868年の9月末から10月初めにかけてでした。
いったん作曲を中断した彼は演奏旅行中のベルギーのソプラノ、デジレ・アルトーへと意識を集中させました。
デジレ・アルトー(1835-1907年)
彼はアルトーに恋愛感情を抱いていました。2人は結婚について話し合い、計画を先へ進めるべく1869年の夏にパリで再会することにします。
アルトーはオペラ会社との演奏旅行を続けるために彼と別れてワルシャワへと旅立っていきました。
チャイコフスキーは1868年11月2日までに曲の骨組みを固め、同年12月には記譜を終えました。
初演が行われたのは1869年2月27日にモスクワで開催されたロシア音楽協会の第8回演奏会で、指揮はニコライ・ルビンシテイン。
作曲時には既存の筋書きが基になったわけではありませんでしたが、初演に際してコンスタンティン・バチュシコフによる人間の生命の無常さを綴った韻文の言葉が総譜の標語として追加されました。
しかし、これがチャイコフスキー自身の発案であったのか、そもそも彼がこの韻文に精通していたのかどうかも定かではありません。
バチュシコフの韻文が陰鬱な主題である一方、音楽は壮大な、抒情的で、喜ばしいフィナーレと明るめの全体像の音楽となっていて、聴衆は両者の不一致に困惑しつつも音楽には温かい称賛を贈りました。
初日の夜、チャイコフスキーは弟のアナトーリに手紙をしたためています。
「あれは私がこれまでに書いた中でも最高のもののようです。少なくとも、人々はそう言っています(かなりの成功でした)」
続いてチャイコフスキーはミリイ・バラキレフの元へ総譜を届け、作品の献呈を受諾してくれるように頼みました。バラキレフはこれを受け入れ、自身がこの音楽をどう思うかに関わらず別途演奏の機会を設けると伝えました。
こうして本作は3月29日にサンクトペテルブルクにて行われたロシア音楽協会の第9回演奏会でバラキレフの指揮により再演さる運びとなりました。
しかし、再演での聴衆の反応は初演の時のように芳しくはありませんでした。
バラキレフがチャイコフスキーに宛てた手紙に
ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役
「貴方の『運命』はサンクトペテルブルクで]ほどよく上手い具合に演奏されました。(中略)拍手はあまり大きくありませんでしたが、これはおそらく曲の最後に置かれた訴えかけるような不協和音のためでしょう。
私も全く好まない部分です。
適切に練られておらず、非常にぞんざいにあつらえられたかのようです。
継ぎ目が顕わになっていますが、貴方の不器用な継ぎはぎは全てそうです。
なにより、形式自体がさっぱり機能していません。全体が全く以て統一されていないのです。(中略)私はすっかり正直な気持ちで貴方へ書き送っています。貴方が私へ『運命』を献呈する意志を取り下げたりしないであろうと確信してのことです。貴方の献呈は私に対する思いやりのしるしとして私にとってはかけがえのないものです - そして私は貴方に深く心酔しているのです
M.バラキレフ - 心からの愛をこめて」
この頃、チャイコフスキーとデジレ・アルトーの両者の心中では共に結婚の意思に変化が生じていました。
双方ともそのことを相手に伝えたわけでありませんでしたが、それでもチャイコフスキーはニコライ・ルビンシテインを通じて彼女が別の男性と結婚したことを知らされてショックを受けました。
相手はスペインのバリトン、マリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスで、1869年9月のことでした。
チャイコフスキーがこの曲に向けていた好ましい見方も変化していきました - 彼はこれを失敗作とみなすようになりました。
1870年代に原稿を破棄してしまい、作曲者の生前には2度と演奏されることも出版されることもありませんでした。
しかし、彼はこの曲の抒情的主題をオペラ『オプリーチニク』
『オプリーチニク』の舞台美術となった町の通りの風景。アポリナリー・ヴァスネツォフ画、1911年。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。
チャイコフスキー没後の1896年、オリジナルの管弦楽パート譜を元に総譜が再構成され、作品番号77として出版されました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます