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音楽の喜び フルートとともに

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ニセと呼ばれた〇〇

2024-04-20 21:02:00 | 音楽
次男をリハビリに送って行って近所のスーパーに寄ったら、駐車場の隣の倉庫?が、ニセアカシアに食べられていました。




ニセアカシアは、日本の侵略的外来種ワースト100。外来生物法の「要注意外来生物リスト」の中の「別途総合的な検討を進める緑化植物」に指定されています。
ニセアカシアは、 pseudoacacia (「pseudo(ブシュウド)=よく似た・偽の・まがい物の acacia=アカシア」)をラテン語から直訳したものです。
和名は針槐(ハリエンジュ)
北アメリカ原産。
日本に入ってきたのは1873年です。

つぼみや花、若芽は食用になるそうです。

北海道では花穂を天ぷらサラダにして食べるそうです。新芽は和え物や油炒めで食べることができ、花をホワイトリカー等につけ込んでつくるアカシア酒は強い甘い花の香りがして、精神をリラックスさせる効果があると言われています。

花から上質な蜂蜜が採れ、ニセアカシアを蜜源として利用する地域は東日本に多く、2005年のはちみつ生産量の44%がニセアカシアによります。

特に長野県でははちみつの74%がニセアカシアの花を「みつ源」としています。

太くならないことから、材木としては使われませんが、耐久性が高く、線路の枕木や船材としても使われていました。

アカシアよりも早く日本に入ってきたせいで、アカシア=ニセアカシアになっていて、アカシアはちみつとか、アカシア通り、アカシア酒というと大半はアカシアではなく、ニセアカシアだそうです。

音楽で「ニセ」というと偽作というものがあります。

古くて楽譜が整って無くて、取り違えられたもの。今のように著作権という考え方がなかった時代のせいで管理されなかったもの。戦争や紛争で名前を出せなかったもの。本人の嗜好の問題…等々。


レモ・ジャゾット(Remo Giazotto, 1910 – 1998年)イタリア王国ローマ生まれ、イタリアトスカーナ州ピサ没

はイタリアの音楽学者で、トマゾ・アルビノーニの系統立った作品目録を作成したことでとりわけ名高い。また、アルビノーニのほかに、アントニオ・ヴィヴァルディなどの評伝を執筆した。

1932年から音楽評論家として活動し、1945年から1949年まで『 Rivista musicale italiana 』の編集責任者を担当し、1967年にその新編( Nuova rivista musicale italiiana )の共同編集者に任じられた。1957年から1969年までフィレンツェ大学の、1962年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミーの音楽史の教授に就任しました。


1949年にイタリア放送協会の室内楽の番組編成の監督となり、1966年には欧州放送連合経由の国際放送の監督となりました。また、イタリア放送協会のオーディションの審査員長や、作曲家の伝記の編集責任者も務めています。


ジャゾットは1958年

トマゾ アルビノーニ(1671-1751年ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生没バロック時代に活躍した作曲家、ヴァイオリニストでオーボエ協奏曲で有名。)



の自筆譜の断片を編曲したと称して、1958年《ト短調のアダージョ》を出版しました

この作品は、トマーゾ・アルビノーニのソナタ ト短調の断片に基づいて編曲されたと考えられており、連合国戦争後に旧ザクセン州立図書館の廃墟で発見されたと伝えられています。

この作品が《アルビノーニのアダージョ》として親しまれるようになると、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になりました。

ジャゾットは、自分は編曲したのであって、作曲したのではないと言い張りましたが、現在では完全なジャゾットの創作であることが判明しています。

自筆譜の断片が公表されたため仕方なく、ジャゾットはバス声部のみが該当の部分だと述べていましたが、この曲の版権はジャゾットが持っていました。

つまり、ジャゾットの作曲で版権も持っているということです。

さて、彼の場合はどういう意図で偽ったのでしょう?

モダン・アート全盛期、現代の作品と言うのは、はばかられた?とはいえ、最後まで違うと、言っていたのはどうしてだろう?




野の花

2024-04-19 21:00:00 | 現代
4月は桜だけではありません。
琵琶湖畔に房咲き水仙(フサザキスイセン)



ラッパ水仙も元気でした。

シロバナタンポポ、

西洋タンポポ


クサイチゴかなぁ?

ミヤマキンポウゲ

姫踊子草ヒメオドリコソウ

ハーバート ノーマン ハウエルズ(1892-1983年)イギリス グロスターシャー リドニー生まれ、イギリスロンドン没
父親はアマチュアのオルガニストで、ハーバートは早くから音楽の才能を示していました。

グロスター大聖堂のオルガン奏者ハーバート・ブルワーに学んだのち、英国王立音楽大学に入学。チャールズ スタンフォードやチャールズ・ウッドに師事します。

1917年には短期間ながら、ソールズベリー大聖堂でオルガニストの助手となります。

スタンフォードはハウエルズを「私の音楽息子」と呼び、この青年の初期の作品を指揮して宣伝し、コンクールに出すようにすすめます。
スタンフォードの奨励を受けて参加したハウエルズのピアノ四重奏団(1916 年)は、カーネギー トラストから賞を受賞しました。

重篤な病気のため、ハウエルズは第一次世界大戦に参加できませんでした。

実際、いくつかの記述によると、彼は生きられるとは予想されていなかったそうです。しかし彼は立ち直り、療養を目的とした音楽審査官としてカナダに派遣されました。彼はまた、英国王立音楽大学にも任命され、60 年近くそこに留まりました。

早い段階で、ハウエルズは彼の世代の大きな希望とみなされていました。人々は彼の偉大なキャリアを予測しました。
しかし、20年代に入ると、オーケストラ作品『サイン・ノミネート』(1922年)と『ピアノ協奏曲第2番』(1925年)の悲惨な評価により、彼のスターは急激に失墜しました。

これによりハウエルズは脚光を浴びることがなくなりました。彼は作曲することがますます少なくなり、完成した数少ない作品を出版に出さず、机の引き出しに保管していました。

1935年に、息子のマイケルが 9 歳でポリオで亡くなりました。

ハウエルズ

彼はその衝撃から伝統的な順序ではなく、聖書の一節と典礼の一部を折衷的に組み合わせた、型破りな無伴奏レクイエムを書きました。

彼はそれをフルオーケストラ、合唱団、ソリスト向けに拡張することに取り組みました。
彼は 1938 年までにその大部分を完成させましたが、秘密にしておきました。

1950 年にこの曲をリリースするには、ヴォーン ウィリアムズとジェラルド フィンジの強力な説得が必要でした。オリジナルのレクイエムをリリースするには、少なくともさらに 20 年かかりました。

ハウエルズは 40 年代に教会のために定期的に作曲を始めました。彼は典礼用の「実用的な」奉仕曲(マニフィカトとヌンク・ディミティスのいくつか(最も有名なキングス・カレッジとセント・ポール寺院用の2曲を含む))と賛歌とモテットの両方を書きました。

彼の宗教作品は非常に成功を収めたので、今日に至るまで多くの人がこれが彼が書いたすべてだと考えています。

1970年代には、ハウエルズの器楽や室内楽への関心が復活しました。リスナーは彼の作品に大きな芸術性を発見しました。

ハウエルズのピアノ小品
to a wild flower「野の花」



美しきアーモンド

2024-04-18 21:06:00 | ルネッサンス
水曜は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
21日馬車の扉でのカフェコンサートに出るのでさあ大変!
ゴセックのガボットをずっと練習していますが…。
「ファイト!」と先生はニッコリ。

後少し。頑張ります。

t-raumのナガミヒナゲシ

塚口駅近くのパン屋さんカスカードで抹茶ラテとサンドイッチ、マンデルアッケを食べて帰りました。





マンデルアッケ、ナッツ好きにはたまりません。
少し甘めですが、美味しかった。

ドイツ語でマンデル(Mandel)はアーモンド、エッケ(Ecke) は角。
アーモンドの三角。

アーモンドと桃はもともと同一の原種であったものだったそうです。
太古の地殻変動により隆起した中央アジア山脈が中東と東アジアを隔ててから、それぞれの地域で異なった進化を遂げてきました。

アーモンドの花

桃の花

桃は中国の比較的湿度の高い低地を中心に生育する様になり、アーモンドは乾燥した西アジアから中央アジアの砂漠や丘峰の斜面に、様々な品種に分かれながら自生する様になりました。

これらの初期の原種アーモンドは、天山山脈西方の山裾からチグリス・ユーフラテス河の流域にかけて更に進化を続け、小さな、とげのある木に、硬い殻に覆われた小さな苦い実をつける様になりました。

西アジアから中央アジア一帯における乾燥した暑い夏と雨が多く比較的温暖な冬を持つ地域でアーモンドはバラエティに富んだ風味を持った実をつける植物となって分布する様になりました。

アーモンドはチグリス・ユーフラテス流域からヨルダン、イスラエルといった地中海沿岸へと栽培が広がっていきました。

その後地中海に沿ってシナイ山麓からナイル川沿いのエジプトやヒッタイト(現トルコ)へと栽培が広がり、やがてアーモンドはギリシャを始めとしたヨーロッパの地中海沿岸の諸国へともたらされることになります。

