先週末に行った井手町。
町役場の道の駅で野菜を買った後、
と言ってもお寺の名残りの石柱が残っているだけです。
長く伝説の中にだけ存在していましたが、2001年に発見されました。
橘諸兄・『前賢故実』(江戸後期〜明治の伝記集)より
とコペンハーゲンで出会い、結婚しました。
橘諸兄縁りの井提寺(いでじ)の跡を見てきました。
と言ってもお寺の名残りの石柱が残っているだけです。
長く伝説の中にだけ存在していましたが、2001年に発見されました。
橘諸兄(たちばな の もろえ、684−757年)は、敏達天皇(びだつてんのう、538−585年)の後裔で美努王(みぬおう・みのおう)の子。
橘諸兄・『前賢故実』(江戸後期〜明治の伝記集)より
元の名前は葛城王(かつらぎのおおきみ)でした、
後、母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぎ橘諸兄と名乗りました。
翌年に天然痘が大流行し、当時の政治首班だった藤原四兄弟などが次々と病死し、同年9月の時点で主な公卿が当時従三位参議だった鈴鹿王と諸兄の2人のみとなってしまいました。
そのため冠位を得て
聖武天皇を補佐し、権勢を振るいました。
740(天平12)年の恭仁京造営
恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)
にも関わりました。
にも関わりました。
しかし、孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が権力を握り引退。
大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もあるそうです。
『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、信憑性をもつものとされています。
ここは橘諸兄が平城京の北部山背国綴喜(現在の綴喜郡井手町)に造営した別荘(玉井頓宮)跡と考えられており、別荘内に母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺として井出寺(井堤寺・廃寺)を建立したとされています。
井手寺(井堤寺)は、東西南北とも約160メートルの規模で塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。
井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した「垂木先瓦」や「軒丸瓦」「軒平瓦」、建物の礎石をおいた跡などが発見され、引き続き調査が行われています。
万葉集に橘諸兄の句が残っています。
あかねさす昼は田 賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹(せり)これ
解釈 昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。
丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹ぞ摘みける
解釈 立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩(は)いたまま、蟹(かに)のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。
墾田永年私財法を作った橘諸兄は激務のために忙しく、仕事が終わった夜になってから農地に入り芹を摘んでいたようです。
権勢を奮っていた彼も、つかの間、自然に触れて癒やされました。
後年、閑職に追われた橘諸兄も、案外田舎の生活を楽しんでいたのかも。
エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン =ノルウェーベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没
1869-1871年26歳から28歳に作曲したピアノ曲
「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19
1867年グリーグは従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)
とコペンハーゲンで出会い、結婚しました。
新婚のグリーグが憧れ、思い描いた田舎での生活。
1877年には、故郷の東ベルゲンに移住し、1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、そこで生涯をニーナと共に過ごしました。
「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19
1.ベルゲン
Auf den Bergen
2..ノルウェーの結婚式Norwegischer Brautzug
3.ここから
Fra
遷都を繰り返した時代、ありましたね。難波宮もありました。
はっきりとは全貌がわからず。ロマンがありますね。
奈良時代は都を転々としていた時期がありましたね。恭仁京や紫香楽京など。