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先日のコンサートは実家の松井山手から学研都市線に乗って京橋駅から寝屋川を渡って、いずみホールに行きました。
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のリブレットに曲をつけるようになりました。
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が新たにヴェネツィア共和国のドージェ(国家元首)に就任したことを祝って書かれたセレナータ『祖国の愛』(L’amor della patria、1752年5月11日初演)が最初のゴルドーニとの共作です。
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はチェコ共和国ボヘミアの有力な一族であったヴィートコフ家により最初の城が建設されました。1250年以前のことてした。
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プラーシュティ橋
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バロック劇場舞台下にある機構
いずみホールは大阪城のお掘りの内側にあります。
植込みにヒベリカム。金糸梅が咲いていました。
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ジュゼッペ スカルラッティ(1712-1777年)ナポリ王国ナポリ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
音楽家一族として有名なスカルラッティ家のひとりで、正確な系譜は不明ですがアレッサンドロ・スカルラッティの孫でおそらくアレッサンドロの長男でナポリの宮廷オルガニストだったピエトロ・フィリッポ (Pietro Filippo Scarlatti) の子と考えられ、
ドメニコ・スカルラッティ
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ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757年)
の甥にあたります。
の甥にあたります。
最初の作品は1739年にローマで初演された宗教作品『受胎告知された聖処女マリア』(La santissima Vergine Annunziata)です。
翌年やはりローマでオペラ『メロペ』(Merope、リブレット(台本)はアポストロ・ゼーノ)を上演しています。
1741年から1751年にかけてトスカーナで働いています。
1750年代にはヴェネツィアほかの北イタリアの都市に劇場作品を提供し、この時期にカルロ・ゴルドーニ(1704-1792年)
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のリブレットに曲をつけるようになりました。
フランチェスコ・ロレダン (Francesco Loredan1685-1762年)
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が新たにヴェネツィア共和国のドージェ(国家元首)に就任したことを祝って書かれたセレナータ『祖国の愛』(L’amor della patria、1752年5月11日初演)が最初のゴルドーニとの共作です。
1750年代末からはウィーンに居を定め、作曲だけでなくチェンバロ奏者および音楽教育家、とくにシュヴァルツェンベルク家の教師として働きました。
1768年にシュヴァルツェンベルク家
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シュヴァルツェンベルク公の紋章
の居城であるチェスキー・クルムロフ城内劇場で『愛あるところに嫉妬あり』(Dove è amore è gelosia、リブレットはコルテッリーニ)を上演しています。
の居城であるチェスキー・クルムロフ城内劇場で『愛あるところに嫉妬あり』(Dove è amore è gelosia、リブレットはコルテッリーニ)を上演しています。
チェスキー・クロムロフ城
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はチェコ共和国ボヘミアの有力な一族であったヴィートコフ家により最初の城が建設されました。1250年以前のことてした。
その後、14世紀頃にヴィートコフ家と縁続きであるローゼンベルク家が一帯を支配するようになり、城は16世紀にはルネサンス様式に改修されました。
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プラーシュティ橋
その後、ハプスブルク家及びエゲンベルク家の所有物となりました。
18世紀にはシュヴァルツェンベルク侯家の所有となり、バロック様式の建築が付け加えられました。
18世紀の末から19世紀にはチェスキー・クルムロフの街が停滞し、やがてシュヴァルツェンベルク家の人々もこの城に住まなくなりました。
1947年にチェスキー・クルムロフ城を含むシュヴァルツェンベルク侯家の財産はチェコスロバキアの地方自治体に移管され、1950年に国有財産となりました。
1963年には街が保全指定を受け、1989年には地域が国の指定史跡となり、1992年にはUNESCOより世界遺産に指定されました。
ローゼンベルク家の人々は15世紀から演劇に関心を示していました。
エゲンベルク家とその周辺の人々も舞台芸術に関心があり、チェスキー・クルムロフ城には1675年から芝居が上演できる設備がありました。
1680年から1682年頃にかけて、オペラを愛好していたエゲンベルク家の当主ヤン・クリスティアーンが現在バロック劇場がある場所に劇場を作りました。
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現存するバロック劇場のステージ
1765年から1766年頃にかけてチェスキー・クルムロフ城の劇場は大幅に改装され、現在残っている形に近いバロック劇場が完成しました。
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バロック劇場舞台下にある機構
オペラ「愛あるところ嫉妬あり」「Dove è amore è gelosia 」は2幕構成のオペラです。
シュヴァルツェンベルク公ヨーゼフ1世の長男であるネポムク公ヨハネ1世の結婚式のために作曲され、初演は1768年7月24日にチェスキー・クルムロフ城バロック劇場で行われました。
2011年に243年前の「愛あるところ嫉妬あり」の再演が、チェスキー・クルムロフ城のバロック劇場で行われました。
チェスキー クルムロフにはツアーで行ったことがあります。ハンガリー、オーストリアとチェコのツアーで年末年始に行きました。小高い場所から見ると、屋根に雪が積もっていました。風情のあるところでした。
チェスキークルムロフ、やっぱり行かれてましたか!
年末年始にハンガリー、オーストリア、チェコツアーに行くなんて素敵ですね。
光景が見えるようです。