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モーツァルト謎のアイネ クライネ ナハトムジーク

2022-04-11 15:37:05 | 古典
桜も素晴らしいですが雪柳も花盛りです。

美の相乗効果。
どちらが美しいなんて比較する必要も無いのです。

モーツァルトの「アイネ クライネ ナハト ムジーク」
は、日本でもっとも編曲されたりしたのも含めて、演奏されているクラシックだそうです。

1つの小さな夜の音楽と言う意味ですがモーツァルトは楽譜には標題を書き込んでいません。

「音楽の冗談」を書いたあと、5月28日に父親が亡くなり、父親の教えを破りやり過ぎたと思ったモーツァルトは、様式をしっかりと守った音楽「アイネ クライネ ナハト ムジーク」を書いた。という説が長い間支持されてきました。

しかし、モーツァルトは最も多忙で仕事を、掛け持ちしていてそこまで稽えていなかったというのが、最近の説です。
大英博物館に残る記録を見てみましょう。


大英博物館モーツァルト自筆譜面

1787年5月29日から8月10日

プラハでのフィガロの結婚の目覚ましい成功の結果、モーツァルトは1787年1月に妻のコンスタンツェと共にブラハに招待されました。


彼はその機会のために新しい交響曲(プラハ交響曲として知られている)を書き、次のシーズンのために新しいオペラを書くように依頼されました。

ウィーンに戻った後、モーツァルトは財政状況を緩和するために、ラントシュトラーセ郊外のより安い宿泊施設に移動しました。


モーツァルトの父、レオポルドは、彼の子供たちの才能を促進するために多くのことをしましたが、5月28日に亡くなりました。


8月、モーツァルトは彼の最も有名な作品の1つ、アイネクライネナハトムジークを完成させました。彼にはモーツァルトに師事するためにウィーンに来た16歳のベートーベンを含む多くの音楽の生徒がいましたが、ほんの数週間後で去りました。このページのいくつかのエントリは、モーツァルトのさまざまな生徒に関連しています。


1787年5月29日

K521。モーツァルトの弟子の一人であるフランツィスカ・フォン・ジャッキンのために作曲された4つの手のためのCメジャーのピアノソナタを作曲。

彼女はモーツァルトと友好的な関係にあった著名なウィーンの音楽家の一員でした。

1787年6月14日

K522。「音楽の冗談」を意味するEinmusikalischer Spassと呼ばれる六重奏を作曲。

この作品は、おそらくモーツァルトの英語の生徒の一人であるトーマス・アトウッドによる練習に基づいた、無能な作曲と演奏の風刺でした。


1787年6月24日

K524 ピアノ伴奏きの曲、An Chloe(Chloë用)。言葉はヨハン・ゲオルグ・ヤコビによるものです。


1787年8月10日

K525 アイネ・クライネ・ナハトムジーク (「小さな夜の音楽」)と題された弦楽のためのGのセレナーデ。このセレナーデはモーツァルトの最も愛されている作品の1つです。その構成の状況は不明です。カタログには、この作品には元々5つの楽章があったことを示していますが、現在は4つしか知られていません。

さて、本当のところどうなのでしょう?
「アイネ クライネ ナハトムジーク」
「音楽の冗談」
両方並べて見ました。







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