ギリシャ神話でもフリュギア(現在のトルコ)で昼寝をしているゼウスから生まれた女神キュベレ(Kybele)の体の一部から熟した実をつけたアーモンドの木が生えたといわれています。

女神キュベレ
アレキサンダー大王が諸国を征服した時期(紀元前350~323年)に、アーモンドの栽培がギリシャから更に西方へと広まっていきました。

アレキサンダー大王(紀元前336-紀元前323年)

古代ローマの人たちはアーモンドのことを”グリークナッツ(ギリシャの木の実)”と呼んで親しんだといわれます。

こうしてアーモンドは温暖で多湿な冬、乾燥した穏やかな夏というヨーロッパの地中海沿岸地域の気候によく順応していき、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、トルコ、モロッコ、チュニジアなど果樹栽培の盛んな地域で、アーモンドの栽培は根付いていきました。

ギリシャやイタリアでは何世紀もの間にわたり、地中海地域の丘陵でアーモンドは生産される事となりました。

スクアルチャルーピ コーデックス(Squarcialupi Codex)写本が、1410-1420年頃に渡って作られました。

オルガニストで作曲家のアントニオ・スクアルチャルーピ(Antonio Squarcialupi 、1416 - 1480年)
が所有していた文書を元に作られたのでその名がついています。彼は編纂はしていません。

フィレンツェのトレチェント(イタリアの1300年代に起きた多声音楽文化のこと)の世俗音楽を収録したものです。

14 人の有名なイタリアの作曲家による 352 作品を、金で装飾された肖像画で紹介したものです。


フランチェスコ・ランディーニ、
バルトリーノ・ダ・パドヴァ、
ニッコロ・ダ・ペルージャ、
エギディウス、
アンドレア・ダ・フィレンツェ、
ヤコポ・ダ・ボローニャ、
ロレンツォ・ダ・フィレンツェ、
ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ、
ドナート・ダ・カッシャ、
ジョヴァンニ・ダ・カッシャ、
ヴィンチェンツォ・ダ・リミニ、
ギリエルムス・デ・フランシア

ジョバンニ ダ カッシャ(1270-1350年)(Giovanni da Cascia)
活動時期は1340年頃 - 1350年頃

は、14世紀イタリア、トレチェント音楽の初期の音楽家。
イタリアに初めて多声音楽をもたらした作曲家の一人です。

ミラノの僭主ルキーノ・ヴィスコンティ

18世紀の想像画
の宮廷に出入りし、マギステル・ピエーロやヤコポ・ダ・ボローニャとともに活動しました。

1350年頃、ヴェローナのスカラ家のマスティーノ2世の宮廷

において、ヤコポ・ダ・ボローニャ
と音楽を競い合ったという記述が残されています。

ジョヴァンニ・ダ・フィレンツェ(Giovanni da Firenze)、ヨハンネス・デ・フロレンティア( Johannes de Florentia)など幾つかの別称が知られていて、フィレンツェとの関連が深い事のではないかと思われますが、出身は現在のイタリア中央部ウンブリア州の町カッシャ(Cascia)と考えられています。

18曲のマドリガーレ(この内2曲がカノン)、スクアルチャルーピ写本(Squarcialupi Codex)、パンチャティーキ写本(Panciatichi 26)、ロッシ写本(Rossi 215)、レイナ写本(Reina Codex)等に残されています。

「猟犬も沢山、鷹もいっぱい連れて」(Chon brachi assai e chon molti spaveri)、その他に2声のマドリガーレ「美しき星」(La bella stella)は、多くの写本に残されていることから有名であったと思われます。

ジョバンニ カッシャ作曲
マドリガルのSedendo all'ombra d'una bella mandorla(美しきアーモンドが日陰に座って)



7弦ギターを愛好

2024-04-17 22:37:00 | ロマン派
うちの庭のアザレアが満開です。
火曜日の朝、次男の検診に行きました。
レントゲンを見ながら、
「だいぶできていましたね。」
「これなら来月ワイヤー取れそうですね。」

「えっ!来月?!」

1年後にチタンを取るというのが、はじめの話しでしたが、まだ2ヶ月。

「3ヶ月経ったので、大丈夫でしょう。様子を見ながら…。」
帰りの車で
「3ヶ月なら保険降りない。半年はつけてないと。」
と次男。
「えっ!そうなの?」
「労災だから負担は無いけど。」
何なんだろ?本来は喜ばなくちゃいけないんだろうけど、心配になってきました。
レントゲン写真ではまだ骨に隙間があるように見えましたが…。

