音楽の喜び フルートとともに

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ティーンエージャー

2011-02-14 20:35:13 | Weblog

雪が珍しくなくなってきました。3時にこんな感じ。
1時間経って、4時には、アイビーが埋もれてこうなりました。ここら辺りでは、凄い速度に思えます。

次男が友達のOくんを連れて帰ってきましたが、重い雪でびしょぬれ。
タオルで拭いて、部屋に上げました。
上がったと思ったら「すいません。ドライヤー下さい。」とOくんは言います。
「おいらは、いらん。」と言っている息子は、天パでブラシも入れないで出かけます。
長男がこの頃には、勉強机の一番上はムースでいっぱい。毎日30分は髪にかけていましたが、次男はおしゃれに目覚めるのはまだ先のよう。

現代のティーンエージャーは、勉強のほかに、おしゃれにゲーム、アイポッドで音楽を消費し、携帯命、そして自分探しですが、音楽家は、どうでしょう?

バッハは15歳で父を亡くし、給費生として学び、18歳でもう音楽家として働いていました。ヘンデルは、21歳まで、親の期待に応えて法律を学んでいましたが、その後音楽家を目指しました。テレマンは12歳でオペラを作曲した神童でしたが、やはり法律を学び、23歳から、音楽を本業にしました。みんな音楽家を輩出した家で育ちました。

音楽家は、労働者階級の上層部と言う扱いで、貧困と闘っていました。音楽はなりわい。今の高校生など、その頃に置き換えると、貴族のようです。
自由で何でも選べるし、貧困に陥ることはあっても、死ぬほどのことはなかなか無い。
選択肢がないことで、早くに選ばなくてはいけなかった音楽家たちが、偉業を成し遂げて行ったことを思うと、高校や大学を出てもまだ、選ばなくてもいいような時代は、偉業を築くには難しい時代かもしれません。
親の気持ちとすれば、偉業は築かなくても、もうちょっと、勉強して、なりたいという自分の夢を実現してくれたら。と思いますが、本人達は夢を持つのもなかなか難しいようです。



2011-02-11 21:15:56 | 音楽

今日は雪。我が家のガレージの屋根も、雪。牡丹のような雪で、道路に落ちると水気を含んですぐに消えてしまいますが、土の上や木の葉にはしっかりと積もっています。
「先生、明日雪降るんだよ。」と言っていたうれしそうな子どもの顔が浮かびました。きっと喜んであそんでいるだろうな。
夫は長野 伊那から帰り道。バスも、新幹線も遅れて、それどころではなかったらしいですが・・・。

雪の枚方はいつもより静かな気がします。
雨と違って、雪は音がしません。時々軒からドサッと落ちる音が聴こえるくらいです。寒くて、出るのを控えたのか、人も、車も少ない。
実際に聞こえる音が少ないだけでなく、目から、入ってくる情報量が雪のおかげで少ないからかもしれません。
動きは足元が悪いせいで、ゆっくり。
こういう日は、自分の動きや、心の中の動きに敏感になりやすいのかもしれません。

クーラウのディベルティスマン6番。
C#mollの始まりは、こういう日にピッタリです。
F#moll,G#mollの旋律が繰り返し、繰り返し少しずつ形を変えて、終わったと思ったら、繋がっていて、永遠の連続のような気がしてきます。

第二テーマの調子の良さも、長くは無く、すぐに始めのテーマの中へと吸い込まれていき、終わってみれば、美しい繰り返しが印象に残る曲です。

雪景色のように、どこまでも広がっていて、それでいて、どこまでも同じ雪ばかり。


反抗的服従

2011-02-10 21:41:06 | レクチャー、マスタークラス

今日は他校の児童会に応援。まだ学年閉鎖中で自校は、仕事が無いです。
田んぼのあぜ道を通って通いました。土手に見えるのは梅の木。まだ一輪も咲いていません。
人数も少なく、落ち着いた子ども達で、先生も穏やか。
ドッジボールにつきあったり、追いかけっこしたり。汗かくほど、一緒に遊びました。ルール通りに遊べて暴力が無い。いつもの底なしの疲れは無く、さわやか。こういう運営を目指したい。

