近所のお宅のひまわりがきれいです。
ヴィンセント ヴァン ゴッホ(1853〜1890年)オランダずんでると生まれフランス オーベル=シュル=オワーズ没
1887年自画像
のひまわりは全部で7点だそうです。
1888年8月から1890年にかけて南仏アルルの芸術家の家「黄色い家」
を飾るために製作されました。
ゴッホは南仏の気候と愛する日本の気候が似ていると思いこんでいました。
そのため画家たちを集めてそこで一緒に生活しながら創作しようと思っていました。
しかし、応じたのはゴーギャンだけでした。それもゴッホの弟テオに頼まれてシブシブ…。
それもすぐに破綻しますが、ゴッホはその家を飾る「ひまわり」を死の直前まで描き続けます。
この2点目のひまわりは
敬愛するゴーギャンを待ちながら描いています。
1920年実業家の山本顧彌太氏が2億円で購入し、自宅に飾っていたところ、1945年第二次大戦中、空襲にあい焼失しました。
1920年実業家の山本顧彌太氏が2億円で購入し、自宅に飾っていたところ、1945年第二次大戦中、空襲にあい焼失しました。
こちらのひまわりは1987年SOMPO美術館の代表取締役だった後藤康男が58億円で購入しました。今もSOMPO美術館に飾られています。
この作品は第二次大戦前1930年頃までは銀行家のパウル フォン メンデルスゾーン バルトルディが持っていました。
1934年、ナチスの政策と経済制裁により、売却されました。
そのため遺族がSOMPO美術館を訴えています。
「ナチス没収品に関するワシントン原則」が1998年に制定される10年前のことでした。
パウル フォン メンデルスゾーン バルトルディ(1875-1935年)
マックス リーバーマンによる肖像画(1909年)
は、作曲家のフェリックス メンデルスゾーンの弟で銀行経営家で美術収集家でした。
は、作曲家のフェリックス メンデルスゾーンの弟で銀行経営家で美術収集家でした。
フェリックスは1847年に亡くなりました。
1850年リヒャルト ワーグナーがK.フライゲダンクという名前で出版した論文「音楽におけるユダヤ性」で
ジャコモ マイアベーアや、メンデルスゾーンなどユダヤ人の作曲家にたいして、「ユダヤ人どもがこの問題を個人的な水準を引き下げるのを防ぐために」「金儲け主義」「強欲」なユダヤ人には真の芸術作品を創造することはできない。と、芸術性を否定します。
当時は反響はほぼありませんでしたが、ピアニストのイグナーツ・モシェレス(メンデルスゾーンの友人)が編集部に抗議の手紙を送っています。
1892年、ゲヴァントハウス前に、メンデルスゾーンの記念像が建造されます。
1933年ナチスドイツによりユダヤ人作曲家の音楽の公演を全て禁止する指令が発布されます。
1936年ライプツィヒ市長カール ゲルデラー
がフィンランド出張中にナチスの将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を降ろし、スクラップにするように命令しました。
戻った市長は抗議の後、銅像再建を進め、翌年3月ライプツィヒ市長を辞職しました。その後彼は反ナチの活動に加わり、ヒトラー暗殺計画に加わり失敗、1945年処刑されます。
この傾向は1世紀続きます。ニーチェはベートーヴェンとワーグナーの幕間に過ぎないといい、カール オルフ
らはナチスの機関の一部である帝国音楽院で演奏を禁じ、「真夏の夜の夢」を書き直すことを推奨しました。
「メンデルスゾーンは音楽における危険な事故として出現したもので、決定的にドイツの音楽を「退廃的」にした張本人である」とナチスによって流布されました。
また、メンデルスゾーン奨学金も中断されました。
再評価されたのは1960年代になってからで、彼の作品の多くが出版され、2008年にゲヴァントハウス前の銅像も再建されました。
私にはまだその関係をよく理解できませんがメンデルスゾーンはユダヤ教ではなく、カトリックを信じていて、多くの宗教曲を書いています。
そして、wikipediaでも多くの紙面を割いて強調しているように見えます。
また、バルトルディという姓はユダヤ特有の姓で嫌っていたとファニーが書いていたことを取り上げています。
私には、差別はメンデルスゾーンの生前も死後も、1世紀以降も続いているように見えます。
メンデルスゾーンの人気の宗教曲「おお、鳩の翼に」
O for the wings of a dove!
Far away would I rove!
In the wilderness build me a nest,
And remain there for ever at rest.
鳩のように飛べたなら
はるかかなたへ飛んでゆけるのに !
荒れ野に巣を作り、
とこしえに休らうだろうに !