疑ってばかりではいけないと思いますが、どうしても「大丈夫?」という気持ちが湧き上がってきました。

ナポレオン コステ(1805-1883年)
フランスのブザンソン近郊のアモンダン (ドゥー)で生まれ、

彼は熟練した演奏家の母親からギターを教えられました。

10代の頃、教師になり、フランシュ・コンテ劇場で3回のコンサートに出演しました。

1829年、24歳のとき、彼はパリに移り、そこでフェルナンド・ソル(1778-1839年バルセロナ生まれ、パリ没)に師事し、すぐにフランス初の名手ギタリストとしての地位を確立しました。

到着後数年間、パリでのギタリストの需要は減少したにもかかわらず、コステはプロの音楽家および作曲家として経済的安定を達成していました。

出版社が見つからなかったので、彼は自分の作品を自費出版する必要がありました。

ナポレオン・コストは、エクトル・ベルリオーズを含む当時の初期古典ロマン派の作曲家に影響を受けました。

コステの作品番号 47「La Source du Lyson」は、ベルリオーズの標題音楽とよく似た自然からインスピレーションを得たものです。

コステは1863年に左肩を負傷しました。が、死の2年前の1881年まで公の場での演奏を続けることができました。

師匠のフェルディナンド ソル

の死後、コステはソーのオリジナルのギター・メソッドを多数の例とレッスンを加えて増補しました。
タイトルは「フェルディナンド・ソルによるギターのための完全なメソッド、運指法」となりましたが、コステによる多数の例と教訓を多く入稿しました。

コステはフリーメーソンの団体「レ・フレール・ユニ・インセパラブルズ」の会員だった。

コステは7 弦ギターを演奏するのが特に好きでした。彼は、通常 D または C にチューニングされた「フローティング」(浮遊弦)7 弦を備えた、ラコート(ルネ フランソワ ラコート ギター製作者)ヘプタコードと呼ばれるユニークな 7 弦ギターで有名でした。

ナポレオン コステと7弦ギター





7弦ギター

この発明により、他の弦を弾いているときでも浮遊弦が共鳴して振動するため、演奏時に音色にさらなる深みが生まれました。

彼は、17 世紀のギター音楽を現代の楽譜に転写した最初の作曲家の 1 人として知られています。

ナポレオン コステ 「大狂詩曲」作品11
7弦ギターによる演奏です。




コックス アンド ボックス

2024-04-16 21:00:00 | ロマン派
日曜日
お花見は船がいいかも。


と思いましたが、カヌーはもっといいかも。

お隣のカヌーの人と世間話しをしながら目の前を通り過ぎて行きました。

カヌー乗れたらなあ〜!

調べてみたら、免許も資格も要らないらしいです。
ただし、カヌーやカヤックに関連する法律には「港則法」「船舶安全法」「海上衝突予防法」「海上交通安全法」などがあり、安全に運航するには、法律をおさえておくことは大切かもしれません。

初めはインストラクターさんに学んだほうが良さそう。

枚方市にもカヌー協会があって淀川や木津川で活動されているみたい。
枚方市長杯カヌーマラソン大会も開催されていて御幸橋から枚方大橋までの11キロ、淀川をカヌーで走るそうです。

知らなかった。

最も古いカヌーは6千年ほど前のユーフラテス川近くにあるシュメール人の王墓から発見されています。


スポーツとしての近代カヌーは、19世紀にイギリスで芽生え、1866年イギリスのテームズ川で初めてレースが行われました。

1924年に国際カヌー連盟(I.C.F)が設立され、第1回の世界選手権大会は1930年、オリンピックの正式種目として採用されたのは1936年の第11回ベルリン大会でした。

アーサー サリヴァン(1842-1900年)イングランド ロンドン生没

1866年24歳の時にコミックオペラ「コックス アンド ボックス」を書きます。
このオペラは大流行して、サリヴァンは作曲家としての地位を固めます。

ジョン・マディソン・モートンによる1847 年の茶番劇『ボックス・アンド・コックス』を基にした、 FC バーナンドの台本によります。

コックスはベッド、タンス、テーブルと椅子、暖炉、そして 3 つのドアのある部屋に住んでいます。

家主の用心棒軍曹が仕事に行くコックスの準備を手伝っています。

コックスは用心棒に、「なぜ部屋がいつもタバコの煙の匂いがするのか?」と尋ねます。

用心棒は「屋根裏部屋の住人からのものに違いない。」と答えますが、コックスは「煙が下ではなく常に上に移動している。」言います。
また、石炭、マッチ、ろうそく、お茶、砂糖などの備蓄がなぜなくなっているのか不思議に思っています。