昨日の午前はボーンズ フォー ライフ。
身体のことで、前回から何かあれば、教えてください。
ということで、私は、最近デュオなど、人と合わせる時に、自分が次の音、例えば4分音符を合わせるために、吹いていて、それは外から聴いていると、ずれが無く美しく聴こえるけれど、なんだか、生き生きとせず、気持ち悪いことに気がついた。と報告しました。

それは、反抗的服従。
良い子や、優等生は、外から見ると、ルールや、規範に忠実で、いさかいや、葛藤を生まないので、うまく行っているように見えます。

しかし、心の中で、憤っていたり、実は、不満いっぱいでそこにいる。
心からではないので、成果が上がらない。肝心のところで、失敗したり、病気になったり。

一緒にいながら、関係はどんどん悪化し、でも、去らない。病むのは当たり前。
ある意味、悪の反抗の方が、手の打ちようがある。

それはちゃんと選ばないことの悲劇。
ちゃんと選ぶとは、「この意見は合わないけれど、この仕事の成果は挙げたいので、そこは協力する。」と選びきったら、心から積極的に参加できるはず。
誰が悪いのでもない。自分の選び方がまずいので、成果が上がらない。

相手との違いを認めていれば、自分が相手と違っていても、淡々と主張できるはず。ただ違いがあるだけで、良いも悪いもないから。
お互いの意見を、多様性と見ていれば、たくさんの意見があるほどこの場が豊かになるはず。それが出来ないのは、多様性を受け入れる自分ではなく、自分を消すか?相手を消すか?という対立構造にはまっているから。

1st も 2nd もちゃんと自分の歌を歌いながら、お互いの歌を聴きながら、合わせて一つのものを作り上げた時、豊かで、暖かく、生き生きとした音楽ができるはず。

講師は音楽をする人ではないですが、その通り。
最近、私が頭を悩ませていることを、また見抜かれてしまいました。

相手とおきている事は、全て自分の中の捉え方で、自分の中にもおきていることで、相手は逃げられるけれど、自分は逃げられない。一番に自分にひどいことをしているかもれない。

例えば、頭で考えていることと、身体の動きが、違っていたり、足の動きと、手の動きがちぐはぐだったり。
心で思っていることと、実際の表現が違っていたり。

自分といえども、それら全てが一致することはあり得ないと知り、そういう自分を味わい、おもしろく観れるようになると、もう少し意識的になり、生き生きと生きられるかも。

音楽は心と、身体、脳の統合による芸術だと思います。
心からでないものは、全てバレてしまう。
まだまだ、修行します。

 



作者を知る

2011-02-09 21:36:28 | レクチャー、マスタークラス

昨日から福岡に出張している夫から、大宰府の飛び梅の写真が送られてきました。
この梅の木。
飛び梅は調べたら、月宮殿と言う種類の梅でした。道真を追って都から一晩の内に飛んできた。と言われています。

「こちふかば におひおこせよ うめのはな あるじなしとて 春なわすれそ」

今日は、梅田でレッスン。

曲はBozzaの「
Agrestyde」。
Bozzaが描いた14のエチュードアラベスクも今日から見てもらいます。

先生の話では、武満徹さんの曲をしていた時、調度武満さんに会い、食事をしたそうです。そういうことが時々起きるそうです。
だから、何が起きるのか?具体的に数字したり出来ることは何もないけれど、そういうことも音楽にはきっと役立つと思うそうです。

Bozzaは亡くなっているけれど、曲をする時には、あらゆる角度から、その曲や、作曲者のことを知ること。エチュードを残していればもちろんそれをすること。

何を言いたかったのか?どういう思いで書いたのか?どういう思考をたどりこの曲の表現に行き着いたのか?

フルートだって、その日によって、表情が違うよ。
吹き込んだ後は、うれしそうに輝いていたり、磨きすぎたらかえってくすんでいたり。

亡くなってしまった作曲家のことなど、本当のことはわからないけれど、知ろうとすること。フルートを見るように楽譜の表情を見ること。そういうことは通じることがあるんだよ。

人にはいろいろな面があるよ。
対立する考えや、身体に悪いと思われる電磁波など、いろんな中で生きていかなくちゃいけない。それでも、その中でも、病気にならず、対立していても仲良くやっている人が必ずいるでしょ。

そこには何があると思う?

「感謝」だよ。

病原菌だって、生きている。ウィルスをもらっても「ありがとう。」と言えるようになることが僕の修行なんだよ。
違う意見の人にも、ありがとうと言えると、違ってくるよ。

やっぱり先生の話は深いです。
Bozzaのような近代作曲家の曲は、今までの調和した音楽とは違います。
中には受け入れがたいような、気持ち悪い拍子や音も使われています。

それを、全て「おもしろい!良く作ってくれたありがとう。」と、言えるような自分を育てること、そんなことが音楽を学ぶということの一部ではないか?と思います。


子どもと音楽

2011-02-08 20:14:28 | 音楽

今日は2月の子育てサロン。
先月スタッフが少なくて、大変だったのを気遣ってか、今日はスタッフが久しぶりに6人出席。他校からの見学の方も一人みえてお手伝いしてくれました。

準備も今日は余裕でできて、安心しました。本当にスタッフのみんなに感謝です。

Yさんがしてくれた手遊びは、「この指父さん、太っちょ父さん・・・」。
古い。私が子どもの頃に聞いた歌ですが、若いお母さん達も、知っていて一緒に歌ってくれました。それから、
「今日は、家族が揃ったのでハイキング、お弁当を詰めましょう。」
「これくらいのお弁当箱に・・。」も古いですが、今も子ども達に大人気。

作曲者も、覚えていないし、歌詞もいろいろに変えられていたりしますが、この音楽は人から人へと愛されて、人々の心の中に確実に生きています。
「クラッシック音楽だとわからないだろう?」と思うのは大人の考えで、手遊びだろうと、モールアルトだろうと、子ども達は良いものはちゃんとわかって聴いています。

子ども達の、生き生きとした笑顔。
子ども達が笑顔だと、大人たちも釣られて笑ってしまいます。

考えても見てください、子どもや母親の笑顔の無い社会。

子ども達が、人にとって大切なことを全部知っていて、私達に教えてくれます。

音楽をする人は、子どもの気持ちを忘れてはいけない。特に幼い子ども達から、学ぶことは大切だと思います。


近代フレンチコンポーザー

2011-02-07 20:59:41 | 音楽

今日は、朝ピアノのSさんと合わせ。

曲は、サンカンのソナチネ、ディティーユのソナチネ、ゴーベールのファンタジー。
これらは、そうとう久しぶり。
それから、ボザのアグレスティド。

デティーユは1916年生まれ、1942年作曲。
サンカン1916年~2008年 1946年作曲。
ボザ1905年~1991年 1942年作曲。
ゴーベール1879年~1941年 1912年作曲。
全員パリ音楽院に学びました。ゴーベールは3人の教授世代です。

変拍子、転調、半音階、独自の調。など、彼らが、新しい手法をそれぞれのやり方で美に変える。混沌の中から、独特の法則を編み出していったことがわかります。

秩序が全くないと、音楽とは言えない、手にした表現の自由の美しさを、表現するためには、それぞれのやり方で、その秩序をつかみ出し、生み出すことが必要なのです。
そして、みんなが理解できる美とならなければ、曲としては成り立たない。

難解な曲として葬られるか、新しい美として受けいれられるか?
そのギリギリの所をこの時代の人たちは挑戦していたような気がします。


スケールと分散和音

2011-02-04 21:22:23 | 音楽

スイートアリッサムは、アブラナ科 ニワナズナとも呼ばれています。耐寒性が無いと聞いていましたが、寒いのに、これは元気に咲いていました。手入れする人が良いのか、日当たりが良いのか。

暖かくなってきましたが、今日、児童会にに出かけようとして、準備万端整えたところで、電話が掛かってきました。
「もう、出られました?」「今出ようとしたところです。」
「良かった。1年全部、インフルエンザで学級閉鎖なので、加配の子どもたちがお休みです。すみませんが、今日の仕事はキャンセルと言うことで、お願いします。来週の予定はまた電話させてもらいます。」

そうなんです。これはそういう仕事なんです。花粉症で、喉があれてつらくなってきたので、今日の休みはありがたかったです。
しかし、子どもの命を預かるので、こちらはそれなりの覚悟と責任を持って時間を空けています。その意識を分断する無責任なシステムだと思います。

久しぶりに、一日家で練習できました。
バッハのパルティータ、モーツアルトのDdurのコンチェルト、クーラウのディベルティスマン6番、ボザのアグレスティド。

バッハは全体はAmoll、途中で、Fmoll,Gmoll、少しだけHmoll。途中で、durにC、G、F。
クーラウは、A#moll F#moll、G#moll。
モーツアルトは Ddur。

モイーズの「音階と分散和音」でそれぞれの課題を4回繰り返してとモイーズさんは書いています。
始めについている乱数表のような数字は、横一列の数字の課題を一日一列練習しましょうとあります。これで30分かかるそうでうす。

ですが、私は、曲に合わせて
スケール練習をしてから、それぞれの曲を吹くと言う風に使っています。全部の調と和音についてやってみることもあります。全部やると時間は掛かりますが、これだけすると、音程と指の周りが良くなっているのを感じることが出来ます。

曲のことで悩んだら、この教本に戻ります。
当たり前のことですが、スケールと分散和音がきれいに音楽的に吹くことが出来れば、大抵の演奏上の問題は解決します。この本とはソノリテと一緒に、一生付き合うことになると思います。


フルートデイ

2011-02-03 21:12:17 | 音楽

ようやく寒さがそこを打ったのか暖かい日が続きました。メタセコイヤの並木は葉が無くて寒そうですが、良く見ると小さな芽が出てきています。

今朝は、久しぶりにEさんのレッスン。身内にご不幸があったので、お休みされいましたが、一ヶ月ぶりに再会。
元気そうで安心しました。
曲はバッハのポロネーズ。
管弦楽組曲 第2番 BWV1067の1707年~1723年に渡って作曲された中の一曲です。

原曲は、フルートとヴァイオリン2本、ヴィオラと通奏低音チェロ、コントラバス、チェンバロによって演奏されます。

午後からKさんとデュオの練習。
今週は2回。来週は時間が取れないから。

ケーラーの「花のワルツ」を時間を取ってやってみました。
美しい小品です。
譜読みは難しくないので、合わせる事に集中。

その後、ダマーズのトリオ。フルート2本とピアノ。
変拍子の嵐。和音も独特。でも、何とか通ってごきげん。

それからドップラーのコンチェルト。
演奏時間20分。どちらも初見。
撃沈でした。Kさんはドップラーをたくさんこなしているので、りっぱに数えていましたが、私はだめ。

ケーラーとドップラーの譜面を持ち帰って練習することにしました。


バッハの力

2011-02-02 21:56:16 | 音楽

午前中、実家の父を見舞って、ちょこっと掃除したり、散歩に付き合ったり。母の負担が少しでも解消できるといいのに。
実家の庭の梅がこれ一輪だけ咲いていました。月影という名前の梅です。
今日は、久しぶりに暖かかく、過ごしやすかったですね。
午後から行った児童会の子ども達も、今日はほとんどが外に出てあそんでいました。

月並みな言い方ですが、バッハや、モーツアルトを練習していると、気持ちが落ち着きます。

モーツアルトは、子どもが笑っているような感じで気持ちが明るくなりますが、バッハは、なんと言うか、心の深いところに効くという感じ。

子どもたちが小さな頃、重症のアトピーで、いつアナフィラキシーショックで呼吸不全になるかもしれないという緊張の中で過ごしていました。
肉、魚、牛乳、卵、油、しょうゆ、みその発酵食品などに食事制限があり、調味料はほとんど塩だけ、外食も、買い食いもできず、おやつも市販のものも使えず、それまでの生活を一変させなければならなくなりました。

二人目の子どもも母乳だったので、自分も食事を一変させたので、6キロも痩せて、毎日ふらふらでした。

フルートのレッスンにももちろん行けず、それどころか子どもが痒がって、眠りが浅く、よく
泣くので、練習も思うようにできませんでした。

その中で、切れ切れの時間でバッハを吹いていました。
ソナタだったり、無伴奏パルティータだったり。

ご近所の友達に「あれ、なんていう曲?なんかすごい暗ーい曲ばかり吹いてるでしょ。」と、とうとう言われてしまいました。
そうそう。バッハって暗い。
暗いんだけど、落ち着く。吹いていると、いろんなことが整理されて、力がわいてくる感じ。家族や友達の助けがあってそれとブラスバッハ。

音楽は、物理的には何もしてくれなかったし、吹いたからって何がどう変ったのかもわからないし、うまく説明もできないけれど、とにかく練習することで、生きていくパワーをもらいました。

今日また、パルティータを練習していて、そのことを思い出しました。
この音の配列、調和した感じ。整然と積み上げていく感じで、でも、暖かく、熱のある感じ。人が丹精こめて作り上げたレンガを火を入れて焼き上げ、誠実に、気をつけて一つづつ積み上げていくと、いつの間にか、偉大な建築物ができてしまった。というような暖かさ。バッハは特別な人だけれど、特殊な人ではない。

大きな飛行機の名も知られていない小さな部品の一つを、プライドを持って作る小さな町工場の工員の一人や、毎日赤ちゃんのお尻を丁寧に吹き上げる母親の一人の傍にいる。そんな気がするのです。


犬が変った

2011-02-01 20:25:28 | Weblog

朝実家に行くと、妹の犬のシーズーのメイがお迎えしてくれました。
子宮に筋腫ができて、年末に手術しました。
手術した途端、「人が変った。」と、実家のみんなが言います。
「それを言うなら『犬が変った』でしょ。」と、息子が飽き飽きして、誰も言わないお決まりの突込みをいれ。

手術前のメイは私達親族の中の、誰よりも聞き分けがよく、静かな犬でした。
散歩に誘っても、行きたがらず、小学生だった姪たち二人が、上にのっかろうが、押されようが、一度もほえず、逃げもせず、されるがまま。

水が欲しいと、ドアの前に座って誰かが気付くのを待っています。
誰も気付かないと、品良く小さく「ワン。」と鳴きます。
それでも気付かないと、人の前までやってきて、また一声「ワン」。
大体この辺で、みんな気付いてドアを開けて、水飲み場への道を開きます。

食事中も、欲しいものがあっても、椅子の横に座って、小首をかしげてじっと見つめるだけ。
父はそれに弱くて、ついつい、人の食事を分けては妹に叱られていました。

「お医者さんに、今度人の食事を上げたらメイは死ぬから。絶対だめだから。」
と妹は父に釘を刺しますが、毎回見張っていないと、何かやってしまいます。
やった餌を取り上げる。
毎回の争奪戦に、母と妹はイライラが募っています。
「メイが変った」と言いますが、元気になって、意志がはっきりわかるようになっただけ、のような気がします。

メイは元気になってお腹はすいて、活動的にはなっていますが、以前と変らず座って待つだけで、吠えたりもしません。
変ったのは、メイではなくて、父のように見えます。
情報が全く入らない。毎回、食事を与えてしまいます。
父に怒っても、もう仕方ないので、「メイが変った」ととばっちり。

子どもたちに起きていることも、そういうことが多いのかもしれない。
「子どもが変った」と言う時は、要注意。