音楽の喜び フルートとともに

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猫の子守唄

2023-07-05 21:12:00 | 近代
月曜は、塚口駅t-raumでハープのレッスンでした。
ハーブまだ四年目なのに、「オーケストラでハープを弾いて」と頼まれたけれど、とてもじゃないから断った話しを先生にすると「モルダウならもうできますよ。」
「練習しておいたら。」とにっこり。
考えただけでも冷や汗が出てきました。

帰ろうとしたら、t-raumの黒猫さん。

撫でて欲しいのかな?と思って近寄ったら

立ち上がって逃げられました。

イーゴリ ストラヴィンスキー(1882-1971年)ロシア帝国オラニエンバウム生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

ポーランド系の小貴族の家系に生まれます。
リトアニア大公国の領地を持っていましたが、徐々に没落し、父の代には三男だったために財産を受け継ぐことはありませんでした。
父はマリンスキー劇場つきのバス歌手として有名でした。

1901年官吏の道を目指してサンクトペテルブルグ大学法学部に入学しましたが、1902年夏にリムスキー=コルサコフ


と出会い、個人授業が受けられることになりましたが、その年父が亡くなります。

1905年「血の日曜日事件」が起きます。サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、


政府当局に導入された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出しました。

ロシア第一革命のきっかけとなりました。
これによる混乱でストラヴィンスキーの学位取得が1年遅れ、1906年に学位を取りました。
この頃にはリムスキー=コルサコフから定期的に授業を受けられるようになりました。
1908年6月リムスキー=コルサコフが亡くなります。

1908年から管弦楽作品「幻想的スケルツォ」「花火」を書きます。
バレエ「リュス」のセルゲイ ディアギレフ


はこの2曲を聞いて、ストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになりました。
1910年このバレエ「リュス」のために書いた「火の鳥」が初演され、大成功を収めます。

1911年ペトルーシュカが初演され、これも成功。
1913年パリで「春の祭典」

『春の祭典』初演時のバレエ・ダンサーたち(1913年)。左から2番目がマリー・ランベール。初演時の衣装、舞台装置。
が初演されましたが、賛否両論の怒号が演奏を消すほどでした。しかし、終演後すぐに評価は急上昇し、大成功を収めることになりました。

彼は夏はウクライナ
ウクライナのストラヴィンスキー博物館
で冬を、スイスで夏を過ごしていましたが、1914年第1次世界大戦が勃発するとウクライナには帰れなくなり、スイスに居を定めました。

1917年ロシア革命が起きると故国の土地は没収され、収入は断たれます。
バレエ「リュス」の公演も戦争でできず、生活は困窮します。

この頃ロシアの民衆詩や寓話による土俗的な作品を書いています。
「きつね」「結婚」「兵士の物語」など次の新古典主義を準備するものでした。

「猫の子守唄」は、1915-16年に書かれた歌曲集です。

コントラルト(アルト、テノールより高い音域、女性の低い声部)と3本のクラリネット
小クラリネット(高音域)
クラリネットA管
バスクラリネット
のために作曲されました。
4つの小品からなり、ロシア語の歌詞でV.バセックによる「庶民の子守唄」という雑誌記事から取られました。

1919年ウィーンで初演されました。
「猫の子守唄」
1.おやすみ猫ちゃん
  おやすみ猫ちゃん 暖炉の上で      
  フェルトの上で 両手を頭にして      
  きつねのコートを肩に掛けて
2.ペチカの上の猫ちゃん
3.ねんね
4.猫ちゃん 猫ちゃん

全部書いてもいいけれど、どれも猫への愛があふれています。
民謡に取材したと言っても、これはストラヴィンスキー、猫好き決定でしょう。