用心棒はそれは「猫の仕業だった。」と言います。コックスがこの説明を受け入れないままに仕事に遅刻し、謎は解けないまま仕事に行ってしまいます。

実はその部屋には2人の宿泊者がいて、どちらも相手のことを知りません。

帽子屋のコックスは昼間ずっと働いています。印刷屋であるボックスは一晩中働きます。
時々階段を通過することを除いて、彼らは接触することはありません。

用心棒は急いで部屋の整理をし、コックスの持ち物を隠し、ボックスの持ち物を外に出します。

ボックスが帰ってきて用心棒を退けた後、彼はロールパンを取り出し、火をつけ、ベーコンを焼き網の上に置きます。疲れ果てた彼はベッドに横になって昼寝をします。

コックスは思いがけず雇用主から休暇をもらいます。 
彼は帰宅して、テーブルの上にロールパンがあるのを見つけて喜びましたが、すでに火が点いているのを見つけて驚きます。

用心棒が不在中にその部屋を使用していたものと思い込み、焼き網からベーコンを外し、マトンチョップと交換し、朝食用の道具を取り行きます。

コックスの楽屋のドアがバタンと閉まる音でボックスは目を覚ましますが、ボックスは突然ベーコンのことを思い出します。
焼き網の上にマトンチョップが置かれているのを見た彼は、それが用心棒のものだと思い込み、それを窓から投げ捨て、ベーコンは外の歩行者にぶつかります。

彼は再びベーコンに火をつけ、朝食の道具を取りに行きます。
そこにコックスが戻り、ベーコンが置かれているのをもう一度見て、彼はベーコンを窓の外に投げ捨て、歩行者に二度目の衝撃を与えました。

ボックスが再び入ってきて、二人は初めて対面します。
それぞれが相手に退去を迫ります。


家賃の領収書を出し合い、騙されたことに気づきます。

用心棒が到着し、追い詰められ、その部屋が二人のものであることを認めます。

1874 年のゲイエティ作品、フレッド・サリバンがコックス役で出演

彼は、どちらが現在の部屋を空けるかを決定するよう彼らに任せます。
それぞれが相手に去るべきだと提案しますが、どちらも動じません。最後に、彼らはすべて用心棒のせいであることに気づき、友達になるのもいいかもしれないギターでお互いにセレナーデを歌います。

会話の中で、コックスは婚約者がいることを認めます。彼女は少し離れたところにある店の経営者なので、姿を現す可能性は低い。と言います。

一方ボックスの恋人は「ここ3年間は行方不明」だといいます、。コックスは、望まない結婚から逃れられるのであれば、自分が失踪しても構わないと認めています。
ボックスは、数年前にもまったく同じ苦境にあったと説明します。結婚前夜、彼は遺書とともに私物を崖の端に残して。誰もが彼が飛び降りたと思ったので、彼は予定していた花嫁であるペネロープ・アンから解放されました。

その名前を聞いたコックスは、ボックスが逃れてきた婚約者と同じであることに気づきます。
コックスはボックスをペネロープ・アンに戻すと宣言するが、ボックスはコックスから彼女を奪うことなど夢にも思わないと言います。

問題を解決できない彼らは、最初は決闘を提案しますが、より穏やかな解決策を選択します。

最初にサイコロを投げますが、各人は 6 の目しか出ないトリック サイコロを持っています。次に、コインを投げてみますが、それぞれが「表」だけを投げ続けます。

ついに用心棒がマーゲートからの手紙を持って到着します。
手紙には、ペネローブ・アンが航海事故で行方不明になり、全財産を「私の予定していた夫」に遺したことが書かれていました。


二人はどちらが受益者なのかを決めようとしますが、用心棒が二通目の手紙を持って到着し、ペネローブ・アンは結局生き残ったのでその日遅くに到着する予定であることを告げます。

二人は立ち去ろうとしますが、用心棒は3通目の手紙を持って到着します。
それには「ノックス氏との即時結婚について急いでお知らせします。」とありました

突然、ボックスはコックスが生き別れた弟に違いないことに気づき、コックスは自分も同じ思いを抱いていたと言います。
ボックスはコックスの左腕にイチゴの跡があるかどうか尋ねます。
彼らは生き別れの兄弟だということが判明し、彼らは永久に部屋に残ることに同意します。
用心棒は「ラタプラン!」と、叫び、大歓喜の中、幕が下ります。

「用心棒、そこにいろ!」




ティンパニ運ぶ道具

2024-04-15 21:00:00 | 楽器アクセサリー
今日はプロージット室内管弦楽の第一回練習でした。

今日初めてフルートパート、全員揃いました。3人。

ベートーヴェン特集
献堂式をフルート2人で、1人降り番。

ミサ・ソレムニスは私は降り番で、他の2人が乗り番。
お昼食べれてなかったので近所のコンビニでマフィン買って来て食べてから練習場に入って見守りました。

交響曲第九番は第1楽章から第3楽章までフルート2人。第4楽章からピッコロが入り、ここでやっと3人で演奏します。

献堂式はゆっくりだったので安心してたら、第九は時間がないらしくインテンポ!

まあまあ初合わせなので…。

終わってみれば
区民会館、小ホールレンタル時間ギリギリ。
大慌てでお片付け。楽器をなおして、譜面台を畳んで、パイプ椅子を畳んでまとめて倉庫へ。



これはティンパニを安全に運ぶためだけの道具。
脚を噛ませて動かないようにします。

これで安心。
第9の第1楽章、ティンパニのオーケストラスタディ(?)動画見つけました。

楽器については、動画の下記ブログで🔽



ティンパニ #gooblog https://blog.goo.ne.jp/m-fluteangel16/e/34111ef9fa093186317ee72e522d9799


水上の音楽

2024-04-14 21:05:00 | バロック
金曜日「朝、6時半に起きて琵琶湖に行く。」と言い出した夫。こんなことは滅多に言い出せない人…というか初めて。
連れられて、やってきました。
琵琶湖。
西回り
もちろん桜

今津港の手前。渋滞を恐れていましたが、

私達の他、誰もいません。
9:30頃…あたりまえか。
ゆったりしましたが、今日のお目当てはもう少し先。

琵琶湖の北側。奥琵琶湖の

海津大崎。
先週、長男が行った時は大渋滞。交通規制で一方通行になっていたそうです。
今週は規制解除されたせいで、お花も終わったと思われたのか?渋滞していません。
琵琶湖湖畔の岬に沿って4キロ、800本の桜が見られます。



そして満開でした。




バンも魚を獲っては潜り。

トンビもぐるりと飛んでいました。
そしてこれで終わりかと思えば

奥琵琶湖パークウェイへと続き、全部で23キロ4000本の桜が…。


こんなにたくさんの桜を見たのは初めてです。
飽きるかと思いきや、桜を見る度に心が沸き立ちます。
集落と山と桜や
カヌーと桜。
いろいろなヴァリエーションが楽しいです。
写真はほんの一部。

ゲオルグ フィリップ テレマン(1681 年- 1767 年 )
マクデブルク、マクデブルク公国、ブランデンブルク選帝侯領生まれ、
神聖ローマ帝国、自由帝国都市ハンブルク没

の「水上の音楽」( Wassermusik )、 TWV 55:C3 は、オーケストラ組曲の一般名で、正式なタイトルはHamburger Ebb' und Fluth (ハンブルクの干潮と洪水) です。
 
筆耕人Christoph Graupner (1683–1760)

テレマンは、1723 年 4 月 6 日の演奏でハンブルク海軍本部 の創立 100 周年を祝うために、 10楽章からなるこの曲を作曲しました。

この組曲は、エルベ川

の港としてのハンブルク
ハンブルク1600年頃
の地理的位置を利用した成功を描いています。

ザンクト・パウリ埠頭

「水上の音楽」TWV 55:C3
1.序曲ハ長調
2.サラバンド:Die schlafende Thetis (眠っているテティス)

3.Bourrée : Die erwachende Thetis (テティスの覚醒)

4. Loure : Der verliebte Neptunus (恋するネプチューン)

5.ガヴォット:シュピーレンデ・ナハデン(ナイアッドを演奏)

6.Harlequinade : Der schertzende Tritonus (冗談のトリトン)

7.Tempête : Der stürmende Aeolus (嵐のアイオロス)

8.Menuett : Der angenehme Zephir (楽しいゼフィール)

9.ジーグ:Ebbe und Fluth (引き潮と流れ)

10.カナリエ: Die lustigen Boots Leute (陽気なボートピープル)











夏の城

2024-04-13 21:02:00 | ロマン派
桜に誘われて、伊賀上野、上野城まで行って来ました。
母と姪、私、次男の運転です。
初めは蟹満寺の駐車場近く、井手町の桜。
葉桜もちらほらありましたが、
まだお花もたくさん。

イタドリも。

もちろん何本か取って帰りました。

山城道の駅で、野菜を買って、茶そば定食を食べて

車で30分

上野城

桜とお城がいい感じです。


天守閣に昇りました。
1585年に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。
慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりました。
慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。

大阪冬の陣で豊臣に対峙し勝利をおさめた後、1833年天守閣が暴風で倒壊しますが、戦乱は終わり必要なかったため城代屋敷を置き、そのまま江戸時代を送ります

1935年に建て直されました。

調度などが

展示されています。

天守閣から上野市を望めます。



藤堂高虎が築いた高石垣

大阪城の石垣に次ぐ日本で2番目の高さの石垣です。


上野城が倒壊した1833年にヨハネス ブラームス(1833-1897年)自由都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没



彼は1880年デュッセルドルフの近くのクレーフェルトの郊外、リン城を訪れています。
ブラームスは1878年から1893年までの間にイタリアや他の地域を訪問し、気持ちの良い地方を探して夏の間に作曲しています。
1880年頃というと、交響曲第3番を作曲中でした。
当時の城主は音楽が好きだったようで楽器があちらこちらにおいてあります。

マリアンヌ ロディウスとクリストフエドゥアール ロディウス


1806 年にデ グライフ家が城の所有権を引き継いだとき、フィリップ デ グライフとその家族は狩猟小屋に定住しました。
マリアンヌ・ロディウスは、フィリップ・デ・グライフとマリアンヌ・テル・メールの娘として 1814 年に生まれ、ここで育ちました。 1850年頃、彼女はケルンの商人でワイン商のクリストフ・エドゥアール・ロディウスとの結婚後、生まれた家に戻りました。

ブラームスはその頃何度かこの城を訪れています。

交響曲第3番











中国の笛と李白

2024-04-12 21:03:00 | ロマン派
夫が出張したときの、韓国のお土産。
もちもちした生地に甘さ控えめの餡が美味しかったです。

こちらは中国
まさかのラップ巻き

江南のもち米とみどりゴマ団子とGoogle lensとGoogle翻訳で出てきますが、ホントのところはわかりません。
少し甘めのこし餡をお餅で包んである感じで、素朴な美味しさでした。

グスタフ マーラー(1860-1911年)オーストリア帝国ボヘミア王国カリシュト生まれ、オーストリアハンガリー帝国ウィーン没
1908年作曲の「大地の歌」は副題として「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」(Eine Symphonie für eine Tenor und Alt (oder Bariton) Stimme und Orchester )とあり、マーラーが9番目に作曲した交響曲です。第9のジンクスを恐れたマーラーが第9という番号を振らなかったことでよく知られています。

この曲が歌詞に採用したのは、ハンス・ベートゲ (1876-1946年)
1913年ほかにもリヒャルト・シュトラウス、エルンスト・トッホ、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルンら多数の作曲家が曲をつけています
編訳による詩集『中国の笛-中国の叙情詩による模倣作』です。

ベートゲは中国語を解さず、『中国の笛』は、既出版の『中国の叙情詩』(ハンス・ハイルマン)、『唐詩』(エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵)、『玉書』(ジュディット・ゴーティエ)からの翻訳(サン=ドニとゴーティエの詩集はフランス語)あるいは自由な模倣によっています。

このため、原詩にほぼ忠実なものや自由な模作となっているものが混在し、元となった唐詩については特定できていないものもあります。

これはドイツ・オーストリアにとどまらず、ヨーロッパの風潮で
文学、絵画を含めた芸術分野で「死」をテーマとした作品が数多く生み出され、同時に、エキゾチズム、とりわけ日本を含めた東洋への関心も高まっていました。

ベートゲの『中国の笛』は、このような時代の空気の所産です。

1918年第9版中国の笛ハンス ベートゲ

『大地の歌』に無常観、厭世観、別離の気分が漂っていますが、このことで、マーラー自身が東洋的諦観に達していたとは必ずしもいえません。

しかし、彼は人間は死んで地上からいなくなるが、大地は永遠に繰り返して花を咲かせ、緑に覆われるというイメージを持っていて、10代のころから手紙でこのことに触れています。

マーラーがベートゲの『中国の笛』に出会ったのは作曲の前年1907年秋(同書の出版は同年10月)と考えられるます。

その年の夏、マーラーは長女マリア・アンナの死に遭い、自身も心臓疾患の診断を受けました。

同年暮れには、10年間務めてきたウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を辞任し、渡米するという転機を迎えています。

マーラーにとって、死が身近なものとなり、音楽活動だけでなく、実生活面でもヨーロッパとの訣別という心情があったと考えられます。

それぞれの楽章に、李白の詩を下敷きにしたベートゲの翻案詩が使われていますが、原作と違っていておもしろいです。
第5楽章が今の季節を表しているので、これだけを最後に上げてみました。
全部上げると長いので…。

1. Das Trinklied vom Jammer der Erde
第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「悲歌行」による

.2 Der Einsame im Herbst 第2楽章 秋に寂しき者
Tchang-Tsi ? (765? - 830?) 銭起の詩「效古秋夜長」による(未だ特定されてはいません。)

3. Von der Jugend
第3楽章 青春について
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「宴陶家亭子」による

4. Von der Schönheit
第4楽章 美について
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「採蓮曲」による

5. Der Trunkene im Frühling
第5楽章 春に酔える者
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「春日酔起言志」による

6. Der Abschied
第6楽章 告別
Mong-Kao-Yen and Wang-Wei (701-761) 孟浩然の詩「宿業師山房期丁大不至」と王維の詩「送別」による


5. Der Trunkene im Frühling
第5楽章 春に酔える者
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「春日酔起言志」による 

(ベートゲ、マーラー版)
人生がただ一場の夢ならば
努力や苦労は私にとって何の価値があろうか?
それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで
終日酒に溺れようぞ。

喉も魂までも溺れ酔いしれて
ついに酔いつぶれて飲めなくなったら
よろめきながら家の戸口にたどり着き
そのままそこに眠り込んでしまうのだ

目覚めて何を聞くのか さあ聞くがよい
前庭の樹の花 その花の中で鳴くは鶯一羽
私は鶯に尋ね聞く。<もう春になったのか>と
私はいまだに夢心地まどろむ

鶯囀さえずり、《そうです。春はすでにやって来た。
闇夜を渡り、春はここにやって来た》と
そうして私は聞き惚れ感じ入り、見つめれば
鶯はここぞとばかりに歌い、笑うのだ

私は新たに手ずから酒杯を満たし
盃傾け、飲み尽くす底までも、そして歌うのだ
明月が黒き帳の下りた夜空に昇り、輝き渡るまで

もし私がもはや歌えなくなったなら
その時、私はもう一度眠り込む
いったい春は私に何の役に立つのか
だから、このまま酔わせてくれ!


第5楽章「春に酔えるもの」
李白春日醉起言志 春日醉より起きて志を言う (詩:李白)

處世若大夢 胡爲勞其生
所以終日醉 頽然臥前楹
覺來盼庭前 一鳥花閒鳴
借問此何時 春風語流鶯
感之欲歎息 對酒還自傾
浩歌待明月 曲盡已忘情

處世大夢の若く 胡爲ぞ其の生を勞する
所以に終日醉ひ 頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥す
覺め來たつて庭前を盼(かえり)みれば 一鳥花閒(かかん)に鳴く
借問(しゃもん)すれば
此れ何れの時ぞ
春風流鶯(りゅうおう)に語る
之に感じて歎息せんと欲し
酒に對して還た自ら傾く
浩歌して明月を待ち
曲盡きて已に情を忘る

リッカルド・シャイー「大地の歌」全曲





チューリップの曲

2024-04-11 21:00:00 | 古典
ご近所のチューリップが満開でした。






ハインリヒ・リヒナー(1829 – 1898 年 ) プロイセン王国シレジア ゴールドベルク地区のハルパースドルフ(現ポーランド トファルドチツェ)生まれ、プロイセン王国ブレスラウ(現ポーランド ヴロツワフ)没

は多作な作曲家で、現代では生徒向けに書かれたシンプルなピアノ作品である教育曲で最もよく知られています。

彼のソナチネ、第4番、第49番、第66番は特に軽くて流暢な古典的なスタイルですが、ハーモニーには時折ロマン主義の影響が見られます。

彼は監督兼オルガニストでもあり、11,000人の処女教会(ケルンの聖ウルスラ教会)
第二次大戦で破壊され再建されたウルスラ教会

オルガン
でオルガニストとして働き、ブレスラウのゼンガーバンド(合唱祭)の監督として人生の一部を過ごし、そこで亡くなりました。

「チューリップ」は1873年出版されたピアノ独奏曲集「色とりどりの花」Bunte Blumen, Op.111の4番目の曲です。

「色とりどりの花」
とても美しいTausendschön

バラRose

クローブNelke

チューリップTulip

パンジーStiefmütterchen

風Winde

第4曲「チューリップ」